雑感  中国/韓国2


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  1. つれづれの思い
  2. つれづれの思い その2
  3. 中国はもはやかつての中国ではない
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つれづれの思い

公開日:2014.2.23

 中学生の頃、同級生に「なんであんな国好きなの?」と聞かれたことがある。”あんな国”とは中国のことだ。当時、私は回りにアジア好きで有名だった。瞬時にうまく説明できず黙っていると「みんな平等だから?」と言う。「そうかもしれない」と答えた。
 回りはみな、中国や韓国が嫌いだった。当時はまだまだアジアは遅れている、欧米のほうがカッコいいという価値観が強かったし、共産主義の国は嫌われた。
 なぜ中国韓国アジア好きになったのだろう。何かと他人と違えてみせたがる自己顕示欲の強さのせいだったかもしれないし、当時家でとっていた新聞が朝日で、中国を一つの理想的な社会、と描いていたためかもしれない。
 直接のきっかけは、小学生のとき「世界の子供たち」という子供の作文集を目にしたことだった。だから最初は、北南米やヨーロッパ、中東南アジアアフリカオセアニアも含めた、さまざまな国の言葉や名前を集めていた。中学に入りラジオを手に入れると、当時BCLが流行っていた影響もあり海外放送を聴くようになった。中波ラジオだったので聴取できるのは近隣国に限られる。基本、電波状態のよい中国と韓国に絞られた。
 でも確かに、自分の中にある”毛沢東主義的部分”(消費社会のゆきすぎを批判的に見て農本主義的平等社会をよしとする考え方で、広い意味ではヒッピー運動や有機農業などもこれに含まれる)が感応した面もあったに違いない。BCLで海外放送を聴いても、特別中国韓国ファンにならない人も多かったはずだから。特にKBSはアナウンサーの質がよく人気が高かったが、あくまで個人やKBSのファンで、”独裁体制”の韓国を好きな人は少なかったろうと思う。

 「なんであんな国好きなの?」「みんな平等だから?」と嘲るように言った彼女は、今考えると正しかった。文革中の中国は理想の社会とはほど遠かったことがその後明らかになった。今でも言論統制の厳しい中国は、体制と齟齬のない生き方をしている分には困らないが、何かあったときに非常に恐ろしい国になる。民主化を主張するなどの特別な人にとってだけでない。普通に生活していたのが、たまたま住んでいる地が買収にひっかかっただけでおかしくなる。黙って従い泣き寝入りするか、異議を申し立て拘束封印されるかだ。格差社会だの消費社会だのいろいろ問題はあっても、まだ日本のほうが今の時点では生きやすい社会を実現している。

 最近の中国と韓国の連動した日本批判の動きを見ていると、もう”友だち”になる気がない人たちと友人になろうとしても無駄なのではないか、という気がしている。今は阿部首相の靖国参拝を口実にしているが、参拝以前からそうした動きをとってきていたのだから、基本的に口実に過ぎないとわかる。今なら攻勢に出られると判断した上で、最初から批判すると決断して叩いているわけだから、”なだめ”は無駄で変わらない。
 昨年の東日本大震災の日に中国と韓国だけ歴史認識がどうこう言って慰霊祭への出席を断った。それとこれとは別問題とするのが大人の態度と思うが、このとき、ああ、それができない人たちならもういいや、という気がした。韓国の教授による”原爆は日本への天罰”発言もそうで、その理屈なら日本による韓国の植民地化も”天罰”になってしまう(この発言も参拝前)。
 阿部の支持者ではないが、金大中事件を扱った映画で日本人捜査官に対して韓国の役人だか捜査官が吐いたセリフ、「友達かもしれない。でも仲間じゃないかもしれない」これがわかる。韓国にも中国にも、個人的にはいい人がいる。日本人にも変な人嫌な人はいる。ただ自分がどのカテゴリーに属するかといえば、やはり日本人に属している。

 最近、かつての価値観、というか信じていた世界を信じることができず、かといって新しい指針や態度が見つかったわけでもなく(心ひそかに、これかなというものはあるのだが)すべてにネガティブ、すべてにdisっている。新聞TVの言っていること書いていることにも、ちょっと待てよと引いてしまい懐疑的、うかつに乗れない。特定秘密保護法だのに対する反対キャンペーンにも、そうかもしれない、でもそうでないかもしれない、と、よくわからない。

 思えば中国の文革が理想郷でもなんでもなかったと、80年代にわかったときは、それほど打撃はなかった、やっぱそんなもんかもしれないなー、とどこかで冷めて思っていた。1年半前の尖閣列島問題に端を発する反日暴動以降、もっと重大な部分で今まで信じてきたことが違っていた、というのか、自分が馬鹿だった、というのか、まだ言語化できないのだが、深い打撃を受けた気がする。いや、そのきっかけが反日暴動だったのか、それすら明確ではないのだが、ボディーブローのようにじわじわ効いてきているようだ。とにかくその頃以降、精神の活発化がなくなり、低迷期に入ったような状態だ。
 というわけで、ここも長いことご無沙汰状態だ。今後もまたいつ書く気になるか不明だ。

 Googleでもゼンリンでも、ネットで地図を見ていると不思議だなあ、と思うことがある。範囲を広げると山脈だの鉄道、幹線道など全体像が把握できる。縮尺を小さくしてゆくと、細い道や駅が見えてきて、さらにフォーカスすると、一軒一軒の家や建物が灰色の形で表示される。あまり寄りすぎるともよりの駅などがわからないので、再び縮尺を大きくするとすうーっと家家が消えてゆく。網の目のような道路が現れ、さらに縮尺を広げると道路も消え、日本列島になる。
 国と個人の関係もこのようだと思う。中国人も韓国人も台湾人も、個人個人の顔を思いおこせばその人自身が見えてくる。国単位で考えると個人の顔がすうっと消えてゆく。今の社会では国への所属なしでは人は存在できない(ゾミアでも目指すのでない限り)。一方、それでも個人はあくまで個人だ。国に問題があっても。

 ところで、前回書いた『ピダハン』(ニエル・L・エレヴェット著 みすず書房)についての項(読書/映画感想)で書き忘れたのだが、アマゾンの原住民ピダハンの特徴の一つに、自分が体験したことしか信じない、というものがあり、印象に残った。他人の経験は話をする本人の体験したことまでなら信用する、伝聞(第三者の体験)は信じない。この態度は人類全体の知の蓄積には障害となるが、マスコミが発達した今、プロパガンダ、やらせ、感動の強要が横行するのを見ると、彼らの姿勢は解決策の一つとして考える価値があると思った。

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つれづれの思い その2

公開日:2014.5.15

 前回、ここ1,2年の状況の変化により、子供の頃から信じてきたことが崩れた感覚があり、精神的に不調だと書いた(つれづれの思い その1)。
 これについてつらつら考えるに、問題点、気になる点は2つある。

■ まず1点は、多少乱暴な言い方にはなるが、いわゆる日中国交回復当時に始まる”日中友好”とは、結局当時の中国側にとっての方便でありそれに利用されただけだったのだなあ、という感覚だ。もちろんすべてがそうだったわけでなく、個人的には友好すべきとの信条のもと行動する人が中国側にもいたし今もいるのだろうが、全体の政治的な流れとしては国力経済力技術力の劣るときは”友好”ムードを演出し良い気分にさせて援助を引き出す、力をつけもはや必要ないと判断するや一転攻勢に出て有利な条件で操り支配下におく長期戦略だったわけだ。まだ中国が変貌する以前(2009年)、台湾人が「中国人は必要のあるときは笑顔ですが、必要がなくなると鬼の顔になります。日本に対してもいまにそうなりますよ」と言っていたと書いたが、そのとおりであった(「台湾旅行:2009 2010」ある日本語世代老人の悲憤)。

 話がそれ、蛇足になるが、「台湾旅行:2009 2010」で書いたように台湾人は”中国人は嘘をつく”とよく口にし、中国人とつきあうのはとっても大変、と嘆く。ちなみに中国人(人によってはシナ人と言う台湾人もいる)とは1945年以降大陸から来た人たち(外省人)のことで、300年前に台湾島に来た自分たち(福建潮州系の本省人)と区別している。
 『内村剛介ロングインタビュー』でも、五族協和で日満漢朝鮮蒙古の学生が学んでいた建国大学で、卒業後日本へ行くという漢族の学生がいたので不思議に思い理由を尋ねると、「だってお前ら単純明快、底までわかるからだよ」そして「俺は中国人ってやつがわからない。知れば知るほどわからなくなる。それが中国」だから日本を選んだ、死ぬんだったら単純明快の中で死にたい、不可解の中では死にたくないと語ったというエピソードがある。
 嘘をついたり裏切りの連続、便衣隊やお金次第でどっちにでもつく人々が暗躍する社会に辟易し、ついてゆけないと感じる人も中華系には結構多い、ということになる。


■ もう1点は、マスコミ全般に対する不信でうんざり気分だ。中国ロシアなど報道の自由のない国は当然、日本も、さらにアメリカその他各国すべてのマスコミについて。結局マスコミは一種のプロパガンダ機関なのではないか、という残念感がある。
 日本でも原発関連報道、特に初期に嘘が多かった。中国も各地で続発する土地買収絡みやマンション値下がり絡みの騒乱を一切報道しない。ウイグル族の仕業とされる殺傷事件、チベット族の焼身自殺問題も漢族政権に都合のよい理屈しか報道されず、ベトナムでの反中デモも未報道。ロシアのウクライナ報道も自国に都合のいい話ばかり。アメリカなどは自主映画やさまざまな媒体で真摯に真実を追究する人々もいるが、影響力のある大新聞TVは広告やロビー活動で大企業に不利な報道は避けたり特定国への偏向報道があったりで、NYタイムズですら恣意的で信頼できなくなりつつある。
 そうでなくても、マスコミはその時代に善しとされる価値観に併走する。しかし価値観なんてものはやがてがらりと変わる、実はどうでもよいものであることが多い。
 日中友好も1970年代あきらかに意図的に推進された。いわゆる高度成長期、核家族が善い、地方の若者は都会の工場会社で働くのが善い(学校へゆき勉強して立身出世)、女は単純作業社内花嫁候補から専業主婦が善い、などはあきらかに政策的に喧伝され、マスコミもその価値観に沿った。煽りはなくても毎日見聞きするから影響大きい。今や核家族化→家族の解体→独居世帯激増→孤独死ネットカフェ難民激増(←いまココ)、地方から都会へ→地域社会崩壊/限界集落(←いまココ)→地方自治体消滅(←予想)。専業主婦礼賛→クタバレ専業主婦/男並みキャリアウーマン(腰掛意識女叩き)→老いる卵子批判(←いまココ)。そもそも学校へ行き勉強すること自体、絶対的に正しいことか(アフリカの某イスラム組織ではないが)疑問でなくもないが、今の論点からはずれるのでいずれ日を改めて別記。

 都合の悪い事実は報道せず都合のよい内容ばかり、そしてそれを平気で信じる世界中の人々。社会の進んで欲しい方向策定、それにあわせた雰囲気価値観の流れ、いつのまにか染まる自分。毎日報道に接するということは宣伝プロパガンダに接することと同じではないのかという疑いが起こる。
 ウクライナで旧政権が倒され新政権が樹立した後、旧政権がいかに贅沢三昧していたかと大統領府内部がマスコミに公開された。それを見ても単純に”本当だ、酷いね”とはとても思えなかった。これもやらせでないとは限らない。本人たちはいないのだから、いくらでも”盛れる”。ネタ元は確かにあったとしても、大げさに報道することはいくらでもできる。こうして疑いの目で見ることは、決して心楽しい状況ではない。

追記: 2014.5中旬時点で問題になっている漫画「おいしんぼ」問題、国や県は風評被害を口実に反論している。しかし、福島は大丈夫と言う人たちの意見を福島は大丈夫と報道するように、福島は大丈夫じゃないと言う人が実際いるわけだから大丈夫じゃないと報道して、何が悪いのか。体調不良を感じる人が、それを言えない雰囲気が地元にあるのではないかと感じる。そもそも、地震津波後の原発事故直後から嘘が多かった。だから信用できない感がある。
 TVインタビューに「政府や県が大丈夫、と言っているから(放射能は)大丈夫です」と笑う福島県民おばさんと、天津市近くにある鬼城やマンション騒動を「知らない、報道も見たことない、本当なの?」と笑う天津市民おばさんが重なって見える。

 ところで、数年前、台湾人の知人家族と食事をしていたときのこと、TVに拘束中の陳水扁元総統に関する報道が流れた。奥さんが「本当に収賄はあったのかなあ」といぶかると、ご主人が「やっぱりあったんじゃないか?これだけTVで報道しているんだし」と答えた(本省人だがこの部分台湾語でなく北京語会話だったので聞き取れた)。これを聞いて内心、やはりマスコミは怖いと感じた。実際陳水扁に収賄があったかどうかはわからない。ただ、中国人は嘘も百篇繰り返せば真実になるとよく言う。そして現実に、こうして信じる人たちが出てくる。というか、日々の生活で忙しい、とりあえず現政権に見解を合わせ波風たてずやってゆこう、という潜在意識なのかもしれないが。

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中国はもはやかつての中国ではない

公開日:2014.5.15

 中国関係が専門の某国立大の教授になった知人から、アメリカの米中友好団体の学生が周恩来に「将来中国が覇権を唱えることはないですね」と無邪気に言うと、周恩来は「いや、将来はわからない。覇権を唱える日が来るかもしれない。でもそのときは彼らに伝えてください。”周恩来は中国が覇権を唱えることに反対だった”と」と答えた、というエピソードを聞いた。
 今周恩来を持ち出しても尊重する中国人はわずかだろうが、いずれにせよ中国は変質してしまった。バンドン会議でAA諸国の一員として先進国や”帝国主義”を批判していた国ではなく、自ら”帝国主義”になってしまった。こう言うと理屈を並べて反論するだろうが、基本的に人を見て判断するには、その人が”言っていること”ではなく”実際にやっていること”を見て判断するというのが鉄則だ。領土問題の対応、他国に比べ突出した軍事予算などから、今の中国は帝国主義であり軍国主義だとみて間違いない。

 同じくやっていることを見れば、靖国は口実で最初から日本を叩き攻撃すると方針が決まってやっていることだとわかる。だから前回も書いたとおり、安部の支持者ではないし擁護する気はないが、それでも靖国はあくまで口実なので”なだめ”は無駄だしかえって危険だ。

 こうなった以上、こちらも考えや対応を変える必要がある。

 いま日中友好と言う人を”媚中派”と責める雰囲気があるがそれはよくないとの批判がある。が、いま一度”友好”の時代に戻し居心地の良い安心した関係に戻りたいとしても、それはもう無理だ。中国側にその意図ははっきりないのだし(個々人はともかく、政権の大枠の方針として)、それ以前にそもそもの疑問として、メキシコと友好、ニューギニアやクロアチア、イギリス、ウガンダと友好と、しょーもない1日限りのお祭りならともかく、ビジネス面も含め頻繁に言及するか?強調する状態が異常、万が一中国が方針転換し再び友好ムードを演出してももう普通に対するしかない。向こうが歴史問題云々で日本は嫌いだというなら、別にそれでいいと思う。日本に対する対応のみASEANベトナム韓国とは変えて孤立化をはかるなら、それはそれで仕方ない、それでいいと思う。

 こう書くとマスコミは”右傾化”というが、それは違うだろ、と思う。別に戦争したいわけではない。”なだめ”が危険なのは、それが戦略的発想による布石で行うならよいが、一時しのぎなら北九州や尼崎の監禁連続殺人事件と同じ心理状態だからだ。相手の意向を伺いそれに支配される。主導権は向こうにある。それは奴隷状態だからいけないのだよ。

 いま”右傾化”と一括りされる心理状態の一つに、不公平感がある。中国や韓国はここまで叩いているのに、なぜ反撃していけないのか、という。政治外交上で問題があると、中国は経済活動に影響させる。フジタの社員を拘束したり商船三井の船を差し押さえたり(口では違うと言っていますが)。一方日本国内で中国企業の社員を拘束したり、契約違反その他さまざまな問題について中国の資産を差し押さえたりしない(できない?)。中国人は日本の土地を所有できるが日本人は中国に土地を所有できないなど、法律上の不公平も多い。この問題は以前も書いたが相互主義でゆくほうが公平だ(ビザは昔から相互主義)。報道についても同様で、なぜ日本のTVで中国の報道官の言い分映像を必ず音声付で流すのか、他国はアメリカ含め映像とアナウンサー音声が多いのに、また中国のTVで日本の報道官の言い分は日本の頻度では流れないだろうに、と思う。報道の自由で感じる不公平感が高じると、外国のスパイを防止するとの口実で日本国内でも取材や報道を規制する話につながってゆくので危険だとは思う。でも、そう感じられるほど不満が高まっているのも事実だ。皮肉だが、そうした”右傾化”気分を促進しているのが、帝国主義化した中国なのだ。

 また同じ右傾化一括り心理状態の一つに、不安感もある。一体どこまで叩くのが正当なのかという。それは”右傾化”というより生存本能からくるものだ。よく「日本が中国に脅威や不安を感じるようになったのは、国力が落ちてきた劣等感からだ」という意見を見るが、「だから?」と思う。不安を不安だと言って何が悪いのだろう。

 リベラル系はこのへんの疑問や不安に正面から向き合っていない。不安を掬い取らず、”そう感じるほうがおかしい”と封じ込めようとし、教条的に友好だの絶対平和で諭すから、結果的に別に安部の支持者でもないのに、化石化したリベラルより数段ましだからとそちらを選ぶ人が出てくる。別に戦争したいと思っているわけでもないのに、ある種の考えや感想をもつと「戦争したいのか」「戦前に戻ってもいいのか」と短絡的に叱られてしまう。そうしたことに、もううんざりなのだ。こうした居丈高で上から目線のくせに現実的な問題解決策は示さない、考えない怠慢リベラルについては以前、パラダイムの転換期(2013)でも書いたのだが。

 こう書いてくると、マスコミに対する不信感のもう一因として、70年前の理想に固執し教条化し、現実的解決策は何一つ示さない論調にうんざり飽き飽きしていることもあるかもしれない。九条や護憲にこだわるのも、今まで安定しうまくやってきたのに、現状を変え変化(悪化)するのが怖いからではないかと思えてくる。いやそうじゃない、体験者の話を聞け風化させてはいけない云々言うだろうが、潜在意識の本音はそこではないかと。まあ、かといって改憲を積極的に推進、アジられたら、それはそれで鼻白むのですがね・・・。

 大体最近の中国と韓国の日本に対する主張は、ゆすりたかりに堕した。私は南京事件がなかったとはまったく思っていないが、30万と言われるとこれは嘘つきで、もとは話を聞く気があったのが聞く気がなくなる。戦時中の問題を人道絡みで持ち出されると黙ってしまう”リベラル系”にもがっかりだ。
 そういえば北海道でマイノリティ支援を行っている人と話したとき、空襲被害者支援も行っている人だったので重慶爆撃の被害者らと連携云々言うのを聞き、それは論理的におかしくないか、日本の空襲被害者が日本政府に訴訟を起こすのは空襲被害者も戦死と同じ国家による賠償対象とすべきだ(ドイツのように)というもので、重慶の被害者は当時の国民党政府かそれを引き継ぐ現共産党政権に対して賠償請求すべきで、またもし日本政府に賠償請求する重慶の被害者と連携するなら、それは空爆当事国に対する請求なのだから、日本の被害者はアメリカ政府に対して請求するのが筋ではないか、と言った。すると彼は「彼らの問題は彼ら自身が決めることだから」と逃げたので、じゃあ連携することもないんじゃないの、と言った。結局金を出しそうな、弱そうなところを狙っているだけじゃないかと感じた。まあ、人間も動物なので仕方ないか。

 もう友好の時代には戻れない。そもそも戻る必要もない。どこまでが正当な話でどこからが不当か、友好からマキャベリズムに転換するだけだ。
 戦争したいとか、反中反韓を言っているのではない。ヘイトスピーチは以前から筋違いでおかしいと思っている。そもそも在日の人たちを責めること自体おかしい。本当に特権があるなら在日に化ける貧困日本人が続出するはず。逆に出自を隠す人が今も多い。四国遍路の韓国語標識に対する排外張り紙も、マナーその他で問題がおきているならともかく特に何もないようだ。せっかく日本の遍路文化を愛してくれている人たちを悲しませている。日本好きを逆に嫌いにさせる行為だ。おそらく読める英文字はともかくわからない文字は目障りなのだろう。アラビア語がはびこっても気にする人が出そうなので、そういう問題と思う。自分たち日本人も海外でそういう思いをさせていると思うので、ヨーロッパの寺院や観光地に時々ある日本語の標識や解説板も自ら撤去するのが筋だし、その国の信仰の場はその国民だけのものならヒマラヤアルプス縦走やサンチャゴ巡礼の道歩き日本人に現地を汚すから行くなと諭すのが筋だ。

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