活東庵雑記帳過去ログ 2007/5/22-2011

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 2015年7月以降は中国、戦争などカテゴリ別ページに分けて載せずに、このページにまとめて掲載しています
  • 2007.5.22

    日本橋神田界隈

     5月初めに神田祭りがあった。祭りの期間に水天宮の周囲を見て回ると、地元の神社の前の通りに机が並べられ、神輿が飾られ、地元の人たちが券を持ってビールや焼きそばなどにありついている。意外に子供の数も多い。路地や小型ビルから券を片手に走り出してきたり、食べ物や飲み物の並べられた机や金魚すくいなどの周りに群がっている。昔懐かしくゴムとびをしている子らもいる。
     勤務先が日本橋に近く、昼休みにこの界隈を歩いていると、小さい神社が多いことに気がつく。たいていは稲荷神社で、稲荷は土地神様だと、以前本で読んだことがある。そのうち、秋葉原から日本橋、人形町にかけてのミニ神社をまとめたサイトでも作ろうかと思っている。
     もう一つ気になるのが、インド人のやっているインド料理屋。中華も多いが、中華は珍しくない。日本人の営業しているカレー屋も以前からある。このところ目に付くのがインド人のやっているカレー屋で、いわゆるマハラジャなどのような高級レストランでなく、ヒンディー歌謡がガンガンかかる地元系の普通の店が増えている。北を神田川、西をJR、東を清洲通り、南を水天宮前の通りで囲んだエリアだけで十件はくだらない。これ以外の秋葉原周辺などにも、もっとある可能性がある。中国人のように固まらず、大通りから路地裏まで点在している。たいてい、昼は食べ放題になっていることが多い。IT系企業の社員だけでなく、普通に日本社会に住み着きはじめているインド人が出てきているようだ。

     そういえばNHKの特集で、インドのミタルスチールと新日鉄の攻防をやっていた。中国に対するけん制の意味から、インドに近づき、もてはやす感があるが、まともに対峙することになった場合、実はかなり手ごわい気がする。中国とまた別の意味で。また、何だかんだ言いつつ、良くも悪くも交流の歴史も長く、相手国(民)とつきあいのある人も多く専門家も多い中国のほうが、(勝負は別にして)理解はしやすい気がする。


    企業官僚

     NHKの特集で、格安バスツアーの裏側をやっていた。この特集に感じたことが2点ある。

     数年前、台湾に行ったとき、総統バスというものがあった(今でもあるかもしれない)。都市間を格安運賃で結ぶバス網で、違法の存在。このため、バス乗り場は郊外にあり、駅や繁華街から業者の専用バンで運ばれる。バンの乗り場もチケット売り場も、一見してよくわからないため、旅行で来た外国人にはなかなかその存在が見えないと思う。
     私も台湾人の友人からその存在を知った。知人の中には、違法の存在だから事故が起きたときに保障がない、として乗らない人もいた。友人は乗る派だが、違法の存在によるリスクは承知しており、要求はできないと言っていた。
     今回の特集でやっている格安ツアー旅行会社は、明らかに条例の定める対価をバス会社に対して払っていない。条例なので、完全な違法とは異なるのかもしれないが、それにほぼ等しい存在だ。安いからと利用するほうも、わきまえた上で利用すべきだし、これだけ報道されているのだから、自分の判断で利用しているとみなすべきと思った。過労による事故が起きた場合、ぎりぎりの運用によるものだから、もし保障を求めるなら、バス会社ではなく条例未満の条件を示すネット系旅行会社に要求すべきと感じだ。

     もう1点、ここにもまた企業官僚がいる、という印象も強烈だった。格安ツアー会社の若い社員らは他者を管理する側で、個々のバス会社は管理される側だ。いま、管理する側の権限がどんどん強くなり、給料も高く肥え太ってきている。物を作ったり実際に行う人々は給料も上がらず、効率化のもと、ますますあれこれ数値を計算され、評価(難癖)をつけられる。管理する側は同じ基準では評価されないから安泰だし不公平感もある(とはいえ、別の評価方法で評価されており、きつい場合も多いようだが。最終的に”評価”を免れるのは、CEO(最高責任者)か?いや、CEOも株主によって”評価”されるか)。

     最近、会社の業績があがっても、株主優遇で働き手には還元されない、という話や、株価が安い会社を買収してリストラして株価をあげ高く売って儲けるファンドの話(よく仕組みが理解できないが)にも、物を作ったり、サービスを実際に行う側ではなく、管理したり、その周りで投資する側が潤う時代になってきた、と感じる。

     共産主義が出てきたのは、資本家が働き手を酷く搾取する状況が発生したからで、資本主義の側もそれに危機を感じ、修正資本主義を出して状況を改善した。そのため、共産主義国や、資本主義国でも60年代から70年代頃は、働き手が優遇されていた。それが制度疲労を起こしたこともあり、行き過ぎ、悪平等として競争社会(グローバリゼーションも広い意味での競争社会のことだと思う)が奨励されるようになった。
     この状況がさらに進むようであれば、再びマルクスのような新しい思想が、必ず必要になってくる。
     中国の格差社会と社会不安がよく言われているが、日本もアメリカその他も、まだ潜在化して見えないだけで、似た状況にある。


    国民投票法

     どういう影響が出るのか、まだ想像力がよく働かないのですが・・・。
     こうした多数決の場合、たとえば60%が賛成で40%が反対の場合でも、60%の意見が採用されてしまうことになる。なんとなく納得がゆかない。
     また、10人中9人が反対の場合、圧倒的多数が賛成しているように見えるが、日本の場合、実は1000万人が反対していることになる(中国なら1億人強になる)。1000万といえば、かなりの数だ。1000万が集まって騒いだらかなりのことになるが、そうはなるまい・・・。ただ、10人中1人だとしても、一人ではないということ、そう特殊でもなく、お仲間が1000万いるということは理解しておこう。(100人中1人でも100万人いる)。

     先日、日中友好系のNPOの人と話したのだが、東アジアは、民族的なレジスタンスはあるものの、思想的なレジスタンスはなかなか起こらない、という話になった。基本的にお上に弱いし、みなが興奮しているときに水をさすようなことを言う人を嫌う。最近では、韓国の拉致被害者家族が沈黙を強いられがちなのを見てそう感じる。和を乱すほうが悪とみなされるようだ。
     戦時中、新聞が転向したというが、新聞も商売だから売れなければしょうがない。興奮の坩堝にいる人はともかく、非難するならその前に周りも支える必要がある。何かのせいにばかりできない。

     ところで、60%が賛成で40%が反対の場合(99%対1%でもよいが)、たとえば、私は反対だから、戦争に勝った場合の恩恵に浴す気もまったくない代わり、一切関わりません、というのはOKなのだろうか?一種、個人的な無防備都市宣言、とでもいうか、そういう仕組みは可能か?


    ロビー人材

     5/22付け東京新聞に「ロビー学校」の話が出ていたので、タイムリーだが、ちょうど、そうした人材も育てるべきだ、と感じている。

     おそらくこれから、南京大虐殺の映画ができてアメリカで大騒ぎになる可能性が高いが、中国人がロビー活動をさかんにやってしたたか、と思うなら、日本も庁の省への昇格と平行して、そういう人材育てもすればよいのにと思っていた。

     ロビー活動とは異なるが、北朝鮮なんかもよくやっている。戦前、日本はABCD包囲網を敷かれ制裁を受け、やむにやまれず開戦に至ったというが、北朝鮮はあれだけエネルギーや食糧まで止められながら、戦争に至らず口で応酬している。口は汚いが、真の攻撃はぎりぎりのところでやっていない。あの交渉力と暴発に至らない感覚は、なかなか日本にないかも、と思う。暴発しやすいのは気が短いのか、目先の面子にこだわるあまり、長期的利益を見失うのか・・・。


    ふるさと税

     特に興味があるわけではないが(わざわざふるさと税にしなくても、国がバルクで取って再分配、つまり交付金にすればいいだけと思う)、人材を育てたところにお金を還元する目的なら、受け入れている外国人労働者は自国に払ってよいのか、その選択はできるのかな、と突っ込みを入れたくなる。
     あと、団塊世代などが年金で海外暮らしを始めた場合、国の出すお金が、都市から地方どころか、国内で消費されないことになるが、むしろこのほうが問題だと思うが。


  • 2007.6.15

    高尾山琵琶滝
    雑感−よもやま話


  • 2007.6.21

    自衛隊の監視

     おそらく、前からやっているだろうとは思っていた。自衛隊ではなく、公安関係と推測していたが。おそらく、そちらもやっていることだろう。平時は情報収集のみに終始しているが、いざ「非常時」になったときには急にそれが活用される。その露骨な例は文革前の百家争鳴だが、それほどではなくても、戦前の日本など、古今東西いつの時代もそういうものだ。
     だから、かつてイラク派遣が決まったとき、反対運動が盛り上がった際、イラク戦争前に思うに書いたように、いざ言論統制が始まったとしたらそのほとんどは散り散りになるだろう、うっかり参加してしまった人はどうなるのか、いざ統制が始まった場合それでもやれる人がどれくらいいるのか、と思っている。

     最近はサイトやブログで自分の意見を表明する人が多い。みな簡単にXX(政治家や官僚組織、自衛隊その他)のバカヤロー等書いている。しかし、アクセス元を隠したどこかへの書き込みならまだしも、サイトやブログは簡単に誰が所有しているものかつきとめられるし、これほど簡単に個人の思想をモニターできるツールはない。しかも保存可能なので、証拠も取りやすい。
     私は当初から、確実にモニターされ、記録にとられていると思っているので、結構この書き込みには以前から気を使っている。みな気楽にあれこれ書いているが、大丈夫なのかと思う。確信犯ならよいが。調査する側は、平時には音をたてない。「非常時」にはわざと音をたてて、張っているという圧力を加える。


    年金問題

     選挙への影響が取り沙汰されているが、基本的に政府、政治家はあまり関係ない気がする。監督責任はあるだろうが、大臣も次々変わるし、実際に作業していた人達は政治家ではない。
     それより不思議なのは、行政、官僚の場合、実際に作業していた組織が責任をとるシステムになっていないことだ。今回のようなことになっても、民間なら、給料が減ったり、さらには支払われなくなったり、会社などの組織そのものがつぶれたりする。実際運営に関わっていた人たち自身が影響を受ける(責任を取らされる部分がある)。しかし官僚組織なら、穴埋めは税金になり、失職することもない。失敗した人達は責任を取らない。よくある政府に対する訴訟にしても、結局賠償金は税金なので、蛸足を食っているような感じだ。

     6/23付け東京新聞夕刊で、木村太郎氏が興味深いことを書いている。日米の冤罪事件の比較で、日本の富山の事件では関係者の処分はない一方、アメリカで昨年起きた似たような強姦冤罪事件を担当した検事は解雇、法曹資格を剥奪されたという。
     行政でも、たとえば夕張市などのように、破綻した地方都市の職員らは、リストラされたり、給与が下がったり、責任を取らされている。責任を取らないで済むのは、いわゆる省庁、国の行政機関なのだろうか?地方はとっている。
     木村太郎氏も、「いずれにせよ、米国では検察の暴走を止める機能が働いたわけだが、日本にはそうした機能があるのだろうか」と結んでいる。

     選挙でただ政治家をすげ替えるより、官公庁に対するそうした機能(システム)作りのほうが大事という気がする(替わった政治家らがやれる、というなら替える意義はある)。
     でも、おそらくそうした改革はかなり難しい、いったんできた官僚制度の改革は、ほとんど無理のだろう。そうして無責任体制のまま肥大し、どうにもならなくなり、機能しなくなる。だから定期的に革命、それまでの体制をすべてちゃらにする必要が出てくるのだろう。王朝交替にもそういう面があるし、日本の明治維新も、(江戸時代を見直す風潮は強いが)江戸の政治体制がすでに金属疲労を起こしており、新しい波にも対応できなくなったから起きた革命だった。アメリカは選挙で大統領が変わるたび、官僚もかなり入れ替わる(詳しくないのでどの程度なのかよくわからないが)、と聞くので、何か人為的な革命を起こして、澱がたまりにくくしているものと思われる。それでも、確実にいつかは澱むだろうが、遅らせることはできる。


    最近読んだ本から
    『戦争という仕事』
    内山節著 信濃毎日新聞社
    本/映画


  • 2007.8.8

    ある老ジャーナリスト

     先月、関西に自給自足生活を送る知り合いを訪ねた。現在難病と戦っており、病気療養中ということもあって畑の作業が遅れがちというので、手伝いを兼ねての訪問だった。

     彼は元記者からフリーになったジャーナリストで、労働業界の現状を告発した本を何冊も出版している。特に1980年代に出版された自動車業界の偽装労組関連の本は、当時大きな反響を呼んだ。今読み返してみると、民社党、というのは一体どういう党だったのだろう、とつくづく思う。野党のようで、与党の自民よりも悪質だった感がある。一見野党、ヒダリに見える立場が利用されやすく、そして党員もそれを利用した状況があったのかもしれない。

     本を立て続けに出した当時、陰に陽にさまざまな脅しがあったことも、あちこちに書いている。脅しの電話から自宅への脅迫、窓ガラスが割られ、取材先へさまざまな偽電話がかけられ、妨害を受けた。
     それでも、出版した本の後ろに、自宅の住所電話番号本名を載せることをやめなかった。もちろん、当時と現在では事情が異なる部分も多いが、その後ネット社会になっても、その姿勢は一貫している。
    「本田勝一なんか絶対住所出さないし写真も撮らせないでしょ。俺は知ってるけどね、一般には出していない。でも俺は全部隠さず出したからね。来るなら来い!て」
     その後企業問題からゴミ問題に、さらに地球環境から農業へと関心がシフトしてゆき(現在エコは大はやりだが、当時はまだそうした問題に声をあげるのは少数派だった)、企業のことをごちゃごちゃいうより自分でやるべき、と故郷に戻って自給自足生活を始めた。現在ではその活動のほうが有名で、その生活ぶりがTVの1時間番組で紹介されたりしている。

     一口に圧力に屈しなかった、脅しに屈しなかった、と言うが、それは並大抵のことではない。実際、取材対象の某大企業の労組関連では、死者も出ている。大会社の場合、病院もその企業のお抱え病院なので従業員カルテも改竄し放題なのだ。いちおう、当時は電車のホームの先頭に絶対に立たないようにしていた、というが、それでも毎日無事戻ってくるかどうか心配だった、と奥さんは言う。

     本を出したあと、ある人から連絡が入った。その企業の労組の権力争いから追放され、十数年潜伏していた人からだった。重要な取材源の一人として探していたが、どうしてもみつからなかった人だ。その間、彼は社会的に抹殺され、職安で仕事を探しても妨害が入り、結局偽名で細々と生きていた。ジャーナリストが直接彼と対面し、話を聞けるに至るまでが、またスパイもののようなのだが、ここでは割愛する。その後潜伏者は復活し、天皇と言われた労組トップは消えた。
     私は、なぜ怖気づかずにやれるのか問うた。繰り返すが、脅しに屈しない、というのは、口で言うのはやすいが、実際に実行するのは非常にきつく、難しい。何度かその話をしているうちに、老ジャーナリストは
    「ひょっとしたら、俺にもヤクザっぽいところがあるのかもしれないね。『やれるもんなら、やってみい!』て」と笑った。なぜかこの言葉は、非常に印象に残った。

     故郷に戻ってからも、外部から望まない設備が持ち込まれるという地元のトラブルで表に立ち、裁判でも争った。集落はかたまって反対したという。「よくあのとき、みんな一つにまとまったわね」と奥さんは振り返って言う。
     このときもやはり、ヤクザ風の人がやってきて大声で脅しながら長々といすわったりした。
    「ああやって大声出して脅す人間は、本当は気が小さいの。そういうのが多いんだよ」
     集落でも、その設備の業者からお金をもらった人がいる。結局みなで団結したとき、そのお金を返した人、返す金がないと言って返さなかった人、ちゃっかりもらったままの人、など様々だ、金がないと言う奴も立派な車乗っとるしな、とジャーナリスト氏は笑う。中心になった人物は小学校の同級生で、いろいろ問題はあるが一本気な信頼できる奴だ、という。そう語るときの口調は暖かで、人の弱さも欠点も見越した感がある。

     奥さんも、都会育ちのお嬢さんのようで、どうしてやはり根性の座った人だった。そうでなければ支えきれないだろう。


    ネットワーク社会の職場

     以前、会社内でのメールの盗聴や、違法性の高いツールでの監視について書いたことがあるが、この手のことは結構蔓延しているのではないか、と最近感じている。システム管理者に聞いた話でも、違法なツールでなくとも、合法的なリモート管理ツールでやろうと思えば簡単にできるという。また、システム管理者は通常、外部からの侵入やウイルス対策に対応するものであり、社内で行われていることについては、業務時間中の頻繁な私用メールや無関係のサイト閲覧以外は、個人個人が何をやっているか把握していないし、取り締まる立場にもない、と言っていた。
     いちおう、システム管理者や企業の上層部がそうした権限のあることは、きちんと文書化されていることが多い。だが、それ以外にも知識のある人なら、結構いろいろなことがやれる。知らないままの人も多いが、案外一般的なのでは、という感がある。

     システム管理者がモニターできることは明確化されていることもあり、会社のPCを私用に使うことはないので、構わないといえば構わないのだが、2点問題がある。

     かつては、仕事にPCを使用することはなかった。それぞれが机で、それぞれのやり方でやっていた。与えられた仕事について、期限までに仕上げればどういうやり方をとろうが問題にされず、いちいち監視されることもなかった。
     現在は、デスクワークの場合、たいていの仕事をネットワークにつながったPCを使って行う。つまり、仕事の結果だけでなく、その過程もすべて監視可能になった。この自由度のなさが、非常に気になる。

     そしてもう一点。会社のネットワークに限らず、社会全体がIT化と電子化により、いわゆるモニターや検索が簡単にできるようになった。何も盗聴やネットワーク監視でなくとも、子供の所在地確認に使う携帯のGPS機能から、アナログだったら探すのが大変であきらめていた住所録その他さまざまな電子化情報など、あらゆる面でネットワーク化、電子データ化しつつある。この容易さが、ストーカー化的気質の人を増やしている気がする。古い社会だったなら、面倒さからまあいいや、とあきらめごく普通にすごしていた人々が、その容易さから簡単にはまり、一種癖になってゆく。誰でも、好きな人や気になる人が今何をしているか気になるものだが、おそらく誰にでもあるストーカー的側面を、こうしたIT社会が助長している気がするのだ。これは今後、水面下で密かに問題になってゆく気がしてならない。


  • 2007.9.7

    8月
    8月/パール判事

    最近見た映画から:キャプテン
    本/映画

    ネットワーク社会の職場:続き

    前回の追記: 今システム管理者のそばの席に座っているが、ときどき人がやってきては、「これこれできない?」と管理者に聞き、「へえ、Windows、てこんなこともできるんだ。でも、これやっちゃうと、個人の嗜好バレバレだな」なんて話している。
     ドメイン環境にある(LANにつながれた)WindowsXPの場合、AdministratorのPWがない、もしくはPWがわかれば、リモートデスクトップ機能で簡単に他のPCからアクセスできる(システム管理者でなくても可能)。
     また、WindowsXPには3種類の「管理共有」という隠し共有があるため、AdministratorのPWがわかれば(もしくはない場合)「\\コンピュータ名\C$」などで簡単に外部のPCからアクセス可能。
     知らない人には電波系としか思えない話と思うが、ネットワークも、かつての素人でもなんとか取り組める状況から、知識のある人とない人とで激しく差がつくようになり、ない人はある人の鴨になるしかない状況が進みつつあると感じる。
     ネットワークに詳しい知人は、「基本的に社内で(つまりドメイン環境内で)自衛することは不可能だと思う」と言っていた。人によっては、重要なデータは会社のPCに入れず、USBに保存しているという話も聞いた。でも社内を信頼できない、というのは、なんかつまらない気がする。


    トライアル・ジョブのからくり

     クライアントが翻訳会社に仕事を出す際、数社にトライアルを提出してもらい、比較検討して仕事を出す会社を決めることがよくある。その場合、そうしたトライアル・ジョブを行う翻訳者は、その会社のエース級であることが多い。しかし、トライアルで合格して会社が請けた仕事を、実際に翻訳するのは別人であることも多いのだ。
     知人は緻密に調べものをする優秀な翻訳者で、翻訳会社からトライアル・ジョブの依頼を受けることも多い。実際受かることも多く、その会社が仕事を取る貢献をしているのだが、そうやって取れた仕事を優先的にまわしてもらえることは少ない。最近、その愚痴を聞いた。トライアル・ジョブは細心の注意を払って仕上げるため、時間も精力も使うが、その割には単価はあまり高くないし、合格して仕事が入ると安い単価の人たちのほうに仕事が行ってしまう。これはおかしい、トライアル・ジョブを受け合格した翻訳者に優先的にその仕事を回すべきだし、もしそれができないなら、そうやって他の翻訳者の仕事を増やしてあげているのだから、トライアル・ジョブの単価を上げてほしい、今度会社を訪問した際にそれを申し入れるつもりだ、と言っていた。

     この話を聞いて、トライアル・ジョブで受かった人と、実際に仕事が入ったときに訳す人が異なる、というのは、クライアントに対する一種の詐欺だと思った。受かった人が全体をチェックするというならまだしも。こういうことは、他の分野でも結構あるに違いない。実際誰がやっているか、トライアルの出来と実際の仕事の出来が大きく違わないか、クライアント側も注意したほうがよい。そうすれば、会社も、こうしたモラルの低いことをやっていられなくなるだろう。


  • 2007.10.9

    社会システムの変化と自給”自作”

     最近、さまざまな面で社会が綻びつつあると指摘されている。

     訴訟の増加や、軽い症状でも救急医療や夜間診療を利用する人が増えたことによる、産婦人科や小児科のシステムの崩壊。
     医療費の不払い、給食費の不払い、救急車の安易な利用などが増加しつつあることによる、公共サービス維持の困難。
     言葉は悪いが、利用する側が自分で自分の首を絞めている感がある。ただ、そうした安易な利用や踏み倒しをする人と、本当に必要としている人はまったく別人なので、一概に”庶民/市民/人民”が悪いと一括りにはできないが。

     新聞テレビ、ドキュメントなどを読むと、生活形態の変化、特に貧困が絡む要因も大きいと感じる。妊娠しても検診を受けない人の増加(とそれによる受入拒否の増加)、共働きの増加による夜間診療に来る子供の増加を見ていると、発想を根本的に変えてシステムを作り直したほうがよい気がする。
     開発援助では、支援対象のスラムなどの実態を調べ、それに即したサービスの提供を考える。昼間働いている子供が多い地域では、昼間の学校を作っても意味がない。そこで夜間学級を作る。今の日本でも、サービス提供のためのマーケティングというより、はっきり言って貧困層への支援、社会問題として支援の受け手についてそうした調査を行い、現状に即したものに作り変えるべき段階に、すでに入っているのではないか。共働きが増えたなら、そういう人たちを対象とした、緊急でない夜間医療サービスが必要になってくる。戦前のセツルメント(隣保館)や海外のスラムで活動するNGOなどは、そうした発想で事業を行っている。それと同じ視点が、日本でも必要とされ始めている。認めたくない人も多いだろうが。

     今後、貧困は必ず重要なテーマになるだろう。近年、子供の虐待や育児放棄が話題になっているが、社会活動家だった毎日新聞記者について書かれた『路地裏の社会史』(木村和世著、昭和堂発行)に、戦前の大阪のスラムでは捨て子(特に金にならない男児)が多かったことが記されており、なんだか最近の状況と当時の社会は似ているなと感じた。こうした問題と貧困には相関関係がある。単に、わがままな若者が増えたとかそうした問題ではなく、確実に貧困が関わっている。

     そして、郵政民営化でクローズアップされた、郵便局が担ってきた役割縮小による地方の衰退の加速。
     日本橋あたりでは、数十メートル歩けばいくらでも銀行がある。郵便局の数も多い。選り取り見取りだ。一方、地方、特に小さい集落には金融機関が郵便局しかないことも多い。地方を徒歩旅行する際には重宝したものだが、そうした村唯一の金融機関である郵便局すらなくなる可能性が出てきた。地方では学校も病院も集約化され、物理的に生活できなくなりつつある。人々がいっそう、都市部に集中する可能性がある。

     また、正社員が減少して不安定な有期雇用が増えるなど、雇用システムが変化している。

     こうした社会システムの変化から、総体的に感じるのは、生活を自分の手に取り戻すべきときが来ている、ということ。いわゆる正社員システムは高度成長期以降のごく最近のもの、歴史からみてもごく短期間だったし、医療制度、年金制度にしても同様で、何千年の歴史から見れば、ごく短期間実現した制度に過ぎない。

     途上国では、救急車を呼べばすぐに来る、ということはない。むしろすぐ来るほうが、世界の人口比的にはまれ。病気についても、日本ではお金がなければ高度な医療を受けられない、という言い方になるが、高度先進医療へのアクセス手段すらない国も多い。医療制度、年金制度など、ないに等しい国も多い。何でも自動的に与えてもらって当然、という生活や発想は、はっきり言って、途上国に対する援助への批判によく使われる、「与える援助ではだめ、自立させる支援でないと」に通じるものがある。
     医療訴訟が増えているということは、病気になっても怪我をしても、元通りになると考えている人が多いのだろう。すでに病気/怪我の状況にあるのだから、さまざまなリスクがあるのは当然で、直してもらってラッキー、というのが本来の姿のような気がするが。世の中何事もなく、予定通りに進んで当然、という感覚に馴らされすぎてはいないか。

     正社員でないと生活できない、地方では生活できなくなる、という。でも昔は正社員でなくても生活していたし、かつては病院/学校/金融機関がなくても(地方で)人々は生活していた。それに代わる相互扶助(頼母子講など)、別のシステムもあったが、それにしても本当に生活できないのだろうか?

     生活を、行政その他のサービスにまかせきりにせず、消費社会の中でお金を出して買えばいいという発想から離れて、徐々に自分の手元に取り戻していってみてはどうか。サービスに頼ると、切られたときあたふたするし、お金に頼ると、お金がなければこれもできない、あれもできないと行き詰まってしまう。
     すべて自給自足、自作でまかなうことは無理があるが、自分の生活を自らの手に取り戻すことは大事だ。いざとなれば、電気ガス水道のない元の生活に戻ればよい、という発想のある農山村の70代を見ていても、そう思う。

     誤解のないよう断っておくが、これは政府が最近よく口にする自己責任だの自立支援だのとは趣旨が異なる。あちらは経費削減が目的だが、こちらは、サービスや金で代替することに頼りすぎるのをやめれば、与える側に対する依存度も減り、言うことを聞かなければならない義理も少なくなる、と考えている。


    運動と誘い

     左に見られやすいせいか(確かに左にシンパシーを感じるほうだが)、何とか差別反対だの不法滞在だかの外国人(個人)支援だの九条の何とかだのの誘いを受けることがしばしばある。基本的に、自分から興味を持って近づくもの以外はみな断っている。そういう基準を設けているわけではないのだが、いちおう話を聞いても、納得が行かないことが多いので、結果そうなる。その際、バチっとはっきり言うせいか、「あなたを誘わなきゃよかった」と言われたことも2、3回。でもそれは、自分で判断した上でのことだろう、こちらから近づいて話聞いたわけでもなし、と思うのだが。

     そういうとき、動機として抽象的なことを言う人が多い。そのへんにも、理念だけというか、一種胡散臭さ、今何かの理由でこの運動にはまっているんだな、という印象を受ける。一時的にはまる人は多く、すぐにやめる人も多い。

     以前、とある有機農業で有名な団体のスタッフ面接を受けたことがある。そのとき、その分野では名の知れた代表は「スタッフはみな仲間なんだから、農業には興味あるけどほかには興味ない、といった態度は許されない。原発反対運動の案内が回ったら一緒に参加するべきだし、護憲派の集会があったらそれにも出るべきだ」と言った。私は、有機農業に興味があるからと、そういう人はすべて原発反対で護憲派だ、と決め付けるのはおかしい、と思い、そう言った。有機農業賛成でも、原発は必要悪と考える人もいるだろうし、それぞれ考えは違う、と。しかし彼は、勝手な行動は許されない、それを認めたらばらばらになってしまう、と言った。有名な団体だったのに残念だったが、窮屈なところだな、とも思い、応募を断った。
     まあ、仲間の結束が必要というのもわかるし、あれから十数年たった今ではそうした指針も変わっているだろうと思う。ただ、このときの印象は強く、企業社会も縛りは多いが、そうした自由に見えるところでも結局窮屈なものだな、と感じた。
     仏典の「一人犀の角のように歩め」ではないが、一人でも黙ってやり続けるほうが確かな気がする。


    開発援助プロジェクトを真に必要とするのは・・・
    雑感−時事/戦争関連編

    最近読んだ本から
    雑穀を旅する
    (歴史文化ライブラリー233) 吉川弘文館 増田昭子著
    本/映画


  • 2007.12.1

     すみません、ちょっと忙しくしており、更新が遅れました。催促もあったようで、申し訳ありません。見た映画や読んだ本など、いろいろ書きたいこともあったのですが、日がたつうちに、記憶も薄れたりして・・・。やはりすぐに書かないといけませんね。


    あれは一体何だったのだろう?
    雑感−時事/戦争関連編

    『せめて一時間だけでも』
    本/映画−レジスタンスとは

    大地と海原を自由に通行する権利
    雑感−歴史/地方/農業編


    ・最近見た映画から
    いのちの食べ方
    本/映画
    サンガイシー
    本/映画


  • 2007.12.22

    煽られやすい人々
    雑感−よもやま話

    アダム・スミスの「国富論」
    本/映画


  • 2008.2.6

    噂社会

     韓国の某国民的歌手について、ネット上でとある噂が流れ大騒ぎになり、本人が怒りの会見を開いたニュースを見た。この件は、メールやネット時代の危うさを象徴的に示していると感じた。
     噂は昔からあるが、マスコミが発達するにつれ、本人の直接知らない人にまで広範囲に広まるようになった。さらに、従来型のマスコミでは目に見える形で広がっていたが、メールやネットの場合、本人に見えない形で広がる可能性がある。これはいじめ問題にも通じるが、本人が知らない場合は反論する機会がない。知っても、その国民的歌手のような著名人なら会見を開き報道される機会もあるが、一般人の場合は不可能だ。

     この問題も結局のところ、前回書いたことと同様、噂を聞いた側の人々がその情報の裏をとらないこと、そして安易に情報を次の人に回し消費することに問題がある。


    情報の電子化と企業管理

     1/13付朝日のNYタイムズ縮刷版に、企業がインターネットから従業員の個人情報を収集調査し、その内容如何で解雇も起きているとあった。MySpaceというブログに酔っ払った海賊姿でのコスプレ写真を掲載していたことが理由で、高校での教職を失った女性が例として出ている。自ら個人情報をオンライン上にアップする人が増えている今、思想・宗教をふくめた個人情報の収集が格段に容易になってきている。

     最近、とあるプロジェクトでライブミーティングを使用するケースがあった。試しということで、プロジェクトのごく一部が対象だったが、ライブミーティング機能がオンになっている間は、PCでの作業内容について、一定間隔ごとにショットが撮られる。だから、ライブミーティングを使用している間は、個人情報を記したファイルをデスクトップ上に表示しないでください、と言われた。あるツールを使用した場合の作業効率を見るためとのことだが、気分のよいものではない(知人は「こんなことまで調べてるよー、とか言われそー」と苦笑していた)。もしこうした一種のモニターがオフィスで常態化した場合、非常に息苦しいことになる。

     かつて、インターネットの黎明期には、会社のインターネットを利用して私用メールを頻繁にやりとりしたり、ポルノ関連や株取引など仕事に関係のないサイトにアクセスした社員を解雇できるかどうかが問題になった。実際そうした理由で解雇された社員が、「自分も悪かったけど、そういうところまで隠れて見張っているんですね」とぼやいていたという記事も読んだ。気分よくないが、現在では会社のシステム管理担当がメールとサイト閲覧のモニターを行うことは妥当とされている。

     次に、少し前にこの欄で、社内のドメイン環境ではリモートデスクトップ機能、もしくは管理共有という隠し共有を使うことにより、許可なく誰でもLAN内のPCにアクセスしたりモニター可能なことを書いた(WindowsXP Professionalの場合。ネットワーク社会の職場3)。
     当時はこうした行為の不法性、モラルの問題を気にしたが、今やシステム管理担当でなくても、モニターそのものが仕事の管理上必要だという認識ができあがりつつあるようだ。

     でも常時モニターして管理したほうがよい、というのは、本当だろうか。「モダンタイムズ」にみられる20世紀初頭の工場のような管理社会が、姿を変えて再び舞い戻りつつある気がする。自由な発想で仕事をするような、活気のある職場ではなくなりつつある。効率を気にし、コストを気にしている。守りの姿勢というか、これが社会に閉塞感をもたらしつつある一因のような気がする。
     経済が成長しているときは、管理社会ではない。戦後の日本や、今の中国がそうだが。何かおかしい。何なのか、まだうまく説明できないが。


    劇薬入り冷凍ギョーザ
    こちら


  • 2008.3.5

    沖縄10.10空襲
    戦争体験記こちら

    木地屋の世界

     いま、昭和三十年代が懐古されている。確かに、高度経済成長で日本の社会は大きく変貌した。
     しかし、それ以前、江戸から明治の世に変わったときにはもっと大きな、根本的な変化があった。所有の概念や戸籍制度など、社会の基礎となる考え方が一変し、それまで千年続いた社会が終末を迎え、近代国家に変わったのである。非定住民を許容してきた伝統も絶えた。

     定住せずに処々を廻る人々には角付け芸人や薬売りなどさまざまな人がいたが、木地屋には巡国制度があり、よく資料が残っている。江戸末期から明治初年にかけての木地屋関連の文書は、世相の変化をよく捉えている。君ヶ畑/蛭谷の項でも書いたが、かつて存在した世界や生き方を知る、重要な話と思うので、この欄にも抜粋を記すことにした。
     内容は、橘文策「木地屋のふるさと」未来社、文化庁文化財保護委員会「木地師の習俗1」平凡社、文化庁文化財保護部「木地師の習俗2」平凡社、橋本鉄男「木地屋の習俗」岩崎美術社、橋本鉄男「漂泊の民」白水社、渡辺久雄「木地師の世界」創元社を参考にした。


     かつて日本には、土地に定住して農業工業商業を営む人々のほかに、「道々外才人」と呼ばれ、定住せず、山野市町に漂泊する人々がいた。歩き筋とも呼ばれる彼らは、行者、山伏、聖、毛坊主、御師、巫女、比丘尼、遊女、猿回し、傀儡子、人形回し、万歳、タタラ師、マタギ、サンカ、博労、杜氏、木地師などがおり、生業的に未分化であるジプシーと異なり、日本の歩き筋は職業分化していた。
     それぞれ特異な生業者技術をもって遍歴しながら、体得した知識や情報を、閉鎖性の強かった定住者社会にもたらす、文明の伝播者だった。
     特に木地屋文書などは、関渡津泊の煩なく自由な諸国の往反遍歴を天皇によって保証された前代の供御人の生きざまに脈絡すると考えられる。
     以上、網野善彦「中世における天皇支配の一考察」岩波書店、渡辺久雄「木地師の世界」創元社より抜粋


     木地屋は、惟喬親王を祖と仰ぎ、近江国愛知郡小椋庄に住む木地屋一門を本家とし、地方に散在する木地屋すべてを分家とみる、擬制的同族組織だった。小椋庄でも、もとは一年交替の輪番制神主だったが、17世紀頃より特定の家筋に固定し、筒井公文所、高松御所となる。

     全国に散在する木地屋が増えるにつれ、本山との連絡もとりにくくなったため、天正・永禄の頃より、宇佐八幡宮の氏子巡回をまねて氏子狩が始まった(巡国制度)。5〜10年間隔で巡国人は通常二人、3〜6ヶ月で一地方を回る。人口調査を行い、木地屋の来歴と祖先信心を説き、木地頭を設けて初穂料を集め、隠れて仕事をしたり別家して届けない者を監視した。
     一方、地方の木地屋は本山(オヤマ)である君ヶ畑、または蛭谷を一生に一度訪問することを願った。

     木地屋のふるさとは、蛭谷と君ヶ畑に分かれる。蛭谷側が先に氏子狩をはじめ、その後君ヶ畑も対抗して独自の氏子狩を行うようになった。
     蛭谷には筒井公文所、筒井八幡宮、帰雲庵があり、吉田神道家の系統。5月5日大祭、7月惟喬親王祭。かつては筒井千軒と言われるほど人口が多かった。
     君ヶ畑には太皇器地祖神社、金竜寺、惟喬親王御所(高松御所)があり、白川神祇伯家の系統。4月3日、9月11日が大祭。


     かつて、庶民の食器は白木の器で、これを作っていたのが木地屋だった。東北のこけしも木地屋の仕事である。

     轆轤は二人挽きで、たいてい夫婦で作業する。用器の古さは家系の古さ、源流の神聖さを示すとして誇りにしたため、新しい用器を進んで取り入れることはなかった。
     ただし幕末から明治に入ると改良が盛んになり、足踏み式(非常に作業が楽になった)、大車ろくろ、水車ろくろ、ハズミ車付きと出てくる。


     木地屋には移動しない者もいるが(地木地)、移動するほうが多かった(渡−わたり−木地)。5〜60年で回帰、10キロ圏内を移動する(この数字は「木地師の世界」渡辺久雄氏による)。

     木地屋は「日本全国入山勝手次第」の御綸旨を保持し、山の八合目以上の木は切ってよいことになっていた。所有権のない山などないので、それなりの手続きが必要であり、その際に木地屋文書が必要とされた。

     木地屋道は尾根伝いの間道で、通常に比べ短時間で完走できる。巡国人が回る際は、山道に詳しい木地屋が次々案内に立ち、送り届けたという。
     昔の山住みの人たちが尾根道を利用していた話は、木地屋以外でもよく聞く。「峠の村へ」(飯田辰彦著 NTT出版)には、昭和になってからも信州から福島まで女の足で3日で走破して嫁に来た話が載っている。
     尾根道を好む別の理由として、冬に雪崩で大勢木地屋が亡くなった事件がきっかけで、尾根道を使うようになったとの話もある。

     中世以前の日本の山間交通は、冬季積雪の害を避けるためと最短距離という理由から、尾根道が最高度に利用された。彼らはきわめて健脚で、日に三十里の往復を意に介さなかったという。


     木地屋はいったんその地を去れば、二度と墓参りにこないのが普通だった。祖先の墓を軽んじるようだが、一代のうちに山々を渡り歩く生活では、墓参は事実上不可能。

     木地屋は誇り高く、農民との結婚を位落ちするとして好まず、同族婚だった。仕事が難しく、農家の娘では役に立たなかったこともある。
     転職も祖先の伝統を捨てると嫌われたが、幕末に頻発した大飢饉と慶応年間以降の世相の変化に、自尊心よりも日々の糧のほうが大事になる。
     天明、天保の大飢饉では風来坊扱いで食料を分けてもらえず、餓死者が相次ぎ、全滅した集落も多い。


     18世紀に入ると、豊富にあった資材が枯渇しはじめる。尽きたところとまだ残っている地域との差が大きく、特に近畿は枯渇したため、よそへ移動したり百姓になる者も出てきた。
     巡国人が訪ねても、百姓になるなど転業した者は次第に寄付を断るようになってゆく。巡国人も次回からは巡回してこなくなっていった。

     江戸末期、陶器の食器が一般にも普及しはじめる。さらに統制が崩れて、一般の百姓も勝手に木地製品を作って売り歩くなど、木地製品の値下がりに直面する。木地挽きでは暮らしがたちにくくなって植林、炭焼き、野良仕事で稼ぐようになり、さらに転業する人が出るようになった。

     明治の世になると、世の中が大きく変わった。
     明治4年、明治政府は太政官布告をもって官有地民有地を区別して国民に土地の私有権を与え、入会山も共有となる。一方、木地屋には寸地の既得権もなく、これまでのように資材を追って自由に山から山へ移住できなくなり、大恐慌をきたした。
     地租改正事業に関連した地券交付にあたり、「日本全国入山勝手次第」の御綸旨は一片の空文となって、官民いずれも所有者の許可なく一木一草たりとも自由にできなくなった。
     筒井八幡宮と善後策を協議し、御料林の払い下げを願い出て許可されたところもあったが、各地で地元と木地屋の間に摩擦が生じるようになる。

     明治5年、戸籍調査が行われる。当時、全国の木地屋は蛭谷か君ヶ畑の支配下にあり、原籍を滋賀県愛知郡東小椋村大字蛭ケ谷、君ヶ畑としていた。戸籍制度が始まると、移動・流浪の民は徴兵忌避、義務教育放棄、納税義務違反の三大義務の放棄を問われるようになり、徴兵令違反、官林伐採の軽犯罪の宣告を受けることもきわめて多くなる。
     こうして、全国の木地屋から無籍無産に関しての問い合わせが、小椋庄の戸長役場へ送付されてくるようになった。役場でも手を焼き、県令あてに伺い書を出す。滋賀県では、各地の県庁へ願い出るべしとする。小椋庄では、できる限り木地屋が現住地で入籍できるよう、送籍し続けた。

     明治15年、蛭谷が筒井八幡宮、帰雲庵を中心に惟喬親王千年祭を営み、全国各地から何千の木地屋が集まり、壮観を極めたという。翌年、君ヶ畑が大皇大明神、金竜寺を中心に千年祭を執行した。このあたりを境に、オヤマの威光も木地屋の生業も大きく変貌し、木地屋社会は終焉を迎えた。

    「明治維新は日本の近代国家発展への暁鐘、木地屋にとっては死命を制せられた挽歌であった」
         −「木地屋の習俗2 愛知県・岐阜県」文化庁文化財保護部編 平凡社



     昭和32年に文化庁が行った調査では、木地屋系の集落を訪ねても木地業は跡を絶っており、存命中の老人の話を収録するしかなかった、過疎化の影響は天明・天保の飢饉の比ではないとする。


    食料を他者に頼るということ
    雑感−中国/韓国編

    ミャンマーのモーケン族
    雑感−歴史/地方/農業編


  • 2008.3.27

    インパール
    戦争体験記こちら


  • 2008.4.21

    東京大空襲
    戦争体験記こちら

    食料問題
    雑感−歴史/地方/農業編

    聖火リレー
    雑感−中国/韓国編

    かわずのたわごと

    羊水云々の発言について 騒ぎの直後にも思ったのだが、表現はともかく、彼女が大筋で間違ったことを言っているとは思えない。年齢があがれば妊娠した際に染色体異常など問題が出やすいことは科学的に証明されている。「傷つくから」とバッシングするのは問題がある。欲しくてもできない人はともかく、高齢になっても結婚しない、子供がいない生き方をしている人は、それをもふまえて自分でその生き方を選択しているはずだから、そうしたリスク(高齢出産の問題とあれこれ言われる煩わしさ)も受け入れるべきと思う。そのことに不利なデータをあげる人を黙らせるようなことをしてはいけないはず。
     ちかごろ、何かというと「傷ついた傷ついた」と騒ぐのでかったるい。そう言う人も、ひょっとして高卒で活動している芸能スポーツ関係の人をDQN呼ばわりしたりして、ひそかに相手を傷つけているかもしれないのだが、そういう自分が傷つけているかもしれない可能性については考え及ばないのだろうか。

    政治と弱者 ある議員の選挙活動に長年かかわってきた人から面白い話を聞いた。
     街頭演説を行っていると、よくホームレスの人たちが寄ってくるという。食うや食わずでそんな余裕なさそうな気がするが、結構ああいう人たちは政治に興味のある人が多い、と言っていた。時に誇大妄想の人もおり、タクシーに乗った際選挙活動の話をしたら、運転手が異常に興奮し興に乗ってきて怖い思いをしたこともあるという。

     ハーシュトライファーは、生活困窮者は支援を受ける、支援を受けると働く必要がなく時間ができる、その時間で政治的活動を行う余裕が出てくる、結果的に弱者が政治的強者となる、仕事で忙しい人には政治活動をする余裕などない、と言っていたそうだ。セーフティーネットの崩れている日本とは事情が異なるものの、「仕事で忙しい人は政治活動をしない」、興味も余裕もない点はあたっている。現状にとりあえず満足しているからかもしれないが・・・。


  • 2008.5.26

    四川大地震

     過熱気味の聖火リレー、そして胡錦濤国家主席が訪日したと思ったら、四川大地震が発生してしまった。
     もはや世界各地のリレー会場で、地元民がリレーを見られないほど中国人留学生が集結した加油中国騒ぎなど、どうでもよい感も強いが。(いや、どうでもよくないか。聖火を守るため他人を遠ざけた心境だったのだろうが、各国の地元民が近づけない状況は痛すぎる。せめて入り混じってほしかった。)

     四川大地震、日本でも大々的に報道されている。建築物が耐震基準を満たしていないだの核施設の危険性だの問題指摘報道も多いが、東京で起きた場合、同等かもっと酷い被害になるだろうと予想。古い家も多いし、阪神淡路でもあれだけ普通のビルがつぶれた。人のことばかり言ってられない。

     日本政府派遣の支援も、どうもなあ。神戸へ震災ボランティアに行ったことがあるが(こちらに記録あり)、基本、被災した側に負担をかけるような支援なら行かないほうがましと思う。医療で言葉が通じず、現地で通訳探してもらったり、て誤診怖くないか?都市型に対応した救助班もどうも・・・、向こうは山間地も多くそちらが後手に回っているという情報、逆に日本側でも収集できなかったのかな。
     被災者側がやってほしい、ということができない支援なら行っても無駄な気がする。向こうが少数民族の土地で活動する日本隊の絵がほしいというなら、こちらも”最新のハイテク機材使用”、故に崩壊したビルから人命救助できたの絵がほしいわけで・・・。
     AMDAは現地連絡員がいるおかげで現地ニーズに合わせた支援ができているという報道(東京新聞5/26)。やはりこうしたことは、NGOのほうがよいとつくづく思った。国がかかわると、いらぬ面子が関係してくる。おそらくニーズ把握しても、そのとおり素直に動けない事情も多々ありそう、で無駄になる。

     ところで中国の山間地、なんであんなに土漠状態なんだろう。元からか?それとも山の木、長年かけて伐っちゃったのか?新潟地震でも山古志などで土砂崩れはあったが、森に覆われた山とでは規模が段違いな気がする。


    中国−人権と環境と
    雑感−中国/韓国編

    中国での日本軍
    戦争体験記


  • 2008.6.25

    どぶ板は続くよどこまでも
    国分寺崖線と小河川についてはこちら

    裁判員制度
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2008.7.28

    『大地に生きる』清水精一 同朋園出版部 1934年
    本/映画

    慈済
    雑感−中国/韓国編

    焼畑の後に植林

     先日、かつて焼畑を行い雑穀を栽培していた、という村の聞き取り調査を目にする機会があった。静岡県教育委員会による井川地区の焼畑に関する調査報告書で、これがなかなか興味深い。

     田代は井川ダム湖最上流にある集落で、戦前から戦後しばらく頃まで、夏の間は家族単位で大井川上流の山中に一家で移り住み、出作小屋を建て、焼畑を行っていた(焼畑は昭和20年代まで日本の山間地各地で行われていた)。今でもかつて焼畑の行われていた山中に、出作小屋とお茶畑の広がる様子が、航空写真で確認することができる。
     出作小屋は互いに100mから1kmほどと、かなり離れていたが、近隣との絆は強かったという。明治時代になると学齢期の子供は里の家に残り、祖父母に面倒を見てもらいながら学校に通うようになった。

     この地区の人々は、もともと山に散住していたのが、やがて、井川七郷と呼ばれる7つの村に集住するようになった。
     ダムができる前は、20kgの荷を担いで、かなりの距離を1日で踏破していた。女性の人夫集団もあったという。

     焼畑の栽培サイクルは3年で、1年目がそば、2年目に粟や小豆、その他稗やジャガイモも植えた。大正頃から、3年目に穀類、豆、芋を植える代わりに杉苗を植えるようになったという。
     つまり、山肌に広葉樹林と杉林がパッチワークのように入り混じる光景は、かつての焼畑地に杉を植えた結果だったのだ。
     日本各地の山を見ながら、いつも、なぜあそこだけ杉なのだろう、あそこに広葉樹が残っているのだろう、と気になっていたが、山林主が異なったり、斜面の角度によるのかと思っていた。もちろん、日本の山すべてがそうだというのではないが、元焼畑の地に最後の年に杉を植えていった、というのは、かなり新鮮な驚きである。


    集中豪雨型
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2008.8.21

    グーグルストリートビュー
    PC関連

    『中国低層訪談録』廖亦武 集広舎
    本/映画

    『闇の子供たち』−最近見た映画から
    本/映画

    『敵こそ、我が友』−最近見た映画から
    本/映画


  • 2008.10.14

    経済のことはよくわからないけれど
    ミセスワタナベ

    韓国有名女優の訃報
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2008.11.17

    かわずのたはごと

    みんな言っているけれど定額給付金
     すでにあちこちで言われていることだが、はっきり言って無駄。全員に配る手間隙だけでさらに税金が無駄になる。
     この2兆円を中小企業に貸し付けたり、劣化しつつある全国の橋を架け替えたりするほうがはるかに有意義。

     しばらく前、高度成長期に作られた橋が全国で劣化しつつある、修繕がおいつかず、今後、地方で生活道路の橋の崩落が多発する可能性がある、とテレビで特集されていた。
     橋に限らず、高度成長期に作られたさまざまなものが、これから耐用年数を超える現象が現れてくるだろう。新しいものを次々に作ってゆく時代から、作ったものをいかに維持してゆくか、生活レベルを落とさないかに腐心する時代になる。それでも、徐々にレベルは落ちてゆく。

     目先のはした金でごまかさず、現状をあきらかにしてほしい。見なかったこと、存在しないことにして先送りしても、自ずから解決することなんてありえない。裏でますます悪化してゆくばかり。

     今の政治家がだらしない、何をやっているんだ感はあるが、このような状態が続くと、それに失望した人々がかつてのナチスやオ○ムのような集団を支持するようになり、ある日一夜明けたら優しい顔をした恐怖政権が樹立していそうな、悪い予感がある。
     オ○ムのような集団よりは、だらしなくても今の政治のほうがはるかにましなのだから、衆愚にならず持ちこたえてほしいのだ。
     

    最近話題になっているけれど大麻
     大麻は他の麻薬とは異なる、若者が思っている話をよく聞く。
     実は私もその説を複数から聞いたことがある。以下に、その趣旨の話の一つを抜粋してみる。

     第二次大戦後、GHQが大麻取締法を発令して一般人の麻の栽培を禁止して以来、大麻は麻薬ということになった。しかし麻は古代から自生し、五穀のひとつとして、ある意味稲よりも重要な草だった。
     麻薬とは、コカイン(コカノキ)、ヘロイン(芥子)、覚醒剤などのケミカルドラッグを指す。一方、麻の葉や花を原料とするマリワナが麻薬がどうかは、WHOでも「議論の余地あり」としている。
     大麻の葉や花にも神経症状や幻覚を引き起こす作用がある。しかしそれは、いわゆる麻薬とは薬理作用が異なる。
     縄文土器の縄目模様も、弥生時代の織布も、戦時中各戸に配られた伊勢神宮のお札「神宮大麻」、死者が着る経帷子、横綱の化粧回し、弓道の弓の糸、武士の裃、神社の注連縄、大嘗祭の献上神衣、僧侶の袈裟、密教の護摩、蚊帳、湯帷子、大漁旗、合戦の幟、みな大麻だった。
     わが国では麻は太古から重要だった。

     以上、『翼のしとね、草の糸』鈴木和子(OHKSH Vol.1)

     麻と大麻は異なるとも聞くが、岩手端神へ行った時、(大麻ではなく、通常の)麻の栽培にも栽培許可が必要だ、と許可証を見せてもらったことがある。ということは、通常の麻も統制下にあることになる。

     大麻は他の麻薬とは異なる、という話が一般に流れている以上、大麻中毒がどれほど危険なのか、ニコチン中毒やアルコール中毒は(治療対象にはなっても)逮捕はされないが、麻薬関係は厳しい、それはなぜなのか、そこらへんを詳しく説明したものがほしい。



    戦争体験記(中国)
    戦争体験記こちら

  • 2008.12.14

    動物農場
    本/映画

    戦争体験記(中国)

    戦争体験記録はこちら


  • 2009.1.31

    ホメオパシー
    雑感−よもやま話

    伝統薬
    時事

    読んでいたけど・・・
    本/映画


  • 2009.3.23

     下に書いたように、手の指の腱を切ったため、4週間固定するなどで、しばらくここへ書き込みができませんでした。なお、前回、日付を変更するのを忘れていました。日付は2008.12のままでしたが、実際には2009.1.31に書き込んでいます。

    指の腱を切った
    雑感−よもやま話

    どげんかせんといかん
    雑感−歴史/地方/農業編


  • 2009.3.25

    WBC
    雑感−よもやま話

    電車の広告が減っている

     昨年末から気になっていることだが、私鉄車内の広告、特に吊り広告でなく横壁上に1列に張られる広告が減っている。完全には埋まっておらず、隙間があったり、その電鉄系企業の広告やお知らせの類で埋めていることも多い。
     駅の壁の広告も埋まっていないことが多い。東急渋谷駅など、かなり空いている。
     JRは、最近山の手線と中央線しか乗っていないが、いちおう埋まっている。
     しかし、不況はこんなところにも、となんとなく気になる。昨年末は西武が年末年始にかけての終夜運転をとりやめたし、電鉄会社がおかしくなると沿線住民も困る。


  • 2009.4.30

    衣の自給
    雑感−歴史/地方/農業編

    戦争体験の話
    戦争体験インタビューの全般的な話

    GOOGLE

     さきほどニュースでGOOGLEがアメリカやイギリスの図書館に収められている世界各国の本をスキャンしてデジタル化し、公開する予定、というニュースをやっていた。
     基本的に絶版の本を公開する、著者にはそれなりの金額を支払う、としているが、絶版でない本も公開されるおそれがあり、金額もいくら出すつもりなのかよくわからない、という。

     GOOGLE MAPのときもそうだが、勝手になんでも公開する姿勢に疑問を感じる。雑文や安易なハウツー本ならともかく、専門書や苦労して活字起こしをした資料的価値の高い成果物を簡単に掠め取ってゆく感じに、不快な感じを覚える。IT化、デジタル化は不可避というが、能力差というより、うまく立ち回って掠め取る立場と、苦労して本物の成果をあげるが金銭的には報われない立場とに二極化する気がする。まあ、今に始まったことではないかもしれないが・・・。


  • 2009.5.31

    沈黙を破る − 最近見た映画から
    本/映画

    戦争体験の話−台湾編
    戦争体験台湾編の台湾の元日本兵(前書き)


  • 2009.6.22

    イスラエルのNGO『沈黙を破る』
    本/映画

    『嗚呼!満蒙開拓団』
    本/映画

    台湾元日本兵の証言1
    こちら 証言1


  • 2009.7.14

    消費者になることと依存者になること
    雑感−歴史/地方/農業編

    新疆ウイグル自治区での暴動
    雑感−中国/韓国編

    台湾元日本兵の証言2
    こちら 証言2-5


  • 2009.8.11

    台湾元日本兵の証言3
    こちら 証言6-7


  • 2009.8.15

    ■台籍老兵問題
    ■日本語世代本省人の本音
    台湾旅行2009の内容と同じ


  • 2009.9.26

    台湾元日本兵の話の補足

     先月は台湾元日本兵や日本語世代の台湾人(本省人)から聞いた話をメインに書いてみた。
     その後、何人かの人から別の見解を聞いたので、補足として載せてみることにする。

     台湾人と結婚した日本人に、二二八事件の遺族同士があの人は国民党からお金をもらっている等々言っている話(便衣隊・・・)をしたところ、
    「そうなのよ、台湾の人はちょっと立場が違うとすぐお互い中傷するのよね。そしてそういう噂に台湾の人たち自身が右往左往している。台湾の人と付き合うのはとっても大変。それがわかってから、私はどの立場の人とも距離を保つようにしている。片方の話だけを聞いていても、本当のことはわからないから」と言っていた。
     かつて日本軍も便衣隊には悩まされた、お金次第でどっちにでもつく、という話をよく聞いたが、確信犯的なスパイ活動をしている、というより、基本的に噂が流れやすく、当人達自身もそれに振り回されやすい社会なのだろうと思う。戦時はもちろん本当のスパイもいただろうが、こうしたレベルの人たちも結構いたのだろう。社会の違いから、疑心暗鬼の対象となり殺された人も多いのではないか。

     知人に、父親が国民党の将軍だった人がいる。保定出身で元は軍閥だったのが、蒋介石と協力関係を結ぶようになった。県長や北京市長などを経て、日本の東京裁判の国民党側代表となり、そのまま日本に残り台湾には一度も行ったことがない。蒋介石とはあまり仲が良くなかったようだ、という。
      かつて、国民党支配地を周恩来が通過する際、蒋介石から暗殺命令が出たのを「今戦うべき敵は日本軍だろう、中国人同士で殺しあってどうする」と黙殺したことがあった。蒋介石には見つからなかったと報告すればよい、と言い、不安がる部下に、よくあること、彼もわざわざ南京から調べに来る余裕はないはずと読んでいた。
     日中国交回復で成田北京間を初めて飛行機が飛ぶことになった。死ぬ前に一度故郷を見ておきたい、と日本航空のテストフライトに乗って中華人民共和国に入った。このとき、そのことを覚えていた周恩来が国賓待遇で出迎えた。その後息子の彼も、周恩来の奥さんや葉剣英が存命中の頃は国賓待遇で何度も中国を訪問している。
     知人は立場的には外省人のようになるが、台湾は知らず、上記のように複雑な状況にある。その彼の意見だが
    ”台湾の本省人は国民党のことは決して良くは思っていない。それはそのとおりだ。
    戦後(1949年)、中国大陸から逃げ出した外省人は台湾を中国復帰のための臨時基地だと考え、40年間そう扱ってきた。
    軍隊の立て直しのための基地でしかなかった。
    政治面においても、内モンゴル、チベットや新疆などの事務所があり、台湾の人々とは全く関係ない分野にお金を費やしていた。
    そのため、台湾の公共建設、電車、地下鉄などができたのは、ごく最近のことだ。あれだけ豊かな国なのに、地下鉄ができたのはごく最近というのは、どう考えてもおかしい。それだけ、そうしたところに回すべきお金を、中国復帰のための軍備に費やしてきた、ということになる。
    今日の台湾の発展は地元(本省人)の努力の結果だと言える。”
    と言っていた。
     ちなみに、将軍の日本での生活は、生計は日本で不動産を営んでたてており、国民党からは一切お金をもらっていなかったという。国民党政権の日本での窓口のような立場にあり、国民党政府から日本に来る人はみな必ず知人の父親を尋ねてきていたが、退役軍人の恩給等も一切もらっていなかった。このため、老兵の恩給云々の要求にも、国民党はそういう政権だ、将軍ですらもらっていないんだから無駄だと言っていた。


    日本軍武器の再利用
    戦争体験記のこちら

    秋田で感じた韓国
    雑感−歴史/地方/農業編

    都市対抗
    雑感−よもやま話


  • 2009.11.1

    林業に関わるようになって
    森林ボランティア


    農地の大規模買収
    雑感−歴史/地方/農業編


    ガラパゴズでいいかも
    雑感−よもやま話


    その他−かわずのたわごと

    総選挙
     総選挙のあと何人かで会うとよく、民主党が大勝し過ぎて気持ち悪い、日本人はすぐ一方向に雪崩をうったように流れる、と言う人がいた。TVでもそうした意見を聞いたが、得票数を見ると、当選者数ほどの違いは出ていない。4対3か5対2くらいで、結構自民党にも入っている。その場でそう指摘したものの、ほぼ全員が民主党に入れたかのように思い込んでいる人が多い。
     しばらくして、選挙制度の違いでこうなった、中選挙区だと得票数が反映されやすいが小選挙区だと大きく差が出る、政権交代を促すために小選挙区制が導入された、などの解説を新聞で見かけた(Ex.東京新聞の特報面など)。
     よく日本人は一方向に流れやすいだの、一億総XXという意見を聞くが、そうでもないと思う。ただ、そう見えやすい、というか、声の大きいのがいると他が見えにくくなる感じはある。


    友愛
     なんとなく、政治が理想的なことを言うときは胡散臭い感じがする。政治は実務的で現実主義でよいと思うが。もし個々人の政治家に理想があるとすれば、心の中でめざせばよいわけで。
     表看板に理想主義を掲げると碌なことがない気がしてならない。
     美濃部都政に言及している人がいたが、結局現実的(財政的)に破綻して、実務型の人が尻拭いすることになる。社会主義国家や共産主義国家もそうだったし、さらには戦前の全体主義にも似たものがある。
     表看板に理想を掲げる人は、自分が「良い人」として記憶されたいのかなと思う。


    性犯罪と泥棒や詐欺との違いは?
     裁判員制度が始まった。性犯罪の場合、裁判員制度で大丈夫か、という声をよく聞く。こうしたときに問題になるのは、被害者の側にも落ち度がなかったか、という眼差しだという。
     いつも不思議に思うのは、泥棒や詐欺では、被害者の側に落ち度があろうがなかろうが、犯罪は犯罪として認定される。家に鍵をかけ忘れても、ありえない甘い話に飛びついてだまされても、盗みは盗みだし詐欺は詐欺だ。この理屈から言えば、短いスカートをはいていようが夜遅く歩いていようが、犯罪は犯罪のはず。強盗事件でなぜ抵抗しなかったのかと問う人はいないだろうし、そこが争点になることもまずないと思うのだが。


    風読みすぎ
     左系の集まりで話していると、かつての言動を忘れたかのように語る人がいる。先日も中国語関係の知人らで話ていて、「自分は権力には反対なんだよね。だから共産主義にも反対だったし」という人がいて眼が点になった。
     疑問その一。気分はわかるが、実際問題として権力がなかったら、大きい仕事、橋や道路整備から学校などの教育システム(当人は定年退職した元教師)や社会保障、治安維持や法整備までどうやって行うのだろう。なくてもよいとする、小国寡民でゆくつもりなのだろうか。
     疑問その二。その当時共産主義反対だったとはまったく聞いたことがないのだが。今になって言うのは後だしジャンケンに近い。
     でもこういう人は結構多い。リベラルを装いつつ風(カゼ)を読んでいる。むしろ未だに「文化大革命が始まったときは興奮したねえ。何が始まるのかと思ったよ。まったく新しい世界が実現するような気がしたものさ」と言っている人や、あるいは気分が左寄りの時代に右寄りの発言をし続けた人のほうが信頼できる。


  • 2009.12.11

    ”プロがそんなに偉いのかい”
    雑感−歴史/地方/農業編


  • 2010.1.13

    かわずのたわごと

    日航の年金問題
     日航の企業年金の減額が騒ぎになっている。
     しかし企業年金(年金の三階建の部分)の解散はよくある話だ。会社の業績が悪化したから解散するところが増えている、という話は以前から新聞で報道されている。ちなみに私が新卒で入社した会社も解散になった。新しいIT系の会社のため定年退職者がほとんどいないことも解散を容易にしたと思われ、また401Kに移行したと聞くがこの手法で実質解散が可能と思う。
     また、業界団体の年金の解散話も、何年も前に報道されていた。たしか、中小繊維企業が参加する繊維業界の年金は若い従業員が減り支えきれず解散、酒屋業界の年金は運営に失敗だかで解散、という話だったと記憶する。繊維業界の解散については、今後こうした、高度成長期に約束した年金額を少子高齢化と低成長で支えきれない問題があちこちで顕在化するのではないか、とテレビの報道番組で言っていた。

     日航は減額に必要な3分の2だかの賛成を集めたそうだが、集められなかった場合は解散か強制減額可能な法律を定める、と言われていた。この法律が通ったら、どの企業年金団体でも減額が可能になる。

     今後どう考えても一階の国民年金部分も二階の厚生年金部分も満額出るはずがないし、あれだけ国債刷って赤字経営で日本政府も破綻するだろうから、もう年金払うのをやめようと思う、と忘年会で話したら
    「減るかもしれないが年金は必ず出る」
    「政府が破綻するわけがない」
    と年配者諸氏は口々に言う。国が破綻するはずがないと信じて疑わない様子だった。しかし大きな経済危機が襲った場合、出来ないものは出来ない、と必ず国家規模の振り込め詐欺も辞さない状況になる。

     80年代にインドに滞在していた頃、某財団の支援を受けてベンガル文学を研究していた人たちが
    「理論的に考えて日本の年金は絶対に破綻する。だから払っていない」と言っていた。そのときは勇気あるなあ、と思ったが、今では彼らが正しかったのではないかと思っている。

    ボーナス
     忘年会で集まったときのこと。一人が
    「この冬ボーナス満額出た?」と聞いた。
     年俸制のため、毎年査定された年棒を14等分だの16等分して月給とボーナス分として支給されるため、額があらかじめ決まっている人だの、請負や自営の形態で働いているためもともとボーナスのない人もいたが、従来の働き方をしている人も、ほとんど1ヶ月出たか出ないか、といった感じだった。
     聞いた本人は、一人満額出た、と威張っていた。ちなみに針灸学校の先生をやっている。

    温暖化
     70年代や80年代頃は小氷河期再来かと言われていたのが、今では世界的に平均気温が上昇しているという。太平洋の島国やアジア諸国のデルタ地帯にある大都市が海に沈む計算だが、いつのまに逆の話になったのかと不思議だ。
     縄文時代は暖かく、縄文海進といって東京や青森で湾が今より奥深く入り込んでいた。遺跡も当時の海岸線沿い存在する。その当時は東南アジアのデルタ地帯でも海進があっただろう。この温暖な気候は、CO2だのとは関係のない、自然変動だったはず。
     温暖化自体が、どういう要因から起きているのかわかりにくい。CO2の問題も、温暖化の原因云々よりも、縄文時代に比べ空気中の酸素濃度が減り二酸化炭素が増えているという事実があるなら、そう聞くほうが、健康に悪そうで気になる。

     ところで世界温暖化会議で、現在経済成長中の国々が、先進国はこれまでCO2を大量に使って発展してきたのだから、自分達もCO2排出削減の負担を負わずに発展する権利があると言っている。温暖化の原因が本当にCO2なのかよくわからないから微妙ではあるが、もし本当に原因だった場合、そうした理屈は”帝国主義の国々は植民地を作って発展できたのだから自分達も植民地を作って発展する権利がある”と言っているのと同じことになる。

    山で聞いた話
    林業里山のページ


    『タウンゼンド 老年年金案』
    著作集


  • 2010.2.8

    足を怪我した
    雑感−よもやま話

    台湾番組の騒動で感じたこと
    台湾のページ


  • 2010.2.25

    大選手団はもうやめよう

     以前、オリンピックはもうつまらない、と書いたが(ガラパゴズでいいかも)、やはりバンクーバーもいまいちだ。
     ばかみたいに大選手団を送るのはもうやめよう。たいしてメダルも取れず上位入賞すらできないくせに、次につながる、よい経験になる、と言って送り続けてきた。このパターンは高度成長期、おそらく東京五輪以降と思うが、あれからすでに約50年。まったくつながっていないではないか(夏に関してはむしろ劣化)。
     さすがに一時期のように参加国第4番目だかの大選手団、なんて誇らしげにアナウンスすることはもうないようだが(金満国家然だったぜ、今思い返せば)、それにしても100人規模の大選手団を送り込んでこの程度の成績ではコストパフォーマンス悪すぎ。100人前後送っている国はほかにもあるが、もっと成績がよい。

     50年かかってだめだったのだから、もうやめたほうがいい。

     「次につながる」というが、むしろ日本一になりさえすれば(そして標準記録さえ満たせば)自動的にオリンピックに出られるほうが、かえって出場するだけで満足する雰囲気を助長するだけという気がする。
     次回から選手団の人数を、前回オリンピックの結果に応じた数にするとしたほうが、ぬるま湯状況の改善になる。五輪への期待がプレッシャーになる、というタイプの人は(成績が日本一でも)別に送る必要ないと思うし、期待しないから自腹で自由に競技をやればよい。

     お金を使うなら、やる気と才能ある選手が経済状況を心配したり、トレーニング施設を探し回りながらトレーニングを続ける状況を緩和するほうへ使ったほうがよい。

     日本人が出ているだけでその競技のTV中継を見る人も今はあまりいないだろうし、勝てない競技やレベルの低いものを見てもつまらん。五輪に出場すればいい、という感覚はもう古い。

    五輪その2
     むかしバレーの人気があった頃(今も人気だけはあるな、ならばバレーが強かった頃)、バレー雑誌で、とある男子チームの監督が
    「プロ野球の二軍施設に行くと、体格のいい若者がごろごろいる。彼らが二軍にくすぶらずにバレーに転向してくれたら、と思う」と書いていた。

     稼げるプロスポーツの少ない女子はともかく、男子なら身体能力が高い人はどうしても野球やサッカーに流れるだろう。
     それが困るというなら、旧社会主義国や韓国のようにメダルをとれば生涯ほぼ安定の待遇を約束するしかないねえ。それが無理なら、プロ野球とJリーグとゴルフでレベルの高いプレーを楽しもう。

     そもそも才能によって子供を各競技に振り分けスポーツエリートを育てる中国や韓国では、一般の子供が部活を楽しむ習慣がない。それが幸せかどうか、それはそれで疑問。普通の子が部活でスポーツに親しむことが基本にあり、その中から才能とやる気のある子が代表選手になることもある、というのも、効率は悪くともそれはそれでよいのかもしれない。

     その思想でゆくと、選手になるのは本人の自由(勝手)だからサポートはしない、その代わり一定レベルに達すれば全員平等に五輪には出してやるよ、というのも一つの考え方ではあるわな。
     その場合、競技選択も強制でないし、またそこまでの道筋でサポートもないから(実際には五輪強化選手とか若干あるが)、最後は国の金で五輪に行くとはいえ、日本の代表、という感じもあまりないわけだ。本人が好きで自腹切ってやっているのなら、日本代表としてのプライドを持つとか期待に応えるという気持ちとは無関係、と捉える人がいてもおかしくない。また押し付けるのもおかしい。

    五輪その3 2010.2.26
     先日「カーリングはスポーツなのかね?」「なんであれがオリンピック種目なの」としゃべってるお婆さんたちがいた。カーリングは体を鍛える感じもあまりなく、ビリヤードのようで、スポーツというよりチェスや囲碁将棋に近いと思うが、氷を張る必要があるので冬季オリンピックに入っているのでは?と勘ぐってしまう。本来は別区分けにすべきものだ(逆にカーリングがスポーツなら、なんでビリヤードやダーツが入らないの?)。
     実はフィギュアも同様な気がしている。フィギュアも芸術性だの言い出した時点で、すでにスポーツではない。プルシェンコが言っていることは正しい。こうなってしまった以上、バレーのコンクールなどと同じ扱いにすべきだ。体操はまだ許せるが、シンクロもスポーツと言えるかどうか。音楽を使う種目はスポーツから外すべきと思う。姿勢だの技を競うタイプも、プロのコンテストにまかせるべき。
     前回も書いたが、シンプルに夏はトラック競技と水泳、体操程度、冬はタイムを競うスキースケートそり、せいぜいスノーボード程度に抑える。団体競技(球技など)はプロリーグのある種目も多く、五輪とは切り離す。基本的な種目に絞れば途上国でも開催しやすくなる。開催すればその国の一般人も興味を持つし、スポーツの裾野拡大に寄与する。

    五輪その4 2010.2.26
     シンクロの日本人コーチが中国チームのコーチに就任したとき、保守系週刊誌その他で売国奴扱いの叩かれ方だった。一方、女子フィギュア日本人選手のコーチはロシアの名コーチ、韓国人選手のコーチはカナダ人のメダリスト、日本女子モーグルのコーチはフィンランドのメダリスト。
     これが日本なら、タラソワコーチはロシア女子のメダリストを育てず日本人のメダリストを見ているのだから売国奴扱いだろう。
     自国選手が他国の名コーチの世話を受けるのは構わない、逆は叩くとは心狭すぎだが、疑問に思わない人も多い。フィギュアは昔から海外のコーチにつくことが多かった。つまり他国のノウハウを移植してきた。お金のためと言うかもしれないが、外国人に教えることを厭わないし、国民も気にしないわけだ。


    軍隊を知らずして・・・
    雑感−中国/韓国編


    現地調達・・・
    雑感−中国/韓国編


  • 2010.4.7

    驚いた!
    PC関連


    足を怪我して見えたこと
    雑感−よもやま話


    最近のニュースから

    まぐろ 規制案が通らず一安心しているようだが、まぐろの刺身は日本の文化だとしても、江戸時代にそうしょっちゅうまぐろを食べていたとも思えない。一億人が、百円回転寿司で頻繁に寿司を食べていたら、そりゃ足りなくなる。今後のことを考えると、こちらももう少し素食に戻るべきと思う。でも物理的に入ってこなくなるのでない限り、自ら贅沢から質実剛健に戻ることは、もうできないのだろうなあ。

    ギョーザ 既に週刊誌などでも書かれているが、戦後の国鉄の事件などのように、国家がらみの冤罪の可能性も高いと確かに感じる。国家が意思をもって犯人だと決めた場合、それが覆ることはないだろう・・・

    グーグル撤退 その国に入ったらその法律は守るべき云々の是非はともかく、政府による検閲そのものについて一般の中国人はあまり言わない。問題にしなくても普通に暮らしてゆける。これは戦前の日本でも似たようなものだったろうと思う。それが息苦しい、と感じる人でない限り。だから戦前の日本人について、彼らもあまり言えないことになる。そういう意味では、一般の日本人に罪はない、罪は指導者にある、という彼らのロジックは非常に正しい。


  • 2010.5.6

    台湾人の祖国建設熱
    台湾のページ

    都市農業の相続問題
    北沢川烏山川沿いの畑

    沖縄
    雑感−時事/戦争関連編

    最近見たテレビから−『家族の歴史』
    本/映画

    アスペルガー症候群

     最近よくニュースや新聞の特集で取り上げられているアスペルガー症候群。
     東京新聞の特集での特徴によれば、同じ道から帰ることにこだわる、とか、予想がつかないとパニックになる、とあるが、そういうことはないので、(むしろ毎回同じだとすぐ飽きるし、想定外の事態が起きるバックパック旅行のほうが生き生きできる)自分はこの症候群ではないと思うが、一点、同じ!と膝を打つ特徴があった。それは
    「相手の身になって考えろ」と叱責されることが多いが「自分に置き換えたら何とも思わないことも多いから意味がわかりにくい」という点。

     先に書いた、運動会に親が来る来ないなんてどうでもいい、というのもそうだが、ほかにもいろいろある。
     たとえば部活の先輩で、(部活とは別の)あるサークルで男子学生から毛深いことを指摘され、泣きながら出て行ってしまい、二度とそのサークルには戻ってこなかった、という人がいる。普段男勝りで、理工の某大学院まで女で一人進み元気な人なのだが、その話には申し訳ないけど大笑いしてしまった。
     なぜなら私も毛深いことをクラスノートに書かれたり揶揄されたことがあったが、ケッと思っただけだからだ。「そのストッキング模様がついているのかと思った」と言われたこともあるくらい毛深かったが、そういうことでばかにする奴はそっちのほうが馬鹿だよねー、と瞬時に思ってしまう。それがまた顔に出て、さらに嫌われたりもするのだが、最初に絡んだのそっちだしねー、とまたまた思ってしまう。
     というわけなので、その程度で大泣きかよー、辞めるほどの理由でもないだろー、と今でも笑える。まあ、辞めたのには別の理由もあったのでしょうがね。

     大体、学校でも職場でも、何かというと傷ついた傷ついたと主張する奴大杉(多すぎる、といちおう翻訳)。言った者勝ちなところがある。
     そういえば中学の部活で、下から持ち上がりのナイブの連中が外から入った生徒をいびり出す、という噂があった。それを知らずに中途入部し、実際ガイブの一人が他と折り合いが悪く辞めていたことを知った(原因はあくまで噂で不明)。
     夏季練習のとき、水飲み場で水を飲んでいると、ナイブの一人が水をぶっかけてきた。暑かったので「あー、気持ちいいー」と(本気で)言うと、「なに?こいつ変なやつ!」と言われた。今から思えばいじめかけたのでは、と思うが当時は今に輪をかけて鈍感だったので、「うん、だって暑いじゃん」と言った。なぜかそのナイブとその後話すようになり、今でも賀状のやりとりをしている。

     アスペルガー症候群に話を戻して、TVの特集によれば、なぜ今この症候群が問題になっているのかといえば、昔の社会では、たとえば山村なぞでは柳田国男の調査によれば1日に十数語(この数字の記憶は定かでない)しか話さないことも多かった、という。つまり言語によるコミュニケーション能力はさほど要求されず、対人関係が下手な人でも違和感なく生活してゆくことができた。それが現在の社会は、コミュニケーション能力が重要視されるため、そこでつまづく人は生き辛くなってしまう、とのことだった。

     そういえば赤毛のアンの養い親のマシューや、アーサー・ランサムのディックとドロシアを受け入れた農場の主人も、無口な人たちだった。でも温かい。
     なんだかこの話に、芥川龍之介の「かめさん」を思い出した。旅をしてカエルの国に入った亀は、しゃべるの(だけ)が得意な人たちの間で立ち往生してしまうのだ。


  • 2010.6.8

    沖縄問題

     鳩山政権のおかげで、沖縄分離フラグが立った気がする。さらに過去最大の借金財政で”ちかじか日本経済終了”フラグも。

     沖縄の人の書いた沖縄の歴史に関する本を見ていると、琉球処分前、王府守旧派と薩摩派の暗闘があったことや、米軍占領下でも独立派、日本復帰派、新中派とあり、一人の人間の中でも揺れ動いていた様子がよくわかる(後者については『美麗島まで』与那原恵著がわかりやすい。その他『琉球王国衰亡史』嶋与志津など)。
     日本は少子化と経済力後退で確実に衰退する。10年後か20年後には、沖縄は中国領か中国の保護国になっている可能性も高い。歴史上よくある国土の伸縮、日本、沖縄、中国、それぞれ栄えるときもあれば衰えるときもある。

     基地は日本を守るためにあるのではない。そんなこと明々白々、誰でもわかっている(と思うのだが)。”抑止力”、て、アメリカにとって必要だから置いているだけで日本を守るためではない。日本を守るための基地を沖縄に押し付けている、ということを書いたりしゃべったりするマスコミもおかしい。なぜこういう論法が流れるのか不思議だ。そういうことにしたい人たちがいるのだろう。
     アメリカの国防ラインを維持するための基地が地理的に沖縄の位置に必要だから置かれている。日本(や沖縄、その場合基地でなく離島含む沖縄そのもの)が攻撃、侵略されたとしても、それがアメリカの国益と一致しない場合、米軍は確実に動かない。基地の理由からいって動くわけがない。

     ”基地は日本を守ってくれている”、でもその基地は迷惑施設でもあり自分のところには置きたがらない、とマスコミはいう。それなら自国の軍隊をおいて自分たちで守れるようにすればいい。だって守ってほしくはあるわけだろう。軍隊がないと、”抑止力”がなくなって不安なわけだろう。自国の軍隊のほうが隊員が事件を起こしても治外法権にはならず、国内法で対処可能になる。

     九条を守ろうという人たちにもおかしい。いろいろな立場の人がいるので全員ではないが・・・。
     九条を守り米軍も出てゆくべきとするなら筋は通る。しかし九条があるから私たちは軍隊を持てない、持たない、米軍は必要悪、日本にいるなら彼らに守ってもらおう、というのは、自分たちの手だけは汚さない、汚れ仕事は他人にやらせる、結局軍事力に頼っているわけだから論理的におかしい。
     九条を本当にやるなら、まず正規の軍隊である米軍出てゆけをやるべきになる。次に自衛隊の解体。でもその勇気のある人は少ない。
     (実は九条にはまっている知り合いがおり、会うとパンフ持って薦めたり結構うざい。”自分は正しいことをやっている”と信じている様子だが、正直一種良心のアリバイ作り、集会ばかり、それでちょっと何かやった気で満足している感がある。)

     日本もキルギスもアメリカの勢力範囲の最前線の防波堤、沖縄はその重要拠点のひとつ。東京周辺に基地が多いのは、もとは日本軍解体のため、その後は防衛兼見張り目的もあるはず。
     鳩山は最低でも県外と言っていたのが、結局アメリカに何を言われた、もしくは歴代担当者らから何を知らされたのかね。どうせ辞めるならあらいざらいぶちまけちまえばいいのに。”国民の皆さん、日本は本当はこういう状況にあり、沖縄はこういう状況にあるのです”と。
     他国のために血を流す若者のための”思いやり予算”とか笑えるし、「じゃあなくてもいいです」あるいは「自分でやります」と言っちゃいけないようだし。

     大城将保氏が書いていたが、明治に創設された日本軍は侵略のために作られた軍隊だった、という。つまり国防軍ではなかった。確かにそのとうりで、それがいろいろと間違いの元だった。アメリカが日本を捨てる日が確実にくる。そのとき初めて”国防軍”ができるのかもしれない。遅きに失する感はあるが。


    ”日本経済終了”フラグ

     PCの調子が悪くなった場合、あちこち設定変えたり、不要なものを探して消す手間をかけるよりも、最初からクリーンインストールしたほうが結局速いしPCも快調に動くようになる。入れなおす際に、使わないソフトは「必要になったら入れよう」と当面入れない。既にインストールしてある場合だと、「ひょっとしてまた使うかも・・・」と消すのが惜しくなる。
     国の組織も同じで、ここまで肥大化すると仕分け程度の削減では大幅な改革は無理と思える。だから歴史的にどの国でも、定期的に"革命”が起こる。全部チャラにして、最初から構築しなおしたほうが、絶対速いし今の状況に最も合った組織を作ることができる。

     お金がないというが、明治の最初の頃日本は貧しく財政はもっと厳しかったはず。それでも義務教育を始めたり様々な有効な政策をとることができた。今のほうがお金はあるはず。それで学校や医療を維持できなくなりつつあるというなら、確実に不要なところに大金が流れていることになる。

     数年前、気分は戦争、という不安定雇用の若者の心理傾向が話題になったが、戦争ではなく、革命が必要だという気がする。

     松坂市が、市の借金について街中に時計表示で示していると新聞で見た。
     これを国の借金について、日本中でやったらどうか。新宿渋谷新橋などで毎日目にしたら、嫌でも状況がわかる。


    『内村剛介ロングインタビュー』
    本/映画

    『作家と戦争』
    本/映画

    『オキナワ イメージの縁』
    本/映画

    『太平洋戦争』
    本/映画


  • 2010.7.12

    戦前戦中という時代
    雑感−時事/戦争関連編


    台湾の小学校

     先日台湾へ行ってきた。今回は田舎を回ったが、その際驚いたのが台湾の地方の小学校中学校の立派さ。日本の場合、村で最も立派で大きく、きれいな建物を見かけると老人ホームであることが多い。台湾では、高層建築のない田舎の村に、5,6階立てで外壁も様々な色で美しく塗装された立派な建物を見かければ、それは小学校か中学校だ。
     あちこちで見かける村一番の立派な建物を見つつ、個人に”子供手当て”をばらまく政策は愚策だと痛感した。本当に子供を大切に育てたいなら、公立学校のレベルを上げることのほうが重要ではないだろうか。たかだか1万数千円を個人へばらまいても、その個人がやれることは知れている。

     一人一人が米を1粒余らせても、何もできず捨てられるだけだ。みなから米を一粒づつ集め、1億粒になったら使い道もある。


    京都の山
    雑感−歴史/地方/農業編


    二世議員

     政治家の世襲はよくない、とよく言われる。マスコミの論調もそうだし、一般論として聞かれればそう答える人も多いだろう。

     しかし、長崎の選挙で自民党が巻き返した際、応援演説に現われた元首相の息子に歓声をあげる人たちを見て、二世議員を当選させているのは選挙民自身ではないかと思った。
     本当によくないと思うなら投票しないはず。しかし別にイケメンでなくても、地方に地盤のある大政治家の息子や娘は後を継ぐとたいてい当選できる。二世議員を必要としているのは選挙民自身だ。

     『差別と日本人』(辛淑玉、野中広務著 角川文庫)を読んでいたとき、次のような文章にぶつかった。
    「多くの人がそのような某氏(注:原著では実名)を受け入れるのは、そうすることにメリットがあるからだ。
     真の実力を持ち、競争を勝ち抜いてきた本当のエリートたちに対しては、コンプレックスや近寄りがたさを感じる。それに対して、そもそも自分の力ではどうにもならない「家柄」や「出自」の良さというものを受け入れることは、ある種の安堵感を与えてくれると同時に、自分たちの下におかれるものたちを作ることになり、自分たちは優越感に浸れるのだ。(中略)
     彼らはもう、競争しなくても良い。」
     さらに「彼らはそのままで差別する側に立つことができる」「某氏が政治家でいられるのは、大衆の差別意識の上に乗っているからだ」と続くが、殊更に差別意識に関する部分を強調しなくても(辛氏はむしろこちらを強調したいだろうとは思うものの)、この説明は二世議員が喜んで受け入れられる理由をよく示していると思う。

     さらに言うなら、自分の力ではどうにもならない「家柄」をだしたほうが揉めずに済む。実力に関わらず長子相続(文化によっては末子相続)と決めてしまったほうが跡目争いを避けられるのと同じだ。”実力”となると、測るのが難しい。他人が見てさほど優秀に見えない人でも、自分だって能力がある、あいつよりできる、と内心思っている人は案外多い。”実力”本位となると結構カオスになる。だから社会が安定しているときは、「家柄」をだしておいたほうが無難だ。さほど能力が要求されずとも社会は回ってゆくからだ。社会が変動しているときは、それでは対応できない。だから、それこそ食うか食われるかを勝ち抜いた真の実力者が自然と上に立つ。


    シベリア抑留された台湾人
    こちら 証言21


  • 2010.8.27

    東条英樹スパイ説
    インタビューのこちら



    まつろわぬ民
    雑感−歴史/地方/農業編



    中国の沖縄領有主張
    雑感−中国/韓国編



    最近のニュースから

    児童虐待
     新聞に掲載された調査によれば、児童虐待で最も多いのは実父によるもので、次に養父、実母の順だった。昔は継母による継子いじめが小説や芝居などでよく描かれていたが、実際はどうだったのだろう。
     戦前の小説や生い立ちの記録を読んだり、戦前生まれの人に話を聞くと、親が亡くなり親戚をたらい回しにされただの、母が再婚したので自分は丁稚に出されただのといった話がよく出てくる。実の両親健在でも兄弟の数が多いので丁稚や奉公に出された話は多い。これも、今で言う一種の育児放棄だろう。戦前はそれを合法的に行う制度があり、需要も受け入れ先もあった。こうしたことが実父、実母、養父による虐待を、逆に防いでいたのかもしれない。

    ホーム柵
     ここ数日のホームからの転落事故(酔客が押した件と、ゲーム機に夢中で落ちた子供の件)について、ホームからの転落を防ぐために柵を設けよ、と報じるマスコミや”コメンテーター”が多い(ニュースステーションの古館氏はそう言い切ることを微妙に避けていた)。
     しかし、終戦直後の国鉄の混み方はもとより、60年代70年代の通勤電車の込み具合は窓ガラスが割れるほどで、今よりもっとすごかった。当時もホームに人はあふれていたわけで、中には落ちる人もいただろう。
     それがここ数年、やたらやかましい。別のところで自己責任自己責任とさかんに触れ回る割りには、携帯やゲームに夢中で落ちたり電車に接触するのは自己責任ではないらしい。
     ホーム柵を設けるには多大の金がかかる。鉄道会社の負担になるし、ゆくゆくは運賃になってはねかえる。ホーム柵は、もともと人件費カットによる無人運転や無人駅のために設けられたはず。普通の駅までホーム柵で保護せよというのはあきらかにやりすぎだ。
     こうした無駄の多い瑣末事に夢中になりすぎるランナウェイ現象があちこちで起きている。ランナウェイとは、角が大きいことに価値を置きすぎたヘラジカ社会、その結果群れが滅んだという生物学用語だが、本当に大切な問題から目をそらし、その埋め合わせとして瑣末事に夢中になっている気がする。

    高齢老人の生存確認問題
     事務処理ミスや悪意なく戸籍や住民基本台帳に残ったままのケースもあるようだが、役所や民生委員が訪ねても会えず生存確認できないまま各種福祉手当が渡されていた事件。
     年金制度は国民の”自己責任”によって、崩壊する可能性が出てきた。この場合、ズルする人と納めている人とは別人なので、本当は自己責任ではないが、結局そうなる。今納めてまだもらっていない人は払い損。
     訪ねても”他所にいる”その他の理由で面会できないケースには、老人虐待も含まれるだろう。児童虐待は問題になっており、面会を強力に要求できるようになりつつあるが、虐待したり閉じ込めたりする人は他人に見せたがらない。ただ、子供と異なりその確認は難しい。貧困ビジネスなどでも、こうした状況はありうる。
     ところで、亡くなっても申告せず年金をもらい続ける人の話に、ある元兵士が、戦地か生きて帰ったら家族が白飯食っていた、自分の恩給をあてに暮らしていたので、生きて戻ったことを実の母や兄弟から恨まれた、なんという親兄弟か、それほどまでに貧乏な家だったので、仕方なくすぐに出て自活の道を探らざるを得なかった、と涙ながらに語ったことを思い出した。


  • 2010.9.24

    奴隷になりたくないなら
    雑感−中国/韓国編


    外資による森林買収
    雑感−歴史/地方/農業編


    きついようだけど・・・弱者の横着
    雑感−よもやま話


    厚生省VS検察

     検察が証拠データを改ざんしたとして厚生省の人は無罪となり大騒ぎになっているが、この話はもともとは厚生省の不祥事だったはず。その元局長は無実になったとはいえ、誰かが障害者優遇制度の悪用を許可し郵便の不正利用をはかったわけで、厚生省がシロというわけではない。なんか問題がすり替えられた感じだ。データ改ざんは検察が先走り、自ら墓穴を掘った感じだが、厚生省の不祥事もうやむやになった。


  • 2010.10.16

    与那国上空問題
    雑感−中国/韓国編

    奴隷になりたくないならPart2
    雑感−中国/韓国編

    帝国主義
    雑感−中国/韓国編

    日本と中国では残酷さが異なる
    雑感−中国/韓国編

    どの話が歴史として残るのか-歴史の闇
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2010.12.2

    トップが不健康だと国は滅ぶ
    雑感−時事/戦争関連編

    内が乱れれば外からの侵入で国滅ぶ
    雑感−時事/戦争関連編

    置き換えて考えると
    雑感−時事/戦争関連編

    日本軍が特殊だったのか
    雑感−時事/戦争関連編

    記憶−記録するということ
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2010.12.26

    TPPと農業

     TPPに参加するか否か問題になっているが、TPPに参加するしない以前に、10年20年後にはほとんどの農家はなくなっているだろう。なぜなら、現在畑や田圃を維持している大半は60代以上。子供は継いでいないところが多い。どう考えても、自然にそうなる理屈だ。


    外国人による森林買収
    雑感−歴史/地方/農業編


    子供手当

     小泉旋風のときも自民党に入れなかったが、今回の民主党躍進選挙でも民主党には入れていない。埋蔵金から資金を捻出してあれもこれも施しますという聞こえのよいアジェンダは怪しいと思っていた。周りに民主党に入れたと言う人が多かったので、当時から内心ばかじゃないかと思っていた。
     基本的に現金支給は究極のばらまき、愚策と思っている。ナマホも同様だが、人を援助漬けにする。そんな余裕はもうないのに「パンはある」と言ってだまそうとしている。日本軍が占領する直前の英領シンガポール政府のようだ。


    子供手当その2

     給食費がどうこう言っているが、学校給食が始まったのは戦後の食糧不足がきっかけだった。それまでは弁当だったり、家に食べに帰っていた。今でもアジア・アフリカの学校では、昼食を食べに帰るところも多い。
     戦前に育った人の話を聞いたり読んだりすると、家が貧しくて学校に弁当を持ってゆけなかった話を見聞きする。校庭のブランコで一人昼休みを過ごしただの、親切な先生がいて弁当を分けてくれた、といった話もよくある。
     岩手では、1960年代に母親たちが学校給食を実現しようと運動した話を聞いた。つまり1960年代まで公立の学校で給食のなかった地域もあった。

     給食費払わないなら、学校給食なんてやめたら、と思う。ない時代のほうが長かったのだから。払わないなら出なくて当然。高度成長のおかげであれこれ施策のとれた時代に行政サービスが肥大化した。人々もそれに慣れすぎた。すべてリセットしたほうがいい。


    専業主婦

     今や専業主婦は叩かれている。男がリストラされても働かないなんて甘えている、女も働け、夫婦共働きが普通、と言われるようになった。
     1990年代まで、結婚したら仕事やめろ、女は家にいるべき、外で働くべきではない、家庭が壊れる、と識者らがしたり顔でギャアギャア騒いでいた頃に比べ、180度様変わり。
     こういうのを見るにつけ、その時代の常識に縛られて自己規制するのは、結局意味ないな、と思う。
     働いたらだめ、と批判され寿退職奨励(場合によっては強要)されて40代50代になった人に、夫がリストラされても働かない、と責めるのも随分勝手な話だ。その批判に従ったおかげで実務経験がないまま → 就職が難しい という状況にあるだけだろう。責めるなら、その雰囲気作りに加担した責任とれよと言いたい。
     逆に言えば、”世間様”や社会がどう言おうが、それらは最終的な責任はとらないのだからどう振舞おうが勝手だよね、ということになる(その時点での従わない者へのいじめ、制裁はあるが。そのとき証拠をとり、社会の雰囲気が変わったらその責任を問う、裁判起こすのも面白いかもしれない)。


    団塊の世代

     団塊の世代の多いとある忘年会にて、北朝鮮の砲撃や尖閣諸島がらみの中国の恫喝などについて、その世代のおじさんたちが
    「アメリカに守ってもらおう」と言ったり「やっぱりだめか」と舌を出したりしていた。
     中国語関連の忘年会では、中国がらみの話は盛り上がらなかった。みな避けるか、一種あきらめ感が漂う感じ。中国の日本大使館職員と親しいというある団塊の世代おやじが
    「あんたらの対応が悪いから中国嫌いの日本人が増えたんだよ、と怒ってやった」と言っていた程度。
     個人的には逆じゃないか(中国側の対応があきらかに恫喝でおかしい)と思うが、それはさておき、なんだか、団塊の世代も年取ったなと感じた。


    戦争中の日本映画
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2011.1.27

    地デジ化

     自宅が某ビルによる電波障害の対象区域に入っているため、現在、無料でケーブルテレビが提供されている。
     7月からの地デジ化に伴い、電波障害対策対象区域から外れることになり、ケーブルテレビ会社の営業マンが「今後も契約を続けてほしい」と周囲を回って歩いている。うちにも来たが、アンテナにするかケーブルにするか、決めかねている。

     対応した家人は
    「最近テレビ面白くないし、見えない局があってもそれでいいと考えている」と言ったという。すると営業マンも
    「皆さんそうなんですよね〜。そうおっしゃる方、多いんですよ。『最近のテレビは自分たちばっかり楽しんで、見ているほうはちっとも面白くない。もうテレビなんて見えなくてかまわない』と怒っている方もおられまして」と愚痴っていたという。

     地デジ化でテレビ離れが加速するのではないか、と予想している評論家がいたが、本当にそうなりそうな気がする。
     ネットは(テレビのように数局に限られず)溢れる中から見る側が選択し、自らも発信することができる。全国民に同一情報を行き渡らせるわけにはいかなくなる。情報操作をできないわけでもないがかなり高度な技術が必要になるし、逆の側も発信が可能なので言論を完全には封殺しにくい。逆の発信者が増えすぎれば検閲削除する側が追っつかなくなる。

     20世紀初頭、マスメディアの発達とともに出現した全体主義は、21世紀には存在しえない政体となるのかもしれない。


    教師の訴訟

    雑感−時事/戦争関連編


    引きこもり

    雑感−時事/戦争関連編


    検地-放置山は自治体へ
    雑感−歴史/地方/農業編


    どうでもいい疑問:卓球のあいちゃん
     卓球のあいちゃん報道はかねてから不思議だ。なせ日本選手権で他の選手が優勝してもテレビのスポーツ報道はあいちゃんばかり、優勝者は名前すら言われないのだろう、と。
     今回、高校生が全日本を制したということでやっと彼女が話題になったが、それまではあいちゃん一色、彼女より強い他の年上選手はほとんど報道されなかった。何回戦で敗退、て、じゃあその上に3〜5人いる、てことだよねえ、と常々思っていた。
     確かにあいちゃんも子供の頃は、(子供としては)成績がよく天才少女だったかもしれない。しかしその後はそこそこ強いものの、日本国内ですら一番というわけでもないし、世界でも特別強いわけではない。

    どうでもいい疑問:ホーム柵
     駅のホームから転落する人が多い。そのため、鉄道各社にホーム柵を設置するよう言われているしマスコミもキャンペーンを張っている。視覚障害者の件は別問題として、近年、ホームから落ちて人身事故につながる人が増えている、というのがとても不思議だ。
     国鉄時代、電車の窓ガラスが割れるほどの殺人ラッシュだった。当時の映像を見ても、ホームにも今以上に人があふれている。その頃のほうがホームから落ちる人は多そうなのに、さほど話題になっていない。ほかにもっと重要な問題が多かったのか、落ちる人があまり多くなかったのか。
     統計で見ても、実際落ちる人数は毎年増えている。ということは、駅の構造よりも別の問題があるのではないか?昔に比べ、携帯・音楽プレーヤーなどで不注意に歩く人が増えた、人間の側の身体能力が落ちたなど。
     現在起こっている問題は高齢化ですべて説明がゆく、という説があるが、ホームから転落する人が増えているのも高齢化がからんでいる気がする。

    どうでもいい疑問:事件と学校のコメント
     子供や学生が事件にあった場合、マスコミ(特にテレビ)は通っていた学校の先生や校長にコメントを求めることが多い。これ、てどうなの、といつも思う。
     本当の当事者は親や家族なわけだが、人道的にコメントを求めにくいのだろう。しかしだからといつも学校の先生にコメントを求めても、「やさしい子でした」「明るい子でした」「勉強にがんばって将来こうしたいと言っていたのに」とありきたりなことしか言わないし言えない。
     ”絵”が必要なんだとコメントゲットして流すのだろうが、予定調和で無駄な気がする。コメントなぞいらないのでは。

    どうでもいい疑問:熊と猿の差
       かみつきザルが逃亡して再びつかまったが、これが熊だったら殺処分だったろう。熊だと、場合によっては出没し人間に見られただけで殺処分になる。かみついたら完全に殺処分のはず。出没しただけで殺される熊と、かみついても許される猿。頭数が増えており駆除も兼ねているというなら、猿も増えている。体の大きさ、人間に対する脅威が違うためかもしれないが、なんとなく不公平、ずいぶん待遇に差がある。
     そういえば子供向け絵本なぞによくある、うさぎやりすはいい奴、狐や狼は悪い奴、というお決まりの図式が小さい頃から嫌いだった。

    どうでもいい疑問:若者の留学減少
     最近の若者は海外に出たがらない、留学する人数も減っている、という。でも数が多ければいいのだろうか?
     まず、少子化で若者の絶対数そのものが減っている。そして80年代90年代は、確かにアメリカへ(後半は中国などへ)留学する若者が多かったが、当時日本の大学に入れないからアメリカに留学した、と言われる人も多かった。
     特に1年などの短期留学(語学や交換)の場合、明確な目的がないとあまり意味がない、と留学していた知人は言う。同国人で集まりやすく、学校へ行かなくなり麻薬に手を染めたり、精神的に不安定になって帰国するケースも結構あったという。当時中国に留学する層の若者の質の悪さを聞いたこともある。
     バブルの頃の安易留学と今の数を比較しても、あまり意味がない。本当に勉強する層が就職に不利、家庭の経済状況悪化でお金がない、能力あるのに内向きでチャレンジしない、などの理由で外に出ないなら、多少問題かもしれないが。
     ただ、母国語で高等教育(特に医療)が受けられる国は、アジアアフリカではあまり多くないので、いちがいに留学する学生が少ないからだめというのでもないだろう。


  • 2011.2.21

    どうでもいい疑問:上野動物園のパンダ

     上野動物園にパンダが来ると大騒ぎしている。しかしパンダなら既に和歌山に何頭もいる。しかもこの動物園は二世誕生を何度も成功させている。
     なぜ今頃大騒ぎするのだろう?
     上野動物園への(国や都の)肩入れ?悪化した日中関係を修復しようと日中の政府の思惑が一致した?
     なんだか今のマスコミはますますプロパガンダ化し信用できなくなりつつある。

     新聞などで特集を組み飼育体制を紹介したりしているが、和歌山のほうが(次々死なせてはそのたび中国からもらう特恵も受けず)自然な形で飼育しており二世誕生に何度も(通算12頭)成功し、上野より飼育技術は上のはず。
     飛行機やトラックで運ばれるパンダの中継とか、上野特別和歌山スルーとか、とってもとっても不思議だ。

    追記:アップした翌朝、東京新聞に和歌山の動物園について解説が載っていた(2011/2/22)。なんでも和歌山の動物園は中国の成都パンダ繁殖研究基地の日本支部という位置づけで、繁殖には中国からスタッフが来ている、上野は日本人だけで飼育、繁殖させている点が異なるという。それで今回の大騒ぎか、まあ納得。
     和歌山で産まれたパンダの数はネットでも12頭だの11頭だのあるが、どっちが本当だろう?まあ、細かい数字はどっちでもいいが。
     大学時代、中文の知り合いから「中国の古い文献に、ドクロぐま(髑髏熊)、ていうのが出ていて、パンダじゃないか、て言われているらしい」と聞いて以来、パンダというとドクロぐまを思い出す。


    貧困と非婚

    雑感−時事/戦争関連編


    格差

     今、人件費を抑えるため駅などの無人化が進み、さまざまな施設の統廃合も進む。しかし明治時代、国も企業もあまり財政豊かでなかったはずだが、各駅には駅長がいて踏切には踏切番がいた。山深い村にも駐在所や分教場が置かれ、警察官や教員が何人も配置されていた。給料は安かったろうがそういう人たちを雇う金は出せたし、また安月給だろうがなんとか生活していた。
     今はサービスは格段に高度になったが、そのシステムに必要な人数は少なくなった。提供側は高給に、大多数は仕事がない、という状況になりつつある。

     なんとなく不思議な気がする。世の中全体がそうなってゆくと、少数の提供者と大多数の仕事のない受手になる。受手が対価を払えなくなったら、一体誰にサービスを提供することになるのだろう。

     ところで20年前、インドに行ったとき、二等の電車賃が非常に安かった。それでこう考えた:

    −インドではあらゆるものに二等料金がある。だから貧しくてもそのレベルで移動できるし生活できる。一方日本には二等料金がない。だから全体に底上げされた中で生きることになり、お金がないときつい。教育も、うちは義務教育だけでいい、では済まされない雰囲気が社会全体に漲り、あらゆる面で同様で、背伸びせざるをえない−

     最近は日本でも格安バスなど貧困層対象ビジネスも出てきている。医療も含め、受けるサービスは今後、富裕層と貧困層とではっきり分かれてくるだろう。かつてのインドのように。


    最近見た映画から−『平成ジレンマ』
    本/映画


    話せばわかる
    雑感−時事/戦争関連編


    人の増えすぎですべて説明できる
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2011.3.19

    東日本大震災関連  計画停電・買いだめ・帰宅難民・ワーストシナリオ
    雑感−東日本大震災編


    貧民テクノロジー
    雑感−歴史/地方/農業編


  • 2011.4.12

    東日本大震災関連  最低レベルの上昇・終了感・医療と限界・電気
    雑感−東日本大震災編


    雨水・自立電気システム
    雑感−歴史/地方/農業編「貧民テクノロジー」の追記部分


  • 2011.5.13

    東日本大震災関連  生活水準を落とす・外国人観光客激減・山一と東電・東電解体
    雑感−東日本大震災編


    老化は寿命を示す
    雑感−時事/戦争関連編


  • 2011.6.17

    東日本大震災関連  結局嘘だった・戦艦大和と福島原発・家庭の電力は自然エネルギーでOK
    雑感−東日本大震災編


    最近読んだ本から
    『経済人の終わり』
    P.F.ドラッカー ダイヤモンド社
    本/映画



  • 2011.7.26

    東日本大震災関連  どうするつもりなんだろ_その2・花火工場の補償・韓国の支援・電気は携帯のようになる
    雑感−東日本大震災編



  • 2011.9.9

    水害
    雑感−歴史/地方/農業編


    獣の害
    雑感−歴史/地方/農業編


    霧社事件
    雑感−中国/韓国編


    返還要求
    雑感−時事/戦争関連編


    名張
    雑感−歴史/地方/農業編


    かわずのたわごと

    ゆとり世代 先日、これが”ゆとり世代”かと感じるできごとがあった。
     集金に来た若者は、言葉遣いも丁寧で折り目正しく態度は非常に良かったのだが、4725円の請求に5030円支払うと、急に戸惑い、計算できないのかずっと考え続けている。
     こちらから「305円だ」と教えたが、思わず、1980年代に中国に旅行した際、高額+端数の出し方をすると計算できない人が多いからやめたほうがいい、と忠告されたことを思い出した。元日本兵の老人も米軍捕虜になった際、”彼らは掛け算が苦手だから”並び方を工夫して人数をごまかした話をしていたが、これからは日本人がそう言われるようになるのだろうか。

    原子炉はどうなった 福島原発の冷温停止だの事故収束状況について、一体どうなっているのか、最近、とんと聞かなくなった。ほとんど報道されない。1号機だの2号機だのがちゃんと冷却されているのか、メルトダウンだかメルトスルーしたという核燃料棒はどうなったのか。当初、放射線量が高くて実際の状況がつかめない、と言っていたが、今はつかめているのか。
     このまま報道されず、”放射線と共に生きる”社会が常態化し、うやむやに葬り去られるのだろうか。

    子供はまだかで傷ついた 先日新聞の投書欄に、子供のいない女性からの「”子供はまだか”の言葉に傷ついた」という意見が連続して何回か掲載された。
     自分は子供がいないし興味もなく人にそうした質問をしたことはないが、ある言葉で傷ついたと言う人は、別の事で他人を傷つけていないだろうかと考える。学校名、就職先、職業、夫の経済状況、ファッションセンス、病気、民族、その他もろもろのことで。
     たとえば、学歴差別を受けた、傷つくのでやめてほしい、という意見はあまり投書欄に載らない。本人の責任もある、ととられるためかもしれない。この”傷つき”は主張してよいが、この”傷つき”は取り上げない、回りも聞かない、という恣意的選別を感じる。
     おそらく戦前なら、「子供はまだかに傷ついた」とは言いにくい社会だったろう。「子無きは去れ」が正論、石女(うまずめ)であることが悪い、本人のせい、という解釈の社会だったから。
     もう一つ、何かで訴訟を起こす人が「こんな思いをするのは私一人でたくさんです」という言い方をするのをよく耳にする。この言葉もあまり好きでない。
     自分のやり場のない怒り、おさまらない気持ちを、”他の人々のために戦う”という大義名分にすり替えており、正直でない気がする。「私は傷ついた、怒っている」だけでいい。その人に自分の代わりに戦ってもらうことを頼んではいない。


  • 2011.10.7

    東日本大震災関連  無関心というが・山道整備・風評被害というが
    雑感−東日本大震災編

    かわずのたわごと

    スクランブルと領海侵犯 ロシアの軍用機が異常接近し自衛隊機がスクランブル発進しただの、中国海軍の船が日本近海をうろうろしているだの、最近きなくさい。
     日本が弱ってくればこうしたことは必ず増える。
     弱っている国が近くにあると危ない。このことは日本自身がよくわかっている。李氏朝鮮が弱ってきたとき、そこがロシアに取られロシアが進出してくるのではと疑心暗鬼になった。それが朝鮮併合の一因となった。琉球王国も同様だ。
     日本が弱ってくれば、中国とロシアが互いに不安に駆られる。相手に取られる前に取ってしまおう、と考えるようになる。


    生活保護 『新潮』の寿町ルポを読んでいたら気になる言葉があった。「近頃の若い連中はおかしい。福祉の世話になるのは最後の最後、どうしようもなくなったら、という感覚が奴らにはないんだ」と年配ホームレスやドヤの住人ら、「確かに、昔の寿の住人と今のはまかぜ入所者はまるで違う。大卒の人もかなりいるのですが、家庭環境そのものが壊れているのか、働こうという姿勢が感じられない人が実は多い」と支援センターの施設長。

     この話に、かねてから感じていることを思い出した。それは、親が生活 保護を受けていた人はその人自身も生活保護になりやすいのではないか、という疑念だ。
     知り合いに、子供時代親が生活保護を受けていた、という人が何人かいる。今現在生活保護を受けている人はいないが、感覚的にハードルが低いと感じることがよくある。ある知人は地域帝大を出て頭はいいが、少々変わった生き方をしていた。年金や老後どうするかという話になったとき
    「いざとなったら生活保護でもいいかなーと思って」と普通に言ったので驚いた。そういう考え、計算もあるかという思いとともに、生活保護に対するハードルが随分低いなと。ちなみに本人の名誉のため、今は堅気の仕事に着きもう辞める感じもないので生活保護はないだろう。

     誰もが最低限の人間らしい生活を営む権利がある、だから生活保護など各種福祉政策が供給されるのだ、と聞いたことがある。
     ただ、その「最低限の人間らしい生活」を、自分が動かなくても親が、親がだめなら国か誰かが、結局必ず保証してくれる、と漠然と当然に予想する雰囲気が確実にある。


    ベビーカー 高齢の家人が「最近優先席にベビーカー押した若い女の子が堂々と座っているけど、あれはおかしいと思う。だっこやおんぶならわかるけど」と言う。
     確かに、電車の中でベビーカーを押す若者が優先席に座るのをよく見かけるようになった。老人が立っていても当然の権利、といった感じで座っている。しかも若い男親も一緒に座ったり、若い母親の母親世代(いわゆるおばさん年代)も一緒に優先席に座っていることも多い。
     若い男やおばさんに優先席はだめだろう。そもそも優先席の”母親”はだっこやおんぶの人に対するもので、ベビーカーを押す人は手押し荷物と同じ考えになるはず。

     また、最近は混んでいてもベビーカーをたたまなくなった。もともと車内では畳むものだったのが、たたまずに乗ってもよいことになった。ただそれは空いている場合で、混んでいる時は今でもたたむことになっているはず。
     それが山の手線の夕方ラッシュでも、まずたたまない。そのまま乗ってくる。しかも出入り口に陣取って(出やすいからだろうが)人の出入りをブロックする人も多い。押された人はベビーカーを避けるし後ろの人はベビーカーが見えないからなぜ進まないか、もっと押したりもめる。ラッシュの車内でベビーカーを押しながら平気で人の靴の上を踏んでゆく人もいる。蹴飛ばしちゃおうか、と思うこともある。


  • 2011.11.8

    かわずの疑問

    タイ大洪水の疑問 タイ南部の大洪水で、日本から進出した企業の工場が水没し甚大な被害を受けている。しかし、他国から進出した企業の工場被害の話は聞こえてこない。もし韓国や欧米などからもタイに工場進出しているならば、同様に甚大な被害を受けているはず。タイの工場団地に進出しているのは日本企業だけなのだろうか、あるいは他国も進出して被害を受けているが日本のメディアでは報道されないだけだろうか。
     タイ南部はこれまでもたびたび洪水に見舞われており、十年ほど前にも被害にあったという。日本企業しか進出していないなら、事前調査が甘かったかもしれない。

    除洗の疑問 除染の際に水で流す映像をよく見かける。水で流したからと放射能が消えるわけではないから、どこかへ流れていることになる。それはどこへ?土の中か、それとも下水道を通って川から海か?
     土中や下水道、海に放射能がたまってゆくことにならないのだろうか?希釈されるから問題ないと言いそうだが、どこに移動するにせよ、確実にどこかに存在し続けるはずだ。

    債務危機の疑問 ギリシャイタリアの財政危機で世界中が大騒ぎ。日本も巨額の財政赤字を抱えている。日本の国債は海外の銀行や投資家ではなく、国内の貯金で買い支えているから大丈夫、デフォルトしない、と言われている。
     ギリシャイタリアの危機が世界で問題になっているのは、他国の銀行がこれらの国の国債を大量に購入しているからで、デフォルトされたら大損してしまう、だから支えようとしている。
     ならば、他国が国債を保有していない日本は、危機に陥っても日本国内以外誰も困らない、だから世界で問題にされず支援もない、ということになるのでは。

    遅ればせだが大量兵器未発見の責任とった? 古い話になるが、以前から疑問に感じていること。サダム・フセイン元イラク大統領が裁判の末処刑されたが、結局大量兵器は見つからなかった。ということはあの逮捕と裁判と処刑は正しかったのか?大量兵器については冤罪だったなら、その責任をどこかがきちんととったのか。


    かわずのたわごと

    アップルより98 S.ジョブス氏が亡くなり、さかんに彼とアップル社に関する報道がなされているが:
     私の記憶では、MSのWindows95が発売されるまで、日本ではNECの98(キュウハチ)シリーズが一世を風靡しており、Machintoshを使っている人などほとんどいなかった。いるとすればアメリカ留学帰りかデザイン関係など、かなり特殊な人たち(自分の回りでもそうだったし、IT企業勤務の知人らからもよくそう聞いた。当時の98シリーズのシェアは非常に高かったはず)。
     当時、マックはウィンドウやアイコンをクリックする直感的な使い方が面白いものの、不安定で”よく爆弾マークが出る””すぐ固まって動かなくなるがその理由がわからない”と言われ、だから”機嫌が悪いと固まる”という言い方をされ評判は悪かった。
     それに引き換え、NECの98シリーズはMSDOSのコマンドを打ち込むいかにもコンピュータな使い方、味も素っ気もないが安定していた。動かなくなる(固まる)ときはちゃんと理由があったから、原因がわかれば対処できた。
     近年のiPodやiPhoneはともかく、1990年代からPCを使っていた日本人にとって、本当に懐かしいのはNECの98シリーズという気がする。その後のWindowsやスマホなどの展開が劇的すぎて、もう思い出す人もあまりいないのかもしれないが。

    TPP参加 賛否両論、どの意見が正しいのか普通の人にはなかなかわからない。おそらくやってみないと本当の影響はわからない、今の時点でわかる人はほとんどいないのかもしれない。どの人が本当にわかっている人なのか、それすらもよくわからない。まるで原発を始めたときの賛否両論のようだ。
     真の意図、影響など、本当の情報はきちんと開示されない気がする。実際に始まってみて、そういうことだったのか、と初めてわかる。おそらく原発を進めた当初、戦争その他国策を進めた当初はどれもそうだったのだろう。本当の意図、情報は明かされない。隠される。
     それなのに”だまされる国民も悪い”、”そういう政権を選んだ国民が悪い”と言われてもなあ・・・
     トランプにナポレオンというゲームがあるが、(ナポレオンにとって)誰が副官で誰が裏切り者の土民軍なのか、ゲームが終了するまでわからない。あれと同じ気分だ。

     TPPについては、参加したらしたで食の安全が終了、日本国内市場が草刈場に、参加しないならアメリカを中心としたグループから高率関税かけられるなど陰に楊にいじめられる、どっちも暗い未来な気がする。

    世界の人口70億 学生時代、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」を読んだことがある。その中でアマゾンの原住民ナンビクワラ族は同時に2人までしか子供を持たない、とあった。災害に見舞われたとき、両親が連れて逃げられる最大数が二人だからだという。一種の産児制限というか計画出産をしていたわけで、古い社会にはそういう賢さがある。
     野生生物の場合、気候がよいなどで子供が多く生まれ頭数が増え過剰になった場合、必ず大量死が起こる。レミングのように集団自殺するケースもあれば、食糧の乏しい年に鹿が大量に餓死したりする。
     人間も増えすぎれば同じことが起きる。鹿などの野生動物は当然のことと受け入れ自然の流れの中生きてゆく。人類はそれを悲劇という。でもそうだろうか。単に自然の流れに沿った摂理に過ぎない。

    三菱&衆院参院のサイバー攻撃 サイバー攻撃が報道された当初、いずれも情報は漏れていないと言っていた。その後、後追い記事で実は海外のサーバに強制接続され漏れていたことがわかった、という。
     有事の際、いや、それ以前に、予告も前触れもなく突然、電気、ガス、水道、公共交通機関、役所のサービス、銀行サービス、物流管理など、オンラインシステムを使ったすべてが一斉にストップし、一体なんだなんだ、何が起こったんだ、と日本社会が大混乱に陥る日がくるのが、目に見えるようだ。
     以前から、何もかもオンラインに載せることには疑問がある。意図的にアナログのまま残す部分も必要と思うが、大震災同様、大災害を経験しないと、非効率な部分を故意に残す生き方を選択するのは難しい。


    東日本大震災関連  二重遭難・震災ボランティア・政府の嘘・震災後調査の調査でNHKの信頼が増したって?・原発動かすなら現状回復してからだ
    雑感−東日本大震災編


  • 2011.12.23

    虚業
    時事/戦争関連編


    発達障害
    時事/戦争関連編


    台湾に残る古い日本
    時事/戦争関連編


    軍隊の過酷な訓練
    雑感−時事/戦争関連編


    定住革命
    雑感−歴史/地方/農業編


    平家は女人によって今も滅びませぬ
    雑感−歴史/地方/農業編



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