アテルイ
活東庵公開日:2002/9/16
この夏、新橋演舞場でアテルイの公演がありました。見たところ完全なエンターテインメントで、単純にそれとして楽しむこともできますが、汎用性のあるテーマ、だからこそ奥深いともいえます。日本古代の蝦夷とヤマトの戦を描いた作品ですが、見ていて、最近活発になりつつある「東北学」や、民族の問題を思い起こさずにはいられませんでした。
赤坂憲男氏の、柳田国男氏は日本の原風景といえば田圃の広がる光景という幻想を、他の光景の広がる風景があることを知りつつ、敢えて作り上げていったのではないか、という指摘。また、ちょうどそのころNHKで、アイヌのために尽くしたケルト系イギリス人の考古学者で医師、モンロー博士の故郷を、萱野茂氏がスコットランドに訪ねた番組を放映しており、その番組で知った、スコットランドは18世紀にイギリスに併合されたあと、部族ごとに集まって暮らす風習を禁じられたり、最近までゲール語の使用を禁じられていたという話。
アテルイでは、ヤマトは蝦夷をみな殺しにしようとしているかのように描かれていましたが、物理的にそれは無理ではなかったか、また歴史的にも、よほどの少数民族が対象でない限り、ないことと思います。この点は脚本の設定に疑問があり、再演の際には変えてほしい部分です。通常、歴史的に行われるのは、勝者の風習を身に着けることの強制、名前の変更、そして言語の変更です。ただし、古代は学校という効率的な教育システムがないので、言語の変更は発想的にあまりなかったことでしょう。そして婚雑。こうやって、負けた側(この場合蝦夷)はヤマトに吸収されてゆき、世代を経てヤマトに変貌してゆきます。ただし、元何々、という差別は残ることがあります。それは、世界中に、他民族というほどでもない、下層クラスの人たち、という形でに今でも残っています。
実は、攻めているヤマトの側も、そうして吸収されていった諸民族の集合体だったと思われます。大君を族長に据えた大和を核に、土蜘蛛、出雲や、隼人など。そして今の日本人もそういうわけです。つまり、一人一人の体の中に、侵略するヤマトの血と、攻められ民族としては滅ぼされた(しかし物理的に血としては残った)蝦夷や土蜘蛛の血の、両方が混じっているわけです(どちらの系統のほうが強い、ということはあるでしょうが)。
これは、世界的に強い、人数の多い民族はみなそうです。中国人もイギリス人も、もちろんアメリカ人も混血、または多民族です。中国人と話していると、自ら「中国人は混血、雑種だ」とよく言います。→「純粋中国人」伝説
先の番組では、支配する側のやることはどこもほぼ同じで、ケルトに対するイギリスの対応は、日本のアイヌに対するものとそっくりだ、と言っていましたが、戦争前の日本の台湾や朝鮮半島に対する政策もそうでした。一方、現在の中国や台湾のようすを伝える旅行番組などで、インタビューに答える少数民族が中国風の名前で出演し、北京官話を話すのを見ても、ここでも同じだと感じます。
現在は強要はしない国も多くなり、ケルトの人も言っていましたが、就職や将来を考えると英語を学ばざるをえない、という状況があります。彼ら自ら選択しているのだから、仕方ないで済ませてよいものかという問題はあります。
9.11は異文化からの異議申し立て、という意見もあります。中世社会までは、支配の方法も、ちょうど豆電球のランプがあちこちに灯るように、あるところは強く、あるところは弱く、ときには重なりあったり、まったく光の及ばない地域もあったり、あいまいな部分が存在する社会でした。
現代は通信・移動手段がすすみ、画一的な国民を作ろうとするし、別にアメリカが故意に進めようとしなくても、世界の均質化がどんどん進んでいます。その一方で、それにあわせ生き残るために捨て去らざるを得ない世界があります。しかし、それは本心からではありません。文化の多様性が問題になりつつある一方、”負け組”になりたくない、生き残らなければならない、というのも確かに、あります。
個人レベルでも、本来もっている部分を押し隠して回りにあわせてばかりいると、精神的な病気になります。社会も、多数とは一致しない部分(田圃以外の光景の広がる地方、別の言語を話す人々、異なる風習)を切り捨て、合わせてばかりいると、いつか歪みがはねかえってくることが予想されます。では、歪みが暴発する前に、どう均一化の嵐とおりあうか、となると、(”負け組”覚悟の特殊な対処法以外)まだその方法がよくわからない、というところでしょうか。
付記
工藤雅樹氏の「古代蝦夷の英雄時代」には、アテルイや、アテルイ以外の多くのエミシの族長たちの名や反乱について、当時の文献にあたって記されており、新書で読みやすく、興味ある方にはお薦めです。
アニミズム
活東庵公開日:2002/12/12
人気の映画ハリーポッターを見てきました。原作を読んだときにも感じたのですが、グリーンノウシリーズや、魔法のベッドシリーズ、さらにはアーサーランサムやトールキンにも通じる、イギリスの典型的な児童文学ですね。
ところで魔法のベッドシリーズも同様ですが、この少年少女たち、魔法使い、ホグワーツの学生や先生方は、教会には通っているのでしょうか?
少なくともホグワーツにはその気配がまったく感じられません。アイルランドのイエーツの妖精ものもそうですが、この手の話、妖精、魔法、といったモチーフは、アニミズムに通じる思想のようにも思います。
ハリーポッターの映画を見ながら、木にも神がいる、山にも神を感じる、屋敷にも屋敷神がいる、という昔ながらの日本と同じ感覚を覚えるのです。たぶん、キリスト教が伝来する以前はヨーロッパもアニミズムだったろうし、こうして魔女、魔法、妖精、といった存在が途切れることなく傍流に存在し続け、支持を受けるのは、人間にはアニミズム的思想を必要とする部分もある、ということの証しではないか?
寡聞にしてイスラムのことはよく知らないのですが、厳格な一神教に見えるイスラムの社会にも、その各国、各民族のレベルまで落として見ると、そこにはイスラム以前の古い信仰に由来する土俗的なもの、おそらくアニミズム的な思想が垣間見えるのではないか、という気がしますが、どうなのでしょう?
アテルイについて書いたときにも考えたことですが、勝者のマジョリティー民族と戦や経済的には敗者の少数民族、国民国家と部族制社会、そして体系化され排他的な一神教的世界観となんでもOKのアニミズム的世界観が、最近しきりに気になります。
付記
面白い本を見つけました。芳賀日出男氏の「ヨーロッパ古層の異人たち」東京書籍で、オーストリアやスイス、ドイツの山村、またラトビアやブルガリアなどの周縁の国々に残る、おそらくキリスト教伝来以前から伝わる古い祭りを特集した写真集です。古い新年祭や夏至祭り、バイキング祭り、竜退治の祭りなどで、思わずアジア好きの私が、こういう祭りならヨーロッパも見てみたいなあと感じるほど近しい感覚があります。竜退治もかなり大規模で面白そうですが、クランプスやクロイセ、クッケリといった異人が来訪するという新年祭も、まるで民族文化映像研究所の映像で見る日本のどこかの村の風習のようで、興味深いです。
キリスト教版ハリーポッター
活東庵公開日:2004/8/4
以前ハリーポッターとキリスト教の関係に関する疑問について書いたが、ついにハリーポッターに代わるキリスト教版の児童書が出版されたという記事をNew York Times(朝日新聞縮刷版)で見た(2004年6月か7月、月日のメモをし忘れ)。ハリーポッターなどの児童書が魔法やオカルトに傾き過ぎていることを憂いた英国国教会の牧師G.P.Taylor氏が、それなら自分で創作しよう、と児童書「Shadowmancer」を書きあげ、昨年イギリスで売上げが1位になったり、15週に渡ってハリーポッターよりも売上げが上位に来たという。今年5月にはアメリカでも発売、6週に渡ってNew York Timesの児童書のベストセラーリストでハリーポッターより上位にランクイン、30万部を売り上げた。内容は、18世紀のヨークシャーを舞台に、世界制覇を狙う悪魔の牧師を3人の少年少女と海賊(smugglerなので密輸業者が直訳だが)が倒す、というもの、神の力を讃える内容になっているらしい。9月には後編「Wormwood」が出るという。
個人的には、ハリポタ的なものも、ヨーロッパの古層にはこうした感性があるんだ、と親近感をもって見ているが、キリスト教色が薄かったので、厳格なクリスチャンはどういう思っているか気にはなっていた。やはりこういう動きもあるか、という感じだ。
ミヤンゲ
執筆日:1996/3/17公開日:2003/3/19
学生の頃、ある漫画の一場面で、”人は他者の犠牲の上に生きている、たとえば、今まで自分が生きるために何頭の牛が死んだのだろうか、人間、て悲しい存在だね”、というくだりがあった。そのとき、こうしたくだりも何となくわかるんだけど、何か違う、と感じた。その漫画は当時流行っていて、回りでも主人公らのせりふに感動している人が多かったが、どうも自分が内部に持っている感覚とどこか違う気がしてならなかった。でもそれが何なのか、ずっとわからなかった。
梅原猛と中上健次の対談集を読んだとき、ミヤンゲの話が出てきた。それを見たとき、それが何なのかわかった気がした。アイヌは熊を狩るが、それを神が熊の皮をかぶって人間界へ来たミヤンゲととる。そして神の部分をイヨマンテで送り返す。宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」のさいごの場面は、逆に熊がイヨマンテを執り行い、人間を神の世界へ送り返しているのだとする。ミヤンゲだからありがたくいただく。生きるために必要だから。でもミヤンゲだから粗末にはしない。
人が生きて行く上で(あるいは生物が生きて行く上で)必ず出てくる他者の犠牲を、”罪”ととるか(だから自分の存在を悲しい存在ととるか)”ミヤンゲ”ととるかは、発想が一神教とアニミズムほどに違う。ミヤンゲととる場合、何でも都合よくミヤンゲにしてしまう危険性があり、使い方を誤ればかなりいい加減になる考え方だが、罪ととる場合もかなり傲慢でファッショに通じやすい面があると思う。「みな罪の存在なんだ、この世は穢れている」「そのことに気づいている私と、気づいていないあなた方(無知蒙昧な人々)」。実際、オウムに入った人と話したとき、そういう言い方をしていたし、理想的な世直しに憧れるタイプの人には、ありがたや、よりも、罪だ、というパターンの人が多いように感じる。
若者がよく、「この世は汚い」「社会は汚い」「人間は汚い」と言う。ある人は人や社会が怖くて引きこもり、ある人はそうした汚さのない共同体や宗教団体をさがしもとめ、ある人は世直しをはかろうと、かつてなら学生運動、今ならNGOやNPO、さらに満足できなければより過激な世直し集団に入る。
この世は汚い、というのはどこか本末転倒のようにも思う。この世が現実にあってその中に自分が生きているのに、まず自分の頭の中の「あるべきこの世の姿」が先にあってその下に現実のこの世を見ている。
熊も猟師も、お互い相反する、共存しにくい存在だ。でも、そういうお互いの立場がよくわかっていて、相手の犠牲をミヤンゲと受け取り、自分もいつか相手のミヤンゲになる。
沖縄と津軽
活東庵公開日:2003.7.7
沖縄の音楽シーンのブームはしばらく前からだが、ここ数年、津軽三味線もかなりのブームになっている。これ、て偶然?かつてはマイナーで下に見られていた部分もあったところのほうが、創作意欲、表現したい欲求につき動かされ、花開きつつある感がある。
21世紀に変わる頃、新聞などで21世紀はどんな世紀になるか、という特集がよく組まれていたが、その中に21世紀はアイデンティティー争いの時代になる、と言っている人が国内外に何人かいた。
思うに、自分は何者か明確に意識しているほうが、精神的に弛緩せずに、今の高度情報化社会をサバイバルできるのではないか。メジャーの側のほうがどこか行き詰まり、元気ない感じなのは、メジャーである分、”自分とは何者か”をつきつめて考える機会に乏しく、どこか漠然と生きているからなのではないか。昨今の文壇の、在日コリアン系の人たちの活躍を見るにつけても、彼らの作品のふつふつとしたエネルギーは、常日頃からマイナーな立場故に”自分は何者か、この社会でどう生きるか”という問いをつきつけられ、考え続けてきたことが大きいのではないか。そういう思いが強くする。
(できればアイヌ系の文化の興隆も見てみたい。遅きに失した感もあるかもしれないが、そのルーツの人は今でもけっこういるだろうし、最近の知里幸恵の再評価もその兆候かもしれない。彼女のことは15年ほど前、NGO活動をしていた頃、彼女宛の手紙の形式で現在の日本の状況を憂う文章を会報に寄せている人がいて、初めて知った。)
飛鳥
活東庵公開日:2003.7.7
奈良の飛鳥を初めて訪ねたのは、大学を卒業してしばらくたった時のことだった。日本史では有名な聖徳太子の足跡や大化の改新の舞台になったところだけに、どんなところだろう、と期待していた。
ところが、耳成山、天香具山、畝傍山、どれも山といっても実際は丘にしか見えない。この程度の丘なら武蔵野台地にもいっぱいある。そして飛鳥全体が想像していたよりもかなり小さい。ちょっと歩けばすぐ誰某の生まれたところ、大化の改新の舞台になったところ、何とか氏の滅んだ丘。あの話、て、すべて半径数キロ内で起こったことだったのか。そう思った(直径数キロと言ってもいい)。
最初は、まあどうせ日本だから、ローマやエジプト、中国に比べればはるかに小さい規模で、半径数キロ内の草葺の小さい村で起きた話が日本史の重要事件になるのだろう、と考えた。
そのうち、あれ、て、ひょっとして、どこかの一部族の話だったのではないか?そういう気がしてきた。今の永田町も官公庁は半径数キロ内にあるが、人々は全国からやってくる。政策も選挙も全国が対象だ。でも当時の主役たちは皆生まれが飛鳥近辺だ。基本的にあの近辺の村の話なのだ。ほかは記録がないし、その部族の政体が今も続く部分につながっているので、正統日本史となっている。最初はとある一部族の話だったのが、たまたま大きくなり、続いたので全体の歴史としてそのまま残った。そういう気がしている。
これはどの国でも同様で、たとえば漢だの隋だのは、今の中華人民共和国の版図よりもかなり小さい(殷、周になればさらに小さい)。しかし、中国史として学ぶし、重要な扱いでもある。ただ、国民国家式に、現在政権をとっているところにつながるものだけが正史として成員に一律に与えられるのも、何か変な気はするが。
追記:
実は飛鳥に行って一番最初に感じた感想は、「扶余とそっくり」というものだった。飛鳥に行く以前に韓国に行ったことがあったため、田園風景に点在するやわらかい丘を見たとき、扶余を思い出した。ふと、当時の人々は、ひょっとしてこの景色を故郷と重ね、懐かしくてここに都を定めたのだろうか、とも感じた。
飛鳥ではもう一つ、興味深い体験をした。それは南北の感覚が狂う、というもので、自分が何を元に南北を判断しているのかがよくわかった。たまたまその日は曇りだったため、太陽の光から南北を判断することができなかったのだが、地図を見て歩いているのに、いつのまにか南北を取り違えて歩いていることが何度かあった。方向感覚には自信があるのだが、と注意すると、川の流れる方向や、高い山のある方向が、自分の方向感覚を狂わせていることがわかった。ずっと関東(一時期阪神)に住んでいたため、高い山は東か北にある、川は南か西へ流れる、という方向感覚を無意識のうちに持っていたのだ。飛鳥は高い山が南にあり、川は北に流れている。それが地図を見て歩く方向を決める際に、地図の向きを逆にとってしまい、逆方向に歩きはじめる原因だった。
原風景
執筆日:1996/2/9公開日:2003/3/19
静岡出身の両親を持つ友人は、よく、
「うちの両親の子供の頃、てすごく楽しい思い出があるのよね。それを聞いていると、とっても楽しかったんだな、て羨ましい。あたしは子供に語れるような、そんな川で魚とったとか、山で遊んだとかいう思い出はないのよね」
彼女はまた、
「あたしたちが子供の頃、あの頃、て、東京に親戚が来ると、ホテルとか泊まらないで親戚の家に泊まっていったじゃない?今考えてみれば、あんな狭い家によく泊まれたな、てくらいにしょっ中、誰かしら来ていたのよね。あれ、てなんか、なくなっちゃったね」
60代より上の人たちはよく、子供の頃、囲炉裏やこたつを囲んで家族で夜を過ごした、何を話していたのかはあまり覚えていないが、楽しいときだった、いまそうした思い出を子供たちに残してやれただろうか、と言う。
畑を借り地方へ通う中、つくづく感じるのは、地方の60代以上の人たちの人付き合いの仕方が、いまの40代以下とでは大きく異なることだ。農業を教えてくれる老夫婦は、
「いまの人は好きな人としかつきあわないな。田舎じゃそうはいかないからね、それでみな出て行くんだね。友達とか、好きな人とだけつきあっていればいい、ちゅう考えだからね」
友人たちは、以前の人気ドラマ「ちゅらさん」に出てくるような下宿に憧れるという。しかしあの世界を実現するには、それなりの努力がいる。相手を不快に思うことがあっても、関係を維持する度量や技術が必要になる。「いやになったら出て行けばいいよ」「変な人がいたら関係切ればいい」と言っていたら、いつになっても理想の”ユートピア”には到達できそうにない。おかしくなったら出てゆき、まっさらなところを捜し歩くよりも、あわない人とも合う人ともうまくやってゆく能力のほうが遠回りのようで正しい道かもしれない。
何かが静かに消えて行く気がする。静かに遠のいてゆく。古い世界を知っている世代とともに。
地方に人のいた頃
執筆日:1996/10/13、1997/2/9公開日:2003/3/19
民族文化映像研究所で豊松祭事記を遊びを見る。豊松祭事記は昭和44年から52年頃にかけての映像で、おかっぱ頭の子供、ぺらぺらのワンピース、ビーハイブのような頭の若いお母さん、舗装されていない道、とそこには懐かしい光景が広がっていた。そこここに当時の両親、親戚、友達の姿がかいま見える。そして何より、人が集まるところに、子供が大勢いた。一緒に見た友人も、「そういえば最近、子供の遊び声を聞かないね」と言った。
民映研の記録映画を見て必ず感じるのは、こうした記録映画のとられた昭和40年代、50年代は地方に人が、そして子供が大勢いた、ということだ。みな何かほおばったり、柱にもたれかかったり、お転婆そうにはしゃいだり、祭りでもりあがったりしている。大人も、ビデオやカメラ片手は誰もおらず、自分たちが参加している。あれはみな、どこへいったのだろう?
離島のデータ集、シマダスを見ていても、今の60代以降の人々がいなくなれば無人島になりそうな島ばかりだ。この世代以上の人々が日本の津々浦々を守ってきた気がする。見ていると、「昭和30年に最高2000人の人口を数えた」「昭和35年に人口が最高だった」など、30年代に人口が最多だったとする記述が多い。そして40年代半ば以降、急速に過疎化する。
思えば、私が生まれたときこの世に存在していた人々の、おそらく半数近くはもうすでにこの世にいない。それを思うとき、焦りに似た、急がなければという気持ちが、なぜかしてならない。
四国へんろ雑感
日本人が先住少数民族になる日 活東庵公開日:2003/2/6
昨年12月後半、および年明けてから、四国遍路を区切りで歩いてきました。
地方を歩くと実感するのが、その衰退のすさまじさです。山中のお寺へ行く途中、おそらく廃村となった集落の脇を通る道があります。ちょっと寄ってみると、神社が文字通りひっくり返って倒壊していました。鳥居に書かれた氏子の文字がわびしいです。田畑は一部使用されているようなので、おそらくふもとの町から通っているのかもしれません。山村の衰亡についてはこれまでも随分人口に膾炙されているので、目新しくはないですが、倒壊した神社にはさすがに来るものがありました。
そして、さらに感じたのが、地方の中核となる都市の衰退。山村や小さい集落が衰亡しているのは予想していましたが、特急が停まるような中核となる町が、商店街はさびれ、街中に空き家が目立ち、想像以上に衰退していました。銀行、NTTその他さまざまな支店が閉鎖され、「へんろみち保存協会」が用意してくれた地図の食堂マークも、ほとんどが廃業、という地域もあります。徳島、高知、愛媛の途中まで回りましたが、特に高知にそれを感じました。愛媛では食堂マークで廃業になっているところをまだ見かけていないので、比較的ましなのかもしれません。高知は元気で気さくな人が多く、好感を持っただけに、残念な気もします。
国道沿いには、売り地の看板も目に付きます。閉鎖、廃業のまま放置された建物の光景には、心寒いものがあります。若者が毎日こうした光景を目にしていれば、希望を持てないだろうし、賑やかな大都市に出てゆくのもわかります。こうしていったん過疎がひどくなった地域は、どんどん人が住みにくくなってゆくのでしょう。
新規就農で地方に住んだことのある知人も、「子供ができて自然分娩してくれるお産婆さんかお医者さんを探したんだけど、その県にはないんだよね。そういう選択肢、て結局東京のがいっぱいあるのよ」と言っていました。彼女は子供は東京で出産したし、結局その後東京に出てきました。
こうした空き地、空き家はその後どうなるのだろう、という話を地元の人としました。子供らはみんな県庁所在地や大阪に出て行った、という人たちは、「そのまま大阪の子供や孫に代々継がれてゆくことになると思うよ。だって売れないでしょ、こんなとこ。誰が買う?」。で、もう誰も住まないまま家は荒れてゆくだろうと。
入るとしたら、自国でよほど低い生活水準で暮らしている外国人くらいかもしれない。もちろん、彼らも大概は都市へ行きたがるが。山村どころか、中核都市までもが数十年後には物理的に人がいなくなりそうな寂しさを漂わせているのをまぢかにして、近年急速に進む少子化と合わせ、少なくとも地方では、物理的に人がいなくなるか、日本人が先住少数民族化するかのどちらかではないか、と感じさせられました。
ところで、歩き遍路旅行そのものは面白く、人も親切です。ただし、国道を歩くことが多いので、交通事故に注意です。昔の四国へんろは別の危険もあったでしょうが、今は交通事故が一番怖いですね。国道脇に交通安全のお地蔵さんを見ることが多いだけに、よけいそう感じます。
できれば「へんろみち保存協会」が整備してくれている、山中の古いへんろ道を歩くことをお奨めします。国道を避けられるのと、昔の生活道であることが多いので、こんな大変な道を往来していたのか、と往時が偲ばれ、また国道沿い以外の集落も見ることができます。
ただ、峠越えになることが多いので、体力的には多少きつくなるかもしれません。そえみみずへんろみち(本みみずというのもある)などを歩くたび、峠越えの道はどうしてわざわざ、一番高いところまで登るように見えるのだろう、と感じました。あそこに見える低い切れ目、あれが峠か、という期待は何度裏切られ、がっかりしたことか。
四国遍路その2
活東庵公開日:2004.3.20
先々週、四国遍路の続きに行ってきたが、愛媛、香川の人たちの優しさに嬉しくなる一方、地方の衰退の激しさに暗い気持ちになった。特に丸亀がひどい。駅前にかなり大きなアーケード商店街があるのだが、開いている店は数分の一ではないか(水曜定休の店も多かったので、他の曜日はまだましかもしれない)。お城の前の立派な建物は撤退したNTTの支店で無人のまま残っており、周囲には整地された広大な空き地が広がっている。
遍路で歩き、地方の主要都市に来るたびに、シャッター商店街に出くわす。たまに店舗移転の張り紙があり、そちらに行ってみると、国道沿いに郊外型店舗パークのようなところが出来ていて、そこは結構人もおり賑わっている。また、本四架橋ができ、そのたもとあたりの街に店舗が移転しているケースもあった。多度津駅前などはマンションが立ち並び、本州に通う人たちのベッドタウンになっているようだった。
そうした街の栄枯盛衰や鉄道駅前の衰退と国道沿いの隆盛など、繁華街の移動、時代変化はあるものの、基本的に人が減っている感じは否めない。国道を行けば廃業した郊外型レストランの廃墟がぽつぽつあり、旧道を歩けば売り地の立て看が目に付く。
十年後、二十年後に四国遍路に行った場合、山では廃村になっている村も多いだろうし、町もすっかり寂れていることだろう。そしてこれは、東京の将来の姿ではないか、そんな気すらした。東京ばかりが人を呼び寄せる、というが、東京があるだけまだましとも言える。これで東京も空き家、売り地が目立ち、撤退した店舗の後が埋まらないようになったら、日本全体が暗い雰囲気に包まれるだろう。途上国から自国に希望を持てず日本や欧米に不法入国する若者たちの今の姿は、将来逆転した立場となるかもしれない。
ところで、愛媛、香川の人たちは歩いていると親切で、毎日何かしら、みかんだのうどんだの、飲み物にと小銭だのをお接待でいただいた。多い日は4回。四国の人はよそへ行ってお接待受けることはないだろうに、と思った。ただもらう一方の人間になってはいけないなあ、とも。
一方、宿で同宿した女性は、逆回りしているが香川の人は冷たい、遍路なんかやってるの、て感じで対応されることが多い、別の遍路には逆回りの道を教えると待ち伏せされてお金を要求された、と警戒心が強かった。後者の話は運が悪かったとしかいいようがないが、前者の話は本人の対応の仕方も関係しているのではないか、と思った。いやな目にあうとどうしても警戒心が強くなるし、それはわかる。そしてそれがさらにあまり親切でない反応を相手から引き出す。その悪循環もわかる。彼女は5ヶ月ほど歩き続けているそうで、そうした旅の疲れもストレスを助長させている気がした。本人もそれは気づいているようで、旅ばかり続けているのは精神衛生上よくない、今回何度目かの満願を果たしたら故郷に戻るつもりだ、と語っていた。
余談:アジア学院のレターで読んだのだが、農村から都市に移住する人口は世界全体で毎週100万人という。途上国ほど、首都への人口集中は激しく、人口の半分が首都に集まっている国もある。むしろばらけている(らしい、欧米は詳しくないのでよくわからないが)ヨーロッパ人の考え方や生き方、人生観に少々興味がある。
四国遍路の記録はこちら−>地方の崩壊
活東庵公開日:2004.10.18
前回、華氏911の項で、アメリカでも地方の田舎町が”空爆にあったような”惨状にあり、そうした町の貧しい若者が”愛国”の戦争を支えていると報じていることを書いた。
この春、四国を遍路で回ったとき、廃業したファミレスや銀行、NTTなどの店舗が国道沿いに続く光景に、これを毎日目にしては、若者も故郷で生きてゆく希望を持てず、都会に出たがるわけだよなあ、と暗い気分になったものだが、なんと10月10日付朝日新聞の姜尚中氏のドイツレポート(時流自論)にも、ほぼ同じことが載っていた。
「都市の一部やその周辺部では虫食い状態的に地域経済の破綻が進み、コミュニティーの空洞化に歯止めがかかる気配はみられない」「車窓から時おり見える残骸のような光景には、暗澹とせざるをえない」「すさんだ景観は、すさんだ心を育て、そうした若者がNPDのような極右政党へと走らせる一因となっているのである」
どうも、世界中でこうした状況が起きているらしい。これはもう、各自治体が個々に地方の再生のため努力して何とかなるレベルの話ではない気がする。世界中がそういう方向にあるなら、もう、その流れを止めることはできないかもしれない。人類全体の生活形態が変わりつつあるのだ、きっと。毎週100万人単位で地方から都会へ人が移住しているともいう。地方が必要か、人類は都会に集住すべきか、そうしても問題ないか、自然や広大な土地(田畑、森林、海洋)が必要な第一次産業はどう運営すべきか、それでも地方に住みたい人は今までの農村共同体とは別のネットワークや組織を作るべきか、等々、すでに、そうした議論をすべき段階かもしれない。
農薬について
活東庵公開日:2006.6.13
最近、ある会員制ブログに参加しました。おもに、そのブログから張られるリンク確認の目的で入ったのですが、たまにブログを書いています。ただ、会員以外は見られない、というのは荒らしがない一方、大勢に開けた感じがありません。ここを定期購読されている方もおり、ちょうど私の農業観を書くことになる機会があったため、こちらにも転載してみます。
なお、ここに書く内容は、ブログにコメントを書き込んでくださった内容から、派生させたものです。おそらく、一般にこういう理解の人が多いだろう、と想定した読み手に対して書いています。
まずは、いきさつについて、抜粋で。
・今年関東は曇天が続き、日照不足。こういう年はアブラムシが発生する(アブラムシは日光がきらい)。畑を貸してくれているおばあちゃんの畑も、近所の畑にもついたので、ランネートをかけたほうがいい、残っているから使え、と言ってくれた。以前、米不足の年にアブラムシが出て使用したことがあり、よく効いたので今年も使用した。通常の年は、アブラムシが出てもそのままにしている。スイカは枯れることもあれば自力で回復するものもあり、ピーマンは7月初めまでずっと縮んだままでも、梅雨が終わり太陽が強くなると復活、収穫期は短縮されるものの、その後はコンスタントに収穫できる。
農薬を使うかどうかは、基本的に労力でなんとかなるもの(除草など)と、収穫期には使わない、それ以外の場合で緊急性があり、病気などで自力対応が不可能なものには使うことにしている。人間の病気も抗生物質や薬を使うし、寄生虫駆除にも使う。植物の場合も、病気なら使ってよいのではないかと思っている。木酢液など有機栽培用の薬もあるが、
漢方と西洋医学の違いのような気がする。
と書いたところ、
・要するに農薬ですか?人によって栽培された植物は全くの自然(野生)とは違う。人間も自然の存在ではない。現代の人間の病気は自然(野生)に帰れば治ることが多い。栽培植物は野生を取り戻せば病気が治る、と言うことはないか?
・土壌が本来の力を取り戻すと病気や虫にも強くなると聞いたことがある。
との書き込みがありました。そこで
「"土壌が本来の力を取り戻すと病気や虫にも強くなる"というのは本当だと思います。
近代農法でも、最近は堆肥を使用した土壌作りと化学肥料、農薬の併用に移行しているケースも多い。
今の土地は長いこと荒れていた(つまり農薬も金肥もなし)ところを毎年堆肥入れて使っているので土壌は悪くないと思う。(ここ2年トラクターを入れなくなったら、ミミズも蟻もモグラも、訳のわからない土中の幼虫も増えて縦横無尽に活動しています)
私が思うのは、あまり近代農法を敵視するのもなんだかな、ということです。人間の自分たちの病気には化学的な薬を使用しているわけだし。緊急性のあるものについて、農薬を使用することは間違いではないと思っています。植物の病気も動物に対する伝染病(鳥フルなど)と同じく、一気に蔓延するので、ねぎの病気もジャガイモの病気も、病気になった株を見つけ次第すぐに引き抜いて畑の外に出す、引き抜いた手も良く洗う、などの処理が必要になります。それでも、もうすでに畑に菌が広まっていることが多い。そのままにしておくと本当にほぼ全滅します。場合によってはアイルランドのジャガイモ飢饉のようなことになる(あれも病気が原因)。そういうことを防ぐために農薬の開発が行われているわけで、悪意で作っているわけでもない。
”栽培植物は野生を取り戻せば病気が治る、と言うことはないのだろうか”
野生を取り戻した作物を食べる人がどのくらいいるか?特殊なエコロジストは喜ぶかもしれませんが、大多数は望まない可能性も高い。
おそらく野生を取り戻した作物は固いと思う(虫もやわらかいものが好き)。あくも強いはず(山野草を食べるグループの人が言っていた。食用化されていない品種はあくぬきが大変)。生産力も低いと思う(粒が小さい、実の数が少ない)。60億の人口を養えないと思う。日本も江戸時代は3000万、それでも飢饉がおきていた。(補足)
ただ、おっしゃるとおり、
作物でも、雑穀や里芋なんかは、病気はまずないし害虫もほとんどいないし(粟にアワノメイガがいるらしく、関西で栽培している人から対策が大変だ、と言われたのですが、関東ではほとんど出たことありません。多少食われることはありますが、今まで駆除が必要になるほど発生したことはない)強い作物もあります。おそらく、原種に近いんでしょうね。手間があまりかからず、重宝しています(笑)。
米も野菜も品種改良が進んでいるので、虫も病気も好む。でもみんな、そのほうがおいしいから食べているよね。需要がある限り、農家さんも作らざるをえないと思います。
雑穀も最近になって人気が出てきているとはいえ、あくまでサブ、米や麦に変わることはまずありえない。(ちなみに私が作り始めた頃は、「雑穀?鳥のえさにするの?」「雑穀は貧しいイメージがあるから食べる気しない」と言われていた)
一方、今の農林水産業に、農薬どうこう以上に深刻な問題がおきつつあることも事実で、今たとえばアマゾンを続々切り開いて大豆畑にしている。省力化のため遺伝子組換品種も農薬もガンガン使用し、それはそれで問題だが、ここ数年中国が大豆の大量輸入国に転じて争奪戦になっている。数年後には世界の穀物の需給バランスがくずれ、足りなくなると言われている。それでさらに森林を切り開いたり、過剰に収奪して土地が荒れ砂漠化してゆくが、修復するまもなく、まだほかに切り開けるところはないか、と移動してゆく。地球の資源をその調子で収奪し、その場しのぎの対応を続けてゆくと、いつか本当ににっちもさっちもゆかなくなるときがくる。農薬の過剰使用も、そうした姿勢の延長線上にある気がする。でもこれって、今の効率優先、コスト意識がないとたちまち敗北する”資本”主義の中で変えてゆくのは難しい気がする・・・。かといってかつての社会主義もそのままではもう現在の社会に対応できないと思うし・・・。新しい価値観が必要そうな気がするが・・・。いろいろエコ系などであることはあるが、どれもいまいちピンとこない。」
書き込み
・アブラムシのいる茎や葉に牛乳を筆を塗るとそのまま乾燥し、はがせると聞いたことある
返信
「”アブラムシのいる茎や葉に牛乳を筆を塗るとそのまま乾燥し、はがせると聞いたことある”
そうですね、
私も有機農法で牛乳を使う方法があることは聞いています。
ただ、先にも書いたとおり、
究極的には漢方と西洋医学の違いのような気がするんですよね。
これまで有機農法の学校で半年学んだり、専門学校による就農準備校に2箇所通ったり、不耕起栽培や有機養豚を行うグループ、各地で就農して有機農業を営んでいる人たちを訪問し、自然農法(福岡正信氏)の本を読んだりして、そう思うようになりました。
有吉佐和子の「複合汚染」が書かれた頃のような
薬漬けはよくないですが
(まあ今でも見た目にきれいなものを求める消費者のために、
不必要な部分まで使用せざるをえない面もあるが)、
一方、私は何が何でも農薬反対の立場はとっていません。
別な結論に達する人もいるでしょう。
それでよいというか、自分で自分のやり方をデザインできるところが
農業を含む自営のよいところかも・・・
(リスクもあり、金稼ぎにはなりにくいが・・・)」
補足
”野生を取り戻した作物”について、さらに、脱粒しやすい、収穫期がそろわない、などの可能性もある。作業するほうにとっては大変な手間になる。品種改良には理由がある。野菜の場合、あまり改良されていない昔ながらの品種は、作りにくい(技術がいる)とよく聞く。稲などでも冷害に弱かったり、いろいろある。またなぜか、野生の動物も改良された”人間にとっておいしい”作物のほうを好む(昔ながらのもちもちしたトウモロコシとハニーバンタムなら、確実にハニーバンタムのほうがやられる)。
昔は、その土地で作ったものを周囲で消費していたため、一面XX畑、ということは少なかったと思う。それもあって病気が出ても一気に一面に広がる、ということがなかったのだろう。
さらに、現代では、例えばアフリカで発生した野菜のウイルスが、1年後には日本にも上陸してくる、と言われている。人間の病気同様、野菜や穀物のウイルスや害虫も、グローバル化している。
もし農薬や化肥に反対なら、農業に興味がある、ということですから、まずは自分で農作業をやってみませんか?できれば、家庭菜園レベルではなく、1反以上の規模だと、その苦労もわかるし、なぜそうなるのか知識も増えると思います。
自分が病気の場合、自分の体への薬には化学的な薬を用い、ダニアースなど家庭内でガンガン使いながら、農薬に過剰反応するのもなんかなあ、という気がします。
就農準備校でも聞いたのですが、田舎の人は、実践する人に弱いそうです。語るより、実践する人になりませんか?
田舎の将来
活東庵公開日:2006.8.5
畑を借りている近所でまた老人が一人亡くなった。これで空き家がまた1軒増える。東京から車で1時間から1時間半のところなので、子供たちは退職後戻るかも、と残しておく。ただ、畑はやらないので貸すか荒れたまま。
子供たちは東京近辺に出ている人も、同じ市内でも買い物に便利な町場にでて家を建てている人もいる。畑は税金もたいしたことないが、田圃は組合費が1反年2万弱だかかかる。水利だののお金だ。
昔は近所に店が何軒もあったが、みな車を持つようになって町に買い物に行くようになり、
1軒残してみなつぶれた。最初の車世代が年をとり、子供も家を出て老人だけになると、
車での買い物が難しい人も出てくるようになった。歩いてゆける近所の店はもうない。
今度行政がバスを出し、市内の農村部と町を結ぶという。今あるバスは週一回だが無料。今度は毎日出るが有料になる。
昨日NHK特集でワーキングプアが増えている話をやっていた。手に技術のないフリーターと、仕立て屋や農家など専門職とでは状況も対策も異なるはずだが、「普通に生きたい」のに普通に生きられない状況になりつつあると結ぶ。
誰もが金融などで月何千万も稼ぐことを望むわけではない。そういう人がいてもよいが、普通に働いて、夕方は地域の人とのおしゃべりを楽しみ、夏の夜はビール片手にプロ野球観戦を楽しむ生活を望む人もいる。それを野心が足りない、モチベーションが足りないととらえるのは、いびつだと感じる。
同じ番組の中で、子供は機会平等でなければならないが、負けた人を助け勝った人を妬むのはおかしい、という意見の人がいたが、私は農業や仕立て屋が負けかな?と疑問を持った。今は状況は悪いが。
元ハゲタカファンド氏の夢でも書いたように、動物にも個体差はあるが、そう大きな差となって出てこない。人間社会には、固体差をアンプのように増幅するところがある。現実以上の差が生活や稼げる金額などに出るのだ。
言われるように、ネット社会は情報を入手しやすいため(日本一、世界一など)注文の殺到する人と注文がこない人とニ極化が進んでいる。お店、物書き、タレント、大学や予備校の先生、病院など専門職すべてに言える。
しかしそれはその人のせいなのだろうか?このアンプ機構そのものにいびつさはないか?”負けた”人を助けろとは言わないが、この増幅効果が適正か、検討する必要はある。
このままでは、確実に必要なものが消える。それは山村かもしれないし、ある職業かもしれない、精神的な何か(実直さ、勤勉、正直など)かもしれない。山村や日本の農業など消えてもいい、という考え方もあるかもしれないが、なくなった後、あれはこういうことだったのかとわかる、そして、戻そうと思ってももう戻らない時が来る。だが時代の流れは止められない。一度、ランナウェイ、煮詰まるところまで煮詰まれば、焼け跡の中から新しい芽が出てくるかもしれない。
今田舎で起こっていることは、日本全体の将来だと感じている。
有機、江戸時代、そして従征日記
活東庵公開日:2006.8.27
『逝きし世の面影』(渡辺京三、平凡社ライブラリー)という本がある。ここに書かれている内容は、いろいろな意味で興味深いが、文明開化の始まる前に来日した外国人(欧米人)の手による、日本各地の旅の記録や風俗の描写から、当時の社会を掘り起こした本である。ここに、かつての文明開化前の日本の光景として、耕地に雑草一本見つからない、美しく手入れされた庭園のような田園風景が出てくる。その手入れの行き届いた庭や農家は、以前旅行したミャンマーの風景にも似ている。
アジア学院の卒業生を訪ねて、ミャンマーの農村を訪問した際、貧しいといえば貧しいが、こぎれいに保ち、美的ですらある農村のたたずまいは印象深かった。ここでいう貧しいというのは、いわゆる物がない、という貧しさで、汚いとか荒れている、というのとは違う。そういう意味では、日本の、物は溢れているが、やたらスーパーのビニール袋のぶら下がった狭いアパートの一室のほうがよほど美的でなく貧乏くさい感じがする。
簡素な竹で編んだ高床の農家が、雑草一つなく、観葉植物を美しく配置した庭にすらりと建つ。特別な家ではなく、ごく平均的な農家だ。庭に除草剤をまいているとは思えない(農薬は高い)。手入れをし、生活を美しく保っている、楽しむ余裕がある、ということだろう。(この旅行についてはこちらのページ。農家の写真はこのページの真ん中あたりの「農家」の写真参照)
いわゆる有名な有機農家をたずねると、作物の生育が貧弱なことがままある(注※)。最近訪ねたある雑穀関連のところもそうだった。ひとつには、見た目は悪くても、雑草や病気に強い野菜を作り、食べたい、という理由もあるのだろう。そして家屋も周りも雑草が茂っていたり、泥だらけだったりする。
現代日本の有機農家が、雑然として余裕のない感じのところが多いのは、おそらく技術の継承が切れたところから始まっているため(”無農薬”農業の技術不足。おそらく、かつては効率的な除草の時期など細かいノウハウがあったはず)、無農薬や野生に対する思い入れが、戻ろうとしているはずの元の世界(古い農村社会)よりも(というか歪める形で)強いため、そして基本的に、主義からはいった人々は書いたり講演するほうが農業よりも好きだからだろう、という気がしている。
注※:最近多い、代々農家で近代農法でやっていた人が有機や低農薬に移行したケースは別。彼らは売れる作物栽培のプロだから、主義ではなく、有機も売れるからやるのであり、売れない貧弱なものは作らない。
個人的には、文明開化前の(江戸時代の)日本やミャンマーのような社会は、いわゆる「カムイ伝」のような世界だったとはとても思えない。圧制者と搾取される人々、という構図は、産業革命後の資本主義の初期の頃にはあてはまるだろうが、農本社会の人々の心性はもっと違う気がする。社会の捉え方も、家族、近隣、親戚、上層との関係も、階級史観とはかなり異なるのではないか。階級対立的な構図は今からみればわかりやすいが、当時の社会はもっと異質、異文明であり、もっと原始社会にも近い原初性もあったのではないか。
田山花袋の『第二軍従征日記』に、中国人難民が老人や子供を背負ったりしながら渡河してゆく場面に遭遇した日本人が
「愉快愉快、一枚撮ろう」と言って無邪気に写真を撮る場面が出てくる。この描写を読んだとき、ふと、『逝きし世の面影』の『東海道中膝栗毛』について記した部分を思い出した。旅に出る発端の部分で、女が死んだにもかかわらず酒盛りをし、「サアサアこの元気で仏を桶へさらけこんでしまおう」、そして桶をのぞいた女の親が首がないし胸に毛が生えているから娘でないというのを、死体をさかさまに入れたのではやとちりした、などと続き、しかもお金をめぐった無責任な策略や馬鹿騒ぎが続くことについて、”あっけらかんとした無責任感”、”明るいニヒリズム”、”この種の猥雑とアナーキーは、西欧の中世ないし近世初頭の物語にも珍しくはないが(略)それにしても(略)この精神は、いったいどういう構造になっているのだろう”、”ヒューマニズムの洗礼を受けた今日のわれわれ”から見れば”この物語のユーモアに不気味なもの、なにか胸を悪くするようなものを感じる”と書いている。
どこか原初的な無邪気さをときどき感じさせる戦争描写に、この膝栗毛の世界に通じるもの、『逝きし世の面影』の著者が指摘するものと似たものを感じるのだ。
実は同じような印象を徳川夢声の戦争日記にもときどき感じた。昨年はさまざまな人の手による戦時中の日記を何冊も読んだが、市販されている有名人の日記の中では、徳川夢声のものがもっとも当時の一般庶民の感覚に近いのでは、という気がした。詳しくは別の機会に書くが、夢声は非常に正直な人だ。作家や学者のものは人道主義のフィルターがかかっているが、彼のはそうしたフィルターがかかっていない。空襲も焼け跡も見ているのだが、防火帯として家屋が取り壊された跡地を見て「これを見て私は大変好い心もち」「ザマアミロという感じ」と書いている。「汚いものが片づけられるという快よさ」「破壊本能が喜ぶというのもあろう」から、吾こそ世界一の高級民族である、などと盲信する日本人の自惚れに対するザマアミロ、まで、リベラル系が喜ぶ言葉から言ってはいけない言葉まで平気で列記されている。汚いガラクタを疎開させようとする人々に対する不快と腹立たしさも平気で述べ「B29よ、あんなガラクタは全部燃やしてくれ」という。その一方、開戦のときは、他のリベラル系の日記には見られない正直な興奮を書いている。
爆弾についての冗談話も随所にある。「一番感動させた話は、天野の家でいつも厄介になる町医者のところへ、去る大爆撃の日、患者が沢山かつぎ込まれたが、「一番始めの患者は自分でやって来た」という話。即ち爆弾で身体が上下真二ツとなり、上の半身が、医者の家の庭へ、天から降って来たという訳だ」。この手の話で盛り上がりつつ、(おそらく不安を抑えて)空襲下を生きている。タフだ。
正直、ザマアミロ感も、ガラクタはいっそ燃やしちゃえ感も、わかる。この冗談や、近所の小僧が夢中になってしゃべっていったという空襲の冗談にも、へえーと感心する部分がある。
残念ながら、こうした部分は戦時中を描くテレビや映画、舞台にはなかなか出てこない。とくに脚本家が戦後生まれだと型にはまって画一的。なんだか皆が皆、抑圧されているか一方的に好戦的に戦意を高揚させる側か、みたいに描かれていることが多い。よくも悪くも悲壮でまじめ。なんか違う気がする。
終戦後、復員兵が続々と戻ってきた頃、列車の中などで戦場での様子をとくとくと声高に語る兵士がよくいて、聞いていて気持ち悪かった、という女性の話を聞いたことがある(戦地での強姦の自慢話もよく語られていたらしい)。つまりその頃はまだそういう話を無邪気に語ることがタブーではなかった。単純に残虐、というのとも違う気がするが、立場が逆なら当然、単に残虐な外国の軍隊だろう。
斉藤憐の『昭和名せりふ伝』には、「「想像力の乏しい」劇作家にはとても書けないせりふが残っている。北原みねは、天皇の詔勅を聞いて、「くやしいというよりはもっと複雑な思いがしていた。それは戦争も『やめられる』ものであったかという発見であった」「女学校四年生の砂田良子は「戦争は日常のことであり、それに『終わり』があるなどとは、ついぞ考えてみたこともなかったのだ」と書いている」とある。この感覚は重要だ。当時を知らない後世の人は、よーくこうした部分に想像力を働かせる必要がある。そしてこれは、イラク、レバノンあたりでもそうなのではないか。
著者は、日本は敗戦と終戦をごまかしたというが、上記の意味では確かに終戦であった、と結ぶ。
昔新聞で、「中世の笑い」という寄稿を読んだことがある。能や田楽など中世の芸能には不具を笑った作品が多くある。笑う側も笑われる側も、今の感覚でははかれないある種のタフさがある、という。現代のヒューマニズム的感覚とはまったく異なる、差別などという意識とは無縁な、中世の闇の奥底から響いてくる哄笑、というような表現をしていたと思う。
『第二軍従征日記』のたとえば「ことにわが詩思を誘ったのは、沙河鎮河南屯を少し行ったところに、柳の多い一つの村があって、其村の尽頭に、一軒の家屋、其家屋に収容された負傷兵のさまは、何故かしらぬがいたく自分の思を誘った。こは、何故であろう、あたりの光景の悲惨なりし為か。否。重傷患者の傷はしきもののあった為か。否。思うに自分の心は、其の野外の離れ家なることと、屋後ろの秋の日影の美しかったことと、其家屋の開放されて明に其中に集れる負傷兵を見得たることに由るのであろう」という描写、そこに負傷兵やここに住んでいたであろう中国人住民に対する共感はない。そういう性質のものではない。でもこの感じはわかる。そしてこの感傷を抱く心にも、一つの文化を確かに感じる。一方、それは人道主義の今の世の中、消え去るか抑えられようとしている感触もある。
当時について、マスコミが煽った、政府がうまくごまかして誘導した、国民は煽られた、だまされた、という言い方がよくなされる。一方、いや、マスコミが煽ったのではなく、和平を書くと売れないから戦争賛成の記事になっていった、国民がマスコミを誘導した、という反論もある。
まだ明確に自信があるわけではないが、当時は「お上の言うことに間違っていることがある、などと考えたこともありません」「お上の言うことに異議を申し立てることができるなんて、考えてみたこともありませんでした」といったタイプの人々も多かった可能性がある。これは民度が低い、ということではなく、何か今とは文化が違う、社会の捉え方も違う、ということのような気がする。当時の世相を記した多くはインテリ層のもので、それが出版されているので、そしてインテリ層は今の人とあまり変わらない心性を持っていたので、どうしても今から振り返る場合、そこから理解してしまうが。
まだうまく整理して言えないが、先の敗戦によって、日本人の(ある種残酷さもある)無邪気さが傷ついた、そういうことだった気がする。当時の妙に明るい、自信ありげな高揚した文章を目にすると、わざと戦意高揚の文章を作為的に書いた、煽っている、というよりも、素なのではないかという印象を受けることも多い。「大東亜共栄圏」なども、聞こえのよいごまかしとしてではなく、本気で信じている人も結構いたのではないか。ちょうど、大航海時代の宣教師が原住民のキリスト教化は絶対善だ、と無邪気に信じていたように。その後、何がきっかけか、映画「ミッション」にもあるように、西欧キリスト教文明に対する懐疑が出てきた。つまりその無邪気さに傷がついた。
そのこと自体は避けられない必然であるような気がする。そうされる側から見れば、とんでもないことであるし。いつかはそういう時が来る。そして、そういう無邪気さや、「戦争に”終わり”があるとは思ってみたこともなかった」タイプに人々にも罪はあるのか、ということもある。広義には確実にあるだろう。そのつもりはなくても。ただ、それを”ヒューマニズムの洗礼を受けた”現代の人々が嵩にかかって糾弾するのはまったく違う気がする。そんな資格は、”ヒューマニズムの洗礼を受けた”人々にはない(つまり、単に価値観が転換し別の価値観の社会に生きるというだけで、彼我の間に、どちらかがどちらかを糾弾できるだけの優等性劣等性の差異はない)。問題はその後、どうするか。いじけるか、逆に思索を深め大人になるか。いずれにせよ、もう、無邪気な過去には戻れない。
『逝きし世の面影』では、文明開化前、江戸時代の日本人について、陽気で素朴で礼儀正しく、親切、また子供天国の社会、と評する一方、外国人が通ると風呂に入っていた女たちまでもが素っ裸のまま飛び出してきて押し合いへし合いしながら見物している様子に、何か白痴的なものを感じる、とも書いている。当時の子供の良さも描く一方、アメリカで娘を教育した日本人女性が、当時の日本に戻ってくると娘花野は「すっかり変わってしまいました。眼はもの静かになりましたが、昔のようには輝いてはおりませず、口許はやや下がって、晴れやかな快活な話しぶりは消え、もの静かに和らいできました。これが上品な、しとやかなということでございましょうか。左様に違いありません」「しかし(略)見たい、聞きたい、したいあの愉快さ、熱心さはどこへ行ったのでございましょう。生活の一切に興味をそそられて、元気一杯だった、あのアメリカ生まれの娘の姿はどこへ行ったのでございましょう」と記していることを載せている。この母親自身、外国人教師の「表情の豊かさに驚くばかり」で、彼女の「幼時の思い出の中にある人々は表情が欠けて」いた、という。モースも「日本人の顔面には強烈な表情というものがない」という。
現代社会で生きづらく素朴を好む人は、少数民族好きだったりする。彼らは民族衣装を着ているが、あれは一種の制服だ。私は赤が好きだから赤い服を着るとか、ショートが似合うからショートヘアにする、というわけにはいかない。現代社会の規範やルールは窮屈だが、古い社会の掟、ああいう形のルールなら違和感なく気にならないというのだろうか。古い社会は、個性を主張する人々の集団ではない。現代社会から落ちこぼれ、一見個性的スタイルに見える国際風来坊くんは、実は服も髪型も同一の、こじんまりした社会で安定するのかもしれない。
最後に著者は、「強烈な表情を獲得することがしあわせだったか、確乎たる個の自覚を抱くことがそれほどよいものであったか、現代のわれわれはそのように問うこともできる。花野のエピソードは無限の思いにわれわれを誘う。しかし、人類史の必然というものはある。古きよき文明はかくしてその命数を終えねばならなかった」と結んでいる。
地方の病院
活東庵公開日:2006.12.10
久しぶりに会った知人から聞いた話。実家のお母さんがあがりがまちで躓いて骨折した。近所の人が病院に電話してくれたが、骨折しているかもしれないと言っても、年齢を聞いて断られたという。「今病院、てそういうものよ。年齢がいっていると直りが遅いから、て受け付けてくれないのよ」にわかに信じがたく、「えー、そうなの?」と言うと、一緒にいた地方出身の人達はみな「そうだよ、特に田舎は」「診療報酬だのの問題もあるのよね。年寄りは長期入院しがちでお金にならない」と当たり前、といった口調だ。「何歳から?」「70くらいかなあ、75以上だと確実に受け付けてくれないよ」そこであちこち電話して、やっと入院できたが、手術まで2ヶ月ほっておかれた、「大腿骨骨折してんだよ、信じられないでしょ」、騒いでやっと手術してくれた、と言っていた。
この話も、最初彼女が今年の正月は田舎に戻れない、というので、「なんで?」というところから始まった話だった。結婚後も勤めを続けていた妹が結局仕事を辞めて介護に入り、正月は妹一家がいるから戻ってくるな、と言われたという。その後、父親の遺産の兄弟間の分配がどうこう言っていたが、友人らは「まあ、面倒みている兄弟が大目というのは仕方ないよ、M子は東京でそういうことやってないし」と同情しなかった。それにしても、いまどきの病院とはそういうものなのだろうか?今でも信じがたいが、なんだか中国に似てきた。
東京大空襲
活東庵公開日:2007.3.25
3月10日は東京大空襲の日だった。急に気になって、小岩で行われた語り継ぐつどいに行った。翌日は浅草公会堂の大空襲展、北砂の東京大空襲戦災資料センターを回った。資料センターで放映されていたNHK特集は高校時代に見て、かなり鮮明な記憶に残っている。写真も豊富で、体験者の絵も多く、イメージもつかみやすい。
浅草の大空襲展では核禁止の署名活動を行っていた。私はこれらの展示を見て、核禁止よりも、民間人を巻き込まない条約作りのほうがよいのではないか、という思いがして、そう言った。そうすれば、地雷もクラスター爆弾も焼夷弾も含まれてくる。核はだめでも、焼き殺すのはOKということにはならない。
また、戦争は悲惨です、だから反戦、という論法も、(体験者が自らの体験からそういう思いで語るのはまったく構わないし、当然なのだが)一般に使用する場合は注意したほうが良い気がした。それなら、勝てばいい、勝った側は悲惨になりにくいから、という考えにつながることがある。戦争はなくならない。また、手段として必要な場合もある。ただ、大将自らが名乗りをあげて一騎打ちをしたり、大将の首を取ることが重要だったり、敗北したら武将が自害した(つまり下級兵士だけでなく上級も命をかけた)中世や、XXの会戦を専門職の軍人と傭兵が野原で繰り広げた近世と、いまの戦争はまったく異なる。国民総動員で誰もが攻撃したり攻撃対象だったり、ゲリラという専門職と民間人の判別がつかない戦法が主流になっている。普通の人が自爆テロに参加する。だから普通の人が攻撃対象になる。
まだ具体的なデザインは描けないが、民間人と戦争をできるだけ分ける、その際、スイスの『民間防衛』のシミュレーションや、語り継ぐつどいで井上ひさしが言っていた「無防備都市」の考え方の流用が、とっかかりになるのではないか、という気がしている。
昨年あたりから、シベリア抑留者の展示会だの、戦争体験者たちの催し物にできる限り出かけるようにし始めている。体験世代から直接聞けるのは、もう限られた年数しかないからだ。
折を見て、祖父が記録した空襲警報の記録あたりから、公開してゆかねば、とも感じている。
皇紀2600年祭
活東庵公開日:2007.4.20
終戦当時小学生だった音楽家から聞いた話。
皇紀2600年の建国祭には、内外の音楽家に対しても、協力や楽曲の提供などの依頼がなされた。山田耕筰と父親は軍部への協力に反対したため、憲兵隊にしょっぴかれ、父親は足を折られ、山田耕筰は肋骨を何本か折られた。山田耕筰と父親は師弟の関係だったが、師の山田氏が父親をおぶって帰ってきたという。
世界各国の有名な作曲家にも作曲が依頼され、リヒャルトストラウス、ストラビンスキー、ベンジャミン・ブリテンなどが皇紀2600年祭を祝う曲を書いた。ブリテンの鎮魂交響曲は名作だったが、軍部が「鎮魂とは何事だ」と怒り、演奏されなかった。リヒャルトストラウスはお寺の鐘を4,5個ゴンゴン鳴らすような曲を書いた。
日本の音楽家の中にも、積極的に協力する人、言を左右にして結局何もしなかった(協力しなかった)人、父親のように反対を表明して睨まれた人、などさまざまだった。父親はその後、こんな状況ではやってられない、と作曲の筆を折ったという。
ネットなどで調べた限りでは、ストラビンスキーが皇紀2600年祭の楽曲の提供に応じたという話はみつからない。また、山田耕筰はこの建国祭でタクトを振り、その後軍部へ協力的だったようで戦後批判を浴びている。しかし、音楽家氏は某大の教授でそういい加減な話とも思えない(お父さんの名前も聞いている)。ストラビンスキーは記憶違いの可能性もあるが、山田耕筰氏の話は身近なだけに事実ではないかと思う。今度もう少し詳しく聞いてみたいと思う。
社会システムの変化と自給”自作”
活東庵公開日:2007.10.9
忍び寄る貧困でも書いたが、社会システムが急速に変化している。サービスを支える側が減少し困窮者が増えるなどで公共サービスを維持できなくなりつつある。
さらに郵政民営化でクローズアップされたように、郵便局が担ってきた役割縮小により地方の衰退の加速している。
日本橋あたりでは、数十メートル歩けばいくらでも銀行がある。郵便局の数も多い。選り取り見取りだ。一方、地方、特に小さい集落には金融機関が郵便局しかないことも多い。地方を四国へんろする際には重宝したものだが、そうした村唯一の金融機関である郵便局すらなくなる可能性が出てきた。地方では学校も病院も集約化され、物理的に生活できなくなりつつある。人々がいっそう、都市部に集中する可能性がある。
正社員が減少し不安定な有期雇用が増えるなど、雇用システムも変化している。水道管の老朽化や橋の老朽化など社会インフラの管理コストをどう賄うか(おそらく出来ない)という問題も顕在化しつつある。
こうした社会システムの変化から、総体的に感じるのは、生活を自分の手に取り戻すべきときが来ている、ということ。いわゆる正社員システムは高度成長期以降のごく最近のもの、歴史からみてもごく短期間、医療制度、年金制度にしても同様で、何千年の歴史から見ればごく短期間実現した制度に過ぎない。
途上国では、救急車を呼べばすぐに来る、ということはない。むしろすぐ来るほうが、世界の人口比的にはまれ。病気についても、日本ではお金がなければ高度な医療を受けられない、という言い方になるが、普通の医療機関すら近所になく、高度先進医療など思いも及ばないという国も多い。
医療制度や年金制度などないに等しく、蛇口をひねればすぐに水が出るなど夢で毎日井戸から汲んでくる生活もまだまだ多い。
いずれ日本もそうなるだろう。
いま日本では医療訴訟が増えているというが、これは病気になっても怪我をしても、医療は受けられて当然で元通りになるのも当然と考える人が多いからだろう。しかし、すでに病気/怪我の状況にあるのだからさまざまなリスクがあるのはあたり前、昔ならば基本的には自分で治し、直らなければそれまで、医者にかかり治してもらえれば助かった、というのが本来の姿だったはず。
公共サービスは受けられて当然、という感覚に馴らされすぎた。救急車も医療も年金制度も、電気ガス水道も道路も橋も、その他生活サービスはすべて自動的に与えられて当然、という生活態度は、はっきり言って、途上国に対する援助批判「与える援助ではだめ、自立させる支援でないと」と通じるものがある。
正社員でないと生活できない、地方では生活できなくなる、という。でも昔は正社員でなくても生活していたし、かつては病院/学校/金融機関がなくても生活していた。それに代わる相互扶助、頼母子講など別のシステムはあっただろうが。電気ガス水道もなかったが、自分達でまかなっていた。
高度経済成長期に、いやそれ以前の明治維新のときより、生活と仕事を切り離した”薪水”(給料)をもらって生活する者が増える社会になった。農村から女工たちが、農山漁村から若者が、政府の政策によって工場に集められていった。生活は行政サービスにまかせ、それぞれ”仕事”に専心する、そのほうが効率的だ、と奨励され、人々は生活技術を失っていった。
今ここで、生活を行政サービスにまかせきりにせず、消費社会の中でお金を出して買えばいいという発想から離れて、生活を徐々に自分の手元に取り戻してみてはどうか。サービスに頼ると、切られたときあたふたするし、お金に頼ると、お金がなければこれもできない、あれもできないと行き詰まってしまう。
すべて自給自足、自作でまかなうことは無理があるが、自分の生活を自らの手に取り戻すことは大事だ。いざとなれば、電気ガス水道のない元の生活に戻ればよい、という発想のある農山村の70代を見ていても、そう思う。
誤解のないよう断っておくが、これは政府が最近よく口にする自己責任だの自立支援だのとは趣旨が異なる。あちらは経費削減が目的だが、こちらは、サービスや金で代替することに頼りすぎるのをやめれば、与える側に対する依存度も減り、言うことを聞かなければならない義理も少なくなる、と考えている。
開発援助プロジェクトを真に必要とするのは・・・
活東庵公開日:2007.10.9
二酸化炭素を消費して育った緑を燃料にすれば、二酸化炭素排出量がプラマイゼロになるというバイオ燃料、でもその用地確保のために森林を燃やしたり、用地転用のため減少した食料生産を(砂漠でなく)緑の未使用地を開墾して行うなら、結局同じような気がする。その分化石燃料の消費量が減るとはいうが・・・。
車の台数を減らすなどのほうが、よほど抜本的な気がするが、その強要はファッショに近くなってくるし、難しい。
ところで、そのファッショに近い指導が、少数民族相手だと正しいこととして行われることが多い。この問題については、以前ナガランドを訪問した際にも書いたが(こちら)、ここに一部転載すると:
最近テレビでフィリピンの焼き畑を鳥の居住環境破壊の元凶の一つとして、常畑に転換させる内容のものを目にしたが、少々気になった。傾斜地農業の技術をちゃんと身につけているのか心配だったし、日本で急傾斜地にある焼き畑村が、焼き畑をやめた後林業で生計を建てている話は聞いても常畑が増えた話は聞いたことがない。外部の人が地元の人を転換させた場合、その起こる結果の責任の所在という問題もある。
また、環境に悪いことを行っているケースは先進国にも多い。ビニールや洗剤などをつい便利だから利用してしまう自分達の生活スタイルは変えずに、数千年続く他人の生活スタイルの変更を要求するのも何だか変だ。たとえば、平野に集中して大都会を形成するのは平野の環境破壊だからと移住を迫られたらどう思うだろうか。あるいはたとえゴミの出し方という小さなことでも、上から強制されると本能的に反発を覚える人も多かろう。焼き畑も変わる必要があれば当然変わるべきで、ただあくまで本人達が必要を感じた上での自発的なもののほうが、長期的には地元のためになる気がした。生活スタイルを変える、という難題は今後環境問題と絡んで全人類に課せられてくるだろうが、今のところ、結果的に”御しやすい”人々だけがこの難題を実行させられているようで、どうもしっくりこない。
当時はかなり抑えた書き方をしたが、今回のバイオ燃料騒ぎをみても、”開発援助プロジェクト”が真に必要なのは、途上国の少数民族ではなく、先進国の大企業社員と都会に住む消費社会の人々ではないか、とやはり思う。はっきり言って、東北インドのXX族やフィリピンのOO族を対象とするより、ト○タやG○や現○の社員に対して車は環境に優しくないからと10年以内に車生産をやめ仕事を変えるプロジェクトを組み、車をガンガン買っている国々(中国インドを含む)の庶民相手に車は環境に悪いから使わないという啓蒙プロジェクトを組んだほうが、よほど効果的だ(半分皮肉をこめて言うのだが)。でもやる人はほとんどいない。御しやすい人々相手には上目線、強い相手には黙り込む(というか思考停止、対象外)。
焼畑も、少数民族が細々やっているものよりも、牧場開発目的のアマゾンの森林の焼き払いや、インドネシアのこれまた政府の開発や業者がらみの焼畑のほうがよほど問題が大きいのだが、彼らを相手に”開発援助プロジェクト”が組まれることはない。
ただ、こうした知識が自分にある、ということは、それを調べ発表している記者や研究者がいる、ということでもある。
この問題から見ても、大量消費社会に生きるこちら側にも、(他人に強要はできないが)少し生活レベルを落とし不便を受け入れる生き方が必要になるときが来たのではないか、という気がする。
大地と海原を自由に通行する権利
活東庵公開日:2007.12.1
以前、ここでも紹介した「草の乱」と同じ監督による、同じく農民一揆を題材にした映画に、「郡上一揆」がある。映画としては、史実を忠実になぞった感じで特に山も谷もなくすらっといってしまった感はあるが、一点、女優がみなお歯黒をしていたことに感心した。江戸時代の話だから当然なのだが、そうでない映画、TVドラマがあまりに多い(というか一般にはしないで演技している)。でももし、江戸時代を忠実に再現しようとしたら、女のお歯黒と眉そりは必須だろう。茨城の老人たちも、戦前は農家もみなお歯黒をしていた、しだいに見なくなった、と語っていたし。
あまりにも今の観点から見た絵、台詞の江戸時代ドラマが多すぎる、本当はこんなじゃないはず、と思う。
いま、かつて日本の山々をめぐっていた山の民、木地屋(木地師という人もいるが木地屋が本式の呼称と思う)や山窩などの歩き筋に興味あり、調べている。その中に、木地屋の習俗が里の人とあまりに異なり別種の人のようだった、という江戸時代に書き残された証言がある。その理由の一つに、女がお歯黒をせず眉を剃らないことがあげられていた。お歯黒を見慣れた目には、さぞかし異民族のようにうつっただろう、と文化庁の調査の書き手も述べている。(渡辺京三氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)などを読むと、今の時代のフィルターを通した都合のよい解釈を排した江戸時代のようすが立ち上がってくる。あるいはイザベラ・バードの奥州紀行もよい−明治時代だが−。)
網野善彦の『中世日本の非農業民と天皇』(岩波書店)をみていたとき、「大地と海原を自由に通行する権利」という言葉を見つけた。遍歴する中世の職人たちは、古代天皇からそうした権利を受けていたという。彼の本は、古代天皇は政治的支配だけでなく、そうした根源的な支配権も有していた、というような内容を書いたものだったが、私はこの「大地と海原を自由に通行する権利」という言葉に、なんて素敵な言葉だろう、と思った。それが歩き筋の人たちに興味を抱いた理由でもある。
ただ、木地屋は巡国制度があったのできちんと史料にも残っており、まっとうな調査がなされているので資料の信頼度も高いが、山窩の場合そうしたシステムもなく、資料も吟味したほうがよいものも多い。
木地屋の世界
活東庵公開日:2008.3.5
いま、昭和三十年代が懐古されている。確かに、高度経済成長で日本の社会は大きく変貌した。
しかし、それ以前、江戸から明治の世に変わったときにはもっと大きな、根本的な変化があった。所有の概念や戸籍制度など、社会の基礎となる考え方が一変し、それまで千年続いた社会が終末を迎え、近代国家に変わったのである。非定住民を許容してきた伝統も絶えた。
定住せずに処々を廻る人々には角付け芸人や薬売りなどさまざまな人がいたが、木地屋には巡国制度があり、よく資料が残っている。江戸末期から明治初年にかけての木地屋関連の文書は、世相の変化をよく捉えている。かつて存在した世界や生き方を知る、重要な話と思い、君ヶ畑/蛭谷の項に詳細を載せた。
ミャンマーのモーケン族
活東庵公開日:2008.3.5
NHKでミャンマーの海洋民族モーケン族の特集をやっていた。定住せずに海に生きる漂泊の民で、日本のかつての家舟(えぶね)に似ている。現在2000人ほどしか残っていないという。
最初に取材班が出会ったモーケン族は健康でつやつやしていた。数年後に再取材したときには、生活が苦しくなっていた。モーケン族が漁場としてきた海に、ミャンマー人の漁師も入ってきてなまこなどを大量に捕獲してゆく。さらに大型漁船団も来るようになり、根こそぎ網でさらうので、とても太刀打ちできなくなっていた。ミャンマー政府は、管理の問題もあって彼らに定住を勧めている。定住したモーケン族も多い。取材の中心となっていた一家は船での生活を続けるという。
いまモンゴルなどでも、遊牧民の定住化が政府によって進められている。世界的にその方向で、遊牧・漂泊の民が定住することはあっても、逆はない。定住すると生活に余剰な部分が生まれ、生産活動や勉強、文化に費やす時間や物質的余裕ができる。一方で、統制されやすい側に回ることも確かだ。
食料問題
活東庵公開日:2008.4.21
今年に入って急速に世界中で穀物価格が上昇している。でも、エタノール用作物への栽培転換と、中国インドの需要拡大だけで急にそうなるものだろうか?世界の人口が突然増えたわけでもあるまいし。
穀物豆類はある程度保存がきく。野菜が上昇したという話は聞かない。江戸時代の米騒動ではないが、どこかが買占めているのでは、という気がしてならない。投機もあるだろうし、以前からその傾向にあったのが、ここへ来て報道量が増えたことによりパニックになっている感じもある。
ただ、長期的には確実に食料は逼迫し争奪戦になる。”お友達の国”を作って分けてもらえばいい、という考えの人と、一緒に滅びたくはないなあ。
中国製の殺虫剤混入餃子にみる加工食品の問題、中国野菜の残留農薬問題、そして先日(4/20)プレミアAで、国産といっても、日本の農家は外国人研修生(80%以上が中国人)による法定最低賃金未満(時給300円程度)の格安な労働力によって支えられている現状がレポートされていた。20年前までは宿食事付きの収穫アルバイトに若者が大勢応募してきたのが、今ではまったく来ない、来ても作業のきつさにすぐ逃げる、かつて主力だった地元のパートのおばさんたちも高齢化して作業できなくなってきた、それで労働力不足になっているという。
これでは滅びるな。戦争などしなくても首根っこ掴むのは簡単。しかし、それも大多数が選んだ道。積極的に選んだつもりはなく、気づいたらそうなっていたのかもしれないが、これまでもことあるごとに農業や食料の問題は報道され取り上げられてきた。聞く耳なかっただけで、みなが選んだ道。
どげんかせんといかん
活東庵公開日:2009.3.25
先日、劇団の営業で九州各地を回っている知人の話を聞いた。
どこも地方は少子化と衰退が激しいが、特に宮崎はひどい、と言っていた。都城に行ったときのこと、ずらーっとシャッター通りが続いていて、昔はこの店がみな開いていたんだと思うと、その賑わいはなぜなくなってしまったんだろう、みなどこへ行ったのだろう、とむなしいような寂しさを覚える、という。
劇団は学校に食い込めると経営が安定するという話は、やはり芝居をやっている別の知り合いからも聞いたことがあるが、彼女の劇団も学校での公演を柱の1つにしている。しかしその学校も少子化で統廃合の嵐が吹き荒れており、特に工業高校や商業高校が普通課に統廃合されていて、今年は演劇を公演するが来年は音楽会をやります、再来年はもう廃校です、という話ばかりだ、という。
宮崎の東国原知事が「どげんかせんといかん」と言っていたが、本当にそうだよ、都城を見てそう思った、これから宮崎は、九州は、地方は、日本はどうなるのだろうと思った、と言う。
都城も甲子園などの高校名で聞いたことがあるが、これから甲子園に出られるだけの部員と実力を持った地方の高校も急速に減ってゆくのではないだろうか。実質県庁所在地と政令指定都市以外、人はいなくなり”地方”はなくなるのではないか。
それはどういう影響があり、どういう社会になるのだろう。
買物難民、という言葉もある。杉田聡氏の『買物難民』(大月書店)には、地方の老人たちが実質買物をできなくなりつつある現状がレポートされている。
農地を手に入れたいと思いつつ、移住した先の町や村が生活可能な機能を失いつつある場合、年取ってそうした土地に住むのはきついだろうなあ、と思う。農作業は苦にならないが、そっちのほうが気になる。
今畑を借りている茨城でも、昔は集落に何軒もの店(専門店を含む)があったが、ほとんど廃業してしまった。買い物も病院も、車で市の中心部まで出ないといけなくなっている。移動手段のない人は買い物もできない。別のところに住んでいる子供に、土曜か日曜に買ってきてもらっている。
どういう社会、コミュニティーをめざして作っていったらよいのだろうか。
衣の自給
活東庵公開日:2009.4.30
近年、食料自給についてよく問題にされる。食料自給はもちろん大事な問題だが、衣の自給、自立という思想もあることを初めて知った。
非暴力による独立運動で有名なガンディーだが、インド独立運動の柱のひとつに衣の自給を掲げていたという。
インドが植民地化によって搾取され、自立できなくなった原因のひとつとして、ガンディーは、従来自分たちで糸を紡ぎ織った布で衣服を作っていたのが、植民地化以降、イギリスの工場で作られた既成服を買わされるようになり、インド綿布の地場産業が破壊されたことをあげていた。
イギリスでは、18世紀後半に産業革命が起こった。まず紡績産業で自動織機が発明されたのを発端として、蒸気機関など次々と重要な発明が続いた。これにより、手紡ぎ、手織りに比べ飛躍的に生産力が増し、大量生産大量消費の消費社会が出現した。
大航海時代にもポルトガル・スペインが世界を植民地化していたが、産業革命以降の西欧列強による植民地はそれまでの植民地とは性格が異なる。植民地から原材料を調達し、宗主国で加工生産し、自国や植民地、その他世界各国に販売する、という、現在の資本主義社会の基本構造ができあがった。
ガンディーは、原材料を供給し生産品を購入する立場に立たされた場合、永遠に隷属する立場から抜け出すことができなくなる、と、インドの民衆が自分で綿を育て糸を紡ぎ、自分の着る服は自分たちで織る、という運動を始めた。このときシンボルとなったのが紡ぎ車のチャルカで、今でもインドの国旗の中央に掲げられている。
さらに当時は、塩もイギリス植民地政府の専売とされてしまっていたため、かつてのように自ら海岸で製塩し塩を自給する運動も始めた。
当時の記録映像には、製塩を行ったりチャルカを回す農民が、無抵抗のまま警官に殴打されている様子が残っている。
ガンディーの思想には、こうした消費型社会が植民地を生む、と資本主義そのものを否定する面があったという話も聞く。ガンディーの著書を読んでいないので、確かなことはわからないが気になっている。
ところで、流行の服を廉価でそろえる北欧やアメリカのブランドが最近話題だが、人気の理由のひとつに、一週間で陳列商品が入れ替わることがあげられていた。目にしたときに買わないと次に来たときにはもうない印象を与えるためと、常に最新の流行のものをそろえるためという。
その一方で、年々流行のサイクルが早くなり、廃棄される衣料品の量が増大している、という調査報告がイギリスなどからあがっている。
かつての社会主義社会のように、イデオロギーで人間の欲望を抑えるやり方は不健康だが、かといってこのままでよいとも思えない。
自分で糸繰りすると、一着のシャツを作るにはどのくらいの糸が必要で、その糸を作るにはどのくらいの綿が必要で、その綿を栽培するにはどのくらいの広さの畑が必要なのか、わかってくる。畑の広さを知ると、あまり服を無駄にできないなと思う。
必要な分だけ作り必要な分だけ食べる。必要な分だけ作り必要な分だけ着る。
それが基本だという気がする。
消費者になることと依存者になること
活東庵公開日:2009.7.14
戰前までは、子供も含め家族全員が生産活動に関わる自給自足に近い生活だった。戦後高度経済成長以降、家長が生産活動に勤務して薪水(賃金)を稼ぎ、他の家族メンバーはそれに寄生し生産にまったく携わらず、純粋な消費者となった。家長の”生産活動”も分業体制のごく一部分でしかなく、家長も大部分の分野においては消費者になった。
グローバル化以降、人々の消費者化は世界各地で進んでいる。消費者化が進むと、自分で生産し生活する能力を失う。
その能力を失ったとき、何でも自由に選べる神様の立場だった消費者から、いつのまにか選択する余地のない、代替手段もない立場に立たされているかもしれない。
たとえば、高速道路1000円。東京新聞で特集していたが、おそらく航路がいくつかつぶれるだろう。車のない人は島間移動できなくなる。車社会が崩壊したときには、公共交通手段は既につぶれてなくなっている(おそらくバスも含め)。
買い物難民の話も同様。郊外に巨大なショッピングセンターができる。よって各地に存在した小さい地元の店がなくなる。車のない人は買い物ができなくなる。何かの理由で大型店が撤退したとき、町には店がまったくなくなっており、隣町まで買い物に行かざるをえなくなる。
デフレ圧力も、値下げ競争激化で、体力のない企業は脱落しつぶれてゆき、残った少数が寡占する結果になる。
川田文子が書いていたが、昔長野県開田村に麻を織る老婆を取材したとき、麻服作りは織りからではなく、種まきからはじまる。そう広い畑にまけないので、毎年家族全員分の服を新調することはできない。今年は誰、来年は誰、とあつらえてゆく。
アイヌのルポを撮っている映像作家の話を直接うかがったときも、昔のアイヌの服は誰に対して作る、と相手を決めてから糸繰りして布を織り、服を作ったという。昔の服は、誰でもいい誰かに対して作られたものではなかった。
ところで最近増えている若者のネットカフェ難民やホームレス問題、久しぶりに実家に戻ると更地になっていたその他、家族が崩壊している話が多い。昔は都会で失敗したら田舎に戻ったが、今は田舎に受け入れる余地がない。文字通り崩壊している家族が多いのか、親が貧しく子供を受け入れる余裕がないのか。
与論島の知人は、仕事がなくても親戚や知り合いのつてで頼まれ仕事をしたりで、なんとなく生活できている、と島の生活を話していた。かつて本土もそうだったはずが、今はその絆が失われている。
絆がすさまじい勢いで崩壊している。家族も職場もばらばら、たとえばフリーランスで仕事をしている人たちはばらばらで、集まる意識もなく、上から個々に直接メールでつながっている。
自分で生活品を生産する能力を失い受動的な消費者になることと、ばらばらの個人がむき出して”上”と直につながる光景は、共通する要因から発していると思う。
秋田で感じた韓国
活東庵公開日:2009.9.26
先日、沿線にマタギの集落があることで有名な秋田内陸縦貫鉄道沿いをあちこち歩いてきたのだが(旅行記はこちら)、相川駅から小阿仁のほうへ行ったところに、李岱という地区がある。この地名もそうだが、「平文」と書いて「からふみ」と読ませる仕出屋があるなど、なんとなく韓国との関係を感じさせられる地域だ。
そしてさらに、米内沢駅から川を渡った北に、本城という集落がある。ここを歩いていたら、突如、軽井沢などの別荘地にありそうな戦前の洋館風の建物があった。門のところに「金家住宅」と札が立っており、「国の重要文化財指定」とある。ただし、住居なので館内の参観はできない、とのこと。
北秋田市のサイトによれば、金家は阿仁地方の三大旦那と呼ばれた大地主で、金家9代目当主金逸郎さん(故人)によって昭和3年に建設された建物らしい。
やはり、このあたり一帯は韓国と関係がありそうで、興味深い。
このほか、李岱の南にある東根田の集落でも感じたのだが、このあたりは作りの良い家が多い。秋田から能代にかけて歩いた羽州街道沿いは、壁がトタンの作りの家が多かったのだが、そちらよりも豊かな気がする。理由はよくわからない。
森林ボランティア
活東庵公開日:2009.11.1
今年から林業に関わり始めた。間伐、除伐、大刈、枝打ちなどをやっており、作業そのものは面白いのだが気になる点をいくつか。
山が荒れている、このままでは大変なことになる、と言われている。確かにそのとおりなのだが、しかしそうした山にも持ち主がおり、植林した人がいる。たとえば、先行投資に失敗した企業を助けるボランティアは、基本的にありえない。しかし林業だとそれがありえている。
今不況で農業や林業が注目を浴びているが、それ以前から長年、間伐枝打ちを続けている先達らは、基本的に山仕事が好きで山が好き、山が崩壊しているのをただ見ているのは忍びなく活動してきた人たちだ。
確かに農業や林業は野や山という国土と直結した部分があるので、みなで守らなければならない、という考えは理解できる。ただ一方で、持ち主の家の成人した子供らが手伝わないでいるのを見ると、なんとなく納得できないのも確かだ。
持ち主のわからなくなっている森も多い。行政区域の異なる数箇所で活動しているが、どの山にもそうした箇所がある。そのため、その部分だけ手がつけられない。勝手にいじるわけにはいかないからだ。農地と異なり、山は農地解放のようなことは行われなかったと聞くが、戦後に集落の入会地だった山をみなで分配したという話を聞く。このため、所有がかなり細分化されている。古くからの住民に聞いても、あそこは提灯屋が持っていたがこの村を出て行ったきり今はどこにいるのかわかない、といった類の話がある。20年以上山林整備を続けているグループも、長年探してわからない場所があるというくらいだ。
東京都下で交通の便もそこそこのところでこの状況だから、地方の山奥はさらに酷いだろう。四国で遍路歩きをしたとき、山中であきらかに廃村と思えるところを通った。ふもとに下り宿の人にたずねると、ここらも子供らは皆県庁所在地や大阪に出ている、帰って来る気はない、でも土地を売ろう、たって売れない、誰が買う?こんなとこ、と言う。
「ではこの地に住むお爺さんお婆さんが亡くなると、誰も住まない土地を都会の子供が継ぐことになりますね」「そうだね」「その子供はここで育ったからまだいいけど、その子供が亡くなり孫の代になると、山がどこにあるか、そもそも山があるのかすらよくわかっていない可能性もありますよね」「そうなるだろうね」「そうした山はどうなるんですかね、それでもそのまま孫が継ぐんですかね」「どうだかねえ」「税金とか払いますかね」「本当にどうなるんだろうね」
地方出身の知人らも、田舎に山があるが両親ももうおらず境界なんてわからない、と言う人や、田舎に農地があるが誰も管理していないので隣に侵食されちゃっている、田舎、てそうだから、と言う人がいる。埼玉の農家出身の男性は、畑の境界がわからない、おやじが生きているうちにきいておかなくちゃ、と言っていた。
『世界が水を奪いあう日』(橋本淳司著、PHP出版)には、近年企業が世界中で農地や水源地の確保に奔走しており、日本の水源地が中国など外国企業に買収されている疑いがある、という記述がある。水源森の大規模買収の動きは2008年頃からあり、林野庁が実態調査に乗り出しているという。日本の水源地価格が暴落しており、買い時と思われているらしい。
日本の山を買っても外国の水道には繋げないではないかと思われるかもしれないが、いわゆるペットボトル水用の水源確保が世界中でさかんになっている。
なんとなく、足元から崩れつつある感じがある。
正直、高齢化で手が回らず、子供もやる気がない山や畑は国有化したほうがよい気がする。国有化しても、最初から税金を投入して無理していきなりすべてを整備する必要などない。私有でもどうせ、ケアしていないのだから。ただボランティアを活用するなら、国有化して地域全体として管理をまかせるとか、以前の入会地のような所有形態にするとか、そうした山のほうが納得はゆく。
農地の大規模買
活東庵公開日:2009.11.1
韓国や中国が、将来の食料不足と農業用地の不足に備えて、南米やアフリカなどで農地を大規模に買収し確保しつつある、という話が最近よく報道されているが、これはかなり問題が大きい政策だと思う。
将来的に世界で食料不足と水不足が発生するのは必至だが、もし民の多くが飢えている国で、上手に運営管理された青々とした農地が存在し、99年の借地契約があるからとそこから農産物が外国に運ばれてゆく事態になったとき、大変な問題になる。暴動やクーデター、戦争にすらなりかねない。
基本的には人口が増えすぎたことがある。地球はこれ以上の人口を確実にもう養えないのだから、温暖化政策ととも世界規模での産児制限も必ず必要になる。
ところで、人口が増えた要因の一つに、長寿化がある。単純計算だが平均寿命が2倍になれば、生まれた人数は同じでも、同時期に地球上に存在する人口は2倍になる。高齢化は日本だけでなく、韓国台湾などの出生率は日本よりも低いし、アメリカやヨーロッパでもグレイングソサエティ、エイジングソサエティと言われている。途上国でも寿命は延びている。極端な話、パンデミックで年寄りが一掃されれば人口
はかなり減るはずで、そうでなくても出生率が2前後で低値安定している国なら、戦後のベビーブーマーズが自然退場した後はかなり身軽になってくる。
基本的に自分の土地で養えるだけの人口を維持し、自国内の利用可能な土地を活用することをめざすほうが絶対に安全だ。
”プロがそんなに偉いのかい”
活東庵公開日:2009.12.11
茨城の農家の老人から、戦時中、物不足に陥ったとき、ここらではみな綿の種をまいて収穫し、当時既に使われなくなっていた機織機を納屋から引っ張り出して布を織り、着物に仕立てた、という話を聞いたことがある。この話がずっと心の片隅に引っかかっていた。
実は以前、アジア学院というアジアアフリカの農村指導者養成学校にいた頃、ルームメートのスリランカの女の子が、ほかの人の着ている服で気に入ったものがあると、ちゃっちゃと型をとり、布地を買ってきてササっと作っては着ていた。もちろん、型取りも服を紙の上に載せてとるだけの大雑把なものだし、縫い方も粗い出来だが、普段着るには十分で可愛かった。
服の自作というと、まずは洋裁和裁を学ばなければいけない、という固定観念があり、正直ハードルが高いと感じていた。それが日常生活の延長で、ごく自然に簡単に作ってみせる。これは面白い、これならできる、と私も彼女に教わりながら(といっても大したことはない、小学校の家庭科レベルで十分)、まねて作って着ていたところ、親から「今の日本は社会全体がそういうレベルの生活をしていない。一人でそんなことをしていたら頭がおかしいと思われるからやめてくれ」と不機嫌そうに言われた。そこで自作生活をいったんあきらめた。手先の不器用な自分には向いていない、と思ったのだ。
茨城の話が気になっていたこともあり、今年、綿の栽培を試みることにした。綿はアルカリ土壌でないと育たないため栽培が難しいと聞くが、土壌があっていたのか思いのほかよく穫れた。さらに手紡ぎや手織りの方法も簡単に教えてもらい、やってみると、意外と自力でやれるのだ。織機も買うとなると高いが、簡単なものなら自作可能。生活の基本的な部分を自力でやれることは自信にもなるし、第一自力でやること自体が楽しい。
§ § § § § § § § § § § § § § §
本か雑誌で見かけた湯浅誠の文章に、「Noと言えない消費者」という言葉があった。完全に消費者の立場に立ってしまうと、生活必要品として、決まった商品を購入しないと生活できなくなってくる(そういう生活に慣らされてしまう)。そしてスーパーが潰れたら生活できなくなる(と思い込んでしまう)。何かに従属してしまうのだ。
西村佳哲の『自分を生かして生きる』(バジリコ)でも次のように言っている。
「本来自分でやればいいことを、より得意な(とは限らない)他人に任せ、その対価としてお金を払い、その分の時間を使って別の誰かが自分でやればいいことをやり、対価としてお金を受け取る。それぞれが自分の得意なことに集中して取り柄を伸ばせる社会を作ってきた、とも言えるが、一人ひとりの人間の<生>としての全体性は少しづつ損なわれてゆく」
もしいつも使っているスーパーマーケットや勤めている会社がなくなったら、という「うっすらとした不安」を抱きながら、「よりお金を使って生きる方向に整わざるを得なくなっている」。
彼によれば、お金には基本的に、銀行から融資を受ける際の利子という含みがあらかじめ含まれており、その返済負荷が分散処理されるため、お金で価値を交換するたびに負担が少しずつ加算され、貧しさの実感が微増してゆくことになる。このため、人生に対するオーナーシップが弱まり、「好き好んで働いているわけじゃない」といった気分が蔓延してゆく、とする。
人は生活に必要な物資を交換によって得て生きてゆくが、今では一般的に交換尺度としてお金が使用されている。ただ、共同体の強いところ、古い社会では関係性によって交換することも多い。西村氏はデザイナーなので、イタリアのデザイナーの言葉”いいプロジェクトとは、見ず知らずの人々とある交換をしようということ”を挙げているが、つまり、お金が目的ではなく、もともとは交換が目的であること、その交換の手段にはいくつかあるのだが、今はお金が異様に突出しているとする。
何もかも自給自足の戦前の社会に戻すことは難しいが、茨城の老人たちの言っていた「いざとなったら水道もガスもなくてもやってゆける。昔の生活を知っているから」という立場は強い。消費者の立場にどっぷりつかると、それが無くなったら生きてゆけなくなってしまう(それは思い込みなのだが)。いつでも戻れるようにしておくことは大事と思うのだ。
§ § § § § § § § § § § § § § §
話変わって、朝日新聞の文芸時評で斉藤美奈子が面白い指摘をしている。今月号(2009年12月)の文芸雑誌に掲載された小説の「この世は二人組ではできあがらない」山崎ナオコーラ(新潮)、「のうのうライフ」広小路尚祈(すばる)、そして単行本の『カデナ』池澤夏樹、これらに共通するものとしてアマチュアリズムの再評価をとりあげている。山崎ナオコーラが、仕事の場では泣いてはいけないという社会通念について
<相手が動揺するから、「泣くな」、社会的な場所では「感情を出すな」というそれは、肌を見せられると劣情を起こしてしまうから、「ベールを被れ」という論理と、同じではないか>
と書くが、これは「彼女が無意識に拒否しているのも一種の役割意識、プロフェッショナリズムである点に注意したい」、そして、「<私は社会に向けて書きたい>小説を書くことで<社会参加がしたい>と語る主人公に共鳴する読者は多いはずだ」と指摘する。
広小路尚祈の小説はもっと直截的に、祖母に学んだアマチュアリズム的生活でゆこう、という主人公と、プロの手を借りた生活水準を維持し自分たちもプロとして金銭給与を受け取る生活を望む恋人とのやりとりを描いている。斉藤氏は「ここでいうプロフェッショナルとは世間的な役割意識の別名」であり、「役割から降りるという社会参加があることをこの小説は教える」とする。
さらに『カデナ』で「称揚されているのも一種のアマチュアリズム」だという。そして、「人を鋳型にはめたがる勢力には臆せず言ってやるべきだろう。プロがそんなに偉いのかい、と」。
§ § § § § § § § § § § § § § §
百姓という言葉は、さまざまな手仕事を行う意味を含んでいる、という言い方をよく聞く。昔は基本的な衣食住は自力でまかなってきた。布を織れることが一人前の女の条件だったという話も多い。こうしたとき、手先の器用不器用は関係がない。上手でなくてもよいが、できなくてはいけないタイプの基本技術なのだ。
江戸時代に綿の栽培が始まるまでは、服や縄には麻(苧麻)が使われていた。麻は、畑での生産性も低く繊維を取り出しにくい、織るにも時間がかかる。妻の1日の大半は、家族の着物作りに費やされていた。
江戸時代に大々的に綿の栽培が開始されると、飛躍的に生産性があがる。たった5畝で一家6人の一年分の反物に必要な綿が得られ、収穫した綿から糸を紡ぐのも簡単、染色も容易で鮮明、織りもたやすい。さらに、収穫してすぐに処理する必要のある麻と異なり、綿なら置いておけるし繊維そのものなので軽く運搬も容易だった。
このため、麻の時代(中世まで)は各家庭で栽培、紡ぎ、反物化され、余剰物はほとんどなかったのが、綿は余剰生産が可能、さらに収穫物を集めて運搬できるため各工程ごとに専門化した処理が可能になり、技術を蓄積して質の高い処理を行えるようになる。こうした製品が、商品として流通するようになる。女性達も家族の反物作りに要する時間が大幅に短縮され、夫婦で畑に出られるようになり、集約的農業が発達、換金作物もさかんに栽培され商品として流通するようになる。
綿が近代社会の出現に果たした経済的な役割の大きさは『新・木綿以前のこと』(永原慶三著、中公新書)に詳しいが、綿の歴史は、経済活動がまださかんでない中世以前の社会と、分業と専門化が始まり余剰製品が商品化され、さかんに売買される近代社会の成立過程をよく示している。
商品、流通、お金、分業、どれも大切だが、「既製品を買ってくる」以前の生活も基本であり大切なのではないか。
生活のすべてを大規模な社会インフラシステムに頼り消費者になってしまうのは、社会がうまく回っているときは確かに便利で効率的だが、何か問題が起きた場合、とても危険と思うのだ。プロも否定しないが、アマチュアの部分も残せ、そう思うのだ。
京都の山
活東庵公開日:2010.7.12
先日とあるNHKの番組で、京都の庭園付き屋敷群を紹介していた。こうした庭園は東山を借景にしているのだが、その映像を見ながらふと思った。
東山の持ち主は誰なのだろう。山には鉄塔も携帯の基地も見当たらない。国有林なのだろうか、複数の個人がばらばらに所有しているのだろうか。人工建造物が一切ないのは、国有林ならわかるが、個人所有の場合、鉄塔や携帯基地を建設しない、坂の途中に産廃処理場を作らない、などの規制でもあるのだろうか。そうでもない限り、あの風景を保つことは不可能と思う。
番組では屋敷や庭園の保存と後世への継承に重点が置かれていたが、あの借景の維持も結構大きな問題のはすだと思う。
京都では寺院の庭園でも借景を利用していることが多いが、どうなっているのだろう。東京の里山には電力会社の鉄塔だの携帯基地の塔だのが多い。借景となる山には規制があるのか、山の持ち主は納得しているのか、そして今後もこの風景を維持できる状況にあるのだろうかと気になった。
まつろわぬ民
活東庵公開日:2010.8.27
台湾の高砂族(今の台湾での呼称は”原住民”)の人たちが、ニューギニアやフィリピンなどの戦線で部隊が飢餓に陥ったとき、食糧調達に多大な力を発揮した話は林えいだい氏の著書や元兵士の私家本などにもよく出てくる。命を救われたという話もいくつかある。夜でも食用植物をにおいや手触りで見分け、ワナ猟(銃は不要)が巧みだった。靴がないとたちまち歩けなくなる日本兵を尻目に、彼らは裸足で山を駆け回り、靴を履くとむしろ歩きにくい、と首からぶらさげていた。足の親指が離れ、山道を身軽に移動する。夜目がきき、足音たてずに忍び寄る。夜襲や米軍食糧の盗みだしにも抜群の働きをした。
先日沖縄の離島で、その高砂兵の海版では、というユニークな体験を聞いた。防衛隊として沖縄戦に参加したある老人の体験談なのだが、その生命力、自活力が半端でない。
離島のシマンチュ(本島の人は泳げない人も多い)として多大な誇りを持っていた。潜水能力が高く、空襲で沈んだ特攻艇16隻の引き揚げを頼まれ、隊の同島出身者みなで力をあわせすべて引き揚げてみせた。
海上を泳いでいると水陸両用戦車から自動小銃でバリバリやられたが、自分らは一潜りしてあがったら弾はやんでいた、という。ときには水中で軍服を脱いだりしている。
あるいは、カデナから那覇までなど、かなりの距離を泳いで逃げる。足がつっても途中もみながら泳ぐ、慣れている、大丈夫という。キン(金武)の人が一緒に連れてってくれというが、「あんた泳げるか」と聞くと泳げないという、「ならだめだ、自分たち泳いで逃げるんだから」
この島の出身者の生存率は高い。海軍記念日の総攻撃、切込み隊にも参加したが、みな生き残っている。無人島のアダン林に隠れたり、破損して打ち捨てられたサバニを緊急補修して海を走る。当時はまだ帆かけと櫂漕ぎで、動力は使っていなかった。だから自在に船を操り海を走る。
一方、出身の島は全島避難させられていた。軍もばらばらになり、無人島経由で島へ行ってみる。集落には誰もいないが、井戸を確認すると使った後がある。誰か戻っていると確信、心当たりのあるガマへ行くと立ち退きしていたはずの村人が40人ほど、勝手に戻ってきていた。
その後、息子とけんかして一人集落に戻った婆さんが、定期的に点検に来ていた米兵と遭遇、タバコだのおみやげを貰って大喜び、手まねでみながいることを教えてしまい大騒動になるのだが、彼らはなぜ戻ってきたかというと生活できるからだ。カライモはある、銛で海の幸も取れる、自分たちだけで十分に生きてゆける。
その後、彼らはみな米軍の捕虜収容所に連れてゆかれ、配給で生活することになる。
東北の雑穀栽培について調べていたとき、山村の人の話として「昔はほとんど米は食べなかった。戦時体制で食糧が配給制になり米をもらうようになった。それで米の味を知った」というものが多い。かつては雑穀が主食だったが食えたという。(いわゆる東北の飢饉も、米のとれない地域に米本位制を持ち込んだためだという説が最近出ている。)以降、米を食べる生活になるのだが、都市には有効な配給制も、自給自足社会には問題のある気がする。自活力を削ぐ部分があると思うのだ。
思うに、まつろわぬ民とは、お上に反抗するからまつろわぬのではなく、自分たちで生きてゆけるから自由に生きる、という感じだったのだろう。
現在、台湾では原住民でも自由に山に入ることはできない。ほとんど国有林とされ、狩猟も基本的に禁止、祭りなど特別なときしか許可されない。いまや山の幸で自給自足の生活を行うことは不可能、完全に貨幣経済に組み込まれた。
沖縄の場合はこうした強制や禁止があるわけではないが、素潜りで銛で魚をとり、長距離泳ぎ、帆や櫂でサバニを自由に操り海を駆け回る、そうした能力のあるシマンチュはこの世代で最後だろう。いざとなったら人工的なインフラなどなくてもやってゆける、そうした生活は永遠に消えうせるのだろう。
外資による森林買収
活東庵公開日:2010.9.24
最近TVで相次いで外資による日本の森林の買収問題が取り上げられた。以前、「外国人による森林買収とやらは根拠のない都市伝説」とマスコミに書いていた人がいたが、これらの証拠にどう弁明するだろう。外国人排斥臭い噂はよくない、というつもりだったのだろうが・・・、事実は事実としてあるのだが。
外資がオーナーでも森を守ってくれるならそれでもよい、という内容のつぶやきが森林関連でリツイートされていたが、甘い。”外資”は経済活動なので、現在生えている3、40年生の杉ヒノキを皆伐したら放置とか平気でありうる。基本的に外国人だろうが日本人だろうが、不在地主そのものが健全ではない。逆にニコル氏のように地域に根付いて永住覚悟で森に関わるなら、外国人だろうがなんだろうが、不在日本人地主よりはるかによい(ニコル氏を外資とは呼ばない)。
特に北海道で外資への森林売却例が多く見つかっている。正直本土の人間が北海道に開拓に入って百数十年。100年そこそこしかもたないなら、外資に売却するよりも、アイヌ民族に返還するほうが道義にかなっている。どうせアイヌから巻き上げた土地なのだ。
今林業は苦しいと言われているが、きちんと山の管理をしている山主も多い。東京近辺の話だが、正直、昔から続く大山主の家々は山をきちんと管理している。それ以外の、戦後入会地を分けたパターンの人たちに問題が多い。結局狭いから金にならないとかなんとかで放置したり、村を出て行き行き先も不明となり持ち主不明の土地になる。
番組では山の境界のあいまいさも問題になっていたが、地方出身の知人らを見ていても、境界わからない、山や畑の場所すらわからない、興味もない、やる気もない、と言っているような人たちがいる。
財産管理も本人に責任があるはずで、田舎に残した畑の境界がよくわからない、どうやら境界の畦道が周囲から耕作されいつのまにか移動しているようだ、などなど都会の居酒屋で文句たれているくらいなら、確定に行けよと思う。確定にも行かず放置しているなら侵食されても仕方ないだろう。だいたい雑草だらけの放置畑は周囲にも迷惑だし。
また土砂崩れの報道のたび、山が管理されないが故に土砂災害が起きた場合、被害を受けた人が訴訟を起こすことはないのだろうか、と感じることも多い。
不在地主はいろいろな意味でよくない。暴論覚悟の発言だが、管理する気もない人たちの土地は国が没収してもよいとすら思う。
本当ならアイヌに返すべき、という話に関連して:
ここでも何度も書いているが、かつて日本には漂泊の民がいた。戦後日本社会は大きく変わったと言い昭和が追憶されるが、それ以前、江戸から明治に変わったときにいったん大きく変貌している(このことを悼む人はあまりいない)。
中世の代から、山河と海原を自由に通行する権利を天皇から受けたとする漂泊民がいた。山の8合目より上の木は自由に切ってよいとされた木地屋の人々、海を移動する家船の人々。いわゆる山窩(ケンシ)の人たちは川漁や竹細工で生計をたてつつ、毎年決まった地域を移動していった。
明治の代になって官有地民有地の区別がなされ、土地の私有権が与えられると、地元と漂泊民の間に摩擦が生じるようになる。木地屋は不法伐採などの罪に問われ(詳細はこちら)、海や川で漁業権が確定してゆくと、法律にうとい家船は締め出される、カワト(川徒)も締め出される。移動民の小屋掛けが許容される土地すらなくなる。こうして長年続いた制度は崩れ、ほぼ跡形もなくなった。彼等の実態を調べた民俗学の論文で、その終焉を記した部分は、正直胸が痛む。
こうした話に、もともと土地は、海は、山は誰のものかと思う。もとは誰のものというより、そこからの幸で人々が生きてきた。太古から。それが今、無関係に所有権のみが売買され投機の対象とされている。このこと自体が、大きくおかしい。土地は自分のものだと昔からそこで生きてきた人たちを追い出し、ケンシやエブネやカワトの存在は許さない一方、管理はせずに荒れ放題。これはアイヌや沖縄の基地問題にもつながる。
外国人の山林所有を制限する国も多いが、外国人排斥云々というより、田畑や山林、海洋において、不在地主そのものがおかしい、ということがあるからだと思う。(外国人排斥となるのを警戒し恐れアレルギーのようになっている人はもっと冷静になったほうがよい。あるいは、自由放任経済の推進者か)
その証拠に、どの国でも革命のたび、土地は旧態依然の大地主から現に使用している人々に再分配される。それがまた数百年たつと、”競争”の結果一部に集積されてくる。すると矛盾が著しくなり、また革命が起きて再分配される。その繰り返しだ。(ここでいう革命とは、暴力革命だけでなく、貴族制社会から地頭支配へといった社会構造の変化も含める)。
マッカーサーの土地解放も、大きく見れば中国でも革命が起きて地主階級が没落し、台湾でも蒋介石が土地解放を行った流れの中にあった。アジアで古い社会が崩れ、新しい社会が誕生した時代だった。
外国人による森林買収その2
活東庵公開日:2010.12.26
外国人に土地が買われている話、さすがに最近では”都市伝説”と言う人はもういないようだ。森林再生NPOの活動を行っている人が新聞インタビューで、競売物件にも外資が入ってきている話をしていた。外資が高額で落札するようになったため、NPOが山林を買えなくなってきているという。
この手の話の場合、良心的リベラルの立場の人は、外国人排斥のようなスタンスになることを警戒しがちだ。それが先の”都市伝説”発言などになって現れるのだろうが、このへんが現実を見誤る要因になっていると感じる。
あまりこうしたことが頻発すると、良心的リベラル系の意見を、みな聞かなくなる。
人を悪くとってはいけない、という個人信条と、現実がどうであるかという認識、差別はいけないとするルールとは、まったく別物のはずだ。
外国人による森林買収その3
活東庵公開日:2010.12.26
『TVタックル』その他の報道から、水源、希少生物などを狙って国土を売買される今の状況に、正直、「もはや日本は途上国扱いだな、植民地のようになるだろう」と感じた。よくアフリカやアジアでは19世紀から現在に至るまで、資源を狙って外国により土地が安く買い占められてきたが(その時点では買われた国の人たちはどういうことなのか気づいておらず、何年もあとになってその意味に気がつく)、その状況によく似ている。
これは某ホテルの経営者らが言うような「通常の経済活動」「以前日本もアメリカで買っていた」というのとは異なる。人工建造物のビルやオフィスが売買されることについてはそのとうりなのだが。
中国の場合は、土地を確保して将来的な移住も視野に入れているものと予測する。中国人個人個人にその意識はあまりないだろうが、暗に国として奨励、後押ししている。
かつて中国の高官が「どこか1億人くらい引き取ってくれるところはないだろうか」とオーストラリアに冗談めかして言ったと新聞で見たことがあるが、人口圧力、食糧水問題から、各地への移民も奨励する政策をとり、見た目は合法的な形を装い文句を言いにくい布石を打ってくるだろう。
北海道がターゲットになっているのは、転売目的だの中国人は北海道が好きだから、という呑気なものではなく、人口が希薄、(日本人にとっての)歴史も浅く日本人に優先権はないと主張しやすい(農業で失敗した場合、本州四国九州では首吊りだが北海道では夜逃げと言われているように、土地所有者側も先祖代々の土地で売りにくい、ということが少ない)ことなどにもよると思われる。
これは中国を悪く言うということではない。彼らは将棋の駒を詰めるように布石を打ってくるので、その意図をきちんと読み取るべきだと言っているのだ。
TPPと農業
活東庵公開日:2010.12.26
TPPに参加するか否か問題になっているが、TPPに参加するしない以前に、10年20年後にはほとんどの農家はなくなっているだろう。なぜなら、現在畑や田圃を維持している大半は60代以上。子供は継いでいないところが多い。どう考えても、自然にそうなる理屈だ。
検地-放置山は自治体へ
活東庵公開日:2011.1.27
先日、間伐枝打ちに関わっている人たちの新年会で聞いた話:
林業に関わる若手君いわく
「農業の政策もいろいろ問題あるけど、農業やっている人たち、て代々農家じゃないですか。もとから農業のプロ、専門家なんですよ。だからまだいい。でも林業の場合、昔から林業を専門にしてきた林家、てそんなに多くない。多くは山があっても薪炭林だったり材を出す山ではなくて林業には関わっていない人が多かった。それが戦後、高度成長期の住宅難のとき、国策としてそうしたもともと林家ではない人たちにまで、山に杉やヒノキを植えさせた。それが今の問題になっている。プロじゃないから世話の仕方がわからない。さらに年取って、体力的に枝打ちも間伐もできなくなってきている。国策で素人にまで杉を植えさせたのだから、国がある程度面倒を見たほうがいいと思うんですよね」
最近里山や森林ボランティアが話題になり始めたが、30年前から林業にかかわり、全国でも老舗のグループの人いわく
「林業も山村も大変だけど、都会はこれからもっと大変だぞ。このへんの大規模林家のXXさんは案外楽観的なんだよな。もう材の価格は十分暴落しているし、いったん、落ちるところまで落ちたほうがいい、て。そうしたらそこで安定する。元に戻ればいいだけだ、て」
福島の山村出身の知人の話:
「うちにも山あります。あたしとお兄ちゃんが生まれたときに植えたから、もう45年前後になると思う。子供の頃は年二回下草刈について行った覚えがある。今は両親とも亡くなって、兄貴もXX市に家建てて出ちゃったから、実家には誰もいない。山はそのままになっている。兄貴だって世話してない。だって世話できないもん。山の場所もわからないと思う」
昨年父親を亡くした知人の話:
「父が亡くなる前、予感がしたのかしら、静岡に残してきた山を持っていてもしょうがないから処分したい、て町に寄付したの。あのとき寄付しておいてくれて、本当に良かった。山、ていっても価値ないから、固定資産税とかかかってこないのよね。だから毎年の税金の一覧に載らないから、山があることすら知らない、地方出身者の二世、て結構多いと思う。相続のとき急にわかっても処分に困るだけだし」
思えば株券電子化にあたって、2年だかの猶予期間を設けて登録の申し出のない株券はすべて無効になった。持ち主のわからない畑や山が増えている今、一度検地を実施して保有者のわからない土地については公示して猶予期間を設け、それでも名乗りでない場合は自治体か国庫に没収したらよいと思う。
維持に金がかかるから、市町村だって寄付を受け付けるかどうか、という人もいるが、持ち主がいたってどうせ維持していない。同じだろう。それに人工林も材を出しやすい古くからの良林以外は伐採して広葉樹林に戻せば、最初の伐採以外さほど費用はかからない。里山の落葉樹がよいか、保水力があるとされる照葉樹がよいかは専門家にまかすとして。
あと、外国人による土地所有を制限だか禁止する法案を検討している話も聞くが、だめだと思います。そうなったら必ず日本人をダミーでたてて取得してくると思われる。せっかく土地の地目が商用地、住宅地だの畑、山林、雑種地だの分かれて登録されているのだから、商用地、住宅地工業用地以外は農業委員会のように土地に住む人の承認がいる形にすべき。なんでもかんでも、経済活動なんだからと水戸黄門の印籠のように許されてよいものではない。
貧民テクノロジー
活東庵公開日:2011.3.19
以前から大規模システムに頼ったインフラは不安だった。今はなんでもコンピューター制御だが、悪質なウイルスが侵入したら電気や水道システムがダウンする。地震など広範囲の災害はもちろん、ダム湖が故意や事故で汚染される、発電所や変電所の事故など重要な一箇所がやられただけで全部だめになる。
昔のように個別に井戸があった頃は、全部ダウンさせることなど、逆に至難の業だった。
こうしたことから、いずれは大規模供給システム(電気ガス水道だけでなく、食品生活雑貨の大規模供給システムも含める)に頼る生活からの離脱、最終的には自給自足に近い生活へ、という希望がかねてからあり、それに関連した情報を集めてきていた。
家族は普通の人たちで見栄っ張りでもあるので、周りと違った妙なことはやるな、というため、自重してきた。
なにしろ、たとえば学校で同室だったスリランカの女の子が、友達の着ている服でいいと思ったものを、型紙だのチャコペーパーだの大げさな道具を一切使わずに、好みの布にあてて切り抜き、ささっと縫って、結構かわいく着ているのを見て、私もその方法をまねて着ていたところ、「日本全体がそのレベルで生活しているならいいが、今は違うんだから恥ずかしいからやめろ、やるならきちんと洋裁習ってやれ」という人たちだ。普段の生活をなぜそんなに”オオゴト”にするんだよ、そうやって社会全体の雰囲気として(出来栄えの)ハードルを高くするから自力でやろうとする人がどんどん減り自作能力がなくお金で買うタイプの人(=消費者)が増えるんだろう、と思っていた。
こういう事態になると少々妙な実験をしてもOKな雰囲気になるので、かねてよりイメージしてきたことを試してみた。
生活には水と燃料(近代生活では電気とガス)が必要だが、大規模供給システムに頼らず自給でやる場合、水は井戸(裏山があれば山水)か雨水貯蔵、燃料は炭(or練炭)や薪(裏山があれば自給可能)となる。電気なしの生活も選択肢の一つだが、自給で賄う場合は太陽光か風力になる。冷蔵庫や普通のTV、暖房、洗濯機、掃除機などを電力で動かそうとなると大きい値(特に起動電力)が必要になるが、灯りやAV機器なら小さい値でも動くものが意外に多い。多少電気の知識も必要になるので(迂闊にやっても危ないため)これ以上は書かないが、興味があるならいくらでも調べられる。以前から自分の家を持ったらこうしようと調べておりイメージしていたので、ここで一気にパーツを揃え動かしてみたところ、本当にうまくいった。
その際、秋葉原の電気街、特に細々した部品を売っている小さい店の密集した一画のおじさんたちには本当に世話になった。ちょっとした会話からヒントになるし、ケーブルや特殊な形のコンセント、ヒューズその他について丁寧に教えてくれた。秋葉原があって、本当によかった、と思う。
洗濯機、掃除機は自分でやるからいらない、電力で灯りと情報が賄えればよいとするならこれでなんとかなる。問題は冷蔵庫だが、集めた情報の中には冷蔵庫すら使用せず、肉もすぐに塩漬けや燻製にして貯蔵するツワモノによる方法伝授もある。
実はちょうど一ヶ月ほど前、林業作業をやっている仲間とこの話をしたことがあった。仕事が電気関係の人がおり、「電気は貯蔵がネックだね。今は水の高低差や化学反応を利用しているけれど、うまい貯蔵方法が見つかったら大発明だ」と言っていた。そしてこうした大規模インフラに頼らない自己完結型システムの発想は面白い、自分たちはお金儲けに興味ないし縁もないし、お金のかからない貧民テクノロジーとしていろいろアイデア出してみよう、と話していたところだった。
追記 2011.4.12
雨水 よく畑で作業小屋の樋から雨水を貯めているのを見かける。自宅屋根で試したら、結構雨水はたまる。「そういえば昔家の脇に大きな甕があって水を貯めていた。防火水だったかもしれないけれど、アオイが入っていて魚もいた。ボウフラ対策だったと思う」と年配者も言う。
ゲリラ豪雨が問題になっているが、アスファルト化して土中に浸み込まない水が地上にあふれる、と言うなら、逆に都会では雨水を効率的に集められるはず、ということになる。飲用には無理でも簡易ろ過すりゃ洗い物水洗トイレ程度には使えるはず。非常時にはビニール袋に米と飲用水を入れ、沸騰した非飲用水に入れれば炊飯できる。
自立電気システム 先月の電気システム(貧民テクノロジー)について質問された。ここに載せるか迷ったが、何かのヒントになればと思い(うまいこと考えてくれ頭のいいエロイひと):100Vではなく12Vシステム。12V用ソーラーと自動車バッテリーつなげる。家電は12V用を使う。「電気釜使えるの?」と聞かれたが使えません、12Vですよ〜、大物は無理です。灯り、ラジオTV程度。基本的なネタ本は『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(坂口恭平著 大田出版)。本ではバッテリー並列している(並列と直列間違えないでね。ちなみに3時間くらいなら一個で大丈夫そう。容量とV、Aの計算など中学物理を見直そう)。ネットのブログにはソーラー2枚のみの自作システムでエアコン動かしているツワモノがいた(もちろん100V用ソーラー)。抵抗だのダイオードが熱もつから放熱板だのかなり詳しい様子。考えてみれば一番クーラー使うのは太陽がガンガンに強い晴れた昼間なわけだから、その太陽光を動力源にクーラー動かすのは合理的。CDラジカセや灯りには4.5V、6V、9Vなども多い。ノートPCのアダプター見ると19Vだのいろいろ。12Vから4.5Vなど自在に変換できるインバータがあるか聞いたが、秋葉でもないと言っていた(しつこく探せばありそうだが)。
別の人にこの話をしたら、自動車バッテリーなら電気余っているときに充電して計画停電時使えばいいね、と言っていた(充電器持っている場合)。計画停電でなく完全な停電中はもちろんその充電はできない。
一方、夜間電力余って無駄に流れているというなら、あちこちでキャッチして貯めておくのもいいかも。ただそれが原因で大停電しないよう、あくまでお余りを受け取る状態でないといけないが。
水害
活東庵公開日:2011.9.9
台風による大雨で、各地で土砂災害が発生している。映像を見ながら思う。これらの地域は、もともと川沿いに集落があったのだろうか、と。
というのは、以前民俗文化映像研究所の姫田さんが「今、日本各地で山の人が里に下りてきている」と話すのを何度か聞いたからだ。山上の不便な生活をやめて里に下り、家を建てているという。東京や大阪などの大都市に転出する例もあれば、その地方の中核都市や近くの町場に移住する例もある。さらに地元の市町村から出ないものの、山の上ではなく車の通る川沿いに移動する例もある。
奥多摩の山道を歩いていると、車の入れない山道沿いに集落を見ることがある。電柱もあり東京都水道局の栓もある。しかし、家屋は人が住まなくなって久しいと思われる廃屋だ。
登山道の下、車道の通る谷筋に家々が建っているのが見える。もとからそこにあった家もあるだろうし、山上から移動した家もあるかもしれない。
奥多摩で水資源管理や森林作業を行っている人たちからよく聞くのは、「かつては尾根がメインロードだった」という話だ。奥多摩の各集落は、尾根道から降りる道でつながっていたという。
山腹あたりに空気の逆転層があり、下の空気と上の空気のぶつかるあたりが暖かい。山はお椀をふせたような形になっていることも多く、その暖かいところに平らで日当たりのよい土地があれば、畑も開け人家があった。なぜあんなに高いところに集落があるのか、というのはそういうところが多いという。奥多摩の日原あたり、丹波山村との境付近や、檜原村藤倉あたりには、まだ山上集落が残っている。
上野原でも夏は養蚕で山の桑畑、冬は炭焼きで山にいることが多かったと聞く。
車は坂が苦手だ。土木技術が発達している現代は、川沿いに自動車道をつけることができる。しかし通常川沿いは狭く、昔は土木工事ができなかった。川沿いでも広いところにあるのは古い村だが、狭いところにある家は新しいことが多いという。
ちなみに山で迷ったら尾根にあがれ、というのは、尾根に道(作業道や古い道)のあることが多いためだ(あまり言われていないが針葉樹の人工林に入れば、必ず材を出すための道がある)。
信州の今は大町市になっている旧某村に新規就農した知人の話では、村内の山奥で不便なところに住む人たちを行政が村内移住させているという。確かにあちこちばらけて住むのは、電気水道など公共インフラ施設の効率という観点からいえば、金がかかって効率が悪い。
ただ、公共サービスの利便性のために人が住むのではなく、もともと人が住むことが大前提にあり、その上に公共サービスが乗っかってくると、個人的には考えている。効率悪いからサービス提供できないのであれば、サービスいらないからばらけて住むという選択もあっていい。
かつて全国の山を十数年単位で移動しながら木地(白木の椀)を作る職能集団だった木地屋の人たちも、移動に尾根を使っていた。木地屋道は尾根伝いの間道、通常に比べ短時間で完走できる。木地屋といえば巡国制度が有名だが、巡国人が回る際は、山道に詳しい木地屋が次々案内に立ち送り届けたという。下の道を通ったとき雪崩に遭い、一度に大勢の木地屋が亡くなる事件があり、それ以来尾根道を使うようになったともいわれる。中世以前の日本の山間交通は、冬季積雪の害を避けるためと最短距離という理由から、尾根道が最高度に利用された。彼らはきわめて健脚で、日に三十里の往復を意に介さなかったという。
紀伊半島も山は低いが傾斜が急峻な地、人工林の管理がどうこういう以前に、もともと土砂災害の起きやすい土地ではないかと思われる。
おそらく日本全国で、山間地の人々はかつては今のような車の出入りしやすい川沿いの低地ではなく、もっと山上近くに住んでいたのではないか、と考える。
獣の害
活東庵公開日:2011.9.9
いま、里山に人が入らなくなり、人間の領域と獣の領域があいまいになったから、イノシシや鹿、猿、時には熊まで人里に出てきて畑を荒らすようになったという説明をよく耳にする。山村に行くと、イノシシよけの柵で囲ったり、猿対策で網をかぶせたり、”人間のほうが囲いの中に入っている状態だ”と嘆くのを聞く。
しかし民俗学の本を読んでいると、山の獣の害には昔から困っていたことがわかる。獣や虫の害を防ぐため山の畑にお札を立て祈祷した。
奥多摩その他でよくきくXXカイトという地名は、中世にイノシシ避けの垣がめぐらされていたところで、垣内、垣外というのはその内、外の意味だという。
宮本常一の『山の道』『日本の宿』や民映研の山村ドキュメント映画でも、山の畑には必ず出作り小屋があって、そこに家族の誰かが寝泊りし鳥や獣を追った話が出てくる。江戸時代の旅行記などにも、山村で獣や鳥を追う人の声が聞こえてくる情景が描かれている。
思うに、畑に獣が現れなくなったのは、一般に鉄砲が使えるようになった明治以降ではないか。そしてそれはほんの一時期で、鳥獣保護や禁猟期間、禁猟区などの概念ができ、人間がむやみに獣を捕らなくなって以降、再び獣が畑に姿を現すようになったのではないか。
人の一生は長いようで短いから、過去の記憶は簡単に塗り替えられる。
東北インドのマニプールへ行った時、周囲を山に囲まれた盆地は一面稲田だった。日本軍が食料不足に苦しんだ第二次大戦当時もこうだったのだろうかと疑問に思った。地元の若者に尋ねると、昔から田んぼだという。戦前生まれの老人に聞くと、昔は一面原野だったと答えた。田んぼになったのは戦後だという。
若者も嘘を言っているわけではなく、確かに彼の子供の頃はもうすでに田んぼだったので、そう答えたまでだろう。かくも常識は簡単に入れ替わる。
ところで、宮本常一の日本の旅シリーズを読んでいるといろいろ面白い。昔布団は小さかったという話もそうだ。田舎、特に東北の宿に行くと人丈に満たない布団が、彼が旅行した戦前から戦後しばらくにかけては、まだ多かったという。
布団が小さいので、いわゆる手足を伸ばして寝る寝方ではなく、昔は丸くなって寝ていたのだろうという。そして、宮本世代にとっての祖母が、翌朝早く起きる必要のあるときは正座をし腕を組んだまま寝ていたことを思い出している。寒くないのかと問うが、腕を組んで寝るから寒くないとの話だった。いわゆる手足を伸ばして寝る姿勢が一般的になったのは、綿をふんだんに使えるようになった戦後かなりたってからではないか、と宮本は考察している。
サンカ関係の本を読んでいたときも、旅先で人の家に泊めてもらう際、布団が小さかったり薄いなど寒いときは膝を抱え丸くなって寝る話がある。そのとき、暖かさによって膝と顎の距離が変わるので、昔は何寸どうとかいう言葉があった、という話が載っていた。
今では常識のような手足を伸ばして寝る姿勢だが、こうなったのはごく最近のことではないか。ヨーロッパの古いホテルで、短躯の日本人にとってすら背丈より短いベッドがある、という話をときどき聞く。身長の高い彼らはどうしているのかと続くが、この話にも、かつてはヨーロッパでも丸くなって寝る姿勢が一般的だったのではないか、という気がする。
名張
活東庵公開日:2011.9.9
先日、名張に新規就農&就林した知人を訪問した。知人は、大阪にいた頃から関わってきたという地元の有機農業系NPOを案内してくれた。このNPOの事務局となっている古民家に、なんと有機農業で有名な福島の一家が避難してきていた。ご主人のお父さんは有機農業界の草分け的存在で、30年前から名前を知っている。福島原発事故を受け、以前から交流のあったこのNPOが無償で古民家を提供したという。
赤ちゃんを抱えた奥さんに、「早く戻れるといいですね」と言うと
「もう戻れないと思う。飯舘だから。子供たちのことを考えると戻れない」と言った。
えごま栽培で有名なご主人の弟さんも、近くの伊賀に避難してきておりこちらでえごま栽培を始めていると言っていた。
このほか、名張周辺では無償で家屋を提供し、福島からの避難者を2、30家族受け入れていると聞いた。行政主導かNPOなどが個々に動いた結果なのかはわからないが、こうした細かい動きはあまり報道に乗ってこないものの、あちこちで起きているのだろう、と感じた。
名張は、関東人の自分にとっては今まで聞いたことのない地名だが、行ってみると低山の里山と田畑が交互に続き、遠くに鈴鹿だか高い山系の見える景色のよいところだった。林業と農業が可能で名古屋大阪にもそこそこ近い。結構穴場かもしれない。
定住革命
活東庵公開日:2011.12.23
中学高校の頃、世界地図を見るのが好きだった。特にお隣、中国韓国北鮮ソ連はラジオの国際放送もよく聞いたし、地図もよくながめていた。ソ連や中国には民族自治区が多い。XX自治共和国だの自治州だのある。そんな中、シベリアの広大な土地が”エベンキ民族管区”となっており、印象に残っていた。
山の天気図をとるため気象通報を聞いている山ヤならポロナイスクという地名になじみがあるだろうが、ここはかつて敷香(シスカ)と呼ばれた町で、オタスの杜という北方民族の居留地があった。樺太が日本領になったとき、サハリンのツンドラ地帯でトナカイ遊牧生活、海獣漁生活をしていた彼らを一箇所に集め定住させたもので、ソ連のコルホーズ、アメリカの北米インディアン居留地と同じものと言われる。当時樺太5種族とされたウィルタ(オロッコ)、ニブフ(ギリヤーク)、エベンキ(キーリン)、ウルチャ(サンダー)、ヤクートの人たちだ(括弧内は当時の名称。自称、他称で名称が混乱している)。
先日、北方民族の支援活動を行っている人と話す機会があった。彼らのうち、ウィルタ民族とニブフ民族が戦後、日本領時代日本に協力したその他の経緯から日本に移住してきている。
彼らに農業を教える政策がうまくゆかなかった話になる。あるウィルタの人が「じゃがいもを埋めれば増える、と聞いたウィルタが、10日後に畑に行って掘ったところ増えていなかった、と怒った、本当にウィルタってばかだね」と自嘲気味に笑ったという。活動家氏は彼らがばかなんじゃない、遊牧民や漁民にいきなり慣れない農業を教えて最初からうまくゆくわけがない、と怒っていた。
この話に2つのことを思った。1つめは、この手の誤解は、今の日本人サラリーマンなんかでも大いにありうるな、ということだ。以前就農準備校で農地実習があったとき、大根の種まきで1穴に1粒、という指示に対し「たくさん収穫できるほうがいいと思いまして3粒づつまきました」と無邪気に語ったおじさんがいた。実習を受け入れた農家にとっては、種の無駄遣い+余計なまびきの手間ができてしまったわけで苦笑していた(1穴3粒で間引く方法もあるが、大規模栽培のこの農家では1粒でやっていた−種の発芽率は良い−。それにサラリーマン氏は1穴3本栽培を想定しており、これは栽培法としてありえない)。この手の”トンデモ”話は結構多い。これは農業に限らず、パソコンのトラブル相談をしている知人も、PC黎明期の頃、とんでもない操作をしてくれる初心者の笑い話をよくしていた。「どーしたらそういう発想になるのかー、てなことをやらかしてくれるんだよねー」と言っていた。共通するのは、”単に知らないだけ”。
次に、以前中国史の先生が、かつて日本で言うことを聞かない子供に対し”橋の下から拾ってきた”だの”橋の下に捨てちゃうぞ”と言ったように、昔中国では子供が言うことを聞かないとき、農民は”遊牧民にやっちゃうよ”と脅し、遊牧民は”農民にやっちゃうよ”と脅した、と話していたことを思い出した。そのくらい価値観も違うし、農民は遊牧民を、遊牧民は農民を下に見ていた。
活動家氏との会話にツングースだの女真だの出てくる中、そういえば中国の歴史の半分以上は異民族の歴史だ、五胡十六国から遼、契丹、金、元、清、と聞いたことも思い出した。
『人類史のなかの定住革命』(西田正規著 講談社学術文庫)という本がある。ざっくりまとめれば、人類が農耕による食糧生産を始めたことを歴史的な大転換(新石器革命)とするのが今の常識だが、それよりも、移動生活から定住生活に入ったことのほうがもっと重要な転換点であり、農耕は定住の原因ではなくあくまで結果だとする内容の本だ。
日本にも近世まで、さまざまな職種の移動生活を送る人々がいたことがわかっている。明治維新以降、戸籍制度・土地私有制が明確になり、移動生活を送る人々はその形態の生活を維持するのが難しくなった。あいまいな存在が許されないのだ。
これは日本だけでない。現代ではどの国でも、移動生活を送る人々に対して”定住化促進政策”を行っている。モンゴルでもそう聞く。アンダマンの漂海民モーケン族も定住化しつつある。ロシアでもツンドラの遊牧民の定住化をはかっている。アメリカの北米インディアン政策もしかり。世界中でそうなのだ。
近代国家にとって、移動する人々は管理しにくい。”住所不定”とは犯罪者の代名詞ですらある(このこと自体、よく考えれば妙な話なのだが)。もう一つの理由として、義務教育の普及、というのもある。子供を学校へ通わそうとすると、どうしても子供はその地に留まる必要がある。祖父母と子供が定住し、両親は移動生活ということもある。
「遊牧民や漁民に農業を教えるという発想は、農業のほうが狩猟や漁業、遊牧よりも上だ、ということですよね。なんでそうなるんでしょう。でもこれ、て日本だけでなく、世界中でそうですよね。どこでも遊牧民や漂泊民を定住させようとしていて、そのとき必ず農耕を教えますよね」と私は言った。
「そうそう、今のロシアでも北方民族の人たちに家を与えて定住化させようと、農業を教えている。でも彼らにとってはありがた迷惑というか・・・。さらに話が複雑なのは、そういう政策を現場で推進している人たちは”善意”なんだよね。少数民族だから下に見て云々という単純なものでもなく、差別や迫害しているつもりはない。それが正しい、定住が正しい、農業を教えるのが正しい、と頭から信じてやっている。少数民族のほうでも、さまざまな特典や恩恵を当てにするようになっている」と、何度か渡露しロシア側の北方民族事情にも詳しい活動家氏。
「そういえば、かつて遊牧騎馬民族がユーラシア大陸を席捲した時代が続きました。モンゴルとか、清もそれに近いし、一番最後はオスマントルコだと思う。今、定住農耕民の逆襲の感じもなきにしもあらずですよね」と私は言った。
ネットを見ていたら興味深い論文があった。百瀬響氏の「日本のアイヌ政策からみる「樺太アイヌ統治法案」」(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/inoue/quest/hokkaido_momose.pdf)で、一部抜粋すると:
鵜月裕典氏−インディアン移住をめぐる白人社会の議論に「排除」と「統合」の論理があった。インディアンの"文明化"=同化こそが白人に利益を与えると同時にインディアンに恩恵と『正義』を施す手段として追求された。インディアンの強制移住、農民化による定住化(とそれに伴う「私有財産権思想や勤勉、キリスト教信仰」)によって変化を求められたのはインディアンの『風習』であり『意見』だった
この鵜月氏の意見を叩き台に百瀬氏−連邦インディアン政策による北米インディアンの文明化の試みは、現実には多数のインディアンの人命を奪うものだったが、一方、決してインディアンの滅亡=物理的抹殺を唱道するものではなく「統合」の論理を内包するものであり、むしろ当時の白人の(独善的なものであったにしろ)道徳心、人道主義的な「善意」に依拠していた、しかしこの「統合」の論理はインディアンの文化的抹殺、インディアンへの政治的支配=従属民化を実行した。また、文明化の条件に農民化・定住化が含まれていた事が、マイノリティ側の急激な社会変化と経済的窮乏をも惹き起こす結果となった。
農耕を教えて失敗した悲劇として、千島アイヌと対雁アイヌの問題がある。漂海民として数年単位で千島列島の島々を移動しながら海獣漁で生計をたてていた千島アイヌを、1875年の千島樺太交換条約の結果を受け、1884年色丹島へ強制移住させた。詳しい話は各種本に譲るが、農耕を教えるなどの各種撫育政策失敗、もともと少なかった人口が急減、明治30年から船を仕立て千島列島に海獣漁に行かせたところ結果が良く数年続いたがこれも時既に遅く、その後は四散してゆき昭和47年最後の純粋な千島アイヌが亡くなり民族として滅んだとされる(なお、道新がポーランドに千島アイヌの末裔が住むとルポしており、一方ザヨンツ・マウゴジャータ氏はこの話を疑問視している)。
対雁アイヌも、千島樺太交換条約によって日本国籍を選んだ樺太アイヌの一部が北海道へ移住することになった。樺太に似た気候の宗谷への移住と漁業従事を望むが、石狩へ強制移住となり農耕を教わる。しかし営農になじめず生計が立たず、ようやく漁業従事が認められ対雁、来礼に移民、そこにコレラ・天然痘が蔓延し人口が半減した。結局墓参などの名目でみな自力で樺太へ戻っていった。
これらの件の政策側の資料には、必ず撫育政策を何度も延長し親身に続けたが彼らの性格が怠惰でうまくゆかなかった云々の記事がある。この理屈は世界中の強制移住とそれに伴う定住化農民化の結果が思わしくないときに言われるのを見ると、このやり方そのものに根本的な欠陥があると思う。
平家は女人によって今も滅びませぬ
活東庵公開日:2011.12.23
なぜ植民地時代の韓国台湾や、少数民族問題にこだわるのかとときどき聞かれる。多様性が面白い、煮詰まった今の社会への風穴になる、ということもあるが、もう一つ、明日はわが身、という漠然とした思いもある。将来日本がそうした状況になったとき、たとえば植民地化されたとき、少数民族となったとき、何が起きるのか、どう感じるのか、それでも明日を信じて生きてゆく強さはどこにおけばよいか、などを知る手がかりとなるからだ。
古い歴史世界地図を見ると、見慣れぬ民族名が出てくる。フランスにはフランク族、スペインにはゴート族、イタリアにはランゴバルト族など。しかし今その名はない。民族は変わる。混血したりで昔のまま残ることはない。漢民族ですら、「中国人は混血している」とよく中国人自身が言う。もともと漢の範囲は狭く、上下左右の広大な土地には、漢民族も広がっていったが現地の民族と混血もしていった。中国人から「中国はXX族に征服されたが、最終的には彼らは漢民族の中に溶けてなくなってしまった」ともよく聞く。その民族は滅亡した、ともとれるが、マジョリティの漢民族側もその民族の血が入り変質した、ともとれる。だからなのか、以前こちら(純粋中国人伝説)にも書いたが、中国人は”純粋中国人伝説”にこだわる。日本人が日本人はどこから来たかにこだわるように。大陸だけでなく、台湾人もこの”純粋漢民族は足の爪が2枚ある”話を知っている。
来年の大河ドラマは久しぶりに源平合戦時代だが、昔「女人平家」というドラマをやっていた。当時大河ドラマが吉川英治の「新平家物語」で、女人平家なんて子供が見る番組でない、と親は渋っていた。しかし今思い返して、原作吉屋信子(死後評価が上がっている)、脚本水木洋子、平清盛佐藤慶、平時子有馬稲子、平佑子吉永小百合、汐戸田中絹代、大江広元浜畑謙吉、平徳子結城三枝、平典子進藤恵美など錚々たるメンバー。清盛の8人の娘のエピソードで壇ノ浦まで引っ張る小説・ドラマだが、記憶では最後ドラマは「平家は女人によって滅びなかったのです」というナレーションで終わったと思っていた。調べてみたところ、「平家は女人によって今も滅びませぬ」という典子の台詞で終わったようだ。原作最後の一行もこの言葉で終わる。
単一民族国家
活東庵公開日:2012.3.6
波木里正吉氏は戦時中樺太で情報戦に従事し、戦後作家活動に入った人で、興味深い作品を残している。その一つに『国境』という作品がある。
これを読むと、当時の樺太には日本人、ロシア人、アイヌ民族、北方諸民族とさまざまな民族が混住していたことがわかる。
サケを盗み軍法会議でサハリンに送られた少年ソ連兵がいた。彼は少数民族ウズベク人(トルコ系)でソ連はどうでもいい、とにかく故郷ウズベキスタンに帰りたい(当時ソ連のウズベク共和国)。日本にはお前と同じ肌の色をした人々が住んでいると古いソ連兵から聞き、ウズベク人かもしれない、と北緯50度線を越え日本領へやってきた。
情報機関がもらいうけるが、ウズベク人少年兵は使いようがない。
やがて戦況悪化、樺太に元から住んでいるロシア人たちにも対米上陸戦に備え軍事訓練を施すことになった。樺太に住むロシア人には、商人やロシア革命時に帝政ロシア側だった人たちのほか、スタロウェクと呼ばれる人たちがいた。スタロウェクとはロシア正教非改革派で、ロシア正教において、ちょうど新教(プロテスタント)に対する旧教(カトリック)のような立場にある。この改革は当時の人々から見て祖父の代にあったそうで、サハリン南部に旧教信者のロシア人が流れ住み着いた。こうしたスタロウェクのロシア部落への軍事訓練に、ウズベク少年ははりきって助手として参加した。
やがてソ連参戦、ソ連軍が国境線を越え侵入してきた。敗戦後、ウズベク少年も捕まり軍事裁判で死刑が決定、銃殺されたという。
このほか、戦況悪化の昭和20年、大泊で余生を送っていた元帝政ロシアの大佐にソ連の電話盗聴工作を頼む場面がある。老大佐もソ連軍侵入後、逮捕され銃殺された。もともと友達だっただけに裏切る結果になった。多くのロシア人たちが自分を信じよせてくれた協力、友情を数多く裏切った、と主人公は北緯50度線にたたずむ。(抜粋終了)
対米上陸戦に備えロシア人たちに軍事訓練、などということが北辺の地であったこと自体、想像だにしなかったことだが、少なくとも当時の樺太の実情は多民族国家そのものである。
一つ、気になることがある。それはいわゆる”カミングアウト”の問題で、日本では在日やアイヌ、ウィルタやニブフを語るとき、必ずこれが問題になる。
台湾にも原住民がいるが、少なくとも出自は隠していない。だから日本は差別が厳しいという人もいるが、問題点が異なる気がする。
台湾、中国、ロシアでは証明書や公共文書に必ず民族名を書く欄がある。身分証明書に書かれているから隠しようがない。同じく多民族国家のインドも同様で、民族名を書く欄がある(カーストは建前上、聞いてはいけないことになっている)。
日本でカミングアウトが問題になるのは、隠そうと思えば隠せるからで、それは日本が単一民族であるということが前提になっているため当然民族名を書く欄も存在せず、隠す隠さない、黙っているなどなどが問題になってくるのではないか、と思った。
ロシアや中国の民族名は結構いい加減な面もある。もちろん完全な嘘は書けないが、両親が異なる民族の場合、ロシアも台湾も聞く話では本人の申請次第でどちらでも選べるようだ。台湾でも父親が外省人、母親が原住民の場合高金素梅のように原住民とする人もいれば、2月にあった同じ立場の人は「自分は外省人」と言っていた。現在サハリンでは、ロシア人や朝鮮人と結婚しているウィルタやニブフの人も多い。その子供はロシア人や朝鮮人でもあるが、現地と交流のある日本人いわく、遊牧系少数民族だと各種特典があるためそれを期待して北方民族を名乗る人も多い。
同じような話は中国でも聞いたことがあり、漢民族は一人っ子政策で子供を一人しか持てないが、少数民族には一人っ子政策は適用されない。このため子供を大勢ほしい人は、”大半は必ず混血している”と言われる中国人、家系を何代も遡り、何とか族を見つけて自分はX族だと名乗るという。
単一民族色が濃い国の一つに韓国がある。韓国も身分証明書などに民族名を書く欄はない。しかし韓国にも華僑がいる。その存在はほとんど知られておらず、権利もかなり制限された状況に長年おかれてきた。数年前、政府がその存在を公式に認めるだかして一種謝罪もし、報道された記憶がある。
単一民族国家その2
活東庵公開日:2012.3.6
波木里氏の別の作品には、なぜウィルタの人たちが日本社会で名乗らないか、その心情を吐露する場面がある(『オロッコ物語』近代文芸社)。
日本人と結婚したある女性:親兄弟が特務で働いた者は、日本への引き揚げを決意する。それはシベリアに抑留された兄弟、夫、息子は日本へ引き揚げになるだろうことと、戦後ソ連社会では戦犯の家族ということで肩身が狭いことからだった。引揚船の中で、自分たちはこれからは日本人と名乗ることを決める。その後日本に溶け込むよう努力してきた。オロッコ(=ウィルタ)、ギリヤーク(=ニブフ)だった過去を捨て、今ではマンションを経営する人、地方政府首長の妻になった人もいる。素性がばれたら30年かけて築き上げた幸せが崩れる。オロッコの身分がばれ離婚された人を何人も知っている。自分の夫も自分がオロッコとは知らない。そっとしておいてほしい。
公務員となった男性:北川(ゲンダーヌ)はオロッコ復権を騒ぐが、日本人皆が戦争の被害者。オロッコ族だと胸を張っても誇りになるようなものは何もない。そりゃ自分も民族の伝統が滅ぶのは寂しいが、滅ぶべくして滅ぶ民族。それより日本人として生きる道を探すべきだ。永住するつもりで日本に来た以上、日本人になりきる。北川は自分が公務員になったから疎遠にしていると思っているようだがそうじゃない、彼は日本人社会の構造をわかっていない。あんた(作者)は上からの命令で自分らを召集した、その上の将校は自分の守備範囲で計画を実行しただけ、その責任の所在をたどれば天皇へゆく。役所仕事も同じ、それを云々しても始まらない。北川はピエロになっている。陰でほくそえむのが革新勢力、成田の農民と同じだ。(抜粋終了)
結局、日本に渡ってきた北方民族の中で民族を名乗ったのは北川ゲンダーヌ氏とその妹のアイ子氏だけだった。両氏とも今は亡くなっている。
ところで波木里氏のシベリア時代がテーマになった別の作品(『ポイント少年』)は、ロシア社会を知る上でなかなか興味深い。
ロシアのシベリア開発は3期に分けられる。帝政ロシア時代(1800年代終わりからロシア革命まで)は、ヨーロッパロシアの革命をめざす労働者/知識人が刑を受け送りこまれて開発に従事した。2期目は1917年以降で、レーニン率いる政権が旧政権の要人、地主らを送り込んだ。3期目は第二次世界大戦後で、ドイツ軍捕虜になったソ連軍軍人、ドイツ占領に協力したロシア、ポーランド、ウクライナ、バルト3国人が大量に送られてきていた。これに加え、1938年以降は粛清されて送られてくる人々も加わわるようになる。
作者は一般でいうシベリア抑留というより戦犯のためラーゲリ送りなので、さまざまな人種と一緒になる(この点、同じくラーゲリに送られた内村剛介(「内村剛介ロングインタビュー」に似ている)。そんな中、作者は多様なロシア人に会っている。
革命後粛清されて送られてきたチモフェイ老人は、革命前後、各村にもコミューンが持ち込まれ、村人はお前の物は俺の物と喜び、地主の家から家財道具のほか婦人や娘も奪って輪姦、村人同士の風紀も乱れ性病が蔓延したさまを面白おかしく語る。
ニコライ老人は「明日にもアメリカが助けに来る」と老人になった今も元気に吼えている。「日露戦争の日本の勝利は当然だ、昔日本軍は強かったのにお前らはだらしない」と叱る。
ニコライ老人は第二次世界大戦で日本が勝利したら解放されるだろうと期待していたのだろうか。ロシアもなかなか多様な社会である。
ヴァンデ戦争
活東庵公開日:2014.5.15
『ヴァンデ戦争』(森山軍治郎著 筑摩書房)という本がある。昨今さかんになっているフランス革命再評価に関連する本だが、フランス革命に際して革命軍がヴァンデ地方の住民30万人を、女子供病人老人も含め無差別に虐殺した事件に関する内容だ。革命後しばらくは事件そのものがタブーで、単なる反革命の悪者による反乱を治めた事件とされ、この地方住民以外にはあまり知られず、当事者らもほとんど語ることはなかった。フランス革命200周年の20世紀後半から革命史の発掘がさかんに行われるようになり、ヴァンデ地方を襲った悲劇についても詳細がわかるようになった。
もともと都市部の民主主義者人権派の革命軍と、農村部で聖職者を敬い教会とつながりの強い保守的なヴァンデ地方は価値観が異なっていた。かといってヴァンデの人々は旧体制支持でも革命に楯突いたわけでもなかったが、聖職者に対する対応の違いなどから決裂が生じ、反乱が起こった。フランス革命正史では反乱とされるが、今ではヴァンデ地方でははっきり”ヴァンデ戦争”と呼ばれ、反乱という上下関係ではなく対等の戦闘だったとの解釈で、関連本も多数出版されるようになっている。そして200年たった今でもこの地方の住民はやり場のない怒りを感じているという。
最近日本でも上映された韓国映画に『チスル』という映画がある。米軍主導で李承晩政権下におきた、”共産主義者”疑惑による済州島虐殺事件(2,3万)に関する内容で、黒白フィルムで淡々と描かれる。島民を狩る側の軍人らの生態に、日本軍の悪いところ学んだなあ、という感想も思わず感じられるが、この事件は済州島出身者が大勢日本に渡る原因の一つにもなった(今でも在日韓国朝鮮人には済州島出身者が多い)。
今世界的に、こうした自国政権による一部地方や一部住民に対する虐殺事件が映画化されるなど明るみに出つつある。インドネシアについても、アメリカ人ディレクターが1965、66年に起きた”共産主義者”に対する50万人と言われる人々に対する虐殺事件に関するドキュメンタリーを作成している。被害者は共産党員だけでなく、知識人中華系その他マイノリティも多く、虐殺した側は軍人だけでなく一般市民や宗教グループもあった。このためこの問題は今でもインドネシア国内ではタブーで、映画も海外では話題になったがインドネシア国内では上映禁止、ただしYoutubeにアップされた最初の一週間で3万回以上国内からDLされている。
『チスル』を見ながらつくづく思った。よく世界仲良く、最後は世界連邦になれば戦争はなくなるという話を聞くが、世界連邦はやめたほうがいい。”国”主体が一つになると、世界中がその価値観で統一されることになる。欧州にナチスがはびこったときにも、アメリカ亡命という手段があった。済州島の人たちも日本に逃げた。逃げた先が理想郷かどうかは別にして、命は助かる。どこかにアジールが必要だ。国がばらけているほうが、アジールもあちこちにあることになる。
『ヴァンデ戦争』で面白いと思ったのは、ヴァンデの人たちがイギリスからの支援予想にすがる点だ。結局イギリスは介入しなかった(支援は来なかった)。外国の支援というのは、このように当てにならないものなのだ。
そして虐殺された人数の判断経緯について、興味深い記述がある。
「一般読者からすれば、歴史研究者というのはなんでこんな細かいことまで追求するのか、「その数564」と書かれ現在のリュック村の人々もそれを信じているのだから、それいいのではないか、と思うかもしれない。たしかに、いずれにせよ大量虐殺されたのは事実だし、その内容もほぼわかってきた。しかし200年前のリュック村民が集団記憶から抹殺してしまいたいほどの思いがあり、その裏側には今日につながる革命権力の圧迫がつづいてきた。それだけに、冷静にできるだけ正確な事実を追求しておかなければ、いたずらな誇張では真実は伝わっていかないのだ」
「地獄部隊による虐殺はリュック村だけではなかったのは確かだ。19世紀後半になってはじめてバルベデットの犠牲者名簿が発見されて公表されたように、それぞれの村での事件についても、かなりあとになって語り継がれたものと思われる。それだけに、誇張や不正確をともなうことになっていったのだろう。学問的にも、耐えられる事実の検証がなければ、革命崇拝の神話とそう変わりないことになる」
この内容は、南京事件検証についても言えると考える。
ところで、歴史を正しく見ない者は云々とよく中国韓国が日本に対して言うが、それは国内問題についても同様ではないかと感じるようになった。以前は、国内の虐殺は国内問題で外国の軍隊によるものと分けて考えるべきだと考え、他国の国内について言うのは自国の誤りをちゃらにする目的で口にするようなものだと考えたが、今は違う。国内だろうが国外だろうが、どこの国であろうと歴史を正しく見るべきなのだ。隠すのはおかしい。国内は隠してOK、外国によるもの(あるいは現政権にとっての敵によるもの)は隠さず問題にするというのはおかしい。
こう感じるようになったきっかけは、渡辺京二氏の『近代の呪い』(平凡社新書)を読んでのことなのだが、長くなるので次回に回すことにする。
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