活東庵雑記帳過去ログ 2012-2015
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民族の弱点
雑感−中国/韓国編
定住革命その2 儒教
雑感−中国/韓国編
先駆者と官
雑感−歴史/地方/農業編
いま大雪だが
雑感−時事/戦争関連編
- 2012.3.6
援助
最近、震災被災地の失業給付や原発関連の補償費について「あれが出る間はみな働かずパチンコ産業だけがもうかっているそうだ」という噂をよく耳にする。飲み会で集まったときや仕事先の昼休みでもよくこの話題が出る。東電の補償は一家あわせるとかなり出るらしい、失業給付が延長されたが出ている間は働かないと言っているそうだ、だから被災地では人手が足りないのにみな遊んでいるという。つい先日も、郊外から戻る電車でたまたま隣合わせた人から延々聞かされた。
震災のあった3月11日が近づき報道も増え、感動を狙ったものも多いが、報道の温度と一般の目に差があるように感じる。やっかみも混じっているだろうし、現地へ行っていないのでこの話が本当かどうかわからないが、目は冷たい。1970年代、カンボジア難民やベトナムのボートピープル出現によって始まり盛んになっていった海外援助活動も、最初は物やお金の支援から始まった。やがて状況がある程度安定してくると、物を与える援助は緊急時以外は害が大きい、人々を援助漬けにしてはいけない、と言われるようになった。よく言われる言葉だが、魚を与えるのではなく魚の取り方を教えろ、というものだ。
今の日本で”魚の取り方を教える”のがどういうことにあたるのか難しいところだが、ボランティア頼みから日常に戻してゆくべきなのは同じだろう。NGO黎明期当時、途上国の開発援助に熱心に携わっていた知人が、欧米のNGO関係者から「君はボランティアが運営操縦する飛行機に乗りたいか」と言われ考えさせられた、と言っていたことを思い出す。ただ原発事故は別物に感じる。天災は当たった人には不公平だがある程度運命と受け入れるしかない面がある。しかし原発は確実に人為的理由がある。想定外でも作ったことや津波予想や警告を中心グループが却下し続けた事実は確実にある。そのせいで家に戻れない、海や山や畑が使えなくなったのでは、やはりなんとしても責任をとってもらわないことには収まらないだろう。
原発事故当時、本当の状況を知らせるとパニックになるという理由から官邸が公表を差し控えた類の話が、先日報道された。これについて街頭インタビューで聞かれた人々は、知らせるべきで逃げるかどうかの判断は各人に任すべき、と答える人もいたが、確かにパニックになるから仕方ないという人も結構多かった。
しかし、知らせない場合、本当に官邸の数人以外には知らせないなら公平だが、現実には決してそうはならない。お嬢様学校お坊ちゃん学校の小中高へ行ってみればよい。「TVではこう言っているが、本当はこうらしいよ」と親しい人にだけ耳打ちしている者がきっといる。
この手の情報は、アクセスできる立場の人(とその親族/関係者)と、そうでない大多数に必ず分かれる。決して公平にもたらされることはない。だから”パニックになるから知らせない”のには反対だ。不公平だから。高級官僚、大物政治家、東電中枢幹部、大物財界人あたりの家族、特に高校生以下の子/孫とその母親たちが当時、実際どこにいたのか、調べてみると結構面白いかもしれない。
無い袖は触れない
もうこれ以上国債を刷るわけにはいかない、消費税率を上げるしかないと言われている。必ずあがるだろうし、上げても間に合わない可能性高し。
NYタイムズで報道され『ゴールドマンサックスの真実』(神谷秀樹著 文春新書)にも載っているが、アメリカ地方政府の財政は破綻しつつあり、財政難からさまざまな公共サービスの質が低下している。自前の警察を維持できず隣市に手数料を払い請け負ってもらう市、ゴミ収集日や郵便配達日の削減、州によっては学校が週5日から週4日になり、教頭や教師が削減されている。
日本でも老朽化した橋や舗装のひび割れた道路を補修できなくなり、水道などのインフラも維持できなくなるだろう。様々な弱者支援を望む声があるが、いずれ必ず無い袖は触れない日が来る。そのとき生活保護も医療保険も年金も終了する。
戦前や終戦直後の映画を見ていると、孤児院の子供がマッチを売りに来る場面があったりする。社会保障なぞなかった昔にまた戻るだけだ。
誰がトップなら下が動くか
女性宮家創設に関する議論がはじまった。これは必ず女系天皇を認めるかどうかにつながってゆくものと思われる。
以前、南アジアに女性大統領の相次いだことがあった。インドのインディラ・ガンディー、スリランカのバンダラナイケやクマラトゥンガ、バングラデシュのカレダ・ジア 、パキスタンのブット、フィリピンのアキノなどミャンマーでもスーチー女史の支持は高い。当時会社のおばさん達が昼休みの茶飲み話に、なぜ日本には出ないのかしら、でもいい人いないわよね、とよく話していた。そのとき私は、結局どういう人が上に立ったら下が動くかで決まると思う、と言った。以前、「女系」でも書いたが、階級社会の国では、男女別よりも出自で決まる。ヨーロッパの王家で女王がありうるのはそのためだ。身分の低い男が上に立つより身分の高い女が上に立ったほうが、下につく人たちも納得して動く。逆に東アジア諸国は男女別が大きい。身分の高い女が上に立つよりも、身分は低くても優秀な男が上に立ったほうが下が動く。
中国では毛沢東が”女性は天の半分を支える”と活用をめざし、気の強い女性も多いが、実際には働く女は多くても上に立つ女はそう多くない。会社はまだあるが、全人代を見れば一目瞭然、女はお飾り程度。日本なぞよりはるかに長い歴史上女帝は則天武后ただ一人、しかもまともな皇帝とは見なされていない。東アジアでは男系が途絶えたときにその種族は滅亡したととられる。ヨーロッパの王室は皇女王女が残っていれば、皇女アナスタシア伝説の例もあるとおり、断絶したとはとられない。
女系天皇も認めてよいのではないかという識者もいるが、女系に変わったとき、もし大多数の日本人が”皇室は変質した、皇室は終わった、一応制度としては存続しているがもはや一般人と同じ、大切にする気にはなれない”と感じるようだったら、皇室は自然消滅するだろう。
この問題は男女同権が正しいだの、何が倫理的に正しいだのといった問題ではない。その民族の社会の元にかかわる問題だと感じる。
沖縄健児隊
雑感−時事/戦争関連編
衆院サーバーのハッキング
大概の人はもう忘れているかもしれないが、昨年夏に衆院のサーバーがハッキングされ一ヶ月ほどメールなど見放題の状態にさらされていたという報道があった。この件も当初たいしたことない、情報流出の事実はないとしていたが、日を追って実は議員全員のパスワードが流出していたことがあとから報じられた。その後報道は止んだ。
とある深夜番組でスパイに詳しい人物が、国家間のスパイの場合何を理由に脅されるかという話になり、「ほとんどが借金問題」と断言していた。小説などによくある女性問題はさほどでなく大したことない、秘書の借金だのいろいろだが大体金銭問題で脅されてスパイになるのだという。
今、実は怖い思いをしている議員がいるのではないだろうか。
単一民族国家
雑感−歴史/地方/農業編
単一民族国家その2
雑感−歴史/地方/農業編
- 2012.4.21
台湾人日本人にお願いにゆくよ
台湾編
情に流されやすい人々
台湾編
町中走り回ったよ!
台湾編
中国のスパイ活動
雑感−中国/韓国編
中国的思考回路−南京大虐殺
雑感−中国/韓国編
- 2012.6.19
貨幣からの離脱−自作
うっかりしていたらここの更新を忘れ一ヶ月とばしていた。何かあったかと心配された方申し訳ない。別に何かあったわけではなく、いろいろ自作にはまっていたのだ。
震災や原発事故もあり、最近、税金を払うのも何だかなあと思うことも多く(その理由はあとで述べるが)、できるだけ巨大システムに頼らない生活、お金を介さない生活にシフトしてゆくべきと考えるようになった。袋か入れ物がほしい話をしていると、某手芸店で端切れが百円で買えるわよと聞き、行ってみた。今から思えばビギナーズラックだったと思うが、思いのほか良い端切れが9枚手に入った(その後こんなに良い端切れはなかなか出ないと知った)。見たとたんに、これは手提げ、これは巾着袋、と完成品が目に浮かぶ。底に良い厚地の生地もあり、サイドの布と色もあう。さっそく自作すると周りにも好評、さらに自宅に近い支店へ行くと、これもたまたまタイムサービス300円詰め放題に居合わせ、良い布が大きいビニール袋いっぱい手に入った。リュックも作れるよ、帽子も作れる、と家にある既製品を見てどう組み立てているのか観察、さっそく自作してみるとこれも案外簡単に作れる。うーん、別にわざわざ買わなくても作れるものなんだなあ、とつくづく思う。もちろん、本格登山対応ザックなど専門性の高いものは安全のためにも専用品が良いだろうが、街中を歩く分には逆に自分好みに作ることができる。
夏も近づき麻や籐、特殊繊維で編まれたバック類が多数出まわるようになった。話題のヒカリエに行き、そうした製品を見ていると、籐工芸を知っているので編み方がわかるし、毛糸の鈎針編みで作られたものも多い。これも編めるよね、と思う。色使いを見て安い麻を自宅で染め編んでみるとそれなりのバックになる。
以前、綿や毛糸を手紡ぎして染色し、織ったときにも感じたのだが(服の自給)、必要なものを手に入れる場合、お金を使って解決する(消費する)のではなく、自作する(生産する)となんとなく自信がつく側面がある。自信といっても大げさなものではないのだが、生きる意欲に微妙に関わる部分がある。『独立国家の作り方』(講談社新書)で坂口恭平氏も書いているが、別に貨幣をなくそう、現政権に反抗し社会を変えようとは思わない。それは存在してかまわないし、その中で暮らしたい人はそうしてゆけばいい。ただ自分は、巨大なインフラシステム、消費経済には頼らない方向へ、徐々に離脱してゆき(いきなりやると大変だからね)、昔の知恵を学び、いざとなったら自給可能な生活へシフトしてゆこうと思う。
ベクレル検査
雑感−東日本大震災編
すべてキャンペーンに見える
最近、TVや新聞で急に何かが報道されはじめると、裏に何かあるのかなと考えるようになった。純粋に報道が信じられない。なぜ今この時期に?と思う。特にNHKあたりがニュースの時間に解説つきで説明すると、世論の誘導をはかりたいのかと感じる。
たとえば今年(2012年)5月頃、新たな空襲の写真が発見されたとさかんにTVでやっていた。これもなぜ今頃?と思う。1950年代、60年代でもよかったはずだ。その頃のほうが体験者も元気で多くニュースバリューもあったろう。当時はアメリカに遠慮していたのかと思うし、今頃というのは、アメリカに反感を抱かせたいどこかの思惑も絡んでいるのか、と疑ってしまう。
中国人スパイ騒動も、あれはスパイではないという中国問題専門家がいたが、別に本当にスパイかどうかを問題にしているのではなく、国民に警鐘を鳴らす意味で報道されたのだと思っている。報道によって印象、イメージは残る。東京大学、松下政経塾、といった肩書きがあっても無条件に信用するなという。
生活保護問題から胃ろう、自然死、新型うつ、脳死からの臓器移植、すべてキャンペーン臭を感じる。
そういう風に意図を感じてしまうと、なんかつまらない。
枯れ死
そのキャンペーンに乗っかる話題ではあるが、しばらく前に東京新聞の筆洗に、古木の多い森は光が差し込まず若木が育たない、という意味合いの文章が載った。それに対して年配者からの反発の投書が載っていたが、私はこの筆洗の内容は頷けるものだと思う。最近のベストセラー『大往生したけりゃ医療と関わるな』も納得ゆく部分が多い。大往生は一種の餓死で木の枯れ死と同じ、食べられなくなったら、心臓が止まったら基本的に寿命がきたのだ、そこに無理して栄養を送り込む必要はない、人はいずれ必ず死ぬものだ、という内容の本だ。
ふくらむ老人医療費対策として、国も老人の過剰医療を避けできるだけ自然死してほしいと思って最近この手の話題が多いのかもしれない(と勘ぐる)が、それでもその言っていることは正しいと思う。TVの動物番組にも時代の流れがある。かつては草食動物が”いい役”で肉食動物が”悪役”、草食動物が肉食動物の狩りから逃れる映像を流して”バンビちゃんは助かりました”的な番組が多かった。最近は肉食動物にも配慮を示し、生きるために狩りをするのです、と草食動物が食べられている場面も流すようになった。
動物番組を見るたび、以前から感じる疑問がある。チーターは足が速くインパラを狩ることができるというが、誰しも年を取る。年を取ると運動能力も落ちる。年取った草食動物の末路は肉食動物の餌食として想像しやすいが、チーターやライオンなど高い身体能力を必要とする狩りで生きている肉食動物が年を取るとどうなるのか気になる。狩りの失敗が多くなり餓死するのか、寿命を悟った象は一人死に場所を求めるというが、やはり寿命を悟り従容として死につくのか、肉食動物の老後の謎も解いてほしい。
憂鬱な隣人その1
前回、台湾で二二八事件の際、隣人を嘘の証言で当局に密告するケースが多く大半が処刑された、台湾人は意地が悪い、と台湾人自身が嘆き、その理由としてお金ではなく隣人はお互い仲が悪いからだ、と言った話を書いた。おそらく文革の時も似たようなものだったのだろう。隣人の仲が悪いのは中国だけでなく、日本でも同じである。
というわけで身辺雑記を2件。近所に精神病の人がいる。もとは羽振りもよく自信のある人だったが8年前に突然変調をきたした。この界隈は回覧板をまわす組があり、以前は袋小路だったこともあり、当時はまだ結束が強かった(最近は世代も交代し、老夫婦が亡くなり新住民が入ったりでつながりは薄れたが)。その組すべての家を朝早くから全軒周り、チャイムを鳴らし「いつも若者がうるさくしてすみません」だのわけのわからないことを言ってまわるようになった。最奥に某医大教授が住むが、その奥さんが「完全に目つきが変わり狐付きのようで顔つきがおかしかった」という。うちにも何度か来て「XXちゃんと○○ちゃん、来てませんか」などと言っていたらしい。
やがてご主人が病院に連れていったようで「鬱病だ、認知症だ」と言った。みっともないことで、とも言ったという。ご主人は高齢だが、年の差婚の彼女はまだ認知症になるような歳ではない(確かに若年性もあるが)。それに症状が違う。
近所にこれまた今話題の生活保護関連のアパートがあり、そこに入居しているお婆さんがなぜかあの奥さんの旦那は浮気していて線路の向こう側に愛人を囲っていると周囲に話した。なぜ古くからの近所が知らずこの婆さんが知っているのかわからないし、本当かどうかも謎だが、奥さんが自宅で暴れて入院になったとき、ご主人のことは信用せず彼の手から薬を飲もうとしなかった、仕方なく実姉を呼んで姉の手から精神薬を飲ませたと近所の人から聞いた。
この一連の件に、「ある意味彼女の勝利かもしれない。正気を失った代わりにご主人に恥をかかせて復讐したのよ」と言う人がいた。
私は子供のいない彼女はひょっとしてそのトローマがあるのでは、だから”XXちゃんと○○ちゃん”がどうこう、と空想の子供の話をしているのでは、という気がした。また、昔から精神病関連の本は興味があるので『家族と狂気』(イギリスの精神病学者による実例豊富な本)などよく読んでいたので、分裂病っぽいな、分裂病は家族の病と言われているから、旦那が「みっともないことで」と隠すようでは完治しないだろうと感じた(今は分裂病という言葉は避け、統合失調症と言うがこの時点では本も含め分裂病の時代なので、また言葉狩りは嫌いなので敢えて書く)。その後薬が功を奏したのか、退院後小康状態を保っていたが、昨年再びおかしくなった。今回は「セコムに入っている人は盗聴されていると知らない男が言っている、近所がうちの夕食のメニューを知っていて噂したり笑っているのが聞こえる」と言うようになった(彼女の家はセコムに入っている)。盗聴、幻聴とくれば完全に分裂病の症状。やがてうちの親が彼女の家のクレジットカードを盗み銀行預金を下ろし子供たちにあげている、と文句を言いに来るようになった。しかしほとんど話をしたことのない私には向かってこない。つきあいのある親にだけ言うらしい。ご主人に困るんだがと注意すると「もう完全に頭おかしいから・・・。目を離しているうちに薬を飲み忘れた」と言う。親は面倒なので、チャイムがなっても出ない生活がしばらく続く。すると外でその内容の一人ごとを虚空に向かってしゃべっている。今度来たらビデオに撮影してご主人にこれを医者に見せろと言おうかと考えた(『マンガでわかる統合失調症』にもあるが、患者は医者には世間話しかしないため、医者が本当の病状を理解していないケースも多いようだ)。
うちだけかと思ったら、別の家にも押しかけ勝手に庭に入って絶叫し、家の中に入れろと大騒ぎしたので気味が悪くなり、その家ではついに警察に通報した。すると「何かことが起こらないと動けないんですよね」と警察、そして保健所の電話番号を教えられたという。さすがにここでご主人が再入院させた。
ご主人は鬱病だと言うが、やはりこれは、と『マンガでわかる統合失調症』を読むと、状況がそっくり。あまりにクリソツなので親にも勧めると「まったく同じだ」と言う。このマンガを読むと、家族も大変だし、かつては閉鎖病棟に押し込められ、棺退院(退院できるときは亡くなったとき)という言葉があったときくと、それは問題だろうと思うが、親も「病気はしょうがないかもしれないが、お金を盗んでいるとか言われると、いくら病気でも傷つく。言われるほうの身にもなってほしい」と言う。私もそれはそう感じる。ここでまた最近話題の新型鬱だが、TV番組でこうして周囲に配慮してほしい人が増えると社会の負担が増える、会社だってやってられなくなる、とある人が発言すると、別の人がでも若者は時代状況を示すカナリアのようなところがありそれを責めても仕方ないんで、と発言、また別の人が精神的負担なく働けるよう配慮すべきだ、そうすれば有用な人材になる人たちなのだから(少々うろおぼえ)というようなことを言った。
私はこれを見ていて、それは確かに理想論だが、いや、たしかに配慮してほしい側の人が増えてくると”普通”と判断される人々が大変になってくるよ、と思った。逆に配慮してほしい側の人々が、配慮する側のことを考えることはあるのだろうか。その余裕、というか、他者への視点の転換というか。それができないから病気なのだ、と言うかもしれないが。
小学校時代の知人、会社の元同僚、知り合いの連れ合いその他、鬱病だの精神病と診断されている人を何人か知っているが、この近所の御仁を含め、基本的に精神病系の人は自分のことしか言わない人が多いと感じる。自分が苦しい、自分がこうされている、ああされている。通常の人がKY発言すると直せといわれる。病気はいいのか?通常の人も”性格”だから仕方ないと許容されないのか。また本当の問題点は直視せずに避け、周囲に矛先を向ける人が多いとも感じる。マンガでもお母さんが発病した原因の大半は夫にあると思うが、刃の矛先は(文字通り)娘に向かっている。娘も大変と思うが、実の家族ならまだしも、近所が受けるのは筋違いな気がする。(ちなみに同じ作者の別の漫画を読み、彼女が「近所が夕食のメニュー知っていて笑っている」というのは、おそらくご主人が夕食のメニューにケチをつけたか何かしたのだろうと思う。)精神病は認知障害によるものが多い。有名な”馬鹿”の言葉は、秦の始皇帝の孫に対し、家臣どもが共謀して鹿を見せながらこれは馬だと言い張り、孫は自分の頭がおかしいのかと混乱して本当に精神病になってしまった話に由来する。『家族と狂気』でも、分裂病になる子供に一人っ子は少なく複数兄弟のいるケースが多い、そしてその発病した子供のみもともと家族の中で異端児扱いされていたという。記憶からの書き起こしになるが、病気とされる子供は、自分が何か話すと家族皆でくすくす笑ったり目配せしあったりする、いやな思いをする、と医者に訴える。医者がそれについて家族に質すと、みなそんなことはしていない、あの子の妄想だ、勘違いだという。そこで医者は家族を一部屋に入れ外から観察した。すると確かに精神病の子供の言うとおり、その子が何か言うと父、母、兄弟が目配せしあったりくすくす含み笑いしていた。実験後にその結果を家族に話すと、いや、絶対やってないと依然否定する。そこでビデオに撮影した映像を見せると、家族は初めて「あ、確かにやっている」と認めた。そして確かにあの子はちょっと変わっていて、なんとなく異端児扱いをしていた、他の兄弟とどこか平等でなかった、だってあの子だけうちの雰囲気とちょっと違うんですよという。目配せしあったりしていることをほとんど意識すらしていなかったというのだ。子供はやっていると感じる、しかしそれを指摘しても家族はやっていないと主張する、これが認知のギャップとなり、精神病の発症とつながっているのでは、と医者は考える。
以前、この話を何人かにしたことがある。数人の子供を持つある母親が「確かにやるかもしれないわね。”あ、またこの子変なこと言っているよ”とか、無意識のうちに顔見合わせたりとか。わざとや意地悪じゃなく、思わず、て感じで」と言った。今の社会は、一つの問題に対して相反するメッセージを送ることが多い。情報量が多い、さまざまな考え方がある、ということもあるのだろうが。また10年前に推奨されたことと10年後に推奨されることが真逆に逆転することも多い(専業主婦問題など。1980年代は結婚したら家庭に入れが正解、今は男に依存する女は重い、嫌だと男自身が女も働き続けることを望む)。大半は適当にスルーして深く突き詰めずに世間を渡ってゆくが、こだわる人は引き裂かれるかもしれない。
憂鬱な隣人その2
近所に今話題の生活保護関連のアパートがある。このアパートそのものが建築のときから問題があり、違法建築で裏の家から通報されたことがある。大家も問題が多く、アパートにすると事前に一切近所に知らせなかった。最も仲の良い隣人が「アパートになるのでは」と尋ねても「業者が勝手にやっていることで私は知りません」と言ったという。完成後も近所には何の説明もないまま、やがて高齢生活保護関連の人が入居するようになった。基本的に近所とアパートは一切関わりがなく誰が入居し誰が出てゆくのかわからない(普段アパートへの入り口は施錠されており各自が鍵を持っている)。アパートで亡くなる人も結構多いらしいという噂を耳にする。大家は半年家をあけ他所に住むので、何か起きたときに連絡する先がない。基本的には何も起きない年も多いが、何度かぼやの出たことがある。また、子供のいる家がアパートの住民からうるさいと怒鳴り込まれ怖い思いをしたなどもある。出入りが多く、引越しの際のトラブルもあるが、大家は「私も驚きました」「アパートの住民が勝手にやったことです」「私は知りません」が口癖で対応しない。
このアパートは区が絡んでいるらしい、区の有力者の知り合いがいてそのコネでやっているといううわさがあった。何しろ正式な説明はないので真相がわからない。裏をとろうと区に確認の電話を入れてみた。最初住宅課だろうということで回されたが、住所を明確に告げたにもかかわらず区が斡旋するということは一切やっていないと言われ、社会福祉協議会ではないかというので社協に電話をする。しかしそこでもうちではない、区の住宅課ではないかとという。埒が明かないのでここでやめたが、その後確かに区が絡んでいることがはっきりとわかった。
区が絡むなら大家が不在にする半年間の監督責任は区にあると思うのだが、聞いても明言を避け言葉を濁す。ぼやのこともあるので不在期間の監督責任先を明確にしてほしいと言うと、個人情報がどうこう言いだした。大家の連絡先は近所だからもともと知っているし、そういう話ではないわけで、はあ?という感じだ。それとも区のXX課の電話番号が個人情報だとでもいうのだろうか?別に生活保護アパートをやめてくれと要求しているわけではない。ただ責任の所在をきちんとしてくれと言っているだけなのだが。ごくたまに区の職員がアパートを訪ねてくる。彼女らは生活保護者と貧困ビジネス家に明るい笑顔を振りまくが、こうした近所の不満を知らない。平日昼間なので勤め人は家にいないし、それらを吸い上げる回路もない。近所には何も聞かないし話をせず、まるで生活保護者を差別する一般住民とでも思っているかのようだ。
こういうのを見ていると、ウン十年この区に住民税払ってきたけど、生活保護が悪いというのではないが(大家の問題も大きいと思うので)、結局目に見える対象、声を出す人に笑顔とサービスを振りまき、黙って働いてきた人たちには何もしないようだ、という気がしてきた。
それが”最近、税金を払うのも何だかなあと思うことも多い”と書いた理由だ。たまたま怪我から収入が減り、今青色申告ということもあり経費引けば税金を納めない状況になった。このまま極力お金を使わない生活に移行して税金やめもありだなと考える。注記:これら2つの話はまた進展あるかもしれない。自分の話ではと思われた方、世の中似たような話があるものですねえ。某作家先生に教えられた「なぜ御自分だと思われるのですか」という言葉をそのまま返しておきます。
- 2012.8.7
電化製品の信奉者
震災による原発事故以降、電気に頼った生活に対する疑問が言われるようになった。一方、若い世代は電化製品がなければ掃除も洗濯もできないと思っている、という論をよく目にする。しかし見るところ、この固定観念を最初に取り入れたのは終戦直後小中学生だった人からその十年後くらいまでの、いわゆる絵に描いたような”戦後教育”を受けた世代ではないか、という気がしてならない。
戦前社会の否定と戦後的価値観の称賛を精神的基盤にする彼らは、電気をはじめとする”文化的”生活に対する幻想が強い。この世代の電化製品に対する思いは信仰に近いとすら感じる。掃除機でなければ埃はとれない、箒ではだめだ、洗濯機でなければ汚れはきれいに落ちない、洗濯板ではだめだ、電気釜でなければご飯はおいしく炊けない、鍋釜では失敗する。冷蔵庫に対しても絶大な信頼をおく。冷蔵庫に入れておけば何でも腐らないと信じている。冷蔵庫だろうが冷凍庫だろうが、有機物はいずれ必ず腐るはずだが、そう指摘しても「おかしいわね、冷蔵庫に入れておいたのに」という言う方をする。自分の家族だけでなく、友人の家に行ったときも似た場面に遭遇する。70代の母親に対し「なんでもかんでも冷蔵庫に入れておけば大丈夫というものでもないよ」と子供らは怒り、期限切れのものを見つけては捨てている。親は冷蔵庫に入っているから大丈夫だとブツクサ言っている。
うちは電気ポットを使わないが、電気ポットは重く年寄りには持ち上げづらい。そこで古い水を捨てず洗わず、継ぎ足して使うのをよく見る。沸騰させてはいるものの、かえって衛生上悪そうだが気にしない。電化製品だから大丈夫と言う。この信仰の根拠は、一体何?と思う。たとえば旬で大量に取れる農産物を工夫して調理する料理方法から、毎日異なるメニューを考え、食べたいものに合わせて食材を購入し調理する料理方法に切り替わったのもこの世代だと思うが、大量に取れる野菜に合わせて料理するのを嫌う人が多い。だから畑を始めると家族と(連れ合いだけでなく親世代とも)野菜処理でもめる話を耳にする。田舎は違うかもしれないが、しかし地方農家の老夫婦が、若夫婦が畑の野菜を使いたがらず、スーパーから買いたいものを買ってきて料理する、と嘆くのを聞いたことがある。
戦後の栄養学や、いわゆる”生活改善運動”の影響もあるかもしれない。ただこの方法では、冬でもトマト、キュウリ、ナスが必要になり、石油をたき暖房した温室内で作るか、地球の裏側から持ってくる必要が出てくる。地球が何億年もかかって貯めた石油を数十年、せいぜい百年二百年で使い尽くすことになる。いつまでそうしたやり方を続けられるのだろう。この終戦直後の戦後教育世代を境に、文化の断絶が起きていると思う。
もっと上の世代は、電気ガス水道など社会インフラに頼らない生活方法を身をもって知っている。いざとなったら元に戻れると自信を持って言う。戦後教育世代も「知っている」とは言うものの、よく聞くと子供の頃親がやっているのを見たことがあるだけで、実際一から十までやれるかと言うと、「できない」と言う人が多い。
戦前の生活スタイルを”軍国主義の残滓”感覚と一緒くたにしてすべて駄目なもの、遅れたものとして嫌悪しているかのようで、結局この世代が、過去からの伝統文化や知恵、歴史の継承を阻むボトルネックになってしまったと感じることが多い。
こういうときにも、民主教育だろうがなんだろうが、教育とは結局、一種の洗脳の側面があるのだろう、と痛感する。非電化工房の藤村氏によれば、電気掃除機で原発約2基(1.6基)分、電気ポット3基分、電気炊飯器2基分の電力を消費しているという。(ちなみにテレビ10基照明10基冷蔵庫5基冷房3基暖房4基)。
電気はプログラミングできる。コンピュータは1,0の集合体、電気のオンオフで様々な制御が可能になる。火力や水力ではこうした制御はできない。だから産業で電気は必要だろうし、電気の効用、便利さも否定しない。
もし原発を減らしたい、なくしたいなら、電気掃除機の代わりに箒、電気洗濯機の代わりに洗濯板やアメリカで見る押し棒、電気炊飯器の代わりに鍋釜生活に戻す、というのもありと思うが、意外に年寄り世代が反対するだろう。ところで、電化により家事労働時間が減った、そのおかげでやりたいことがやれるようになったという。でもその”やりたいこと”って、そんなに素晴らしいことなのだろうか。自己実現とか夢とか、昔の人に比べ、でもだからどうなの感強い。
ダンススポーツ芸術などの余暇、自己啓発ブラッシュアップなどお勉強もだからどうなんだという感じ、知人とランチ飲み会も結構どうでもいい、天職だのXXのための活動もそれがどうしたと思う。”意義がある”とか当人や内輪の勝手過大な思い入れ部分も大きい。”やりたいこと”など今やどうでもよくなりつつある。
もちろん、こうした考えを他人に強要はしない。オール電化やそれに近い生活で”やりたいこと”に邁進したい人はそれでいい。ただその”やりたいこと”、て(”仕事”も含め)そんなに御大層なこと?という根本的疑いがますます強くなる。新自由主義は人々を債務者にしてコントロールする社会、という説を見たが、出来合いを”買”うより自分で”作”れるようになる、それが基本だ、という思いがますます強まる。
語り継ぐ
先日、ある老人が亡くなった。
知人の紹介で戦前の話の聞き取りをしたことのある人だが、知人いわく、”本人に身寄りがなく、ケアマネが部屋の片付けをした。それが半年後の最近になって他県の姪が訪ねてきて息子が遺品を欲しがっているという。子供いなかったはずでは?と不審に思うと、先妻の子供が二人いたが後妻が会わせてくれず、生き別れになっていたという。そう言えば戦争体験の中にちらっと子供の話が出ていたのを思い出した。その息子にお父さんの声や写真がないかと聞かれたが、部屋はすべて片付けてしまい何もない。そう言えば証言ビデオがあったはずと思い出しその話をすると、事務職の男性が、「実は以前本人から見てくれと言われ預かっている」と机から出してきた。おかげで生き別れて会うことのなかった息子に、父親の生前の動画と戦争体験談を聞かせることができそうだ”と語った。
この老人は中国がらみで結構重要な話をしており、裏取りしたい(全く嘘とも思えない)重要な話もあった。中国要人揮毫の書なども見せてくれた。あれらはどうなったのかたずねると「多分民生委員さん立会いで全て業者が廃棄したと思う。どうしましょう?どうしようもないですが」と言った。こうしたケースは今後増えるだろう。本人が事務職員にビデオを渡したのも、亡くなった後すべて片付けられてしまうことを懸念した面もあったかもしれない。
今回のケースは後妻がらみで子供が生き別れとなったため仕方ないが、よく老人らから「子供らはこうした話(戦前戦中の話)をしても聞かないし、聞くのを嫌がる」と聞く。彼らは当時の資料などもよく集めているのだが、「子供らは興味ないから、自分が死んだら昔の写真も含めみな捨てられてしまうだろう」という。
こうした嘆きは、なにも戦争がらみの話だけではない。少数民族系の老人やその研究者らからも、「世代が代わると、昔の写真や生活用品などみな捨てられてしまう。その前に集めておかなければいけないが、写真を見てももう名前もわからない人も多い」と聞いた。戦後社会が大きく変わり、戦後世代は年寄りの話、特に戦前戦中に関する話を聞かなくなった。これは”戦後民主主義教育”や”戦後社会”を良しとし、戦前の社会を駄目なものとする価値観によることも大きいと思うが、それでも、老人らにも責任があると考えるし敢えてそう書く。
子供や孫から嫌がられようが何だろうが、話続けるべきだったし語り継ぐべきなのだ。空気を読んで黙り込んでしまう場合でない。しつこく語り継ぐべきなのだ。民族性を保つ民族にはそういう面がある。ユダヤ人、中国人などがそうだ。華僑の知人から、「母がね、中国の家庭には一人、家族の歴史を語り継ぐ役割の人がいる、というの。それで母は私にその役を担ってほしい、と言うの。それで辛亥革命の頃から日本へ渡ってきた一族の歴史を今調べている」と聞いたことがある。そういう民族は国家がなくなっても消滅せず生き延びる。
まあ、民族として生き延びること自体が良いか悪いか、価値や意味があるか無いか、わからないが、子や孫が聞かないからと黙りこむのは、媚でもあり人のせいにするのでもあるから好きになれない。
年金と子供
先日古い仲間何人かで集まったとき、一人が「実は今両親と連絡がとれない」と話し出した。兄が入院中の両親を勝手に転院させ、居所を教えず合わせてくれないという。今までお姉さんの話はよく聞いたがお兄さんの話は初めてだったので、驚いて
「お兄さんなんていたの?」と言うと
「うん、年も離れていたしほとんど話したことない、ていうか・・・。ずっと両親と一緒に住んでいてパラサイトシングルしてる」と言う(彼女と姉は結婚して家を出ている)。彼女はよく、親の介護でX曜とX曜はだめだと言っていたので、お兄さんが一緒にいたのに、彼女やお姉さんが介護に行っていたわけ?と聞くと「うん、兄貴は診療所やっていて忙しかったから。でもあまり稼げなくて、それで親と同居している」そして話すところによれば、兄貴は以前は親のことなど興味なかった、それが父が年を取って弱り入院すると急にあれこれ差配するようになったという。
一人が「君のお父さん、て公務員でしょ。結構年金出るからそれもあるんじゃないか」と言うと、そうだ、母は認知症入っているし父も弱り兄がお金の管理をするようになった、そのときから態度が変わったという。自分と姉が親の財産を狙っていると言ってよせつけない。ある日病院にお見舞いに行くと両親がいなくなっていた。看護婦に聞いても「個人情報がどうこう」言って教えてくれない。夫がXX(兄の名)が転院させたのか、彼に口止めされているのか、と看護婦に問いただすとしぶしぶ認めたという。だが行き先は言わない。兄に問いただしても「ちゃんとやっているから」と言うだけで教えない、という。「財産なんて狙ってないのに、見舞いにも行けやしない」と言う。
口の悪い男性の一人が「今頃ミイラになってるよ」と言い、彼女は「やめてよ、そんなこと言わないでよ」と言いつつ「本当にそうなってもわからないんだよね」とも言う。どの子供も親に会う権利はあるんだし、仲間の知り合いには人権派弁護士もいるんだから、いざとなったら家裁に申し立てしたらと言うと「本当にやばくなったらそうする」と言いつつ、さらに(本筋と関係ないので、またプライバシー絡むので詳細は伏せるが)認知症の母を使って姉妹を責め資産も取り上げた結果になった話をした。実の母から毎晩電話で責められるので精神的にまいった、母は兄貴命の人だったから兄の言うことは何でも聞く、そして親がこうなったのも(親の)自業自得の面もある、と言った。今後似たような話が増えそうな予感がする。
新手の詐欺?
先日知人からある相談を受けた。
5,6年ほとんど沙汰のなかった知り合いから、突然緊急のお願いのメールが来たという。なんでも彼女のお父さんが緊急入院したので、メール発信の翌日午前中までに6万円を貸して欲しいという内容とのこと。彼女とは同業者の食事会以外ほとんど交流はなく、内容も少し不審な感じがしたので、やはり食事会で一緒だった私に確認と相談で連絡してきたのだった。
メールの詳細は、本人は仕事で仙台におり、メール発信日の朝父が緊急入院した、父の手元にはお金がなく、自分の家族、親戚も全員韓国に結婚式に行っており、他の知人も不在なので近所の人に看てもらっている状態だ、そこで翌日午前中までに6万円を貸して欲しいというものだが、原文の日本語が不自然な感じで、もしかしたら彼女の名を騙った詐欺的なものかもしれず、あえて返信しないで様子を見ているという。私のところにも同様なメールが届いていないか、もし届いていたら注意したほうがいい、との話だった。完全に詐欺の内容だが、問題はこの知り合い本人が関わっているかどうかである。まず妙なのは、”原文の日本語が不自然な感じだった”という話である。最近、不正アプリによりスマホ内部の情報が外部に送信される問題が報道されている。こうしたスマホ内部からの流出アドレス類は何に利用されるのだろう、と思っていたが、こうした本人を騙った金銭詐欺に使用される可能性も高いかもしれない、と感じた。
私のところにメールは来ていない。以前は集まりのやりとりをメールでしていたが、数回の食事会以降、賀状やメールのやりとり含め付き合いなくなったので本人がアドレス消した可能性も高い。
一方、知人は彼女が本業をやめネットショップを始めると言った際”あなたならやれる”的なことを言って励ましていた。その後相談されアドバイスしたことがあると言う。私は安易な励ましは言わないほうが良い(本人にとっても)気がして気になったので記憶に残っている。さらにその後、彼女から某ヒーリング関係の勧誘のメールが来たこともあるという。術者が遠方から念を送ってヒーリングするというもので、自分は家族も含めその術者に大変世話になっている、ぜひ貴方にも勧めたいという内容だった。その遠隔XXがカルトか害がないか不明だが、こうしたものにはまりやすい人は、(貴方のためと言いつつその実)自分のために(その集団内でステータスをあげる、自分の位置を確保するなど)他人を利用する人が多く、また本人も利用されやすくトラブルに巻き込まれやすい。スマホ以外の理由で、意識的か本人知らぬ間に利用されたか、詐欺に加担している可能性もある。いずれにせよ、気になる話だったので公開しておく。
かわずのたわごと
老いる卵子
最近話題の”卵子は老いる”話だが、これに対し「以前は女性の社会進出を煽り、今になって卵子が老いる話をされるようでは、今の3,40代は浮かばれない。以前からきちんとそのリスクを言ってほしかった」という内容の投書を見かけた。
しかし4年前、ある歌手が高齢出産は羊水が腐るからよくないという内容の発言をしたとき、「傷つく」と一方的なバッシングを受け一時活動自粛になった。2008年4月当時も、ここで”表現はともかく、彼女が大筋で間違ったことを言っているとは思えない”と書いた(こちら)が、高齢出産は染色体異常など問題が出やすいことは科学的に証明されており、以前から言われていた。私でも知っていたし、誰も(いわゆる”社会”というやつも)隠したりなどしていなかったと思う。聞きたくなかったから聞かなかっただけだ。大体、高齢出産そのものが、かつては30歳以上だったはず。それが80年代だかに35歳以上になった(これこそまやかし、一種の媚だと思うが)。こうしたバッシングこそ、”自分に不利なデータをあげる人を黙らせる”ことにつながると思うので、やめるべきだと思うのだが。余談だが、以前、1960年代頃の政府発表関連の統計を見ていたとき、30歳から中年のくくりになっていたので驚いた記憶がある。しかし考えれば、確かに30代は青年若者とはいえない。そしてかつては40代で初老だった(現在は30代まで若年、中年は40歳以降、老年は60歳以降。あるいは15 - 24歳青年、25 - 44歳壮年、45 - 64歳中年、65歳以上高年)。今は見た目若い人が多い。でも見た目はいくら若くても中身は年相応に年をとる。そんなことに血道あげて、どうでもいいんじゃないの?と思う。
さらに、ニューヨークタイムズに、未熟児で生まれた子供は、鬱病や統合失調症など精神疾患に罹る確立が数倍高いという研究結果の記事が載っていた(8ヶ月より7ヶ月のが高いなど、週別に詳しい数値あり)。以前、生殖治療で生まれた子供は生殖器に異常のある確立が高いという英字記事も読んだ記憶がある(NYタイムズだったと思うが切り抜きないので確実でない)。脳死移植や生体間移植の双方のその後など、隠してはいけない事実がある。
震災がれき
アメリカカナダの西海岸に震災がれきが流れ着いている。コンクリート製の桟橋がどうやって沈まずに太平洋を越えたのか、不思議千万だが、それらの撤去費用が問題になっている。おそらく道義的見地もあるからだろうが、外務省が予算を組み撤去費用を支援するという。
数年前中国で大洪水により大河の川岸に積まれ放置されていたゴミ類が大量に海に流れ出し、日本や韓国に流れ着く騒ぎがあった。このとき中国はどうしたか。
こうしたことが国家間の力関係で決まることのないよう、平等になるよう国際法がある。これをいい機会に、こうした場合どうするか法整備したほうがよい。
また、津波の襲来した低地に家工場を再建するか高台移転か問題になっているが、どうせ百年に一度(明治から数えて百年に3回は来ているようだが)大津波が来るのだから、再び流されてもかまわないものだけ建てるようにしたほうがいいと思うのだが。ところでアメリカの心配している放射能は、原発事故は津波の数日後に起きているので、まったく無関係のはず。
ひざ痛とアスファルト道
今膝痛に悩む人が多い。特に6,70代で膝を痛め正座できない、だから和式のトイレが使えないという人が結構いる。
しかしかつての年寄りは、講の集まりや寄り合いだので正座をしていた。和式トイレがしゃがむスタイルだということは、年寄りも使えていたということになる。たとえば宮本常一によれば、朝早く起きる必要のあるとき、祖母は正座をし腕を組んだまま寝たという。
膝痛は老化によるもので仕方ないというが、昔の年寄りは正座できていたわけだ。最近、山を歩くようになり、気づいたことがある。山道と舗装道では、足の疲れ方がまったく違うのだ。四国遍路を区切りで歩いたときは、舗装道の国道県道歩行が多く、7,8時間歩いた1日の終わりごろには足の裏が痛み、特にくるぶしなど関節も痛くなった。まめもできやすく、必ずテーピングして歩いた。
それが土の山道を歩くようになると、数日縦走してもまったく足が痛まない。疲れはするが、8,9時間歩いても特徴的な足の裏やくるぶしの痛みが出ない。テーピングも不要でまめもできない。
先日、土の尾根道を歩く予定が、途中で道を間違え山を降りてしまい、その後延々アスファルトの林道と国道を歩いて目的地へ向かった。上り下り的には国道のほうが楽なはずが、3時間歩くとてきめんに足に負担がかかるのが感じられ、5時間歩けば例の足の裏とくるぶしの痛みが出てきた(底の厚い登山靴なのに)。テーピングしないとまめもできそうだ。
やはりこれは、靴や荷物ではなく道の問題だ、と思う。昔の人は土の道を歩いていた。子供の頃、昭和40年代はまだ結構舗装されていない道も多かったのを覚えているから(だから自転車がよく”スリップ”した)、割り合い最近まで未舗装道が残っていた。
それが今、都市ではほぼ100%近い舗装率になった。実はこれが、膝を痛める人が増えている真の原因なのではないか、という疑いを強めている。
最近ランニングが流行っているが、都会のアスファルト道で負担の大きい”ランニング”を続ければ、膝など関節の磨耗を早めることになり、年を取る前にすでに膝など足に故障を抱える人が増えるのではないか、と今から懸念している。
- 2012.11.16
特段決めているわけではないのだが、この欄は大体一ヶ月に一度の割で書いてきた。二ヶ月に一度になる時もある。今回は三ヶ月半未更新。言い訳すると、夏から秋はいろいろ忙がしい、山も畑も気温の高いうち日の長いうちにやっておきたいことが山程ある。さらに今年春頃から中国関連でいずれ書きたいと考えていた話題が何件かあったが、ご近所問題など卑近の話題を優先させ先送りしているうち例の尖閣問題が勃発した。”みな中国が恫喝したことを忘れている、何もないのにフジタの社員を突然拘束したことを思い出したほうがよい”として、土地所有制度と売買の問題、モンゴル映画の話、東郭先生と狼の民話、元と高麗、RMA軍などについていずれ書きたいと思っていたのが、これでは”尖閣問題が起きたから書いてるのでは”ととられてしまう。状況が流動的なうちは、リベラル系の人は”尖閣問題が起きたから辛口になるのはよくない、落ち着いて理性的に”と抑制する方向にバイアスをかけて見聞きし読み評価するだろうから、しばらく書かずに待ったほうがよいと思えた。
ただこのままにしていると永遠に書かなくなりそうでもあるので(まあそれでも誰も困らないと思うが)、まずは書きやすい話題からはじめ、核心は次回詳しく書こうと思う(次回は早めに更新予定)。
かわずのたわごと−最近の話題から
エスカレーターでの歩行
最近投書欄などでエスカレーターを歩行者用に一列空けることが問題になっている。手すり側が片側麻痺している人にとっては怖いし、駆け上ったり駆け下りたりで人にぶつかる者もおり、年寄りには危険だという。
記憶が正しければ、一列空けるようになったきっかけは、1970年代後半か80年代頃、新聞に”イギリスではエスカレーターに乗る際、急ぐ人のために片側を空けている。あれはとても合理的だ”という内容の投書が掲載されたことだったと思う。「確かにそのとうり」と賛同する声が相次ぎ、自然と広まっていった覚えがある。
当時は若者中年人口も多く勤め人通勤者も多く、急ぐ人の片側歩きは合理的だったろう。しかし今は老人人口が増えちょっとしたことでバランスを崩しやすい人も増えた。自転車事故が問題になっているのも、自転車マナーの悪化もあるだろうが、昔だったらその程度の接触では転ばなかったのが、ちょっとした接触や煽られただけでバランスを崩し転倒する人が増えたということもあると思う。
老人が増え社会が変わったのだから、エスカレーター歩きもそろそろ考えどきかもしれない。あれがいじめか?
2,3ヶ月前から話題になっている”いじめ”問題、ちょうどマスコミがさかんに書きたてているころ、某全国紙にある名門運動部のマネージャの女子生徒が”いじめ”にあった内容の告発記事が掲載された。その記事を読みながら、これ、ていじめなのだろうか?と疑問に感じた。
同じマネージャの女子二人から無視され運動部をやめざるをえなかったというものだが、まず、運動部の圧倒的多数を占める男子生徒らは無視その他に関わっていない。つまり運動部全員から無視されていたわけではない。さらに無視その他”いじめ”の内容も特筆すべきものはなく、この程度の対人トラブルは会社でも近所でも社会に出てからそれこそごまんとある。それをすべて”いじめ”と呼ぶのか。そもそもこの内容自体、ほぼ1面使って掲載するほどの内容だろうか。
正直くだらなく感じ、非常にひ弱だと思った。この程度のトラブルすら”子供が傷つくから体験させたくない”とするのもある意味異常、過保護、行き過ぎだし、これを問題と感じる記者の感性にも疑問をもった。今の若者はこういう人が増えているのかなと。
トラブル解決の方法はいろいろある。無視され続けても自分から挨拶し続けるとか(アジアアフリカの留学生と一緒に過ごした寮で、インド人女生徒がそういう対応をとるのを見た。ものすごく粘り強く、最後には無視したほうが挨拶に応えるようになった)、女子から無視されようが圧倒的多数の男子選手らは無関係なのでわが道を行くでマネージャ業を堂々と(女子からみれば図々しく)続けてゆくとか。”被害者”女生徒はこの運動部に非常にこだわりがあるようだが、人生いたるところ青山ありで、もし気持ちが弱く一部の無視に耐えられない自分の性格を自覚するなら、他の運動部のマネージャをやってみるというのもひとつの手だ。
もちろん、暴行を加える(自損他損)、持ち物を壊す隠す捨てる、犯罪(万引きなど)の強要、金銭の要求(ゆすりたかり)、売春をしているなど不名誉な噂をひろめる(名誉毀損)などはあきらかにいじめ、どころか立派な犯罪なのできちんと処罰すべきだ。
しかし、記事内容の程度でめげたり他人のせいにして自分から解決に動こうとしないようなら、もう世界ではやってゆけない気がする。なんでも”いじめ”にする風潮は、そういう若者を増やす気がする。除染
茨城は高萩市、栃木は矢板市が突然、除染作業で出た土等の一時保管場所に決まった。矢板は以前世話になった農村指導者養成学校に近く、何度か行ったり通ったことがあるのでどういう地形のところか知っている。おそらくある程度広さのある国有林などの事情から選ばれたのだと思うが、矢板は那須の山地から続く標高の低い支脈の里山と川の支流沿いの谷戸状の田畑とが南北に交互に続くところで、そうした支流の上の山林に放射性物質を溜め込むのはまずいと思う(近くに明瞭な沢がなくても)。
除染問題の解決は、一時保管場所をどこにするかよりも、セシウムなど放射性物質をよく吸着する植物や物質を探しだし、吸着後燃やすなどで凝縮させ、少量にまとまったところで東電にお返しするのがよい。元は原子炉に収まっていたわけだから論理的にはその大きさにまとまるはずだ。庭先などに置かれた除染後の土は、凝縮前なのでまだ非常に線量が高いわけではない。大半はただの土で表土でもあり捨てるのも勿体ない。不要なのは放射性物質の部分のみなので、それらを吸着させ大半の土は捨てずにすませる方法を編み出したほうが、膨大な置き場所も不要で無用に汚染場所を増やさずに済む。東電OL殺人事件
この事件で一貫して不思議なのは、被害者の東電社員女性の名前と写真が一切出ないことだ。綾瀬コンクリート詰殺害事件その他、強姦殺人事件で被害者女性の顔写真や名前が新聞テレビで報道されることは多い。おそらく東京電力という大会社が抑えているからなのだろうが、そうだとすれば、後ろ盾のない人や女子高校生は名前も顔もさらし放題、ということになってしまう。
綾瀬コンクリート詰殺害事件のとき、加害者は少年だからという理由で顔も名前も出ないのに、被害者の女子高校生は顔写真が何度も報道され、それに怒っている女性は多かった。当時30代だった友人らは「加害者は名前すら出ないのに、被害者は写真が出る、てなに?被害者も未成年じゃない。ああこの子はああいう嫌らしいやり方で殺されたんだなあ、て見ている人も多いと思う」「加害者が顔も名前も出ないなら、被害者の顔や名前も出すべきじゃないと思わない?」と憤慨していた。その後もあちこちで強姦殺人事件は起きているが、女子大生その他顔や名前を報道される被害者は多い。マスコミ報道は一貫してほしいと思う。被害者の”身分”に関係なく、出すならすべて出す、出さないならすべて出さない。尼崎監禁殺人事件
週刊誌の記事によれば、勤務会社へのクレームから主犯格女性と接点をもった男性は、その後彼女に悩み事を相談するようになり、彼女と関わりを持ったことで家族を殺害される結果になったことを悔やむ一方、今でも悩み事相談で世話になった気持ちもあるという。北九州の監禁殺害事件でも、金づるのターゲットに対ししょっちゅう酒の席を設け巧みに悩みや愚痴を聞き出しそれを脅しに利用していた。
以前、ある教室に通っていた頃、隣の講師がやはり悩み事を聞く名人だった。聞くとはなしに会話を聞いていると、教室の内容よりも話をしたくて通っている感じのおばさん達も多く、受講者も多い。何かそうしたカリスマ性を持ち合わせているようだった。その講師の場合はそれを悪用する感じはなかったが、なんとなく気になる関係ではあった。
主犯格は”家族会議”をしょっちゅう開き互いに批判させ時に家族間で殴り合いをさせたりしていたようだが、これなどは文化大革命や連合赤軍の吊し上げ大会にそっくりだ。また子供が主犯格の忠実な手下となって親を殴ったり批判していた様子は文革の紅衛兵と同じである。よく子供は純真だと神聖視する”脳内お花畑”の人がいるが、むしろ子供は未熟で経験値がないためうのみにしやすく(だから若者がxx商法のターゲットにされやすい)洗脳しやすく利用されやすい危険な存在と思う。子供が目を三角にして皆同じことを唱えている国やグループがあったら、おかしな集団と疑ったほうがよい。孤独死
孤独死の話を聞くたび、不思議に思うことがある。戦時中、後方支援がなく食料不足に見舞われた日本兵は、草の根やネズミ、昆虫まで食べて命を繋ごうとした。ときには人肉食をしてまで。
一方、働き盛りの中年男性と年老いた両親という構成の家族が、父と子に仕事がなくなり外に出なくなり、いつのまにか一家全員衰弱死というケースが何件かあった。ほかにも生活保護を打ち切られた成人男性(老人でない)が”お握りを食べたい”と衰弱死していたケースもあった。
戦時中は人肉を食べてまで生き延びようとしていた人たちに比べ、なんという覇気の差か。なんとしても生きようとい意欲がほとんど感じられない、もはや緩慢な自殺としか思えない孤独死。この違いはどこにあるのだろう、と非常に不思議だ。今の日本で、お金がなくてもネズミや草の根を食べてまで生きようとするのは、プライドが邪魔をし周囲の目に耐えられず難しいのだろうか。そうだとすれば、死のほうが周囲の蔑視よりもまだ受け入れやすいということなのだろうか。あるいは戦地の日本兵らには、どうしても生きて帰って会いたい家族友人故郷があった。しかし孤独死になる人にはそうした家族も故郷も人のつながりもない。なんとしても生き延びようという意欲の根拠がない。その違いなのだろうか。
人の心と生命力とのせめぎあいとその不思議を思う。橋下問題
橋下大阪市長に関する週刊誌の連載記事が、部落問題がらみで1回で打ち切り、その後編集長交代などの問題に発展した。なんとなく後味の悪い事件で、部落問題がらみでねじ込まれると是非も言い訳もなく黙るのか、という印象が残る。週刊誌と筆者側にどういう言い分があったのか、まったく出てこないしわからないのだ。ただひたすら謝り処分し沈静化をはかるのみ。傍目には突拍子もない理由でも、最後は負けるとしても、反発があれば応じるべきだったと思う。たとえ”橋下氏には専制者となる危険がある、だから叩いておく必要がある”という理由だったとしても、そしてそれは受け入れられず敗れるとしても、事象としては負けでも心には残る。
オバマ氏が黒人外交官と白人女性のハーフで子供の頃インドネシアやアジアで育ち・・・などといったバックグランドは当人理解に必要な部分で重要であり、親が黒人だと指摘したことで差別になるとは理解されない。『あんぽん』の在日企業家もそれを指摘されたことでどうこういうことはなかった。
この件については、東京新聞に寄稿している雑誌『創』の編集長の書いていた内容がもっとも納得ゆくものだった。問題記事の執筆ルポライター氏の手法として、最初にセンセーショナルに叩きそこから問題を発展させてゆく書き方をとるので、連載を1回で打ち切りとせずもうしばらく続けてから判断したほうが良かったのではないかという。そのほうが氏が真に言おうとしたことも見えたのではないかと。また、これで部落問題に触れること自体がタブー化されることへの懸念も心配していた。
非常に嫌な幕の引き方だった。おそらくボディーブローのようにマスコミにダメージを与える結果につながると思われ今後嫌な影響があると思われる。
- 2012.12.21
尖閣問題で考えたこと
雑感−中国/韓国編
- 2013.3.15
更新遅れてスミマセン。なんとなく、書こうと思いつついざ向かうと気が重い、という日々が続いた。気が重いテーマはもちろん一つ。以前のようにどうでもよいテーマで他愛もない内容を書いて定期更新を維持してもよいのだが、どうでもよい内容はもはや書く気にならない。ということで、しばらく不定期更新になると思います。
文系学問の重要性
雑感−時事編パラダイムの転換期
雑感−時事編
- 2013.7.22
選挙ボランティア
ボランティアとして関わっているあるグループにて、別のボランティアから「最近あまり見かけないけど、何かあったの?」と聞かれた。そしてその人は、実はグループの中心メンバーからある頼みごとの打診があった際、都合や体調もあり断ったところ、「やる気あるのか!」と強い口調で言われたという。そして「こちらもやれる範囲で一生懸命やってきた。それなのにそのことに対する謝意はないし、ボランティアなのになんでそこまで言われなくちゃならないのかと思って・・・」「最近AさんもBさんも見ないでしょ。みんないつのまにかいなくなってゆくのも、ここのそうした対応に原因があるんじゃないかと思って」と言った。
私自身何か言われたことがあるわけではないが、彼女の言っていることはわかる気がした。というのは以前、大きな集会を開いていた頃その反省会で事務局長が「今年の集会は失敗だった。ボランティアが悪い。ボランティアが一生懸命やらなかったのがよくない」と強く言うのを聞いたことがあるからだ。その年の集会に、私自身は参加していない。今後の方針を聞きたくて反省会に顔を出したのだが、この言い方はさすがにまずいのではないか、と思った。このときは大勢のボランティアが部屋に座りきれないほど詰め掛けていた。若者も多かったと思う。彼らは今ほぼ残っていない(明確に退会はしていないかもしれないが、実質活動していない)。今まで国際協力や緊急援助、環境保全などのボランティア活動に参加してきたが、ボランティアとして集まる人たちに対しこういう高圧的な言い方をするところはなかった。このため強く違和感を感じ、陰で悪く言ったり黙って離れるよりもまずは、と中心メンバーに対してやMLでこの手の違和感を伝えたことがある。
その後、民主党大勝の選挙か何かのとき、TVの選挙報道を見ながら、ああ、ここのボランティアに対する対応は選挙ボランティア文化なのではないか、と気がついた。グループはもともとある政治家の政治団体から始まっている(現在は政治とは無関係)。選挙ボラなら、滅私奉公で頑張るのが当然視される風潮だろうし政治家先生が落ちたら「ボラが悪い!」という叱責もありえるしそれを受け入れる土壌もあるのだろう。事務局長はじめ中心メンバーは、個人的にはさばさばした使命感のある人たちで悪印象はない。ただ文化が違う。その状況が当然の中でやってきた人たちには、私がガアガア違和感を伝えても理解できないのだろう。逆にこちらが選挙ボラ型のひたすら尽くす感じが理解できないのと同様に。
もう一つ思い出がある。苦労して取材したテープを届けに事務所へ行ったときのこと、政治家時代からの年配ボランティアが事務所番だった。彼女はありがとうもご苦労様も一言もなく、あ、その辺に置いといて、という感じだったので、ここは一体どういうところなのだろう、と内心不審に思った。最低限必要な会話、礼儀、対応、というものがない。こういう対応だと、もう二度とやるもんか、と思う人も出てくるのではないかと感じた。
今思うに、彼女にとって事務所は今でも政治家事務所、選挙事務所の感覚で、証言集めは政治家の始めたプロジェクトの一つに過ぎなかっただけだろう。ただ、事務所の誰かが確実に受け取った感じでなかったので、その後中心メンバーから受領したという連絡がメールなどであるかと思ったがない。これ、てかなり不安(テープがどこかへ埋もれてしまわないかなど)。通常のビジネスならこうしたケースで受領確認なしはありえないし、NGOですらありえない気がする。
代わりに彼女は、一人でいると暇なのよね、と問わず語りに自分の話を始めた(つまり根はきさくで悪い人ではない)。以前、A区に住んでいた頃立候補したことがある、でもだめだった、というもので、A区によい思い出はないという。出身も現在の住まいもA区ではない。つまり落下傘なのだが、A区地元の私としては、きらいな地のために立候補するのもどうなのかなあ(落選したから嫌いになったのかもしれないが)、また、当時このことを知っていたとしても、彼女には入れなかったろう、と考えた(彼女自身は悪い人ではないのだが)。その後立候補していない、ということは、やはり数合わせで、本気で政治家になりたかったわけでもないのだろうと考える。思うに、何とかチルドレンと呼ばれる人たちも、この手の人が多いのだろう。まあ、採決の数合わせだからそれでもよいのかもしれないが。そういえば、農業関連で某出版社のパーティに参加していた頃、日本新党ブームで当選した女性がハイになって話していたことがあった。出版社社長が後押ししているカナダ人女性も彼女を応援して一緒に自転車で回った云々、その後ブームが去り、次の選挙は大変ですとその女性は訴えていた。その後落選したがどうなったか、民主党ブームで大量当選した人たちも今大変だろう。
そういえば、その大きな集会準備に関わった年のこと、個人的にここもよいのでは、と飛び込みでビラをおかせてもらったところがある。事務所でその報告をしていると、中心メンバーの男性が「ボクはここの館長と友達です」と言った。彼はよく自分は誰某と知り合いだ、名刺を交換したと言うところがあるので(その割に自分では動かないじゃん?)、いい加減うんざりして「だったら自分で行けば?お友達なんでしょ」と内心思った。その翌年(つまり集会準備に関わらなかった年)、事務局からそこへビラをおいてくれないかと頼まれたが、断った。よっぽどXXさんがあそこの館長とお友達だと自慢していたからXXさんが行けばいいじゃん、と言おうかと思ったが、無駄に軋轢生じさせてエネルギー浪費するのも面倒なので「郵送したら?」云々テキトーにごまかした。別に嫌味は言われなかったが、頼んだ彼女は関係ないし、すげなくし過ぎてちょっと悪かったかなあ、とあとで少し思った。
最初に書いたエピソードのボランティアは、「ここを辞めることも考えたが、自分は体験談を聞きたい。自分がやりたいからやる、人の思惑や態度はもうどうでもいい、と割り切ることにした」と言った。
私も同様に考えている。ボラなのだからやれること、やりたいことをやる。それ以上はない。事務局にいろいろ文句を言ったとき、DVD作りの負担についても言及したことがある。取材者へは金銭でのお礼の代わりに取材内容をDVDでフィードバックする、という前提がある。が人出不足でやっていないし、やる人もいない。それで、自分の取材分については自己責任で作成して渡している。しかし事務局側はそれに対する謝意だのねぎらいだのは一言もなく、当然、という感じで受け取るのでいい加減嫌気がさしていた。一方、そういう約束で取材しているのだから、フィードバックするのが当然、しない方が一種の詐欺だと個人的には思っている(つまり事務局には疑問があるが、取材対象者には罪はない。そして彼らはDVDを楽しみにしていることが多い)。だから取材だけしてフィードバックしない他のボラや、それを許す事務局にも疑問を感じていたし不公平感があった。
事務局は総体的に政治的に判断する。人手が足りない今、体験者がこの世を去ってしまう前に、できるだけ証言を集めることが先決だ、という判断はわかる。でも取材対象者も年々年老いてDVDを目にする前にこの世を去ってゆく。数集めが優先でお礼が後回し、という感覚が好きになれない。また、沖縄など”うるさい”ところには先にDVDを作る、ということがあった(そのお蔭で作り方を学べた面もあるのだが)。政治的判断でゆくと、うるさいところは先、重要な人物は先、というのはわかる。でも沖縄だろうが在日だろうが台湾だろうが日本人だろうが和人だろうがアイヌ民族だろうが、DVDを楽しみにしている人は楽しみにしている(中には稀にいらない、という人もいるが)、それに変わりはない。うるさいから重要だから濃い体験だから先、おとなしいから普通だから後、という感覚も好きになれない。
そこで、自分のテーマで自ら見つけ取材した人には責任持って今後も自分でフィードバックする、グループからの依頼については作成しない、そちらでやってね、ということにした。そのほうがこちらも精神衛生上良い。私が文句言った後、DVD作成を買って出る人が現れたと聞いたので、良かった、というかそれが当然だろ、そうでなくちゃおかしいだろ、と思ったのだが、そう伝えてきた中心メンバーはなぜか「あなたにとっては複雑な思いかもしれませんが」と言った。なぜだろう?というか気にするべき点、真に問題とすべき点を取り違えていないか?しかし、先の相談してきたボランティアによれば(その人は私よりもグループとの関わりが深い)「今だって誰も作ってないよ、誰もそんなことやってない、作成担当の人もいない」と言った。実は時折、取材もグループの名前を出さず、個人でやったほうが楽だな、と感じることがままある。グループ名を出すと、まずはその説明から始めなければならないからだ。またグループがらみにすると、たいてい取材費出てるんでしょ、これが仕事?という対応になる。全額自腹なので、このへんも不快を感じる要因になる(実は自腹でない人やケースもあり、このへんも曖昧で不透明感、不公平感の原因になっている)。
個人なら相手の対応もいろいろ変わってくるからだ。どうしても人が集まると、他人同士だから小異はある。小異を気にしすぎると際限なく分裂してゆく。大同が一致するなら小異は気にしないほうがよい、と言っていたのは確か湯浅誠だったと思うが、そのとおりと思う。が、なかなかむつかしい。
改憲関連
雑感−時事編
最近のメディア
雑感−時事編
台湾ビジネスマンの話
雑感−中国/韓国編
- 2013.8.23
選挙ボランティア2
前回(2013年7月版:上)の活東庵について、いくつか反響があったので補足します。おそらく関係者もここを見ていると思うので、グループが途中で尻すぼみ消滅せず長く続くためにもあえて苦言を書いておきます。
ボランティアなのに”やる気あるのか”と非難されたと嘆く人は、当初このグループを辞めることも考えたという。しかし、今では自分がやりたいからやると割り切ることにした、と続けている。
戦争絡みの聞き取りを行っている個人、集団は全国に多い。そうした証言をグループに吸い上げられないか、という話が内部であった。しかしこの、すべてグループに集めようという発想には、あまり賛同できない。
グループに参加したばかりの頃、XX(県名)支部と称するものがいくつかあった。でもほとんど活動実態のない状態で(数件取材実績のあるところもあったが)今では立ち消えに近い(中心メンバーは、対外的には今でも活動していると言うかもしれないが)。なぜ不活発で結局中心メンバーが地方を回り取材する形になったのか。
私は基本的にこの”吸い上げ方式”が不信感を招いたと考えている。以前、関西のある地域の支部だった人たちから「集めた証言を収めた後、どう使われるのか不安が残る」と言われたことがある。私はここは元々政治団体から始まっているが、個人的には今では政治とは無関係で政治利用されることはないと判断している、と答えた。だが彼らはその後離れていった。思うに、あの不満の中には、その後の利用云々だけでなく、苦労して集めた証言を一方的に吸い上げられ、集めた人々や地元には何の見返りもないことに対する不信感もあったのではないか、と今にして感じる。その元支部は地元紙だか地方局だか勤務の人が中心だった。自力で取材源を探し出せる取材力のある人ほど、このままでは利用されるだけ、という気持ちになるのではないか。取材ボラにもマスコミ関係勤務の人が何人かいたが、結局見なくなった(明確に退会はしていないかもしれないが)。
本当はこうした人々、支部の人たちを尊重し、自由に独立的にやれる形にしたほうがよかったのではないかと思う。つまり元テープは地元に残す、活用方法(上映会方式にするかネット配信にするか身元のわかる人のみ閲覧可にするかなど)は地元にまかせる。グループはどこに何があるかわかればよい状態とし、現物はなくてもよい。つまりネットワークつくりがメインとなる。何でもかんでも吸い上げられてしまうと、手元地元に残らない。数回やるうち、何のためにやっているんだろう、という疑問が必ず沸いてくる。(蛇足だが、アイヌの人たちを取材しているうち、なんでもかんでも和人研究者が吸い上げ持ち帰ってしまうことに対する反感が強いことを知り、同感し気がついた。このへんの事情については『フィールドワークという迷惑』という本に詳しい。)
グループの当初のチラシどおり、10万人の名もない市民が10万人分の証言を集めることが本当の目標なら、各自が証言をとり保有する結末で構わないはずで、むしろそのほうが当然なわけだ。
セキュリティ面から考えても、一元化し集中管理するよりも分散型のほうがよい(頑丈な倉庫を借りるという発想よりも)。一箇所に集めるというのは中央集権的ですらある。一方で、確かに元関西支部が懸念したように、グループには不透明部分が幾つかあるのも事実だ。個人的に、今の中心メンバーの熱意や動機については疑っていない。ただ、普段証言集めの活動には一切顔を出さない政治家時代からのシンパが、総会時には雛壇に並ぶなど組織に不透明部分が残る。またそうした総会時に、”XXの会”など下部組織(のようなもの)の宣言をよく行うが、実際には活動実態がなく対外的に喧伝するためだけのもの。このへんもいかにも政治団体っぽいというか、国際協力・災害支援・環境問題系畑の長い身から見ると、あざといというか、不誠実な印象を受ける。さらに事務所経費は特定の中心メンバー二人が生活費を兼ねて負担している形に近いと推測され、そのあたりも良くも悪くも問題の種になる可能性がある。収集内容がセンシティブなものだけに、今後もし一種乗っ取られた形になった場合どうなるのか、不安がないわけではない。
証言しようとする老人を家族が止める、という状況への不満をグループから聞くが、それはやはり家族にとって心配、懸念があるからそうなるのであり、それを一概に責める気にはなれない。聞き取り、取材、フィールドワークには信頼関係が不可欠で、単に相手を自分の目的のために利用するだけ、という態度は透けて見えるし拒否される。またグループは、右も左もどのような意見の人の話も編集やカットをせずそのまま残す方針にしているが(この点は高く評価している)、一般的にはグループは左派と見られており実際そのとおりなので、軍歌祭などに出るようなタイプの人たちからは「どうせ最後に必ず”あの戦争は間違いだった”と言わなきゃならないんでしょ」と言われる。このへんも、自由に取材をしにくい足枷となる。戦争反対はよいが、最初から結論ありきの取材ほどつまらないものはない。実際行ってみると予想と随分違っていた、それも実際フィールドワークに出ることの醍醐味の一つなのだから。
消費革命/亀山モデルとサムスン
雑感−時事編
道徳倫理と生命倫理/動物の老後
雑感−時事編
最近読んだ本から−『ピダハン』
読書/映画感想
- 2014.2.23
五輪報道の違和感
近年TV中継でオリンピックをあまり見なくなった。若い頃は日本選手が出ていなくても、大回転や滑降など面白くて見ていたのに。年取ったなあ、と思いつつ、それでもニュースや報道番組は見るし新聞報道は読む、雑誌タイトルは目に入る。そこで、今回の五輪報道、ちょっと違和感があった。
まず女子フィギュアの金メダル候補選手がSPで出遅れ、フリーで挽回した状況が美談のように報じられている点。復活、すごい、と。しかし彼女は6位。一方、同じく金メダル候補だった女子ジャンプ選手に対しては、メダルを取れなかったことに対するがっかり感が漂っていた。彼女は4位。このほか、スピードスケートのメダル候補男子選手がメダルを取れなかったことに対しても、バッシングはなかったもののがっかり感はあった。彼らは5位と6位。本人たちもそれを意識してか、飛行機のチケットがエコノミーでなかったことに対して「飛行機代は返します」という発言をしていた。つまりそう言わせる雰囲気があったことになる。
フリーでの復活が見事、といっても、フリーで一位だったわけでもない。つまりSPでそこそこにつけてもメダルはギリギリ取れたか逃したかくらいだったはず。
さらに同選手が母親を亡くしたことについて何度も新聞TVで苦境を乗り越えた話として報じられるのも不思議だ。世界選手権優勝経験のある某選手は、子供の頃父親を交通事故で亡くしている。幼少期、しかも大黒柱なので客観的にはこのほうが大変だったと思う。ほかにも親を亡くしたり片親家庭のスポーツ選手は多いが。
また、かつてアイドルだったカーリング選手が母親になって現役復帰すると”カーママ”と好意的に紹介され旗手にも選ばれる。一方、世界選手権優勝経験のある選手は、同じく母親になったのにバッシングされる。結婚しているか未婚かの違いのためなのか。同じことなのに一方は称えられ一方はバッシングを受ける。こうした差(私から見れば”差別”)が、昔からどうしても好きになれない。違和感と不公平感を覚える。会社の同僚(特にその当時のオバサンたち)は、それを”人徳があるかないかよ”と当然視してしていたが。
金メダル候補と勝手に持ち上げた事に対する、マスコミ自身の罪滅ぼし感覚がこうした報道になっているのか、と勘繰りたくなるが、それなら女子ジャンプ選手に対しても同じはず。感動を強要されているようで好きになれない。6位は6位だし、それなら4位は4位、5位は5位のはず。6位は立派なら4位も5位も立派なはず。航空チケット代返す必要など、まったくない。これは、例の佐村某の偽作曲家騒動にも通じるものがある。病気がどうだの、本筋とは関係ないところで感動させる話にはどうでもいいだろ、と思う。結局雰囲気の問題なので、例の森元首相の”大事なときにいつもこける”発言も、フィギュア選手についてではなくスピードスケートのメダル候補あたりに対してだったなら、バッシングされなかったろうと思う。まあ、回りが擁護しない人ならきつく言ってもいい、というのも変な話で”差別”だが。
試合見ていないからではないかと言われたので(2/24) この試合、SPは見ていないがフリーは途中8位あたりまで見ていた。なのでメダル候補選手のフリーも見ていたのだが、うーん、結構微妙かも・・・という感じだった。解説者がトリプルアクセルについて、「これは・・・認定してほしいですね」そしてひょっとして回転不足をとられ70%になるかもしれない、ダウングレードはないだろうと言っていた。点数が出たとき「認定されましたね」。その後ジャンプの回転をジャッジする人がロシア人だったから2つ回転不足をとられた云々の報道を見たが、いや、普通に解説者も微妙かなあ、という感じだったんだけど、と思った。その後今季自己最高得点を出す選手がちらほら出て、この大会の採点はバブリーなのではないかとちょっと思った。
バッシング覚悟の書き方になるが、SPで大コケしたことが逆に幸いして、フリーの感動につながった気がする。そしてなぜ大コケしたかと言えば・・・、メダル圏内かどうかすら微妙かも、と感じていたのではないか。女子ジャンプ選手やフィギュア選手に「絶対金メダルですよね」と言っていたインタビュアーもいたので気の毒だったし、プレッシャーで力を出せなかったのは仕方ない。別に大コケしたことやフリーは3位くらいだったこと自体はどうでもいいのだが、感動物語にして流されるのはちょっと勘弁。こうした報道の仕方が続くなら新聞はともかく、テレビはもう見ないほうがいいかもと思った(佐村某のこともあるので。この人物については騒動になるまで知らなかったが、テレビの影響強そうな事件なので)。(ここまで2/24追記)キム・ヨナが五輪の年だけ出てきたことに対して、嫌がらせのように出てきて、Mちゃんがかわいそう、と怒っているオバサンがいると知人から聞いた。でもこれは逆ではないかと思った。
フィギュアはものすごくお金がかかる。かつてフィギュアをやっていた知人から、渡部絵美(古いなあ・・・)はあそこまでいくのに2億かかったと聞いた記憶がある。タラソワ、モロゾフクラスだとコーチ代が年間2000万、村主がスポンサーを募集したとき年間数千万かかると明かし、プルシェンコもスポンサーがつけばいつでも復帰できる、コーチ代リンク代衣装代等すべてで50万ドルかかると発言したとか。一般家庭の子は、才能を惜しむコーチが自腹切るか大企業に就職するかスポンサー探すことになる。
あくまで個人的な推測だが、五輪の合間は休止し五輪イヤーだけ出てくる選手は、休養して気分転換を図っていたというより、経済的理由が大きいケースもあるのではないかと考える。その間コーチ代を払わず遠征費用もかからない。もちろん、実力が低下するというリスクはある。よほど自信と、自分でやるという自分への厳しさがなければできない。キムヨナも完全に休んでいたのではなく、練習は続けていたという。
今回金を取った男子選手が、ブライアン・オーサーは自信をもたせるのがうまい、何より彼自身がキムヨナが金メダルを取ったことで自分に自信を持ったようだ、と冷めた口調で語っていた。ということは、さらに勝手な憶測だが、キムヨナのコーチになった時点ではコーチ料は安かったのではないかと考える。前回大会で優勝後もめたというのは、そのへんのこともあったのではないかと。日本の女子2選手はT社に入った後、有名コーチについて一人は五輪金、一人は世界選手権優勝と結果を出した。一人は女子初の4回転ジャンパーでジュニア時代人気があったが、高校の頃低迷、その頃の五輪だか選手権だかの試合を見たとき、ひとり(申し訳ないが)ダサイ衣装で、なんでこんなセンスのない服着ているんだろうと思った。その後有名デザイナーに頼むと1着数十万から百万単位でかかり、海外でもお金のない選手は自作する人もいる(国内では家族の手縫い)と聞き、ひょっとして彼女も当時お金かけられなかったのではと思った。その後T社に入り有名コーチにつき衣装も見違えるようになり復活したのを見ると、才能努力はもちろんだが、お金をかけられるかどうかも大きい競技だとつくづく感じた。おそらく4,5,6位あたりでやめていった選手の中には、自分だってコーチや衣装にお金かけられていれば、と内心思っている人が結構いそうな気がする。
ガラスの仮面でいえば、Mちゃんが姫川亜弓でキム・ヨナが北島マヤなのではと思う。
NHK会長
時事/戦争関連
つれづれの思い
雑感−中国/韓国編
- 2014.5.15
つれづれの思い その2
雑感−中国/韓国編
中国はもはやかつての中国ではない
雑感−中国/韓国編
九条問題の不思議
雑感−時事/戦争)
ヴァンデ戦争
雑感−歴史/地方/農業編
- 2014.9.28
朝日新聞誤報問題
雑感−時事戦争
- 2015.3.29
前回書いてからから半年たってしまった。書きたいことはいろいろあるが、力の入る話題は次回に回すとして、まずは以前から気になっていた話題で書きそびれていたことから片付けてゆこうと思う。古いネタもありますが・・・。
ファーイースタン・エコノミック・レビュー
だいぶ古い話になるが、2009年12月、ファーイースタン・エコノミック・レビューが廃刊した。朝日新聞でも「風」欄に、「誇りを胸に消えた英字誌」と廃刊を惜しむ署名入り記事が当時載った。今、アジアのさまざまな国地域についてまんべんなく網羅し、偏向なく書かれた良質の記事を載せる媒体(メディア)が存在しない。ここ活東庵でも以前は、レビュー誌の記事を元に考えたことをときどき書いたものだ。
ネット時代になり雑誌全体が厳しい時代になったこと、アジアの主役言語が英語から中国語に交代したこと、などが経営悪化の要因としてあげられるが、直接要因はやはり香港が中国に返還されたことにある。レビュー誌は、つい先日亡くなったリー・クアンユー氏一族の重要ポスト独占について批判し訴訟を起こされていたが、最後の編集長レストール氏は朝日のインタビューに対し、
「批判を受け入れないリー氏の考えは間違っている」
と言い切った。そして”権力に屈しないジャーナリズムの歴史と誇りを胸に、レビュー誌はニューススタンドから消えた”。
中国語の媒体は、プロパガンダ、大衆を一方向に導くことを主目的とし、真実を伝えることを目的としていない。メディアの目的がまったく異なっている。中国にも真実や不正を追究する人はいるが、現体制になって締め付けは強まっている。ちょうどリー氏が亡くなり、亡くなればたいていの人は”いい人”になる。食べられれば豊かになれば強権不正少数者の涙自分たちの所属カテゴリーと異なる人々(たとえば他国)の犠牲は目をつぶる、というようであれば、戦前の日本の言論統制とそれに乗った人々を批判する資格はない。
最近見た映画から−『モンサントの不自然な食べもの』
雑感−読書映画感想
最近見た映画から−『海角七号』
雑感−読書映画感想
最近見た映画から−『無言歌』
雑感−読書映画感想
最近読んだ本から−『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』 宮本常一・安渓遊地著 みずのわ出版
雑感−読書映画感想
手紙
雑感−よもやま話
説明責任を果たせ
昨夏会った友人から聞いた話なので遅れた話題になるが、教育に関わる友人から、最近何かというと「説明責任を果たせ」という保護者が増え教育現場で困っていると聞いた。
たとえば幼稚園でスモックや鞄を引っ掛けるフックが壁に並んでおり、園児Aの掛けたスモックがたまたま隣の園児Bのフックの上にもちょっと掛かってしまっていた。このため園児Bは自分の鞄やスモックを自分のフックに掛けられなかった。このことについて、後から園児Bの親が「園児Aのスモックがうちの子のフックにも掛かっていたせいでうちの子が鞄をかけられなかった。うちの子はどうなってもいいのか、どうしてくれるんだ、説明責任を果たせ」と怒りの電話をかけてきたという。単純に、1.その場でB君が自分でA君のスモックを払いのけて鞄をかけるか、2.その場でB君が先生に言ってスモックをよけてもらい鞄をかければ済む問題という気がするが、その場で解決されずに後から「どうしてくれるんだ、説明責任を果たせ」と騒がれ大事になることが多くなったという。万事その調子なので、さまざまなケースを想定して説明マニュアルを作る必要が出て、ますます事務作業量が増えているという。
似たような話はツアー旅行の添乗員やガイドからも聞いたことがある。何か不備や不満があったら現地でその場で言ってほしい、その場で解決できることがほとんどです、その場での解決にご協力お願いします、と規約に書いたりもしているという。その場では不満を言わずに、後からブログに書いたり社長に直接抗議メールや手紙を書く人が増えているためらしい。この話を聞いて以来、「説明責任を果たせ」という言葉が妙に気になっている。今まで自分の仕事や活動範囲では耳にしたことのない言葉だったが、気をつけているとニュースなどでもしょっちゅう、「説明責任を果たせ」と国会で追及したり企業を追求したりしている様子が流れている。説明責任、とはどういうことなのだろう?納得のゆく説明が得られれば満足できるのだろうか?
Windows XP
雑感−パソコン
官僚も大変
とある新年会で林業関係の話を聞く機会があった。関東地方のある山主さんいわく、今九州で中国が杉、韓国が桧、台湾が杉と桧を買っている。かつては杉桧は25−35年で回していたが、ここしばらく売れなかったから40−50年くらいに太っている、売れなかったのが逆にいい、ここへきて海外(アジア)に売れていると言う。
後から遅れて来たT大出身林野庁の若者にこの話をしてみると、「今中国の買い圧力がすごくて値段を決めるのが日本ではなく中国になりつつある。じき日本が望む値段で外材を買えなくなるときが来る。売れるからと切り過ぎると日本国内で使えなくなるから、国内需要を守らなければいけない」と言った。
なるほど、さすが官僚の考え方と思い「官僚はいろいろ想定してコントロールする必要があるから大変ですね。企業も一般人も利益や欲望から勝手に動くから」と言うとそうなんだ大変だと言った。近所にも官僚は嫌いだ、というおじさんがいて、とぼやいた。
文系学部廃止案
雑感−時事戦争
- 2015.6.14
まずは最近の話題について
子宮頸がんワクチン
子宮頸がんワクチンの副作用について、気のせいだ、いや確かにあると問題になっているが、気になる話を聞いた。知人の若い女性が最近手先が痺れるように痛くて困ると言う。スマホを指先でシュッシュッとやることすら難しくなってきて、今ではペンを持って画面スクロールをしているのだそうだ。彼女いわく、どうも子宮頸がんワクチンを受けてからそうなったとのことで、医療関係の仕事についている人でもあり、知識ない人があてずっぽうに言っていることとも思えない。
新聞などで問題になっているのは学校に行けなくなるなど重篤な副作用の起きているケースだが、ひょっとしたらこの程度の軽微な、それ故黙って騒がない問題が、結構あちこちで起きているのではないか、という気がする。五輪スタジアム
公募で選ばれた設計が問題になっているが、構造のことはともかく、金がかかりすぎるのが問題。舛添都知事の言っていることは正しい。これ以上税金を使ってほしくない。こんなことに使うなら税金払いたくない。歴史的にみて大国はたいがい財政悪化の状態で滅んでいるが、財政再建のほうが五輪・軍事よりも最優先のはず。
立派なスタジアムを持つシンガポールがどうこういうが、SGでやるそんな有名な大会あったっけ?金がかかり維持も大変な一過性の箱ばかり造る五輪なんで”やめちまえ”、と思う。視聴率とれる競技を採用とか、視聴率とれる選手を残せとか逸脱しており末期状態。感動とか、五輪やスポーツ以外にもいろいろあるじゃん。大金投じられなくても頑張っている分野いろいろあるよ。各競技団体のワールドカップで十分。憲法解釈
9条も9条派も嫌いだが、憲法解釈で集団的自衛権を立法化しようというのは絶対よくない。やるなら憲法改正が先。解釈でどうにでもしようとするなら、今後すべてがなし崩しになり、法治が崩れてしまう。
アメリカのいいなり中国のいいなり(日米同盟がらみ歴史認識がらみで)でない、軍事外交について独自に自ら決められる状態を望む。誰かの顔色をうかがいびくびくする状態、誰かの奴隷になるのは嫌だ。年金機構へのサイバー攻撃
五輪スタジアムの予算オーバー問題も原発事故もそうですが、誰か責任とっていますか?開始する運用するはいいけれど、事故が起きたら責任はとらない税金は投入する、という状態が続くならば、税金納める気も、協力したり言うこと聞く気もなくなってくるのですが。
マイナンバー制度も大丈夫と言っていますが、もしサイバー攻撃受けて個人情報が漏れ被害を受けたら、大丈夫と言って推進した人は大丈夫でなかった責任をちゃんととるのでしょうか。推進はかまわないが、いざ何かおきたらきちんと責任をとれるシステムになっている行政、官僚機構でなければ協力する気になれない。
最近の沈黙について
このところ、ニュースを見ても新聞を読んでも、今マスコミで騒いでいるということは何か裏の意図があるのだろう、と考えるようになった。この状態は精神を不活性化する、つまり何を見ても反応する気になれない。世の中で起きていることについて、正直ある意味どうでもいいやと感じるようになる。結果、こうしたサイトで意見を言う気も失せる。
年始に騒がしかったイスラム国人質報道。自己責任バッシングを受けた3人拘束のときや、殺害されたにも関わらず完全スルー状態だったK氏のときと、あきらかに扱いが異なる。いかにいい人だったかこれでもかと報道され経過も詳しく、騒ぎすぎの違和感。何か国の意図でも働いているのではと思われた。
そう感じた人は多いようで、当時もこの違いに言及する人が結構いた。サイト更新頻度が減った理由のもう一つに、最近リベラルの限界もしくは問題点を感じるようになったこともある。まだうまく言語化できないのだが、なんとか書いてみると:
フランスの週刊誌編集部へのテロのとき、教祖への揶揄はまずいという批判、”私はXX”という運動、どちらもどうでもいい気がした。エスプリが仏文化ならそれはそれでいいではないか。別にイスラム圏の国の人や日本人に読ませようとしているわけでもない。彼等自身の内輪での見方考え方意見。それもいけないのか。逆にフランス人にこうしろと要求する権利があるのか、日本人やイスラムの人に。原発の風刺漫画が不快なら不快だと伝えるのは自由だが、一方、読まなきゃいいと思うし、相手に強要することはできない。
そもそも不思議に思うのは、リベラル系は、フランスでイスラム女性がスカーフを被ることを禁じる(嫌がる)傾向があることを批判的に論じるが、イスラム教徒以外の女性がイランやサウジに入るときスカーフ着用を要求されることを問題視しない。相互主義でゆくなら、スカーフ着用習慣の人のスカーフ不着用国での着用を認めるなら、スカーフ不着用習慣の人のスカーフ着用国でのスカーフ不着用を認めるのが筋だ(本人の習慣を優先)。あるいは、その逆、当地の習慣を優先させる方向でもよいのだが、要するにヴァイスヴァーサでないと。こう書くと必ず、いやフランスのイスラムは移民が多く普段の生活に関わる、イランサウジへ行く人はビジネスか旅行の一過性だから対等には論じられないなどと言う人が出るが、こうしたあたりがリベラル的考えに黙らされる側の不満不公平感内なる反発を助長させ、ヘイトスピーチなどにつながってゆくのではないかと最近感じる。リベラル的思考回路がすべて駄目というのではないが、リベラル側の問題点の洗い出しと論理の組みなおしが必要な時期に来ている気がする。
今まではいわゆる”途上国””第三世界”と”開発国”の差が大きく、程度問題の観点から強いほうを叩き譲歩を求める態度が支配的だったと思うが、今や多極化している。つまり従来弱いとされた側の人々にも、他文化の人々と交流するなら、それなりに歩み寄る必要があると考える段階に来ている。でもこの点を問題にふまえた記事や意見はなかなか見当たらない。長年にわたり思考回路が固定されてくると徐々にタブー(のような)領域ができあがってきて、批判批評精神が弱ってくる気がする。それを払拭しようとすると、いきなりヘイトスピーチのような一歩の譲歩も理解もない反応になっている。
戦争は悲惨というが:その1
戦争体験者の話を聞いていると、ときどき非常に逞しい、感動すら覚える自立した人に会う。最初に遭遇したのは、ある沖縄の離島の古老だった。戦争がいい悪いの類は語らず、戦場と戦争の世紀を生き抜いた生き様を、沖縄本島の人とはまた違うシマンチュとしての誇りを交えながら、ときにユーモラスに淡々と語った。次に遭遇したのは、台湾の人や山岳民族だった。彼らも戦後平和主義的な主張は一切せず、自分の言葉で戦乱と政治に翻弄される中生き抜いた物語を語った。
戦争体験を聞き取る側は、基本的には戦争反対の人が多くその目的で体験談を残そうとしている人がほとんどだ。でも聞き取りを重ねるにつれ、戦争体験を語る人びとの話は、実は単純に戦争はいけない戦争は悲惨だに収斂されない、その生き様も考えも、実に豊穣で多様であることに気づかされる。
それが、イベントや総括のような形でこうした体験談を利用する段になると、キャッチーな戦争悲惨さを語る部分がフューチャーされ表に喧伝される。最近(いや実はもっと前から)、こうした”戦争はいけない”目的にかなう”悲惨な”体験を求める態度に疑問を感じている。(戦争がいいと言いたいのかと誤解を招きそうな書き方をしていると自分でも思うが、)これにより何かが抜け落ちてゆく。民俗学的アプローチとメッセージを持つ運動としてのアプローチの違いかもしれないのだとしても。ただ個人的には、運動メッセージの寿命は案外短いと思っている。
乱世に強い人
ある満州出身の人の話を聞き、乱世に強いタイプの人間というのが、確実に存在するな、と思った。敗戦後の混乱した満州でも引き揚げ後の日本でも、お金に困ったことはなかったと豪語する。ロシア語のできる人だったので通訳として重用されたというが、逆に同じ学校出身の人はロシア語ができるが故にスパイ扱いされたりラーゲリに送られたり行方不明になっている人も多い。相手をうまく味方につけられる才覚のある人なのだろう。
満州育ちで家族も満州にいた。自分は通訳でもありソ連軍に徴用されなかったが親父たちは徴用され肉体労働で大変だった、自分は日本を知らないしこのまま満州に住むつもりだったが、親父たちが引き揚げたと聞いたので見知らぬ日本に引き揚げる気になった、自分の引揚げは順調だったが話を聞くと親父たちは大変だった、順調にいっていないという。父の故郷に戻ると、ある人が海辺から魚を運び売るのを見てこれはいけるとまねて大儲けした、というから商才もあったのだろう。
その後社会が落ち着いてくると日ソ貿易の友好商社に入り、さらにそこから大手商社に入ってモスクワ支局長となり他の大手商社に比べダントツの売り上げを誇った(ある商社の知り合いに裏取り済み、オーバーな嘘ではない)。余談だが、当時各商社のモスクワ支局長が集まると満州にあった同校出身者ばかりだったという。驚きなのは、敗戦後のソ連軍の横暴を実際見ているにもかかわらず、ロシア人を嫌いにならなかったこと。ロシア人は人がいい、アメリカ人に似ている、気持ちのいい人が多い、深刻な意地悪のできる人たちじゃない、と言う。ソ連兵に物を奪われたり家族が被害にあったりしなかったのか聞くと、彼の家にも来た、姉なんかは天井に隠れていた、あのときのソ連兵は田舎者、腕中に時計はめてヤーヤーやってる、ロシア語しゃべると面倒だから適当にあしらった、しばらく外に出られなかったがそういう混乱した時期はいっときだけ、一ヶ月もすれば落ち着いてくるので外に出られるようになる、と言った(このへんの情勢の見方も、一般的な在留邦人の体験談と考え方が異なる)。
逆に中国人は嫌いなようで、信用できない人たちだと言う。敗戦後、学校は日系満系(中国人)などがいたが、満系の学生たちから追い出された、その直後満人(中国人)の暴民が学校に略奪に入ってきた、と言う。そして自分たち日系を追い出した満系学生らの顔が忘れられない、一緒に学んだ仲間なのにと言う。
後日話の再確認で再び会ったとき、この話はひょっとして中国人学生らが周囲の住民の略奪から日系学生を守るために追い出したのではないかと聞くと、「僕もそうかもしれないとも考えたけどね、いや、あの顔は違う」と言った。ニュアンスはわからないので彼の直感が正しい可能性は高いが、それでも追い出された直後に暴民が入ってきたというタイミングは気になる。普通に説得すると気が短く血気にはやりやすい日本人はすぐ「いや、逃げるもんか、戦ってやる」などとなるので鬼の顔で追い出した可能性も結構高いのではと見ている(乱闘になって自分たちまでもが被害を蒙らないためにも。ちなみに日本人は気が短い、怒りっぽいと中華系から見られている話はよく聞く)。満州国軍がらみでも、前日に満系兵士が来てそれとなく逃げるよう示唆してくれたので助かった体験談がある。直接助けると自分も危険(裏切りになるため)なので直裁には言わない。
その人の気質によって民族の相性があるな、とときどき感じる。なぜかスペインが好きな人(そして住んでしまう)、中国人があう人、ロシア人があう人等々いる。相手民族側にも当然日本人その他に対する相性がある。相手の思考回路が理解できるか理解しがたいかの違いは、同じ日本人同士でもある。
中国その1
1年ほど前だったか、TVで日本のとあるカリスマ創業者が今中国で大人気という報道を見た。武道館のような大会場で講演する際、彼を迎える中国人聴衆(若いビジネスマン風男性が大半)が一斉に起立し、直立不動の姿勢で「XXシエンション(先生)!ワンスエイ(万歳)!」と声をそろえて叫ぶ。中国人主催者側がそうした演出をしているようだった。
これを見てすごいな(正直怖いな)、こういう演出をされたらされた方も絶対権力を錯覚しかねないだろうな、と感じた。中国は上に立つ者が(当初は弱者の味方として立ち上がっても)いずれ皇帝になってしまう、という嘆きを耳にする。これを見ると、”皇帝”を求めるのは当人だけでなくむしろ中国人大衆自身、と強く感じた。とても日本人の発想ではなく本人の希望ではないだろうから、こうした演出をやりたがる中国人がおり、それに喜んで従順に従う大多数がいる。大勢で一斉に忠誠を誓う陶酔感が好きなのかもしれない。一方、帝力いずくんぞ、の自立した大衆の印象も強い。よく敗戦時、満州で玉音放送の直後、するすると青天白日旗があがった、いつのまに準備していたのかとぞっとした、という日本人談を聞くが、中国人自身の話を聞いたり読むと、そう特別なことという印象でもない。要するに現政権を信用していないので、関連のあるすべての旗を準備する。場合によっては昼間は青天白日旗、夜は赤旗を掲げたりする(共産ゲリラは夜やってくる)。ソ連軍が入ってくればソ連の旗を揚げる。(よく”裏切られたと感じた”という感想も聞くが、裏切るという感覚でもないと思う。)ある満州引揚者の女性は、「中国人は内心はともかく表面は強い側に迎合するのがうまいというか慣れている。でも日本人は下手に抵抗するでしょ。それでやられる」と言った。
日本の敗戦も事前に知っていたが、何かすごい地下情報網があったというよりも、単に重慶放送を聴いていたからアメリカの放送を聞いていたから数日前に日本のポツダム宣言受諾を知っていた、という話が多い。つまり満州在留日本人も重慶放送やアメリカの放送を聞いていれば、普通に得られた情報だったわけだ。それを他の放送を聴くのは禁止で(日本国内でも非国民扱い)たいがいの日本人は従順なのでちゃんとそれを守っていただけなのだった(私の祖父は守らなかったけどね)。そして情報が入らず(特に物資が豊富で空襲などの予兆がほとんどなかった満州では)青天の霹靂の敗戦という事態となった。そちらのほうが、結果的によほど危険だったと思うのだが。余談だが、面白いのは満州国解体後、満州で一番信用があったのは日本の紙幣、次がなんと消滅したはずの満州国の紙幣だった(この話はときどき聞く、10月末のシベリアへ向け北上中も通用したという)。ソ連や国府軍中共軍の軍票を信用していない。ソ連の軍票など端から信用しない。戦後帰国して大学に入りなおしたとき、マルクス経済学教授が「貨幣は国家・権力の保護があって成立する」と言ったので、「滅亡した国の通貨がなぜ通用したのか説明してくれ」とその引揚げ日本人は言ったという。「信用ランクを決めるのは垢だらけの眼に一丁字もない満人たち。国家も権力も自分たちの生活の方便にすぎない。国家だ権力だと認めてやったのは俺たちだとするしたたかさ」と彼は言う。中国人はドライで現実的だ。
また、満州へのソ連侵攻問題だが、当初は中ソ友好条約に基づき3週間以内に撤退する話だった。それが中国共産党てこ入れの目的だったとの説もあるが、延期延期で居座りなかなか帰らない。日本人の被害が多く語られるが、中国人も(日本人と間違えられたとの説もあるが)被害にあっている。9月になると日本人とともに中国人も使役に徴用され、日本が(中国人労働者を使って)造った発電所工場その他満州の産業施設の40%が続々ソ連へ持ち去さられ40%が破壊される。民国政府が満州は中国領に復帰するから遺産は中国に帰属すると抗議するが、ソ連はソ連軍の戦利品と回答。1946年2月には重慶でソ連軍撤退を要求する学生デモが発生、3月民国政府もソ連に撤退を要求、3/10ソ連奉天から撤兵、4月にソ連軍の満州からの撤兵が完了した。現在ロシアは中国にとって友好国(に近い)のでこうした部分は歴史から削除され意識的に語られることはないが当時の記録に残っている。歴史はそのときの都合によってフューチャーする部分が変わる。さらに余談:当時満州にいた日本人に、中国人や朝鮮人の様子を聞いても「知らない」「そんなほかの人たちのことまで見ている余裕ない」「日本人は満人とは別のところに住んでいたからわからない」という人が多い。中国人や朝鮮系の人の手記を読むと、日本人の知らない複雑な状況が出てくる。朝鮮人も二鬼子(日本人が鬼子と呼ばれたため)と呼ばれ中国人から暴力を受けていたのを、彼らも日本軍国主義の被害者だと助けた話がある(中国人談)。戦後チフスなどの流行病が蔓延し大勢日本人が亡くなった話はよく聞くが、これも日本人に限った話ではなく満人部落がチフスで全滅したこともあった。当時満州全体、いや世界的にチフスやコレラが流行っていた。満州の日本人の死は(病気以外)集団自決が多く虐殺は少ない(葛根廟などなくはないが、これもシステマチックな虐殺というよりも自決が多い)が、白系ロシア人集落の中にはソ連軍によって抹殺された村がある。ロシア旧教徒の村だったロマノフカ村は、ソ連軍に16歳以上の男子全員を連れ去られ、残った人々は流浪の末アメリカオレゴン州に定着した。ソ連に戻った人々(連れ去られた人含む)は過酷な運命だったが、エリツィンのとき名誉回復されている(ハルビンツイ問題)。
戦後の食糧不足は有名だが、1945から1946は世界的に食糧生産がかなり落ちていたという。当然だろう、世界中で戦争やっていたのだから。それが各地での食糧不足、シベリア抑留含め大勢餓死に近い亡くなり方をする遠因になった。抑留者の行ったソ連も貧しかったし(戦前の日本の農村に比べてもソ連の農村のほうが貧しく驚いた話もよく聞く)、行った初年が世界的にひどかった。翌年から死者が減ったのは、初年で弱い人が淘汰されたという見方もあるが、食糧事情の好転もある。
中国その2
最近南シナ海問題が騒がしい。中国の対応を見ていると、今の中国は戦前の日本に似ていると感じる。国際社会から批判を浴びても、牽強付会して逆に周囲を責めるあたり、戦闘状況を事変と言ったり演習と言ったり、満州国を作った頃の日本にそっくりだ。情報統制の強化、人権派弁護士やNGO活動を行う人々の逮捕監禁が相次ぐ点もよく似ている。日本が侵略の事実を曲げ戦後秩序を変えようとしていると言うが、そもそも中国自身が戦後世界の枠組みを変えようとしている。最近の中華意識も(人による、威張らない中国人も多い。調子に乗りやすく威張りやすい日本人より民度が高いか)、戦前の日本人の威張り方に似たものがある(強国になるとどの民族も威張る)。
一方、中華民族が民主的でない人たちかというと、香港や台湾を見ても、今の日本人に比べはるかに自治意識や社会に対する意識の高い若者も多く、教育や社会状況の違いだけだという気がする。
戦争は勝っても負けても悲惨だとよく言われる。確かにそのとおりなのだが、勝っても負けても悲惨なら、戦勝国でも戦争は悲惨だから絶対にやってはいけないという話になりそうなものだ。しかしそうはならない。
以下、下手すると戦争を肯定しているのかと批判されやすいので上手な言語化が難しい内容だが、とりあえず書いてみる。
九条問題の不思議でも” 戦勝国でも戦死したり悲惨な状況はあるはずなのに、戦争放棄絶対平和はうたわれない。だからどんなに日本の体験者が「戦争は悲惨だ」と言い「戦争はいけない」と結論づけても、それはやはり負けたからの感想では、と思えてしまう”と書いたが、この根本的な疑問は今もある。日本の憲法9条を世界遺産に、という話がある。韓国などでもそうした活動を支援する団体があるが、それならなぜ、韓国でも戦争放棄の内容を持つ憲法を制定する運動をしないのだろうかと疑問に思う。
日本人の元兵士の感想によくある旧日本軍の軍隊批判の定番がいくつかあるが、旧日本軍独自の問題と、世界中の軍隊に関わる問題とに分かれる気がする。
1.たとえば兵隊は使い捨てだった、一銭五厘の命だった、という旧軍批判がある。朝鮮戦争時について、韓国軍将軍が興味深いことを書いている。国連軍の強力な火力を避け中国軍は山岳地帯を進んでくるが、わざわざ分断包囲されやすい谷沿いからくる。結果中国軍は谷底で殲滅されるが、これに懲りてもう谷底からは来るまいと思うとまたやってきて大損害を蒙る。無感動というか学習能力のない軍隊、と書く。陣地の前に地雷原と鉄条網を準備、迫撃砲や機関銃でカバーして中国軍を待ち受ける。ここまで固めればまさか正面からは突っ込むまいと思っていると、夜中にチャルメラや銅鑼を鳴らしガヤガヤ攻めてくる。どうしてわざわざ敵に知らせるようなことをするのかわからない、しかも障害処理をせず突撃してくる。「これは好餌」と猛射しても一切無頓着。中国兵は次々倒れるがこれで地雷原が無力化され鉄条網は死体の山で覆われ通路ができてしまう。最初は決死覚悟の断固たる攻撃に圧倒されたが、やがて彼らは硬直した組織で第一線の声がまったく反映されない、決死突撃も自発的はものではなく背後に督戦隊の銃口があるので兵士は前に進むしかない、とわかった。この話など、それこそ使い捨ての命の最たる話だが(地雷原を人で無力化の話はイランイラク戦争で子供の背後に銃口を向け歩かせた話が有名)、中国国内でこうした批判がなされた話は聞いたことがない。こう書くと、よくしたり顔で”中国では実情が報道されないから”と言う人がいるが、実際見聞きした中国軍元兵士も多いだろうし、戦死した兵士の親は実情は知らされずとも嘆いているだろう。口に出せない状況、勝利の話がフューチャーされる状況があるのだろうが、このように社会状況によって悲惨さが強調されるか勇敢さが強調されるかが変わってしまう。一銭五厘の命というのは、世界中であるのだ。美化されている英雄談の陰にも必ず存在する。でも言わない社会が多い。
同じく戦後満州で、国府軍と中共軍の内戦になったとき、共産党の兵士が数日分の食糧を持ち単独で戦う、食糧が尽きたら終わり、という戦い方をしていた、その勇気に感心したという日本人の証言を読んだ。この中共軍の兵士が数日分の食糧を持ち単独で潜入し撹乱する、食糧が尽きたら終わり、という話は朝鮮戦争でも韓国軍側の記録にある。これなんか一種の特攻だと思うのだが、特攻だと責められていない。しかしこの手の話はおそらく世界中の軍隊にあるに違いない。特攻は日本人特有のものと考える人もいるようだが、朝鮮戦争当時、韓国軍にも戦車への体当たり特攻の話があった(日本軍の影響かもしれないが)。特攻的考え方は世界中にあり、やっている。2.糧秣は現地調達、という方式を、「なんであんなことにしたのかねえ」と(おそらく当時の中国人民家から調達(略奪)したことに対するうしろめたさもあって)批判する話をときどき聞くが、以前もここに書いたが、これは旧日本軍が勝手に思いついたトンデモ作戦ではない。ナポレオンが始めた方式で当時は革命だった(行軍スピードが格段に上がった)。それまでの軍隊は御用商人を帯同していた。これはあくまで私の憶測だが、おそらく日中戦争は従来どおりのナポレオン以来世界標準の古いタイプの戦争だったのだろう。しかしアメリカは戦争方式をさらに進化させており、現地調達ではなく後方から大量に物資を前線に送るロジスティクス重視の方式に変えていた。航空機の重要性など、対米戦から戦争方式の転換がはじまっていたのだろう。
(余談だが、韓国軍将軍が面白い話を書いている。日本軍やドイツ軍には撃墜王と言われる一人で何機も打ち落とす空軍のエースがいた。アメリカにはいなかった。なぜならそういう人がいると呼び戻し、教官に据えたからだ。一人のエースがいるより、大勢の質のいいパイロットを養成するほうがいいという発想で、これを大量循環方式とよぶ。)
3.軍隊で殴られたビンタくらった話をよく聞く。軍隊の非人間性を物語る最たるパターンだが、これも以前ここに書いたが、いちがいに怒鳴ったり殴る側ばかりが悪いとも言いきれない場合もあったろうと思う。いじめ、うさばらしも蔓延していたので難しいところだが。アウトドア関係は危険が絡むと怒鳴ったり時に強引になるしかないケースが発生する。たとえば、林業ボランティアで、新人が倒れる木のそばでボーっと突っ立って見ていることがある。そうなる前に注意するよう務めるのだが。あらかじめ口で注意しても、何度か見ているうちに興奮して倒れるのを見ようと思わず寄ってゆく人がいる。あるいは、伐倒時ロープコントロールする際、手にロープを巻きつける人がいる。急に倒れると手をもっていかれるので危険でありやっていはいけないことなのだが、最初のうちは注意を覚えていても、習慣なのかいつのまにか忘れてロープを手に巻いている。リーダーは気づくと咄嗟なので思わず怒鳴る。間に合わなければ瞬時に突き倒すしかないこともありうる。チェーンソーの使い方を厳しく叱られた中高年男性は、あんな叱り方ない、XXさんは嫌いだとその人の出てくる回には来なくなった。でも本人が危険だったのでああするしかなかったと端から見ていてもわかった。言い方はあるかもしれないが、瞬時にそこまで求めても・・・。スポーツでも、特に団体競技の場合、穴になりかねない人がいるとイラっとくる。ましてや危険と隣り合わせ、生死に関わる軍隊ではその比ではないだろう。
よく同僚のもたもたしている人が殴られかわいそうだったと聞くが、もたもたされると本人も周りの人も危険、というのも大いにあったろう。このへん、国民皆兵のまずい点というか、特に大戦末期の老兵(30代だが軍隊では老兵)が召集で参加してくると、当人たちももともと嫌々だし兵隊向きでない人たちで慣れない肉体労働で大変だったろうが、迎える古参兵側も大変だったろうと思う。そうした話、特に古参兵側の話は、”戦争はいけない”パターンの聞き取りだとなかなか見えてこないのだが、ある人が「新兵さんが来る、ていうから皆で喜んでいたら全然使い物にならない自分たちより年配の人が来て参った、かえって負担がふえちゃった」という話を正直に話してくれたことがある。
大岡昇平の『俘虜記』にもこうある。
「私は若い現役の兵が好きである。私の中隊は私のような中年の補充兵が多かったが、私は十ヶ月彼等と起居を共にして、その小市民的エゴイズムがつくづくいやになった。彼等が今度の戦争を好まない理由はわかる。彼等を日常生活の安穏から忍苦と死の危険の中に追い立てるからであるが、彼等が常々彼等の平穏な生活自身、彼等に何を課するかに想到しなかったのは迂闊である。そして前線にあって彼等はただ日常的狡智を働かせて、その災厄を「日常的」に切り抜けることしか考えていなかった。国家暴力が衝突する戦場にあってこれほど無意味なことはない。
これに比べて内地で教育された部隊、及び俘虜収容所で会った現役の若い兵隊は、無論甚だ無智であったが、国民の生活に義務というものが存在し、それに今自分が機械のように従っているということを自覚していた。従って彼等は多く朗らかで屈託がなく、兵務に関しない限り鷹揚であった。事実は彼等が腐敗したミリタリストによって欺されていたことは遺憾であったが、彼等がそれを知らない限り、それは彼等の心と行為に何の影響も及ぼさなかったのである。
無論中には遅れた昇進、その他によって意地悪となった古兵もいたが、要するにこれは例外であって、これらの悪い畸形児によって受けた被害を誇張して、旧日本軍隊の兵士が悉く悪漢であったかの如く想像するのは、丁度前線で一部の者の犯した惨虐を見て日本兵を悉く人でなしと空想するのと同じく事実と符合しない。」
(大岡は現役と補充兵について「さらにこれはほぼ先の職業上の差別と重なっていた。つまり農民は多く現役であり、俸給生活者は多く補充兵だったのである。」と書いている)
そもそも手記を書き残すタイプは、文章を書くことが苦でない小市民系が多い。書かない人の本音は?とよく思うし、物を書くのが好きなタイプの人たちの手記ばかりでは、後世に残る話に偏りが出る可能性があるのではとすら思う。(さらに言うなら、「これは負けると思った」という話もよく聞くが、本当にその当時そう思ったのか、疑問に感じることがある。今だからそう言える、というような。まあそれを言っちゃおしまいかもしれないが)要するに、なんでもかんでも旧日本軍が悪いおかしかったという話の持って行き方は、郵便ポストが赤いのも何もかもすべて旧軍のせい、といった安直な結論づけではないか、という気がしてならない。単に時代の波に迎合しているだけの。
そして戦争は勝っても負けても悲惨だというが、戦勝国に悲惨な内容は語り継がれてゆかない。日本も日清日露以降のままだったらそうなっただろう。かつてリベラル系がほめた人民の軍隊解放軍も上記のさま。それと9条だの絶対平和だのとどう結びつけていいのかまだわからないでいる。
- 2016.1.26
アメリカへ行ってきた
昨年、知人の誘いで2回アメリカへ行った。ハワイは一度行ったことがあるが、本土は初めて。なかなか興味深く、これまでアジア重視でアメリカヨーロッパに興味がなかったのは勿体なかったかも、と思ったくらい。
中国人観光客 イエローストーンにも大勢中国人観光客が来ていた。マンモステラスや間欠泉といったメジャー観光スポットに多く、ラマーバレー、ヘイデンバレーのような動物ウォッチングエリア、グランドティートンの風光明媚を愛でるエリアでは見かけない。”とりあえず最初のアメリカ旅行で行くならグランドキャニオンイエローストーン”という1970,80年代の日本のような観光スタイル。
ジャクソン北ムースのビジターセンターで会った中国人団体客は、若者1/3元気な中年2/3ぐらいの近ツリ/トラピックス系の客層。爆買していると思いきや、土産物売り場をうろつきながら声高に「没有我メン要買的、没有我メン要買的!(買いたい物何もないわ)」と言うおばさんがいた。他の人もうろつくだけであまり買っている人はいない。思わず苦笑すると「真的?(でしょ?)」と同意を求めてきた。
マンモスエリアでは、中国人団体客がエルクに触ったとアメリカ人に通報されていた。アメリカの国立公園では野生動物に触れるのは禁止されており、(児童虐待もそうだが)見かけたら通報義務があるという。レンジャーが来ると最初中国人ガイドは否定していたが、写真を撮っていた人がいて「確かにうちのお客さんです」と認めた。このほか、中国人観光客が北口のルーズベルトアーチに悪いことをして今修理中だ、中国人観光客はマナーが悪い、何度か警察に通報した、と怒っているアメリカ人もいた。ちょうどこの旅行中、ローマ法王がアメリカを訪問しており、CNN/ABC/FOXその他TVはみな法王一色だった。特にニューヨークを訪れ歴史的な談話とパレードを行う当日は全局現地にキャスターやアナを派遣、中継を繋いで今か今かと早朝から大盛り上がりで騒いでいた。日本に戻ると日本のマスコミは習近平訪米ニュースを大きくとりあげて騒いでおり、このとき初めて習近平氏も同時期に訪米していたことを知った。たまたまかもしれないが、旅行中まったく報道を見なかったので知らなかったのだ。逆に日本の新聞ではローマ法王訪米については小さな囲み記事だったので、現地との温度差にも驚いた。
中国関連ニュースは日本にとっても関心事でローマ法王は(カトリックの人以外)どうでもいいことだろうから、これは仕方ないが、逆におそらくアメリカ国民の大半にとっては、中国は(良くも悪くも)どうでもいい、興味がほとんどないのだろう、と感じさせられた一件だった。ところでグランドティートン国立公園内で唯一中国人を見かけたムースすぐそばのジャクソンの町だが、2016年1月のNY Times記事のよれば、北京市郊外になんとジャクソン・ホールと名づけられた町が建設されているという。アメリカのWild West のテイストで町作り、中国人富裕層が住宅を買って住みついている、PM2.5で有名な北京の大気汚染から離れることもでき、気に入っている、と金持ち中国人たち。ちなみにジャクソン(旧名ジャクソン・ホール)は人口1万、全米一金持ちの多い町。どの郡に一番金持ちが多いか調べたところ、NYマンハッタンLAビバリーヒルズではなく、ジャクソンだった。空港があるが山が近いのですぐ閉鎖になったり、7月にはライチョウの一種(七面鳥ほどの大きさがある)が求愛ダンスをするので朝一の便は飛んではいけないなど、使い勝手が悪い。近くに北米2番目に急坂のスキー場(1番はボーズマンそば)がある。ジャクソン東にはエルクの冬季越冬地があり、冬になると8000頭くらい集まり馬車で見に行くツアーがある。
後記: その後日本の新聞報道によれば、中国各地で発生していた欧米の地名をつけた街づくり(ベネチアだのもあったらしい)が、中国文化を貶める(一種国辱)行為だと批判対象となり、中国らしい名前に変更している(させられたり、あるいは空気を読んで自主的に)という。ジャクソン・ホールも元の地名に戻るか中国名の”オサレ”な名称に変更していると思われる。
21世紀はバクテリアの世紀 イエローストーン国立公園ツアーでは、現地のネイチャーガイドが詳しく解説してくれた。なかなか濃い(興味深い)内容で、イエローストーンの温泉には特殊な生物が生息している。DNA判定に有効なバクテリアや水素で生きるバクテリアが発見され、こうしたところは一般人の立ち入りを禁止し保護している。観光スポットの一つMud VolcanoやMud podは、生物を構成する要素であるバクテリア、細胞に次ぐ第三の生物であるアルケイヤが最初に発見されたところ。液状化し硫黄臭がするが温泉ではなく、噴出するガスを食べ硫黄酸を排出、ph1の硫黄酸が地面を溶かし液状化しているもの。世界中のこうしたところに、アルケイヤはいる。人は炭水化物をエネルギーにするが、水銀や鉄をエネルギーにする生物もいる。日本にもいるはずで、こうした微生物はDNA判定に役立つなど重要、温泉卵を作ったりして環境を破壊してはいけない、という。
そしてモンタナ州立大学ではバクテリア電池を開発、米軍で使用されている。21世紀はコンピューターとバクテリアの時代だと語った。
発想が革新的というか従来の思考回路と離れたところから研究開発してゆく様子、そしてそれを(勿論ネイチャーガイドは専門家だが)研究室の中だけでなく一般にも広める様子に、日本や中国と何か根本的に違うすごさを感じた。これは”科挙型”受験勉強では育たない発想・人材だろう。アメリカは人口が2億数千万だったと思うが、日本の2倍中国の4か5分の1以上に”広い”、”いろんな人が大勢いる”イメージがある。白人の町 今回回ったのは中西部で、ガーディナーやジャクソン、ボーズマンという町を通ったが、これらはいわゆる白人層が大都市から逃げ出した移住先という中西部の町の一つなのではないかと思った。以前新聞で、大都市がスラム化し治安が悪くなり、中流の上から富裕層は治安のいい中西部の町に移っている、そこは基本的に白人しかいない町だと見た記憶がある。今回の旅行で会う人は基本的にみな白人だった。バスの運転手からガイド、国立公園内のレンジャーや店員、ホテルの従業員もみな白人(ウェストイエローストーンあたりの安ホテルは違うかもしれないが)。ホテルの客も観光地の客も基本的には白人が多く(特に動物ウォッチや風光明媚な箇所)、マンモステラス間欠泉あたりは東アジア系も多い。ヒスパニック中東系は観光客地元、どこも皆無。観光客以外の東アジア系はジャクソンにタイ料理屋、ボーズマンに中華料理屋(山東省から来たと言っていた)、黒人はボーズマンのスーパーのレジで一人見た程度。白人の人口比はかなり落ちている筈なのでこれは奇異。短期間なので長期滞在すれば違うことも見えてくると思うが、一方ぱっと見、目につくところはそうだ、というのも事実だ。
ヨセミテグランドキャニオンの国立公園廻りでも、会う人はナバホ族以外白人が多かった。国立公園メインで大都市はほとんど行っていないので余計その印象を受けるのだろうが、人種によって住み分かれているとも感じる。単に治安の問題だけなら黒人の有名キャスターや大学教授もいるわけだから彼らも来ていそうなものだが、見ない。大学や職場レベルでは共生可能でも、普段の生活レベルでの共生は、気にしない人と気になる人がおり案外難しいのかもしれない。
ある白人男性は「A市は人気の町で人口が増えている。市営バスは無料、市立高校は州で一番いい高校で大学進学率も高い、サンフランシスコやロスは夜ダウンタウンを歩けないがここは歩ける、”生きている町”だ」と言った。この”生きている町”という言い方が印象に残った。
まずは最近の話題について
LINE
最近古くからの友人から「LINE入ってよ。いまどきLINE入らないと連絡とりにくい人として誘われなくなるよ」と言われた。さらに携帯嫌いならASUSの3万パソコンがある、WIFIでどこでもOKとわざわざパンフも用意。ありがたいがSNS系基本的に嫌いなんです。これは従姉妹にもそういう人がいるから、血筋かも。連絡とりにくい人でも全然かまわない、と思えてしまう。元々孤独には強いのかもしれない。先の友人いわくLINEでバーベキュー仲間テニス仲間その他さまざまに友人知人をグループ分けして迅速に連絡をとりあっているという。でもバーベキューとかどうでもいいし。興味ないことに誘われるよりも、自分が興味あることに必要あれば人を誘い誰も興味なければ一人でも行くほうが好きというのもある。そのほうが余計な雑音が入らないしストレスがない。
いろいろグループに参加すると、最近はML(メーリングリスト)ですらなくSNSで連絡とっていますというところも増えてきた。写真が載せられる、参加者がどういう人たちかお互いプロフィールで確認できるという点が大きいのだろうが、「FACEBOOKで連絡とっているから入って」と言われたことがある。メンドーなんだけど、仕方ないのでダミーで参加。最初ほとんど使用していないアドレスでアカウント取ったら、そのアドレスでやりとりしたことのある人の顔写真が「お友達です」と表示されてうざいというか余計なお世話というか。その人がアドレス帳を一括登録だかしているんだろうねえ。新しくアドレス取ってアカウント取り直した。みなツイッターだのLINEだのFacebookだのに次々投稿するが、そうやってしょっちゅう呟いている人の気が知れない。大体どーでもいい内容。それに”いいね!”を押す人の気も知れない。そもそもいいね!を押している人が大勢いるにも関わらずその作業イベントに実際参加する人はいなかったりするのはどーいうことなんだろーと思う。まあ自分が企画したイベントじゃないから、どうでもいいのですが。こういう”つながり”、てどーなんだろー、と思ってしまう。
秋葉原のインド人
くだんの知人にASUSを薦められた一件から、そういえばそろそろ新しいPCを購入する時期かもと考え店を回ってみた。10年近く買い替えずにいた間(いちおうノートデスクトップ共HDD換装or増設電池や不良部品入れ替え等メンテはしてきた)、HDDの代わりにSSDが登場したり、随分様変わりしている。今のノートPCは持ち歩きには便利な大きさ&重さだがCPUがかなり非力。当初は十分だったがOSがアップデートを重ねウイルス対策ソフトが毎年大きくなるにつれ重くなってきた(特に今年からはウイルス対策ソフトのスペック未満になってしまった。当然Windows10は入らない)。これより古いXP用デスクトップのほうがCPU能力が高くさくさく動く。が、XPなのでネットにはつなげられない。CPU能力&メモリはWin10スペックを十分満たしているがPAE対応でないので入らない。
どうせ買うならノートPCとデスクトップの経験からCeleron/Atomは長い目で見たらやはり非力(だから3万ASUSはX)、値は張ってもある程度能力の高いCPUのほうが長く使える(MSのOSはWin10が最終形態であとはアップデートのみというし)、ゲームはしないのでCorei7は無用の長物だろうからCorei5の第5、6世代あたり(or7世代そろそろ出るかな?)、64bitメモリ4G(8G以上に増設可)、SSDは以前よりはよくなったというものの熱に弱くHDDより壊れやすいというからHDD搭載、写真だのそんなにとらないから500Gあれば十分(が、500G以下は案外少ないので1Tも可)、ブルーレイは不要だがDVDのRWは必要、あとは値段との相談だがDellはスパイウェア騒ぎがあったしRenovoもねえ、できれば日本製(NECはRenovo陣営だが)、Kingsoft等も入力データログってそうだからいらねーし、と考えながら回っているうち、面白いものを見つけた。StickPC。なんと1万円以下(ファン付だともっと高い)。32ビットWin10のスペックをぎりぎり満たしている感じだがとりあえずWindows10を体験できる。本体のみで、画面はTVやモニターに挿して表示、MicroSDスロットがあるのでデータはこちらに保存すれば、本体の容量はOSやプログラム用に使えマシンが壊れてもデータを取り外せる=救出できる。マウスキーボードはブルートゥース可だがセキュリティ的にBTは好きでないので、USBポートにUSBハブをつなげればマウスキーボードUSBメモリ外付HDDADSLLAN関係が使える。供給電力は少ないのでUSB供給のみで消費電力の大きい外付けDVDやHDDは動かないが自走電源付なら使える(もしくはUSBハブを電源付にする)。プリインストールプログラムもOS、WIFI用アダプタ、有名ウイルス対策ソフト体験版のみ、問題あるものはなさそう。まともなノートはWindows10のビルドが固まってからでいいや、と予定変更でStickPCを購入。いざというときのためにまず復元イメージ作成したりバックアップとったり再セットアップやバックアップからの展開などを何度も試したあと、動かしてみる。こんな小型PCでも最低限のことはいろいろできるんだ、と面白い。
ところで、あちこち店を回っているとき、秋葉原の店に中国人店員が増えている(オーナーが中国人に変わった店もある)ことは前から気づいていたが、今回インド人店員の多い店が出てきていることを知った。駅前の某店は昔からある店だが、パソコンエリアはすべてインド人になっており何を並べるか値段交渉その他すべて彼らがやっている。日本人おじさん店員は修理などマニアックな箇所にいるだけだ。インド人らは流暢に日本語を使うし、この店に多い外国人観光客(欧米人もいるがマレーシア/タイあたりに見える客が多い)には英語で交渉している。確かにインド人はITが得意だし、秋葉原は彼らが多く住む江戸川にも近い。今後こうした店が増えるかもしれない。
SMAP
昔からアイドルは興味ないのだが:
1年ほど前、小学校時代の友人が亡くなった。癌だった。彼女は正義感が強く、よくありがちな誰かをわざと仲間はずれにしたり無視したり嫌がることを言ったりといった”小いじわる”を絶対にしない人だった。こうした”小いじわる”は、親ですら不機嫌なときにはやる。しかし彼女はグループを組んだら、必ずグループのメンバー全員に声をかけるし取りこぼさない。一部でこそこそしない。リーダーシップのある彼女はそうした人だった。人間関係は不安定要素がつきもので、”大きな正義”的にはどんなに理想的なことを言って活動している所でも、”小さい正義”普段のレベルでは相手によって態度を変えたり陰でこそこそする人も多い。小さいレベルでの裏切りも多い。理想としては正しくても、そういうリーダーは信頼できないし一緒に活動する気持ちも失せる。小学校卒業以降如実にそのことを実感させられることが多かったが、彼女は人間的に信頼できる最初の人だった。
彼女は高校生の頃から映画や演劇に興味をもち先鋭的な小劇場に通っていた。その劇評映画評が雑誌に載ることもあった。その後いろいろなことがあり、外から見て幸せとはいえない大変な人生を送るようになったが、小劇場ブームの頃何度か一緒に演劇を見に行った。
その後、5,6年前だろうか、急に今SMAPの大ファンだと聞いた。え?SMAP?アイドルの?それもジャニーズじゃん、しかも定番中の定番のようなグループじゃん、とひどく驚いた。高校時代や青春時代は難解な小劇場演劇に通っていたのに、今更なぜにSMAP?感は強かった。
でも癌を患っていることがわかってからは、できるだけ励まそうと「世界の国からこんにちわ」のリメークは良かったね(これは本当によいと思いCD買った。単にもともとこの曲が好きというのもある)等々SMAPネタを書くようにしていた。
最期の年賀状には昨年は体調が悪くSMAPのコンサートに行かれなかったことがとても残念だった、今年はぜひ行かれるようになりたい、というようなことが書かれていた。
亡くなった今思い返して考えるのだが、体力のある元気な頃は難解なものも消化できるし興味もわき追求できる。でも体力が落ちてきたとき、SMAPのような定番はとても優しく受け止めてくれる存在で、こちらも安心して受け止められるのかもしれない、と。先日別の小学校時代の友人が実家に寄りがてら訪ねてきた。話しているうち彼女の話になった。友人は「彼女のお父さん、て確か新聞記者じゃなかった?」と言った。「え?そうだったの?」小学校時代は父親の職業など気にしたこともなかったので知らなかったが、なんとなくすべて合点がゆく気がした。クラスの問題に積極的に発言し取り組んでいた姿や正義感の強さ、おそらくそれ故に大学や社会に出てからいじめにあうその他生き辛さに苦しんだこともあったこと。
ところで最近つくづく思うことがある。それは一種リーダー論なのだが、対外的に立派にみえる”大きな正義”を語り目指すが人間的に心が狭い信頼できない人と一緒に働くよりも、誰でも受け入れ心の広い笑顔と余裕のある人、人間的に信頼できる人と働く/活動するほうが、やる気が出るし仕事もやりやすい。
予告
中国や慰安婦問題、満州関連などいろいろ書きたいことがまだまだあるのですが、ここまで書いてきて結構な量になったので、また前回から半年あいてしまっていることもあり、とりあえず今回はここでいったんアップします。次回、戦争や中国その他大物について書きます。そちらの話題を期待されていた方、すみません。
余談 個人的にはSMAPは解散しないで良かったんじゃないかと思った。どういう人たちか個々人はよくわからないが、”職業としてSMAPを演じる”のもありではないかと。実際はお互い仲悪かろうが実際のキャラは表面出ているキャラとは違おうがそういうことはどうでもいい。演じ切ったと思ったら終わりで、そのときが退職辞職転職する時だと思う。
なんかSMAPというと真っ先に思い浮かぶのが、なぜかゴローちゃんの顔なのよねー。一番人が良さそうというか。勿論実際はよくわかりませんが。余談その2 芸能ニュースに詳しい知人からSMAP騒動も一種会社からの分裂騒動だったと聞き、翻訳通訳会社でも分裂騒動がときどきあったことを思い出した。翻訳通訳会社は業界大手でも世間一般レベルの会社規模でいえば中小企業(それも小のほう)。五輪や万博の頃に集まった通訳翻訳者らが立ち上げた会社が多く、しばらく前からトップの子供、2代目が社長を継ぐケースが増えた。それなりに前と変わらずやっているところもあるが、最初に世話になった会社は2代目に代わったあとガタガタになった。今でも連絡をとっている仲の良い社員がいるが、私と違い人間的にもできた人で人から嫌われることなんて考えられない彼女が、新社長に代わり会社が耐えられない雰囲気になった、精神的にも追い詰められ限界だと言う。結局その後退社し、某TV局系の通訳翻訳業務企業に入れたのはラッキーだった。余裕ができたこともあり、当時の様子を赤裸々に話してくれたが、要するに2代目社長が精神的に不安定な一面があり、気に入らないといきなり社員を怒鳴りつける、怒鳴りだすと自分でもとまらなくなり罵倒が続く、かなり精神的におかしい人だった、という。おそらく社長としてやってゆく自信がないので、そういう態度になって出るのだろう、とも。結局先代からいた社員たちはどんどん辞めていった。でもその会社は潰れておらず存続している。翻訳通訳業界も芸能事務所と多少似ているかもと思うのは、会社(事務所)メンバーが社員であるコーディネータ(マネージャ)と契約社員である通訳翻訳者(タレント)で構成されている点、そしてオンサイト以外は基本的に翻訳者は在宅仕事、通訳者は会議や工場など現場仕事で会社は関係ない、社員(コーディネータ)が入れ替わっても仕事がくれば今までどおり仕事をするだけ、という面がある。まだ前の会社にいる頃、彼女はさかんに「本体がこんなにガタガタなのに会社がもっているのは、ひとえに登録している通訳翻訳者さんたちのお陰なのよねー」と言っていた。
ただ芸能事務所と違うのは、通訳翻訳者は基本的にはどこかの会社専属ではなく、そういう契約もないのであちこちの会社に登録しており複数個所から仕事をもらっている。よって引き抜きも発生しない。話はずれるが、そして誤解を呼びそうな話題なのであまり書きたくないことでもあるが、ある翻訳会社からの分裂騒ぎのとき、沖縄閥の存在を強く感じた一件があった。某大手メーカーの機械翻訳部門と結託した機械翻訳リーダーが別会社を立ち上げ何人か社員を引き抜いていった一件があったのだが、本人含めメインのメンバーはみな沖縄出身者だった(これは後で知った)。一人の人物は別の世間的に有名な事件でも多少名の知れた人物なのだが(あまり書くと特定可能なので)、個人的には彼の証言が果たしてすべて本当かどうか疑問に感じる部分がある。以前彼らのサイトを見たとき、それぞれ出身地域もしくは離島との濃いつながりがあり、その背後の深さを感じた。結局メインの二人も一人が本島出身一人が琉球の離島諸島出身で、それもあってかさらに分裂する。本島出身者がメーカーがらみで作った会社に残り、離島出身者が別会社を作って分かれた。彼のサイトを見たとき、その離島関連のネットワークの濃さを感じ、これは普通の日本人の感覚とは別世界だなと感じた。
知人に台湾好きおやじがいると台湾編で書いたことがあるが、彼は母親が沖縄本島の人、父親が大和の日本人、最初は母の故郷沖縄の大ファンだったが、最終的には受け入れてもらえない疎外感を感じたという。「沖縄には門中制度があるでしょ」と言った。「お母さんが沖縄の人でも親戚から全面的に受け入れてもらえないのか」と聞いたら「なんかだめなんだよねー」と言った。そして台湾へ行った、台湾はフレンドリーで誰でも親切に受け入れてくれる、それで台湾の大ファンになった、と言った。そこで思うのは、元外務省職員で作家のS氏だが、彼の記事や著書の指摘はうなづく面も多いのだが、彼も母親が沖縄の人で父親が大和の人、沖縄アイデンティティー保持者としての発言も多いが、実際どう思っているのか思われているのか気になる面もある。
そしてよくリベラル系大和の人は沖縄を無垢の被害者として単純に同情し関わり理解する態度を示すことをステータスとするが、そして政府は選挙制度を利用しつつ上手に強引に思う方向へ導いているように見えるが、そのどちらについても、良くも悪くも沖縄を舐めてはいけない気が強くするのだ。
- 2016.10.31
まずは最近の話題について
東京五輪
既にさまざまな意見が出ているので、今更感ありますが:
ボート、宮城でいいじゃない、と思う。そもそも復興五輪と言いつつ東京で開催というのは、”復興がダシに使われている感じ”という被災地の人のTVインタビューでの意見を、もっともだと感じさせられる。復興五輪の復興は意味が違う、という人もいるが、復興の言葉から受けるイメージはやはり被災地の復興であり、日本や首都がどうこうではない。いったん糠喜びさせておいてやはり東京で、というのもタチが悪い。先日出た土地買収その他の試算も、本当かな、組織委員会絡みのバイアス入っているんじゃないの、と勘ぐってしまう。宮城だめなら彩湖で。もともと、この騒ぎ以前から競技関係者の間で海よりも埼玉を押す声があると新聞(東京新聞だったと思う)で読んだ記憶がある。
招致のときに明言した競技場でやるべきだ、変更はIOCに対する約束違反というなら、招致のとき明言した予算でやるべきだ、6〜7千億が3兆というのは都民に対する公約違反。3倍7倍になってもOKというのはおかしい。そもそも日本は世界一の財政赤字借金大国。「そのくらいの金額、日本で出せないのかね」と言ったオヤジがいたが、出せないんですよ。現実見てます?このまま後の世代に借金のツケ、回すんですか?財政再建はどうなったのでしょう。自分達は五輪その他で得た資産を海外逃避させているから、この国が将来財政破綻してもいいとでも考えているのだろうか。
ロンドン、リオと低予算でやってきたところを、いきなり値段吊り上げるのもどうかと思う。最初に明言した予算内で抑えるべき。ボートに限らず、ボートは単なるスケープゴートに過ぎないので、その他すべての競技について元の予算に戻しやりくりすべき。建築費あがったなら作る予定の一部をカットするか既存施設のリニューアルか。”レガシー”とか(笑)、1964年東京五輪のレガシー自体、そそくさと壊しているじゃないですか。50年しかもたなかったわけだ。どうせ今回も大したレガシー作れない。どこぞのオペラ座などと違い、50年で取り壊す程度のものだ、仮設でいいくらい。
いっそ五輪開催そのものを返上してしまえばいいと思う。ブラフでなく、本気でそう思っている。一度返上をやってみるのもいい、日本ですら負担が大きくてできないというなら、IOCも本気で五輪規模縮小その他考えるだろう。
そもそも五輪、てそこまでのものだろうか。日本で一番気候のよい10月でなく蒸し暑くて台風シーズンの7月に開催とか。1964年当時のほうが、開催国にあった季節に開催する自由があったわけだ。今はTVスポンサー絡みで歪んでいるようでして。巨大台風直撃したら面白いのにと思う。もうやめちゃえば?そのほうがすっきりする。−(以前もここで書いたが、五輪は陸上と水泳だけのシンプルな形に戻したほうがよいと思う。団体競技はワールドカップや世界選手権で対応、競技ごとに開催地がばらけ負担も少ない。サッカーテニスゴルフのように五輪よりステータスが上の大会を各自作ればよい。それができないなら、その程度の人気のスポーツということでもうよいのでは、また世界的人気がなくても、一部で勝手に盛り上がっているクリケットや野球、ムエタイのような競技もあるわけで。)
障害者施設/病院高齢者病棟の殺傷事件
これも既に多くの意見が出ている、今更感のある問題ですが:
犯人も、どこかで「お前はいらない」「使えない、不要だ」と言われた経験があるのだろうと思う。社会全体にそうした雰囲気があるのは事実だ。
ただ間違えてならないのは、そうした”いらない””使えない”発言は、特定の会社や学校にとってのもの。その人の存在自体、生きること自体を否定するものではない。どんなに”お祈りメール”が沢山来ようとも、この世に存在すること自体を否定するものではいない。気分的には、この世から自分は必要とされていない、と感じさせられるものかもしれないが。
高度障害者や認知症高齢者寝たきり老人の生存自体について、いるいらないの判断を、1個人や国その他組織が行う筋合いはない。いつも不思議に思い、そして多くの人が履き違えていると思うのは、まず個々人が存在しておりその上に社会や国が乗っかっている、ということだ。その逆ではない。先に国などの組織が存在し、その後から個々人が生まれたわけではない。
まず最初に、さまざまなヒトが生まれ存在している。才能のあるヒトないヒト障害もっているヒトさまざまな人種。古代社会では病気になったり障害があると生存確率は物理的に低かっただろうが、それだけ、積極的に(=システマチックに)殺害されていたわけでもない。まず様々なヒトが生まれ生きており様々な動物植物が存在している。ヒトはたまたま社会を営むタイプなので社会そして国が、生存メンバーの上に構築される。生存メンバーが先に存在し、社会や国は後から作られる。だから生存メンバー(個々人)の生存自体について、生存して良いいけないを国だの理想にとりつかれた人だのから、とやかく言われる筋合いはまったくない。社会の重荷、て、その”社会”自体そもそも一体なんだよ?そうなのだが、なぜか理想社会を目指すタイプの人は、たいがいの場合、理想社会にふさわしい構成メンバーで固めることを望むようになる。フランス革命でも(最初は貧しい人々の不満が臨界点を越え爆発したものだったのが)、やがて新政府にふさわしいシトワイヤン(市民)か否かという選別になってゆく。ふさわしくない考えの人/身分/地方は粛清=システマチックに虐殺される。中国革命も新社会にふさわしいか否か、似たような径路をたどり右よりに少し戻ったりまた左にぶれたりで粛清の嵐が何度も吹き荒れる。それはものすごく”人工的”な”社会”だ。自然でない。
高齢者に対する、無理感もある延命治療が正しいかどうかは、また別問題だが、最低限、というか本来的に、生存に対するいるいらないを言われる筋合いはない。
いじめ
青森のいじめ問題で感じたこと:
彼女が遺書に書いたという「もう耐えられません。うわさを流したり、それを信じたり、いじめてきたやつら。もう二度としないでください」という言葉が、非常に印象に残った。特に「それを信じたり」という部分だ。最近、会社その他グループ内でのトラブルでも、この印象を受けるからだ。対人トラブルは以前からあったし、人の噂を流し失墜させようとするタイプの人物も昔から存在した。
ただ最近とみに感じるのは、トラブルには関係のない回りが、トラブルの中心=当事者二人のうち力関係の強いほう、より攻撃的で他人に積極的に語りかける側であるAの話をそのまま信用し、もう一方の当事者Bに直接確認することをしなくなっている点だ。以前だったら、全員とまではゆかずとも何人かは「Aさんはこう言っているけど、どうなの?」とBに直接聞く人が存在した。Aが、回りのBに対するアクセスを禁じる(破ったらその人もいじめられる)圧力をかけている場合もあるが、大半はみな疲れている、雑に生きている、自分に大過なくすごせればあとはどうでもよく生きている、だから特に確認もせず裏取りもせずBが傷つくことも考えずAの話に乗ってやりすごしている感がある。それが、どれだけBを傷つけているかに気が回らないまま(あるいはうすうす、実は感づいていても気付かないふりをしている)。
あまり「若い人は」発言をしたくないが、十年くらい前からいじめ世代が成人し社会に入ってきているためか、以前と比べ社内やその他組織内でも”いじめ”が見られるようになった気がする。総じて、なぜか非攻撃的ないじめられ側Bに対するアクセスが遮断されるので、Bの声は大多数に対しまったく入らなくなる。一種集団ヒステリーのようになってBがはじきだされたりする。
自分自身、こうしたことで嫌な思いをしたことがあるし、逆にふだん人の話を聞いて何気なく頷いていることに、ちゃんともう一方の当事者に対し裏取りした結果か、うわさ鵜呑みでないか、自分で考え判断した結果かどうか、自分自身気をつけねばと思った。
最近読んだ本から
『クロコダイル路地』 皆川博子著 講談社
フランス革命を題材にした、ただし『ベルサイユのばら』風な宮廷物語ではなく、貴族階級/新興商人/下層階級からそれぞれ何人かフューチャーし、ミステリー味も交えながら革命の裏面を描いた大河小説。
近年の研究成果(たとえばヴァンデ戦争のようなフランス革命再評価の動き)を大きくふまえた上での革命政権のようすとそれに翻弄される個々人の人生模様に関する内容なのだが、読みながら「これは抗日戦争から国共内戦、その勝利後の人民共和国政権の話ではないか?」と感じたくらい、当時の中国と状況が相似形なのだ。そしてヴァンデの住民らが溺死刑に処されるため歩かされる場面など、日本人の満州引揚げ逃避行のようだが、よくここまで書けたな、才能ある若手作家と思われるが(てっきりそう思っていたので)この作者一体何者?と思い後ろを見ると、なんと戦前の朝鮮で生まれた80代のミステリー作家だった(ミステリーはあまり読まないので知らなかったが、その業界では重鎮らしい)。
成る程、戦前の実体験や体験者から直接見聞きした経験をすべてぶちこんでいるのだろう、それにしてもすごい内容だ、しかも執筆時は70代後半か80代、大変なパワーだと思った。フランス革命の理解と、戦前戦後の日本中国の理解に、一読をお勧めする(かなり長いが)。『真実 私は捏造記者ではない』 植村隆著 岩波書店
最初は単なる弁明本かなと思い、あまり期待せずに読んだ。慰安婦問題には私も一家言あり、リベラル系のすべてに賛同するわけでもないが(九条は今でも疑問に思っている)、これを読むと本人や朝日が書いたわけでもないことが、雰囲気的にあそこならやりそうだということで(おそらくどこぞかが意図的に)批判を始め、回りもあそこならやりそうだという共通の気分の中バッシングが高まっていった経緯がよくわかる。
そもそも当時、当事者であるこの記者の言葉が世間に伝わる経路がほとんどなかった。TV局とか腐るほどあるのに。これもいじめと同じ構図。マニュアル本でもあるのかね。恐怖や不安を煽る、批判相手の声が皆に届く機会/手段を封じる、などの共通則をよく見るので。
さらにバッシング時急先鋒だった産経そのものが、慰安婦問題に関する現在の(日本の)視点からすると誤ったキーワードをかつて新聞に書き、問題人物の話も載せていることが明らかになる。慰安婦問題が盛り上がった1990年代当時の時代の雰囲気の中では、朝日も産経も読売も、みな同様の切り口で慰安婦問題を語っていた、記事を書いていたわけだ。
今振り返ってみるとあの朝日叩きは一体なんだったんだろう、と思う。まさしく集団ヒステリーのようだった。文革のようだったとも言える。嵐去ってみると、やはり何かに乗せられた、煽られた感がある。今後こうしたことはますます多くなるだろう。日本だけでなく韓国も中国も、さらに世界中で。
不可解な大騒ぎだった。ここでも何度か書いたが、以前(1990年代)ある女優に対する意味不明なバッシングが女性週刊誌やTVでなされたことがあったことを思い出す(別に不倫したとか麻薬所持とかでもない)。会社の同僚オバサンたちは、「同じことをしても良く言われる○泉○子のような人もいればX木X江のようにバッシングされる人もいるわね。なぜかしら?」「人徳があるかないかじゃない?」という意味不明な理由でみなが納得していたのを聞き、”人徳”てなんだよ、気色悪いなと感じたことがある。あれもイミフな騒動だったが、今でもなんだったんだろう、ライバル女優を持つ事務所が仕掛けた追い落としだったのか(それならまだ理解できる)、それですらなかったなら不気味だなあと思う。そもそもこの女優叩きを、今でも覚えている人がどれくらいいるだろう。
大騒ぎして叩いたほうは少したてばケロリと忘れるが、集団で叩かれた側の傷は深い。いろいろ見聞きし考えていると、だんだん世の中に対して人間に対してシニカル、あきらめ、厭世モードに入ってしまう。よくないのだろうが、私も年取ったということだろうか。
ある環境グループにて
数年前から参加している、とある環境関連グループで、昨年から参加し始めた人物が他メンバーをざわつかせるようになった。他メンバーに相談なく(=勝手に)フィールドに講師を呼び環境問題を講義するイベントを開催しようとしたり、ある山の素材を使いたいので取っておいてくれとメンバーに頼んだり。自分でも活動拠点と構成員(緩いつながりだが)を持つ人なので、自分の構成員にフィールドの一部をまた貸ししたり、何人かフィールドに呼び山の素材を持ち帰ったり。一つ一つやっていることは犯罪でも迷惑行為でもないが、もやもやとした不満を持つ人も多く、リーダーも何度かメールで、ある行為は断ったり説明を求めたりした。一度みなで直接本人に意図を確認する集まりも開かれた。(それまで、こうした集まりが開かれたことは一度もない))
社会貢献事業を行っていることを理由に、活動に参加できないから山素材のとりおきを頼んでいたので、自分は環境的に正しいことをやっているという自負、SNSでは政権批判や政治発言も多いので、今の政府や社会のあり方に対するアンチテーゼ提供の場と方法を示しているという自負が強い人なのだろう。だから、環境に関心のある人たちなら、自分のそうした活動を当然支えてくれるはず、という思い込みも感じられる。私がこの人物A氏に疑念を抱いたきっかけは、A氏の構成員B氏から、勝手にフィールドでイベント事件について「彼は別の環境グループでもそれをやって問題になった。彼にはそういうところがあるから、彼の主催するイベントには参加しないようにしている。作業だけ参加してやり方見るだけ」と聞いたことだった。決定的だったのは、A氏は作業参加者用に”秘密の連絡網”(本人がそう言った)であるSNSグループを立ち上げているのだが(注:私はA氏絡みのフィールドを手伝うことになったので参加を求められた。環境グループのMLに流せばいいのにと思い、そう言ったのだが自分の構成員にも流したいのでということだった。当初環境グループ側はこのSNSの存在を知らなかった)、そこに新規参加者が書いた自己紹介文に対し「へ?それだけ?なら(連絡網から)アカウント削除しますよ」と書いたことだ。新規参加者は「舌足らずですみません」と新たに自己紹介文を書き直したが、最初の紹介文のどこが悪いか私にはわからなかったので、これはA氏の機嫌損ねたら終わりグループだな、自分の王国作って狭い閉じた空間の中で君臨するタイプだと感じた。
その他大嘘はないが細かい嘘が多い、A氏自身が理想とする”環境像”のなにげな押し付け、”コミュニティのためどれだけ自己労働を無償奉仕できるか”という発想、今の段階では問題は何もおきていないが、なんとなくヤバイのではという気がした。ただ、なんとなくいけすかない、という理由で排除するのは、それはそれで”いじめ”と同じ行為になってしまい、難しい。何が問題なのか言語化できないといけない。
A氏とグループメンバーの間の齟齬の原因の一つとして、自分なりに考えたことに、環境系団体のうち林業絡み分野は理系の人が多いということがある。いくつか関わってきたが、どこもリーダーはみな理系の人だった(東工大・東京理科大卒とか工学系、林産科出身など)。”理想の環境”を語るときも、純粋に生物学林学的な話になる。暗い森がいいとか明るい森がいいとか、老木も切るか逆に直系4cm以上の木は切るなとか(フィールドにより水源林だったり里山だったりするので、求められるものも変わる)。一方、農業絡みの環境系団体は文系の人が多く、”理想の環境”というと”お金を使わない生き方をしよう”、”子供たちに安心して食べられる食べ物を”、”政府に頼らず昔の村のようなコミュニティーで自給自足で助け合って生きてゆく方法を取り戻そう”など、どうしても”生き方””生活の仕方”論の話になる。A氏はもともと農業系活動を行ってきた人で考え方もまさしく”お金を使わない生き方””政府に頼らない自立したコミュニティ”。それが生き方論には興味のない林業絡み系に来たので、まずそこが、大多数の人が感じる違和感の原因なのではないかと考えた。
たとえば森・野・畑のものを使って何か作る場合、他のメンバーがやれば単純に好きでやっている、それだけだ。そこに他者への働きかけはない。同じことをA氏が行うと”なんでも買ってすませる消費社会に自分を預けるな、自力で作れるんだよ”さらに”皆さんも自分でやってみませんか?”というメッセージ性を感じる。そこが”ざわつき”の原因と思うので、その話を話合いでしたところ、A氏もはっきりメッセージ性をもってやっていると明言した。私はここはA氏の信条に賛同して集まったA氏の構成員らと違い、このフィールド活動に集まっているメンバーなのだから、ここでは作業と思想を分けてやってもらえないか、と言った。そしてさらに、自分もそうした農業系環境団体をいくつも見ているので、それらは思想がまず先にあり、思想の実現手段として農業(作業)をやっているようなところがあるので、そしてA氏もおそらくそうなので、「作業と思想を分ける」という発想自体、そもそもないし、できないだろうと予想もするが、とも言った。
個人的には、人の頭の中や生き方、生活態度にまで口を出す農業系環境グループのような考え方は、もうおなかいっぱい、というのがある。これらをふまえ、それなりに言語化してA氏らに話しても、A氏自身にも、周りの人で鈍いタイプにも通じなかったりする(まあ私も、文章化すると冷静に書けるが、喋ると感情的になる面があるので、相手に伝わりにくいかもしれない)。またこの手の人物は口がうまく、グループ内で力のある人人気のある人を動物嗅覚で嗅ぎ分け取り入り味方につけるのもうまい。A氏が環境グループに溶け込みメンバーの一員として問題のない存在になってゆくのか、(おそらくリーダー交代をきっかけに)このフィールドを”理想の環境”実現の場にしようと活動を活発化し、それについてゆけないメンバーらが辞めてゆきA氏の取り巻きが残る結果になるのか、興味がある。
蛇足だが、不思議なのは、リーダーその他がある件について説明を求めても、それに対するA氏のメールもしくは口頭での回答が、その件にピンポイントで答える内容になっていないことだ(他の人も「リーダーの問いに対する答えに全然なっていないな、と思った」と言っていたので私だけの印象ではない)。「釈明させてください」「舌足らずですみません」と言いつつ全然別の話をする。結局問いに対する答えはない。意図的なのか一種アスペルガーなのか、このへんもどんなに話会いの場を設けてももやもやとした隔靴掻痒感、消化不良感が残る理由だ。これも、この手の人物の特徴かもしれない。ところで”舌足らずですみません”て何?SNS用語かね。舌足らずどころか膨大な文字数の回答メール、でも回答にはなっていない。
さいごに、中国がらみで2点
やった側は忘れるがやられた側は覚えている
よく中国と関係ある人(いわゆる親中派)と話していると、「やった側はすぐに忘れるが、やられた側は忘れない、覚えている」と言う。日中戦争絡みでそう言うのだが、それなら文革で虐殺された人(や民族)大躍進で大量死した人反右派闘争で殺された人も大勢いるわけで、その人たちの遺族関係者はどうなのだろうと思う。彼らが日中戦争に対するのと同様のエネルギーで現政権に謝罪や補償を求めたりしている話はなかなか聞こえてこない。ということは、やられたことを忘れるケースもあるということか。特に相手が高圧的で反論異論を封じている場合。
実は文革関係者で、政府に問題を指摘し要求している人たちもいる。ごくわずかだが(ソースNYtimes)。あるいは、自分たちは捨石になってもいい、という覚悟で、締め付けの強まる中国社会で共産党以外の政党から立候補する人たちも存在する(朝日)。すごい人たちだ、自分にはとてもできないと感じ入る一方、無理してほしくない、命まで賭けることない、とも思う。
台湾や香港のXX運動の若者たちもそうだ。中国や中国人を批判する人は今の日本に多いし、気分はわかるが、中国にもさまざまな人がいる。血であがなわれた兄弟
ある人物に聞いた話(むしろ親中派、要人に会える立場)。「朝鮮戦争当時、中国の軍隊は朝鮮で相当いろいろやっている。いま朝鮮は黙っているけどね」「そうした連中をそのまま故郷に返すわけにはいかない」「そこで約半分、50万ほど新疆(ウイグル自治区)へ送った」「そうするとどうしても女の問題が出てくる。新生中国に売春婦がいるかいないか(庵主注:改革解放が始まるまで、公式には中国には売春婦がいないことになっていた。現在は当然いる)、そうした連中を集めて新疆に送った」
以前にもここに書いたが(戦争は悲惨というがその2の「1.たとえば兵隊は使い捨てだった」の項参照)、韓国軍将軍の朝鮮戦争体験談の中に「陣地の前に地雷原と鉄条網を準備、迫撃砲や機関銃でカバーして中国軍を待ち受ける。ここまで固めればまさか正面からは突っ込むまいと思っていると、夜中にチャルメラや銅鑼を鳴らしガヤガヤ攻めてくる。どうしてわざわざ敵に知らせるようなことをするのかわからない、しかも障害処理をせず突撃してくる。「これは好餌」と猛射しても一切無頓着。中国兵は次々倒れるがこれで地雷原が無力化され鉄条網は死体の山で覆われ通路ができてしまう。最初は決死覚悟の断固たる攻撃に圧倒されたが、やがて彼らは硬直した組織で第一線の声がまったく反映されない、決死突撃も自発的はものではなく背後に督戦隊の銃口があるので兵士は前に進むしかない、とわかった」という部分がある。
これを読んだとき、「こういう扱いを受けた兵士は確実に荒れただろうな」と感じた。ベトナム戦争当時、生きて帰ってこられるかわからない沖縄のアメリカ兵にも似たようなところがあったと聞くが、当然最期だから女も要求しただろうし、おいしいもの酒持って来い、誰のために命かけて戦ってるんだ、という気分になっただろう。その用意は確実に朝鮮側によってなされていたに違いない。
あるいは満州から北朝鮮経由で引き揚げた日本人、北朝鮮にもとから住んでいた日本人の引揚げ手記に、ソ連軍が進駐したあと、ときどき北朝鮮女性も襲われた話が出てくる。ある地方では、ソ連軍が村に近づくとサイレンが鳴った、表向きは歓迎のサイレンということになっていたが、実際は女と金目の物を隠せという合図だったという話もある。これを読んだとき、沖縄と同じだな、と思った。沖縄の収容所(沖縄戦終結後、地元住民は”収容所”に収容され食糧が配布されていた)で、ときどき米兵による”ムスメ狩り”が行われた、米兵が近づくと焼夷弾を使って作った鐘を鳴らして女性らに逃げろと合図していたという。
進駐軍のやることは右も左も同じだ。中国もソ連も北朝鮮の政権に倒れられたら困る、政権も倒れたくない。その陰で犠牲になる人がいる。”国家”のために。
- 2018.7.17
久々の更新
しばらく更新を怠っていたら(個人的事情もあり休止していた。別に内容にクレームがあってやめたとかではないのでご安心を)、山歩きや旅行の写真もたまってしまった。たまると億劫になり、やる気がなくなるの悪循環。更に引っ掛かったmicroSDを毛抜きで引っ張り出そうとしたら、傷つけたようで写真データを失い、またまたがっくりきてしまった。
ちょうど怪我したりで時間ができたので、ようやく山行記録整理などを始めた。とりあえず、多摩丘陵界隈を歩いた記録をまとめたので、アップした(上の”What's New”にリンクあり)。
里山2017編にも書いたが、多摩ニュータウン開発史を知ると、いろいろ見方が変わる。最近出た『ニュータウンの社会史』金子淳著 青弓社に詳しいので、興味のある方は一読をお勧めする。また最近亡くなった高畑勲監督の「平成狸合戦ぽんぽこ」もニュータウン開発にまつわる話なので、未見の方はお勧め。
外国人の国保利用問題
最近、週刊現代の特集記事で、外国人(特に中国人)が日本の国民健康保険制度にただ乗りしているのではないか、という問題が知れわたるようになった。
ただ、この問題は、以前から気にして問題視している人たちがいた。もう20年以上前、筑波学園都市の研究所で事務をやっていた知人から
「なんかさあ、筑波には留学生が多いんだけど、みんな国保に入れるんだよね。前年の所得換算だから保険料払わずに入れるんだよ。そして途上国の人にとっては、日本だといい治療受けられるじゃない。本国で治せなかったんだか高くて治していなかったんだか、日本にくるとすぐ結核とか治療するんだよね。国保だから3割でしょ。でも国費留学生で1年の人も多いから、税金払ってないしその後日本で働いて税金納めるわけでもなくて、1年で帰るわけだよね。あれ、てどうなんだろう、てすごく疑問に感じる。あたし達の保険料が使われているんだよ。どう思う?」と聞かれたことがあった。
そのときは、よくわからず、不法滞在するタイプの人たちでもなさそうだし(当時はそちらのが問題だった)、筑波にくるような国費留学生ならその国のエリートだろうし人数もそう多くないだろうから、まあいいんじゃない?という気がしたので、そう言った。その頃は日本もまだ余裕があったし。つくば市在住の彼女は、納得しないようすだった。この問題は、じつは以前からあったのだと思う。最初はまともな留学生の間だけで大目に見られていたか見過ごされてきたかだったのが、業者が入って大々的に行われるようになったので、顕在化してきた。
こうなってくると、日本国民で保険料が払えないから国保に入れない人たちがいるのに、留学生なら払わないでも入れるのは何で?という話になってくる。不公平感がある。まず国民のための制度だよね、外国人留学生を増やしたい、そのために保険もいるというなら、別口で作れば、という話になる。
世の中、制度にただ乗りする人たちが増え、不公平感が出てくると社会が崩壊するので、これは解決したほうがよい。ところで、中国国内では医療費が高い。一方、南太平洋諸国のように、中国の戦略を兼ねた支援により、中国のお金でその国の人たちの医療費がただになっている国がある。これも正直、どうなんだろうと思う。中国人の医療費が高く、人口は(中国人より)はるかに少ない小国とはいえ、医療費が中国の支援(お金=税金だか吸い上げられたお金)で無料になっている。
普通の国だったら、NGOやマスコミが大騒ぎして、外国人よりまず同国人をなんとかすべきだろう、と問題視するところだが、例によって一党支配で異論を許さない状態だからそれはない。批判はないし、みな知らない。他国の制度のフリーライダーになるより、まず自国の制度をなんとかすべきでは、と思う。
二重国籍、移民について
以前、議員の二重国籍が問題になったことがある。認めている国もある、批判は心が狭いというリベラル、防衛上問題がある、国の根幹に関わると認めない保守、様々な意見があった。
ふと、カンボジア難民支援のNGOに勤めていたときのことを思い出した。ある難民Aさん一家が、もうカンボジアには戻らないだろう、と日本国籍をとった。すると、いずれ戻ってカンボジア復興に尽力するつもりのB氏が
「Aさんは変わったな。日本国籍をとったら、カンボジアのことがどこか、ひとごとになった」と嘆いていたのが印象に残った。この感じはわかる。子供も日本の学校に通い日本で生きてゆくことになる。今後自分が生きてゆく社会についての問題を解決し、良くしてゆこう、という気持ちになるのは当然だろう。Aさんにとってのそれが、カンボジアではなく日本になった。私は、何人だろうとこの列島で生活し、ここでの生活と社会を良くしてゆこうという意思のある人なら信頼できると考える。どこかの共和国のために、この列島を利用しようとする人なら信用できない。
正直、やはり郷に入ったら郷に従うべきだ、と考える部分はある。よく日系人収容に対しオバマ大統領が謝罪した話が出るが、やはり交戦状態になった相手国の移民が疑われるのは当然だろうと思う。特に、当時のアンケートで、天皇を信奉すると答えた場合は、いざとなったらアメリカを裏切るかもしれない、と疑われ(怖れ)られても仕方ない気がする。
これは、イスラム移民に関する問題にもつながる。欧米社会などで、あまりにイスラムの権利を主張する人を見ると、そこはキリスト教国なんだから、だったらイスラムの国に行けば、あるいは戻れば、と考える。いいとこどりはずるいのでは、郷に入ったならその郷の習慣を尊重すべきだし、イスラム本国では他の宗教を認めないので(キリスト教ユダヤ教はまだよいようだが、仏教は全然認められない)、自分たちが認めないのに他人には認めよと求めるのは、まったくフェアでない、と感じるからだ。リベラルは、差別はいけない、誰にも人権があり信教の自由があると”叱る”。あるいは、弱者がさらに弱者をたたく、と”叱る”。でも、世界的にネオ保守のような流れが強くなりつつあるのは、White trash(ゴミ白人)と呼ばれる労働者階級がトランプを選んだりするのは、そうした不公平感、本能的な怖れに対して、リベラル系がまともに正面から取りあわないためではないかと最近強く感じる。
北朝鮮がらみの国防問題(軍隊持つか問題、核兵器持つか問題)もそうだが、リベラルは普通の人たちが持つ”恐れ”に対し、答えない。わざと見ないふりをしているのか、答えられないのか、硬直化しているのか、建前論しか述べない。
でも、声なき弱者の声を聞こう、言い分を聞こう、という態度と同じ態度で、トランプを選ぶ人たち、フランスやドイツで台頭しつつある移民排斥系の人たち、日本で北朝鮮は怖いからなんとか手を打つべきとする人たちの言い分も聞くべきではないのか。最初から良い人差別する悪い人等と分別し、弱者が更に弱者を叩き差別している等々言って、悪判定した人たちの意見をないがしろにしていると、いずれ大変なことになる気がする。
フリーライダー
最近読んだ『サイコパス』中野信子著がなかなか面白かった。その中に、フリーライダーという言葉が出てくる。
先に書いた、外国人による国保ただ乗りもそうだが、最近、社会のフリーライダー、納めるべき対価・義務を払わずに制度にただ乗りする人々が問題になっている。英語があるということは、中国人だの人種民族の問題ではなく、世界的にそういう傾向がある、ということだろう。
まあ、中国人は利にさといのでやりがちだし、人数が多いので目立つのかもしれない。同じく近年問題になっている、中国人による、東京湾の立入禁止区域に入って勝手に牡蠣を大量に採り殻を捨ててゆく行為も同様だ。
中野氏は、フリーライダーが多くなると社会の他の構成員の間に不公平感が強まり、社会が崩壊しかねない、とする。ところで、『サイコパス』を見ていると、前回(といっても、もう1年半前になるが)書いた環境グループの問題児男性も、サイコパスかなあ、という気がしてくる。集団クラッシャー的な部分があるからだ。どんなにやめるよう言っても、メンバーに対し「次回社会貢献事業のため出席できないので、ビニールテープで囲ったところの竹をとっておいてください」と頼むのをやめない。怒ったおじさんメンバーらが「自分でやったらいいじゃないですか」「あの汚いテープをはずしてください、里山の景観を損ねます」と返し、MLが荒れる荒れる。一方リーダーと、技術があるため中心的メンバーの老人は、彼の政府に頼らない自力コミュニティでの暮らし論に興味を持ってしまい、肩を持つ(というか、グループ内の力のある人に取り入るのがうまい、と私は見ている)。
そういえば以前の職場にも、話の通じない『サイコパス』っぽい人いたなあ。関わると面倒なので、避けるが一番。でもその環境グループの男性にしろ誰にしろ、ゆるいが(つまり麻原に対するほど盲目的ではないが)信奉者がいるんだよね、そこも謎。
発達障害
30年以上知っている人が、最近突然、実は自分は発達障害だった、と言いだした。病院でも診断され、障害者手帳をもらったという。はあ?という感じだ。
ADHDだった、というが、むしろ私なぞより、よっぽど社会常識もあったし、社会でも友達関係も学校もさまざまな活動も仕事もうまくやっているように見えたのだが。
ここ1、2年、仕事でうまくゆかなくなり、顧客にあたる人たちからやるべき義務を果たしていない云々いろいろ言われるようになり、そこで、障害があるから、ということにした気がしてならない。彼女も顧客に障害を説明し、理解してほしいと訴えたが、顧客らから「障害に甘えている」と言われた、「だから悔しい思いをしている」と言う。
とにかく、自分をわかってほしい、自分の障害を理解してほしい、という話ばかりなので、あなたも顧客を理解すべきだ、自分をわかってほしいばかりで、顧客の気持ちをわかろうとしたことがあるのか、と言うと、過集中といい、あることばかりに夢中になってしまうのがADHDの特徴でエジソンやスティーブ・ジョブスもそうだ、「聞いて、聞いて!」となってしまう云々始まる。とにかく電話もメールも膨大な量で長い。今までも生き辛さを感じてきたが、みなADHDのせいだったんだ、劣等感があったがそれもADHDのせいだったんだ、とすべて合点がいったという。でも生き辛さや劣等感なんて、定型者(発達障害系では健常者でなく定型者というらしい)でも誰でもある。そう言うと、ADHDは生まれつきの脳の障害なのに、定型者でも多少ある事なのでかえってネックになり、障害理解への足枷となっているという。
しかしこれまで、彼女が自殺未遂を繰り返したとか、鬱に近い状態であれこれ悩んでいた、というイメージはまったくない(そういう人を何人か知っているが。彼女らのほうが余程、適応障害に近かった気がする)。食べ歩きしたり旅行したり、普通に青春してその後も働いていた。勿論、彼女のすべてを知っている訳ではないから裏では何かあるのかもしれないが、それで飲み会では平静を装って楽しみ旅行でも楽しんでいたなら、逆に余程強いのではとも思う。今までの印象と、言っていることに落差がありすぎて、どうも腑に落ちない。「今まで、問題なくやっていたように見えるよね。なぜここへきて急にADHDだった、という話になるのか」と聞いたところ、「はい、散々言われました、説明します」”元々は研究職をやっていた。ADHDは興味のある対象なら没頭できるのでやれた。少々コミュニケーションに難があってもやっていける。しかしある批判論文を書いたことから延長を拒否された。それで今の仕事につくことになり、自分のコミュ能力不足が露呈した”という。正義感の強さが祟った、「一般常識のある定型者なら、批判したりしない」云々言うが、それはどうかなと感じる。研究職やれるのがADHDの数少ない特長の一つ、エジソンもジョブスも誰それも、とか言いだすと、ハイ御馳走さま、じゃあ自分で研究職探してね、という気になってくる。正直、こんな人だったかなあ、と不思議な思いだ。
仕事についてどう思うか聞かれたので、きついようだが、次のように言った。ADHDは空気を読むことが下手なので、はっきり言ってもらったほうがわかる、というので(私も同様だから望むところだ、相手の気持ちを考えずハッキリ言うのは得意だ):
「仕事に関しては、福祉で生きるなら達成レベルが低くても許してね、が通るかもしれないが、通常、仕事はクライアントからの要求に対して成果物(物やサービス)を 納期までに提出し、対価をもらう一連のやりとり。顧客が納得できない、ニーズに応えてくれないと言うなら潔く撤退して、やれる人と交代するしかない。
みな事情をかかえている、幼子抱える人、介護する高齢両親抱える人、障碍者、子供が不登校やいじめで対応が大変な人、子供がいじめで自殺した人。子供が自殺したから納期に間に合いませんでした、介護が大変だからクオリティ低くても許してね、は通らない。そんな人の作った橋を渡りたいか、そんなパイロットの操縦する飛行機に乗りたいか。顧客の悪口言う前に、その自分の説明に費やす膨大なエネルギーを、まずは仕事に回してからにしたら」以来、連絡はない。でもこのことでちょっと感じたことがある。
「人の話が聞けない、自分の話をし始めると止まらない、いつも自分のことだけで精一杯で自分の関心のあることだけに執着してしまう」のは「障害だから理解して」と言う。「空気を読めない」「相手の感情を察することができない」のも「障害だから理解して」と言う。
同じことを、私や定型者がやると「性格が悪い」「気がきかない」「嫌な人だ」となるだろう(実際彼女自身、以前は他者のそうした態度に対して、ちょっとどうかと思う等陰で文句を言っていたことがある)。社会で通用しないことがわかるから、性格だか態度だか言葉づかいだかをちょっと変えよう、ということになる。いずれにせよ、”そのままでいい”、”あなたはあなたのままでいい”ということにはならない。
ADHDの人がやると「障害だから理解してほしい」となるのはどうなのかな、という気が正直する。その点での学習能力がない、対応できないから、周りに理解してもらうほうを選びたい、ということなのだろうか。自分がとった言動について、「障害があるから責任をとれません」と言っているのと同じではないか。そうなってくると、もう普通に友達づきあいは難しくなってきて、○○さんを支える会的な、ボラと被支援者の関係に近くなってくる。とにかく、LGBTにせよ適応障害にせよ、私を理解して、私を理解して、というメッセージがマスコミでもどこでも、近年やたら多い、溢れている。古くは人種、民族、地域、難民、階級、目に見てわかりやすい身体障害や病気など。その時点ならまだ対応可能だったが、近年、どんどん被XXの立場に移行する人が増え、理解するべきとされる側の、健常者だか定型者だかが減ってゆく。これもどうなんだろう、という気がする。社会として健全でないというか・・・。
そしておそらく、実際の状況は入れ子になっている。ある人は項目Aでは被害者(というか理解してほしい側)だが、項目Bでは加害者(というか理解するべき側)。あるいは、ある1項目では被害者でも、他の全項目では加害者かもしれない。それを項目Aの話ばかりして、それで全てが免罪符になるような言い方をするので、なんだかな、それは違うだろ、ということになる。
- 2018.10.23
最近話題の話題から
不正入試問題 医学部などで女性や浪人生に対して合格率を恣意的に低く抑えていた問題が話題になっている。
私立である以上、合格させる人を恣意的に選んでよいとは思う。金持ちだけ、逆にスラムの子だけ、特定の性別だけ(現に男子校女子校がある)、特定の民族だけ、というのは十分にありだ。
だた、その場合、それを明記しなければいけない。明記していない場合は、はっきり言って受験料詐欺になる。知らずに受けてしまうと損する。費やした交通費や、受験に費やした時間も補償すべき。
その大学が女性をいらないならそれでいいし、最初からそう受験要綱に書けばよい。男子校にするとか、女性は何人までしか取らないと明記する。浪人生に関しても同様。きちんと明記してそれでも受けたい人が受ければよい。それをやらずに受験料とるのは詐欺罪、差別云々以前に、まず詐欺事件だと思う。五輪とサマータイム 五輪がらみでサマータイムにしては、という話がもちあがった。いちおう採用されない方向のようだが、まったくオリンピック何様、という感じだ。必要経費もふくらんでいるし、これ民間なら倒産だろ。生活に迷惑かけてまでやるほどのことか、正直失敗すればいいのにと思う。日本が多額の費用に耐えられず返上したり、開催したもののその後多額の負債返済で国力落ちたり大変な事態になれば、IOCも考えるでしょ。五輪続けたいなら、陸上と水泳のみのシンプルに戻し、世界選手権と同等レベルの大会に落とすしかないと思う。
ところで東京五輪は、電通が仕切っているという。長年の慣行から、メディア・イベント・興行関連が莫大な利権がらみの問題多いシステムになってしまっている。下のパワハラ問題にも似て、誰もメスを入れず慣行として従う状態が続いているのでは、コスト削減のネックの一因ではと感じる。スポーツ界のパワハラ問題 レスリングに始まってアメフト相撲ボクシング体操その他いろいろあったが、そういう人がまかり通るのは結局、周りに彼(彼女)を支える人たちがいるから、というのがある。意を決して告発する人が出てきたが、大多数は不正が行われていると知っていても、見ないふりをしてやり過ごしたり、場合によっては加担したりしている(そして後から実は嫌だったと言う)。
告発する声のほうが優勢になってくると、絶対的権力で君臨しているように見えた人があっけなく無力になり去ってゆくのだが、そうなると、あの絶対的に見えた権力とは一体何だったのだろうといつも思う。
こういうときに思い出すのは、チャウシェスク失脚のときの映像だ。彼を称えるために集められた大群衆に向かって、大統領がバルコニーに立ち手を振りはじめる。ところが称える声は、次第に怨嗟の声に変わった。いったん形勢が逆転すると、オセロがぱたぱたと入れ替わるように大統領を糾弾する怒号のほうが大きくなり、ついに退陣シュプレヒコール一色になった。青ざめたチャウシェスクがいやいやするように手で声を振り払おうとするが、もうどうにもならない、止めらない状態が印象的だった。この後、そのままの勢いで大統領一家は幽閉され銃殺刑に処せられるのだが。
この勢い、彼を追い落とす力が実はあるのなら、なぜ彼や彼の息子(ニクだったか?)が権力を振っているときに止めなかったのか、とよく思うが、普段はみな止めようとしない。臨界点に達したと、ある割合以上が感じ始めたとき、一気に形勢が変わるようだ。どの国でも機関でも、権力とそれに従う人々との関係はそういうものらしい。テレビ報道について 最近、テレビで訃報報道を目にするたびに考える。基本的にテレビで報道される訃報は、テレビによく出ていた人が多い。高名な学者や企業人の場合もあるが、テレビに出ていた俳優やタレントが圧倒的。中にはさほど有名でなくても、時間をとって報道している。一般社会にはもっと重要な人が大勢いるが、そういう人たちは報道されない。内輪話に電波を使っているようで、今のテレビは、重要性と報道量にまったく相関関係がないと感じる。
同様のことは、北朝鮮がらみの報道にも感じる。よく北朝鮮のテレビ報道の映像が流れるが、長時間流す必要あるのか、原稿読みで十分ではと感じることも多い。軍事パレードの際も延々パレードの映像が流されていたが、北朝鮮も脅威だろうが中国やロシア、アメリカも軍事パレードを行っている。場合によってはそちらのほうが、はるかに脅威のはずだが、ほとんど報道されない。モリカケ問題、官公庁の障害者雇用水増し モリカケ問題、官公庁の障害者雇用者数の水増し報告、どれもはぐらかした回答をして、なんとなく押し通す状態が続いている。民間が割合守って雇用しないと罰則あるはずだが、官公庁は言い訳すれば通る。言い抜けして通してもいいんだ、それなら民間も、無理して守る必要ないし罰せられてはいけないはず。口きき、友人優遇も同様。
今、まともにルールを守っていると損した感が強い社会になりつつあると感じる。口先のうまい、サイコパス系の人が得をする社会になりつつある。
民泊に関連する問題も同様。自身は遠くにいてマンションを民泊化している人は、ゴミ出しその他起こってくる問題の面倒を、近所の人に押し付けている。つまり利益だけ取って、面倒見は社会に押し付けるフリーライダーなわけで、そこに不満と不公平感を感じ取る人が多い。携帯通信料 日本の携帯通信料が世界に比べ高額だという問題。緊急用のスマホを用意するため、いろいろ調べた。その結果、大手キャリアの2年縛りは合理性があるなという感想を持った。
スマホは陳腐化が早い。大体2年でOSの更新が止まる(Androidの場合。アップルはもう少し長いが、その代わり端末代が高い)。OSの更新は、Googleか、キャリアか、端末製造企業のどこかが行う。お財布ケータイその他改変部分が大きいので、WindowsのようにMSが一括して行うのと同じ方式はとれないらしい(Googleもそのへんを問題視して、自ら端末を売り始めているが)。格安スマホは、キャリア販売でないから格安スマホを作った会社が更新することになるが、販売後まったく更新しないところもある。格安だから、まあ当然だろう、要は使い捨て。
単にネットで調べものと電話メール程度に使うだけなら、古いOSのまま使い続けても問題ないだろうが、銀行やクレジットカードを利用する場合は、セキュリティ上問題がある。LINEもなりすましにあう可能性がある。だから、大手の端末無料で2年縛り、という方式は理にかなっている。2年で陳腐化し、セキュリティ上問題になるからだ。本当に高いのかな、あちこち携帯が繋がる通信網構築しているのは大手キャリアなんだし、ここを叩くことで繋がらないところが増えたら、かえって困るのでは。格安は格安、繋がりにくかったり従量制でライトユーザーには安いがヘビーユーザーには不利なシステムで、何も問題ないと思う。明治150年 明治150年にあたり、祝賀イベントを行う側と、いや明治維新の負の側面も見るべき、という側と両方ある。
負の側面もあると思うが、そこだけ強調するのもなあ、と感じる。基本的には、明治維新で自ら旧体制に引導渡すことによって混乱せず(もちろんいろいろあったが、対外的に)、欧米の介入を避け独立し続けられた、という基本線は変わらないと私は思う。企業での改革をみても、改革するとき、全員がハッピーになるやり方は現実的に不可能。必ず割を食う人は出てくる。リストラもあるし反対派は居づらく(居られなく)なる。(だから中国人のように、どちが勝つ側かをよく見極めた上で味方につく、という処世術もある。負けるとわかっていても道義的にこちらについて滅びるのを名誉とする日本式もある)
それをふまえた上での負の側面ならよいが、明治維新そのものを否定する方向に向かうのはどうかと感じる。(たぶん、このへんの感覚が、リベラルが反発を買う一因ではないかと感じる)
友人たちの右傾化
先日知人に会った際、ごく普通の友人たちのMLグループで、みないつのまにか右傾化していて驚いた、という話を聞いた。大学のサークルから続くグループで、もともと政治的な人たちでもないという。それがある話題をきっかけにML上で議論になり、みな安部政権寄りの方向で、産経あたりで言っていることをそのまま受け売りで書いてきて「あなたは止まっている」と言われ、あれこれリベラル的な意見に対する反論サイトのURLを送られたりで、嫌になり「この話題はもうしません」と一抜けたしたという。
なんだか雰囲気が読めず怖かった、と言っていた。トランプ支持の人たちや”Q”にも似た現象のように感じ、世界的潮流として、それこそチャウシェスクのときではないが、オセロがぱたぱた変わるように、思想の潮流の潮目が変わってきているのかもしれない。
おそらくこれは、強制ではない。一部メディア戦略による洗脳もあるかもだが、そればかりでもなく、自ら選んでいる。変わるとき、てこうなんだ、という感じだ。彼らに、騙されている、戦争や独裁の真の姿を知らないからだ、と言っても聞く耳もたないだろう。それは逆も、「そのURLを見なかった」という知人の側も同じなのだが。ちょっとこの問題は、もう少し考えてからまた書くことにする。