あるスリランカ女性の半生
執筆日:1994/11/29公開日:2003/3/19
1988年は、反政府組織のJVPが暴れて大変だった。JVPとは、共産主義を標榜するグループで、理想はすばらしい、エリートや軍人の中にも支持する人がいる、元は悪いグループではなかった。それが若者を組織し、武力闘争に変わった1988年、あちこちで銃を手に人を殺した。
彼女の父は貧しい小作農だったため、ある地元のNG0のおかげで高校を卒業して福祉専門学校へ進むことができた。しかしそのNGOのトップが、JVPと対立関係にある政治家だったので、そのNGOもJVPの攻撃対象となった。そしてNGOが活動していた村の住民も、JVPに襲われた。
彼女の家族は死者を出さずにすんだが、友人、村人が大勢死んだ。
いま、こうしてアジア学院に再トレーニングに来ることができ、日本にいるが、夜テレビを見ているときに犬の吠え声が聞こえると、思わずボリュームをさげ灯りを消して身構えてしまう。夜、物音がすると、すぐ目がさめる。
犬はいい、犬が吠えると必ずそのあと何かが起こる。知らせてくれる。村に頭のおかしい男がいて、犬が吠えたので「うるさい」と外に出た、するとJVPが来ていてパッと懐中電灯で照らされた。男は頭がおかしいから「何だ、誰だ」と怒鳴り、撃ち殺された。
1988年は本当にひどくて、夜は眠れなかった。JVPが襲ってくるとわかると、皆家を出て、バナナ畑の木の下で、まんじりともせずに一夜を明かした。昼間、わずかだけ寝ることができた。とにかく、JVPに見つからないように、見つからないようにしていた。
その後JVPは、リーダーが軍に暗殺され、瓦解した。だからもう今は大丈夫、でも残党が再結集を図っているという話も聞く。NGOのトップは大金持ちで、一度家に招かれたこともあったが、非常に美しい家だった。それがJVPによって焼失した。
その後、今度は兄嫁が両親と一緒に住むのを嫌がるようになり、両親は兄一家に家を譲ってうちを出た、そして自分が引き取った。借家住まいで大変だったが、ローンを組み、土地を買い、現在、家を建てている最中だ。このローンはすべて自分が組み、自分で払っている。最初、銀行へ行ったとき、相手にしてもらえなかった。それで次は、できるだけ良い格好をして、英語で交渉した。すると銀行側は態度もよく、すぐにOKしてくれた。妹は「ああ姉さん、そんなのやめて」と言ったが、強気で押し通した。だから父はよく、おまえが男だったら、と言い、「My son」と呼ぶ。
彼女は9人兄弟の7番目。上二人は母親の前夫の子で、よそにいる。前夫は土地持ちだったが、小作料を集めに行って殺された。だから母は、「Don't argue about land」といつも言っている。兄は結婚し独立、長姉は嫁に行き、下の兄は職がない。次姉は今まで下の兄弟のために働いてきたため、勉強ができなかった、これからは自分のために生きる、と勉強を再開した。下の二人は学生で、一人はアルバイトを始めて、家計を助けてくれるようになった。
スリランカには、大学卒業レベル試験がある。妹がそれを受けて受かった。彼女自身も今年の4月に受けたが、だめだった。高卒後、福祉専門学校に進んだが、1988年の動乱で卒業資格が得られなかった(1年日本のアジア学院に留学したりで、ストレートより年齢的に3つほど上)。スリランカには、土日に通う形でのエクステンション大学のシステムがあり、5年がかりでそれに通った。そして最後にそのレベル試験がある。再びやり直すと、また5年かかる、もう無理だ。妹にも絶対に大学卒の資格をとるにようと言いつづけ、彼女もそのエクステンションコースに通い、今年受かった。
そのNGOのあとは、別のNGOで働きはじめた。農村啓蒙活動で、フィールドに出る仕事は楽しかったが、上司の男性と合わず、一人ですいぶん泣いた。女性自助グループが育ち、ある野菜の種を購入すると約束したが、その上司から越権行為だ、種のことは自分にまかせるべきだ、と許可が下りず、しかし女性たちを裏切るわけにもゆかず、自腹を切って購入した。結局はそこをやめ、同じ村にフィールドを持つ、別の団体に入った。面接でディプロマは持っているのか、と聞かれ、卒業していないが、こういう経験を積んできました、と言うと、ディプロマは必要ない、専門学校卒と同じ待遇で雇う、と言ってくれた。だから大学に行かなくてもいいと思う、実践できれば。
いまのところは、その村以外にも4つか5つのフィールドを持っており、旅行もしょっちゅうだ。ふだんは事務所のある町に友人と二人でアパートを借りて住んでいる。お金のこともあるが、一人住まいの女性がJVPに殺されたのも見ているので、一人は怖い。仕事は面白いが、移動に疲れる。
この語りの間、彼女は何度も
「人生、大変ねえ」と言った。
日本語学校経営苦労話
執筆日:2001/2/11公開日:2003/3/19
「日本語学校を経営したいなら、まずどのくらい需要があるかみたほうがいい。正直、バングラ(デシュ)だけでさほど需要があるとは思えない」
「大方の学校は、中国人と韓国人でやっている。韓国人はおとなしく、もぐる人も少ないが、エージェントに払う料金が高い。学費年60万として15万はとられる。中国人はその半分。でももぐる人が多い。日本人には、もぐるかもぐらないか、面接してもわからない。中国人でないと、もぐるかどうかは見ぬけない。だから信頼できるエージェントと結べるかどうかが鍵。逃げる人が出ると、入管から適正校からはずされ、ビザが下りなくなる」
「中国人はあけっぴろげで、他人のミスを笑ったりするので、欧米系とけんかになったり、おとなしいタイ人なんかだと、授業中しゃべれなくなる。騒がしくて、授業にもってゆくのも大変。出欠も、必ず毎回とらないとすぐ逃げる。でも、韓国人がいいかというと、彼らは彼らですぐ固まるところがある」
「成績が悪く、大学に進めそうにない、できの悪い子に悪の手がしのびよる。一人ぼっちのところへ優しい言葉をかけ、絡めとられる。だからそういう子には、帰国するか専門学校に志望を変えるかを薦める」
「うちは多国籍でやっており、十カ国以上から学生をとっている。学生を集めるには、とにかく広告を出すこと。しょっちゅう目に触れて、知名度をあげるしかない。しかしそれにはお金がかかる。うちはたまたま早くから始めたし、欧米系の人を数カ国から常時集められるつてがあったので多国籍でやれた。しかし今、無名のところから多国籍をめざすには広告費が張るから、国はしぼったほうがいい」
「経費は家賃と人件費がメイン。あとは広告費。日本語教師は自給1600円くらいから。でもそう上がらず、経験6年くらいでも2000円か2100円くらい。専任と講師がいるが、20代だと専任でも20万くらい。残業代は出るところと出ないところがある」
「経理は会計事務所に頼んだほうがいい。一度自分たちでやったが、徹夜が続いて非常に大変。お金払っても事務所に頼むべき」
「リクルートも大変。向こうへ出向いて集めるところも多い。中国や韓国はプロモーターを使う。でも中国のプロモーターはいろいろで、危ないところも多い」
「場所を埼玉で考えている?それじゃ学生集まらないよ。彼らは池袋や新宿、渋谷、といった外国でも知名度の高い地名を見て選んでくるんだよ。いくら土地が安いから、て埼玉で日本語学校は無理だよ」
「一度どこかの日本語学校に行って、見てみるといい。出席率0%が多いところは、教師の力不足だけではそこまでにはならない。組織的な欠陥がある」
「日本語学校は、この十年で半分に減り、淘汰された。もうからないので、金儲けで始めたところと、不法就労の温床になったところは、やめたりつぶされた」
「この一年、中国人にビザが下りるようになった。でももぐる人が多く、問題が起きているので、また引き締められるかもしれない。ただ少子化で労働力不足は確実なので、入れざるをえないだろう」
「バイトは皿洗いが多い。専門学校を卒業後、ニューオータニなんかに勤める子も出てきた。日本で就職できる人も出てきている。また、以前に比べ、部屋もけっこう自力で探してくる。大家も、やはり不況で人が入らないから、前のような外国人お断りが減ってきた。特に小さい、汚いところには人が入らなくなった」
「中国人はどこでも入る。たくましい。どんな汚いところでも入る。韓国人は大切に育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが多い。いい子たちだが、ちょっと何かあるとすぐへなっとなる。部屋も汚いと嫌がる。だから韓国人は最初は契約している寮に入れる。寮は月5万で結構高いが、まず最初の3ヶ月はそこで慣れさせ、その後移りたい人は移れるようにしている」
「学校経営は大変だが、やりがいもある。学生もかわいい。いましばらくは、がんばるつもり」
「バングラの知人と共同経営?共同経営なんて、絶対うまくゆかないよ。法人、て人格なんだよ。社長の人格。それが二つあってうまくゆくはずがないよ。まず法人とは何か、そこから考えたほうがいいね」
静岡に生きる
執筆日:2001/3/18公開日:2003/3/19
郷里は静岡県森町、川沿いに田が広がる。実家は米屋で、母はよく「お客さんは子供を誉めろ」と言っていた。台風のあとは水が出て魚が良く採れ、家のざるを持っていって隣の友達と採ってきた。母親には怒られたが、そうして採った魚は焼いて藁筒にさして干し、正月に煮て食べた。
村には秋葉神社があり、火の神様だが、二度焼けた。そこへ行く秋葉街道沿いの家々では、石ではなく木製の灯篭に灯りをともしていた。また、各家の一角には、地(ぢ)の神といって、藁屋根木造の祠が奉ってあり、時々水やおもちを備えた。壊れるとまた造って奉った。
神社は小山の上にあり、子供が男女別々の組で神社の掃除をした。山の上から誰かが
「おーい、掃除するぞお」と里へ向かって呼びかけると、皆で集まって掃除をした。家の屋根は藁葺きだが、土蔵は瓦なので、そこに登ってションベンするのが好きだった。男の子はみなそうだ。
子供はみな藁草履で、下駄は庄屋などお金のある家の子数人だけ。正月にはきれいな服を着ることはあった。暖かいので、家に囲炉裏はなかった。
関東大震災のときは、魚をざるにとっていたら、畔がゆがんで見えた。あれ、自分がおかしくなったのかな、と思った。そうしたら、魚がたくさん採れはじめ、バケツ一杯になった。どんなに誉められるだろう、と家に戻ったら、
「あの地震でどこ行ってた!」と怒られた。
おやじが駅前の駐在から「東京で地震があったらしい」と聞いてきた。当時は情報の伝わりが遅く、駐在でもそのくらいしかわからなかった。
村で新聞を取っているのは、庄屋と、相場を知るのに必要な米屋のうちなど数軒だった。
二度徴兵された。兄貴は浜松連隊が当時軍縮で豊橋連隊と合併したときに帰され、いとこと二人、さいごまでとられなかった(軍縮で日本は二つ連隊を減らした)。通信兵で、さいごにセレベスで捕虜になった。二度目のとき、横浜に本籍を移して逃れようとした。母がやいのやいの言うので、山一つ越えた、元庄屋の娘をもらってやった。昭和18年で物がなく、いとこがどこかで一本だけ酒をもらってきた。その一ヶ月後に赤紙が来た。
フィリピンへ船団を組んで行く途中、バシー海峡で米軍の攻撃を受け、16杯のうち3杯だけ撃沈されずにマニラ湾へ逃げ込んだ。マニラ湾は魚雷がたくさん設置してあり、直進で入ってきてよく無事だったと言われた。
船団は二列になっていたが、片側から攻撃され、魚雷が命中するとあっという間に沈んだ。あんなに速く船が沈むとは思わなかった。こっちは血気盛んだから騒いでいるうちに終わった。空襲も受け、銃弾が甲板にカンカン当たる音は今でも忘れられない。
終戦の半年ほど前から、インドネシアではアメリカの飛行機ばかりが飛んでいて、日本の飛行機を見なくなった。その頃から、もうだめかな、という気がした。重機が飛ぶから、147部隊へ行くようにという命令を受け飛んだが、いくら探してもその部隊がいない。あとで下士官が数字をまちがえたことがわかった。本来ならその下士官は処罰ものだが、そのままうやむやになった。でも、そのおかげで174部隊へ行かず、助かった。捕虜になったときは、明日がわからず不安で、夕焼けが心にしみた。マニラ湾の夕焼けは世界三大の一つだが、セレベスのもそれに似てきれいな夕焼けだった。ドンパチやっているほうが、夢中で楽だった。あのときは、何もすることがなく、不安だったが、割と早く、終戦の翌年に帰国できた。
名古屋港に上陸、袋井まで来てとにかく実家に戻ると、兄貴が着物を貸してくれた。くつろいでいると妻が戻ってきて、
「あらお兄さん、今日は仕事行かないの?」着物で間違えた、感激のご対面ではなかった、と笑う。物をもらって駅へ行くと、ヤミを取り締まる警官がいて、お茶はだめだ、という。しかし駅前にはヤミ屋がいっぱい出ている。なぜあれを取り締まらない、と改札にお茶をぶちまけた。掃除しろ、と警官、いやだ、あっちも取り締まらんとけしからんじゃないか、と警官相手に喧嘩をしたのは後にも先にもこのときだけ、そうしたら
「正ちゃんじゃないの」小学校の同級生が袋井の駅長になっていた。でなんとかおさまった。
その後は外国航路の船に乗り、現地で仕入れ現地で売る”外貨収入”を得ていた。1ドル360円の時代で、輸出とともに日本の大事な収入源だった。
太平洋の満天の星空は、生涯でもっとも美しいものだ。
同窓会はよくやった。いくさで死んだものも多いが、さいごの頃は男4人女24人くらいで集まっていた。数年前、皆ついに動けなくなって、やめになった。戦友会も、中隊長を中心に集まっていたが、こちらも高齢でもう集まれない。二度目の徴兵は、甲府の連隊からだったが、特に工兵など特殊なものはあちこちから来ているので、苦にならなかった。
識字教室
執筆日:1995/3/9公開日:2003/3/19
子供の頃に朝日新聞の「ひと」欄に紹介されていた、被差別部落出身で学校へ行けなかった人が、成人してから識字学校で文字を学び、文学賞を受賞した話が忘れられなかった。その人、大江さんに話をうかがいに行った。
初対面にもかかわらず、ざっくばらんでエネルギーに溢れた彼女は、
「文字を識る、てすごいことや。識っているだけで勇気がもてる。何気なく使っている人に知ってほしいわ」
文字を読めないだけでだまされることも多かった。会社を首になったとき、その紙をもらったが字を読めず、紙もろた、よかったよかったと喜んで翌日会社へ行った、そうしたら、なんで来た、と言われ、そのとき文字の読めないくやしさを感じた。映画の広告で美空ひばりの美はミ、と知ってはいたが、美しいとウツクシイがイコールでつながらず、ミシイと読んでしまったりしていた、そういう覚え方だった。
父親が早くに亡くなったこともあり、下に兄弟も多かったので、子供の頃から缶詰工場で働いたりしたが
「部落でもうちみたいな話は昭和19,20年生まれぐらいまでや。あの頃は部落に限らずどこでもみんなそうやった」。
生きるエネルギーの源は、「近所のおばちゃん達のおかげや」と何度も言う。親が病気がちだったので、近所のおばちゃん達から煮炊き、縫い物、何でも教わった。その代わり、悪いことも教わったけどな。ズルけることや。いかにズルけるか、なんて、直接教えてくれたわけではないけれど、工場なんかで
「あ、あのおばちゃん、ズルけとるなあ」とか、
「あんなことして、がめついでえ」とか、いろいろ見て学んだ。みんな、缶詰用のみかんを靴に隠したりしていた。だから学校の先生はうちのことを
「しらこい(口が達者、上手に立ち回る等の意味らしい)」と言ったけどな。
「いまの親は子供にきれいなことしか教えんな」
「いじめで自殺なんて、死ぬんやったらなんで命ほかす覚悟で相手にぶつからんの。遺書残して自殺なんて、相手にもすごい傷与えるよ。一生、辛い思いさせるんよ」
「みんな自分のことしか考えんようになったな。人のこと、考えんようになった。やっぱり生活が安定してきたからやね。それで気い抜いたんや」
「昔は入り口に七輪並べて、”醤油ない?じゃあこれ使うて”、こうや。それが今ではアパートでコンコンせにゃ入れんようになった」
うちは貧しかったけれど、人を呼び捨てにしたりすると、親がものすごく怒った、という。そういう躾はきちんとあった。
民族文化映像研究所
執筆日:1996/3/25、1998/6/19公開日:2003/3/19
民族文化映像研究所は、日本の古来から伝わる民俗文化、伝承、祭事などを1970年代から映像に残しつづけている映画製作集団である。民俗学者宮本常一の流れを組んだアチックフォーラムを開いて、作品の上映と製作に関わったスタッフや所長の姫田さんの話を聞いたり、語り合う場を提供している。
山に生きる人々、島に生きる人々、里山に生きる人々、北は北海道のアイヌ文化から本土やその周辺の島々、南は奄美、沖縄などの南西諸島に至るまで、全国を網羅する。
研究所の作品にはよく、山の木を切るとき、手を打って山に向かって祈る、年が明け初めて田に鍬を入れるとき、田の神に向かって祈る、そうした姿が出てくる。こうした古い精神のもつ、謙虚さ、黙々としたところが、いつも心をとらえ離れない。
「好事家として事例を集めるよりも、そういう日常の生活そのものの中に、ものすごいドラマがあり、何があり、こちらも生きる勇気を与えられるんだ、とそういう気持ちが強い」と姫田さんは語る。
「アイヌの語りを行う萱野さんに、それだけ話して、話をするのに困ることはないか、と尋ねたことがある。すると彼は、子供の頃から豊饒な説話を聞いて育っているんですな。だから自分がしゃべっているというよりも、そういう共通の中からしゃべっている気がする、だから話に困ることはない、と言うんだな。僕はこれを聞いて、ああなんという豊かな文化を背景に育ったのだろうと羨ましく思った。」(姫田さんの対談集「野にありて耳をすます」(はる書房)でも、黒人文学の作家が、説話を聞いて育ち、自分が小説を書いているというよりも、そういう多くの声、過去からの声も含めた、無数の背後に広がる声によって書かされている気がする、と語っていた話が出てくる。)
「あるアイヌの人が話してくれた話で面白い話がある。たとえば、イヨマンテでの熊の絶食についても、聞く人によって話す内容を変えるそうなんですな。夢を見たい人には、熊を神に送るために絶食させると言い、理屈を知りたい人には熊の肝臓をいっぱいにさせるためだと言う。胆汁の多い肝臓は高く売れるが、消化すると減るそうなんですな」
「冬、外でおしっこをしていてふと上を見上げると、雪山が夜空に光っていた。誰も見ていない、と思ったが、山が見ている、ふーっと、そのとき感じた」「山形肘折のひとたちは、秋、冬になると山が遠くへ去ってゆく、春になって緑が萌え出す頃になると山が近づくと言う。その感じは本当にある」
「若い頃から削ぎ落とすことを考えてきた。全国あちこちの民映研の映画を見るグループの人達が、さらに植林をしたりするまでになっている。負けていられないと思う。ここも苦しい状況だが、できる限りがんばりたい」
脱サラ就農した人が、昔の人の知恵はすごい、あと20年ぐらいで消えてしまう、今のうちに学んでおきたい、と言っていた。
「山人の生業」(中央公論社)の中で大林太良氏も、伝統的な生産技術、道具、習俗のほとんどが、絶滅寸前だ、したがって、その山村生活を調査して記録化し、民具の収集を急務とする、という。杣(そま)の現地を訪れたら、山林産業も近代化し、かつて杣びとのいた杣山の原風景も衰退し、幻の杣山を追うばかりであったと。
アジア学院の高見先生は、日本の農具は驚くほど種類が豊富だった、一方インドや東南アジアは鍬一丁、刀一丁で何でもやる。どちらが良し悪しではないが、日本のかつての農具は豊かだった、きめの細かさはたしかだった、という。
人が自分の位置を確認するとき、社会での地位や学校での成績、といった横軸とともに、過去からのつながり、という縦軸のつながりもあると思う。現代、この縦軸のつながりが弱っている。実際にはあるのだが、無視されている。しかし平面で位置を確認するときに座標を使うように、一本の尺度だけでは場所は定まらない。
私の背後には、過去からも含めた多くの人々がつながっている。現在の地位や評価とはまた別に、背後からそうした人々とつながっていて、今の私があるのだ。
何かが今、消え去ろうとしている。滅びへいたる門は広い。方角はわかっている。生きる力の泉はそちらにある。
ある面接
執筆日:1993/4/2公開日:2003/3/19
翻訳のトライアルに合格した男性が、アルバイトの面接に来るという。
履歴書の写真は細面のハンサムだが、目の前の男性は40代前半の太り気味のおじさんだった。九州の進学校を卒業後、超難関の国立大に入り、その後就職した大手建設会社を10年ほど前に退職した後、予備校の講師をしたり、翻訳通訳で食べていたという。
会社勤めは性に合わない、会社にとって不要なら首を切ってもらってかまわない、だらだら中途半端にいたくはないから、アメリカのようにビジネスライクにしてほしい。そう彼は語る。流れのままに生きてきた、というので、部長が
「それは何かポリシーですか?禅とか」とたずねた。
彼は、そういうものではないが、旅行でどちらの国境を超えるか迷うようなとき、必ず誰かに会う、それにまかせると国境を超えられる、と言う。本を書いている、でも出版はされない、できんでしょう、週刊文潮に私のことが世界旅行家として記事になったことがあるが、その後売り出しそこねた、でも今でも世界で何か事件があると、文潮から電話がかかってくる、などなど話した。
ここも、試験があるというから受けてみた、試験があれば受けてみたくなるから。英検一級、通訳ガイド、ケンブリッジの語学検定、仏語二級を持っている。海外生活が長い、ケンブリッジに留学していた、というので、聞くと
「旅行で長かった、ケンブリッジは資格試験用の英語学校に3ヶ月いた」
教育関係はもういやだ、ばかを相手にしていても自分のレベルが落ちるだけ、だから翻訳会社の試験を受けてみた。一つの仕事を続けていると飽きるから。
在宅の場合は仕事があった場合に連絡する形ですが、通いでチェッカーから始められる場合は時給1200円からです、というコーディネータの提示に
「低いですね、コンビニ並みですね」
「もし時給のことでご不満があるようでしたら、そちらから私宛に電話してくださって構いません」というコーディネータに、ちょっと考え、それでもいいです、私から断ることはしない、すべて流れですから、と言った。
「結果はこちらから連絡させていただきます」
と面接は終了した。
部長は、「ああいうタイプの人は、在宅のほうがいいのだろうが、本人は通い希望だから」と言った。
「通いのほうが安定はしていますからね」とコーディネータ。「でも、皆とうまくやってゆけないんじゃないかと思うんですよ」
「ほかにもっと自分に合ったところを見つけたほうが、本人にもいいんだろうな」と部長。
履歴書には長男であることを示す名が書かれ、写真は若い頃のものだった。
女性登山家の警告
執筆日:1995/4/24公開日:2003/3/19
出版社の集まりで、ある女性登山家の話をうかがった。日本の女性登山家の草分け的存在で、医師でもあるその女性は、行動派のパワーと、いかにも理系の分析力とを兼ね備えていた。
以前、彼女がテレビで「十年前に比べ山の天候が大きく変わりつつある」と話していたのを聞いたことがあり、その点について尋ねてみた。
「とにかく今までのデータが使えない。何百年雪崩れの起きないことろで雪崩れが起きたり、欧米では崩れるはずのない大きな岩が崩れ、有名な登山家が何人も亡くなったりしている。これはアルプスなどで雪が減り、岩が乾いてもろくなったためだ。日本はヒマラヤから湿った空気がくる限り大丈夫だが、最近の冬山は、これまでのデータが参考にならず、怖いので行かないことにしている」と語る。そして、
「山の天候は大きく変わってきている。そうした変化は、十年か二十年すると平野部にも現れてくるのではないか」とも言っていた。
近年はオゾン層の破壊や、その影響として皮膚ガンの増加などが言われているが、眼に対する紫外線の影響もあなどれないらしい。テレビキャスターが海や山、紫外線の強い海外などから中継する場合、中継の始まる直前までUVカットメガネをしていることが多くなった。自分も山へ行くときは必ずUVカットメガネを掛けている、そうしないと涙がとまらくなる。これから山へ行く人は必ず、UVカットメガネを持っていったほうがいいそうだ。
今後は日本の農林業の振興に力を入れたいそうで、コスタリカの先住民が持つ自然農法のノウハウ(農薬を使わず、栽培作物の組み合わせ方で病虫害を防ぐやり方)をモデルにできないか探ったり、アジアからの日本の山への観光客を増やす活動を行っている、という。この話に、通産省(当時)の人が、
「でも日本人にはアジア人に対する差別意識があるから、観光に来ても嫌な思いをして、定着しないのではないか」と言うと、
「欧米だって日本人を差別しているよ。でも日本人、行くでしょ。行きたけりゃ差別があったって行くのよ。現に雪山を見に、台湾、韓国、東南アジアから大勢来ている。来るんだから、まずその受け入れ体制を作らなきゃ。差別云々はその次よ」と豪快に言い切り、役人も
「なるほど、そうですねえ」と気圧されていた。
朝鮮学校・中華学校訪問
執筆日:1991年12月公開日:2003/3/19
神奈川県内の外国語による教育の現場を調査している知人から、今度朝鮮学校と中華学校を訪問するが、できるだけ多くの目で見たほうがよいと思うので、一緒に行かないかと声をかけられた。
朝鮮初級学校に到着すると、先生方が女性はチマチョゴリ姿、男性は背広姿で出迎えてくれる。なんとなく女は民族衣装、男は背広、というのが、日本でも着物というとすぐ女性が着るべき、とする発想に似ているようで気になり、案内してくれた校長のL氏に、
「なぜ男の先生はパジチョゴリを着ないんですか?」と聞くと
「あれは動きにくいでしょ」と言われた。
話では、民族学校に入る生徒は年々減っている、やはり将来のことを考えて日本の学校に入れたがる親が増えてきた、という。それで名簿をもとに学齢期の子供のいる家庭に、民族学校へ入れるよう声を掛けたりしているそうだ。
また、先生は、意外に思われるかもしれないが、日本の朝鮮学校が世界の中で一番、自由に民族教育を行うことができる、とも言う。欧米にもここまで質の高い朝鮮の民族教育を行っている学校はないので、アメリカからもよく視察に訪れる、もっともひどかったのは旧ソ連の朝鮮族で、スターリン体制下では民族教育自体を否定され行うことができなかった、と言っていた。
校内を案内してもらう。教室は日本とほぼ同じ、ただ各教室の黒板の右には必ず、赤地に金文字で金日成主席の言葉が横書きハングル文字で書かれたパネルがかかげられている。
ある階の廊下の一番端、日本だと音楽教室や理科教室のある位置に、やはり赤地に金文字のパネルのかかげられた閉じた扉があった。それを見ていると(実は読めても意味はわからなかったのだが)、先生が苦笑しながら
「これを見られてしまいましたね。どうぞ中を見てください。抗日戦争の記録を記した部屋なんですけど。これでよく朝鮮学校では反日教育を行っている、と言われるのですが、そういうわけでもないんです」と扉をあけてくれた。抗日運動のようすを描いた絵が、ちょうど子供たちの目の高さくらいの台に並べられていた。
知人が県の外郭団体の立場で訪問したせいか、朝鮮学校の人は非常に気を使っている印象があった。それに比べ、中華学校は、共産党系の中華学校ではあったが、あっけらかんとしていた。
授業中に訪問してもまったく構わない、と休み時間には子供たちが走り回っている中で案内してくれる。図工室に入ると、子供たちの図画工作が展示されており、中には日本名や朝鮮系の名前も見えた。
「この子たちは帰化したり、朝鮮族の人たちですか?」とたずねると
「いえ、純粋な日本人ですよ。中国語も学ばせたい、とインターナショナルスクールへ入れるような感覚で応募していくる日本人がときどきいるんです」と言う。朝鮮系の名前の子供も、在日コリアンだという。
「私達も民族系の学校へ行ったほうがいいんじゃないかと思うのですが、親御さんの考えですから」
校舎自体は、朝鮮学校のほうが鉄筋コンクリート製できれいだった(というか日本のよくある小学校とほぼ同じ)。中華学校のほうは木造で、なんとなくわさわさしている。朝鮮大学校まである朝鮮学校と異なり、中華学校は大学がない。しかし、国立だと受験資格がなかったりするが、私立だと有名なところでも受験できるところが多いので、語学を中国語で受ける子も多く、大学までの進学率は高い、と言っていた。
休み時間や始業時間の合図には、「東方紅」がチャイムで流れていた。
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