戦争体験記(インタビュー4)
    日本人インタビュー
  1. 証言1 沖縄10.10空襲
  2. 証言2 インパール
  3. 証言3 東京大空襲
  4. 中国での日本軍
  5. 証言4 戦争体験(中国)
  6. 証言5 戦争体験記2(中国)
  7. 全般的な話
  8. 証言6 海軍−トラック島大空襲
  9. 証言7 北支その他
  10. 証言8 フィリピン
  11. 証言9 ニューギニア
  12. 証言10 ビルマ
  13. 証言11 フィリピン
  14. 証言12 海軍整備兵
  15. 証言13 中支
  16. 証言14 満州→シベリア抑留
  17. 証言15 中支
  18. 証言16 海軍飛行隊
  19. 証言17 樺太在住→学徒出陣
  20. 証言18 満州、北支
  21. 証言19 北支→ニューギニア
    台湾元日本兵インタビュー
  1. 日本軍武器の再利用
  2. 証言1-10の前書き
  3. 証言1 義勇志願兵
  4. 証言2 学徒兵
  5. 証言3 軍属(看護助手)
  6. 証言4 軍夫(輜重)
  7. 証言5 軍属(熱地農業技術員)
  8. 証言6 学徒兵
  9. 証言7 軍工(高座会)
  10. 証言8 軍工(高座会)
  11. 証言9 脱走兵
  12. 証言10 軍工
  13. 証言1-10の補足
  1. 証言11-20の前書き
  2. 証言11 軍工/国府軍経験あり
  3. 証言12 軍工/国府軍経験あり
  4. 証言13 軍工(馬公)/国府軍
  5. 証言14 海軍志願兵/国府軍
  6. 証言15 海軍志願兵/国府軍
  7. 証言16 徴兵/国府軍
  8. 証言17 軍工(高座会)
  9. 証言18 海軍特別志願兵
  10. 証言19 海軍志願兵/国府軍
  11. 証言20 高砂義勇隊遺族
  12. 聞取りの注意点-軍隊を知らずして
  13. 証言21 シベリア抑留
  14. 東条英機スパイ説
  15. 証言22 アミ族志願兵
  16. 証言23 アミ族義勇隊遺族
  17. 証言24 アミ族志願兵2
  18. 証言25 ピュマ族志願兵
  19. 証言26 パイワン族義勇隊遺族
  20. 証言27 パイワン族警備隊
  21. 証言28 台東パイワン族戦前のようす
  22. 証言29 屏東パイワン族戦前のようす
  23. 証言30 戦前の台湾霧社のようす
    沖縄編
  1. 戦前の北大東島
  2. 証言31 戦前の北大東島の生活
  3. 戦前の渡名喜島
  4. 証言32 戦前の渡名喜島の生活
  5. 証言33 戦前の久高島の生活
  6. 証言34 中国大陸
インタビュー1、2
 識字学級/中華学校/朝鮮学校や教育等



戦跡

戦時中の日記

戦前/戦時中の時事評論


台湾2009


中国/韓国/北朝鮮
時事
読書感想
エッセイ
創作

過去ログ
活東庵を日付順に保存
(2007年5月以降)

台湾の元日本兵(証言1-10の前書き)

活東庵公開日:2009/5/31

取材日:2009/05

 台湾の元兵士の話を聞く機会があった。その体験談について、これから載せてゆきたい。志願による元兵士、国家総動員令での徴集による元兵士、同じく国家総動員令での徴集による学徒兵、志願による軍属、徴集による軍属、軍属も看護婦、自動車隊の運転手、日本の海軍工廠での軍工(少年工)、農務奉公団(南洋での自給自足に備えた熱地農業指導員ら)、逃亡兵など、バラエティに飛んだ立場の人々の語る体験を聞いていると、ポリフォニーのようにさまざまな角度から全体像が大きく浮かび上がり、当時の台湾のようすが立ち上がってくる。多くの人から体験談を聞く醍醐味は、このポリフォニー効果にある。

 台湾の人々は、日本人とは異なる、シビアで現実的な意見も語っており、まったく違った視点からこの戦争を見ることができる。また同じ事象でも逆から見た場合、こう見えるのかという新鮮な驚きもあり、そこが面白い。
 一例として、終戦直前に赤紙をもらい、入営前に終戦になった台湾人が「残念だと思った。若いから戦争を見てみたかった」と語る。日本人なら、戦後民主主義の洗礼を受けているので、なかなかあっけらかんとそうした本音を語ることはしない。洗脳とまではいかないが、やはり口にして丸なこと、バツなことはあるし、確信犯的な人以外はそのコードをはずさないようにふるまう。
 また
「日本人でも内地人と本島人とあった。差別はあった、それは残念だ。植民地の運命とはそういうものであると、それは覚悟している」という言葉。
「戦争はやってはいけないけれど、やってしまったものは仕方がない。
負けるか勝つか。
日本は負けた。
負けた現実を認めなければならない」という言葉。
日本人からは絶対に出てこない言葉だ。

 植民地になるとはどういうことなのか、かつて何があったのか、台湾に何をしたのか、これからどうなってゆくのか。台湾の人もそれを知ってほしい、関心を持ってほしい、と言うし、今後日本がそうした立場にならないとも限らないこの世の中、真剣に話を聞いておいたほうがよいと思う。

 ところで、今回会った台湾の人たちから、NHKの番組「JAPANデビュー第一回 アジアの”一等国”」についておかしい、と言う意見をよく聞いた(台湾は100チャンネルほどの有線放送が普及しており、NHKの衛星放送も入るため番組を見ていた人は多い)。
 たまたまNHKが取材した公園にも行って話を聞いたのだが(もとから狙って行ったわけではなく、たまたま行った結果なのだが)、公園でNHKの取材を受けた人の中には「NHKに変なふうに使われちゃって」と怒る人や、あの取材に怒っており「どう使われるかわからないから」と話をすることを拒否する人もいた。

 逆に良かった、という台湾人には一人も会わなかった。外省人がどうとっているかは、今回は会わなかったため不明。ただ、大学の先輩で外省人がおり、長年仲良くしてもらっている人だが、台湾取材で聞いた話をしても、話が微妙にかみ合わなかった。本当に台湾人がそう言ってるの?という感じで、日本人が見るとそうなってしまう、と解釈している節もあるし、下手するとそういうことを言う台湾人は売国奴な特殊な人では、という解釈をしかねない印象もあった。

 今回特に日本ビイキの台湾人たちを選んで話したわけではない。
 体験談をよく読んでもらえばわかると思うが、ほとんどの人が両方の内容を語っている。こうした記録内容から、親日的な部分だけを抽出すれば日本びいきの人ばかりという報告になり、怒っているところだけを集めればそういう報告になる。
 TVでも台北中学の同窓会でのようすが出ていたが、今回取材した人にも中学卒業者がいる。当時台湾人で中学に進めたのはごく少数のエリートで、その分、差別には余計敏感だったと思うが、TVにあったような差別や横暴な日本人との喧嘩の話の一方、戦後ビジネスで同級生のつながりに助けられた話も出てくる。
(ところで、あの公園で写っていた人はナレーションでは元兵士となっていたが、今回同じ人に何人か会えたがみな元軍属だった)

 日本びいき派で有名なS氏についても、彼は日本を誉める話しかしないと捉えている台湾通も中にはいるが、彼も決して日本のすべてが良かったとは語っていない。台湾問題に長年関わっている人の多くは、彼らのその複雑な思いをよく読みとって理解してほしいと語っており、そう願っている。

 ちなみにNHKの番組は、”中国”に関心のある日本人で、台湾側の知人ら(民進党派も右寄りも両方)にも、大陸側の知人らにも評判が良くない。台湾側についてはわかるが(口々に中共におもねった内容だ、NHKは労組が強く中共寄りだ云々)、大陸側の人にも受けが悪い。一方、中国に興味のない左翼系の知人は、「周りの左翼系の人たちには、あの番組評判いいよ」と言った。これを聞いて、ウーン、相変わらず一面的だなあ、と思ってしまった。
 あまりに台湾が親日的、と言われているため、逆照射を浴びせようとしたのかもしれない。でもあの番組から受ける印象と、実際の台湾や台湾人の話から受ける印象とはかなり異なる。差別に怒っている部分は確かにある、戦後補償についての不満も言う、でもそれがすべてでもない。
 ある台湾人は「中国人(外省人を指す)はお前たちは日本の教育を受けたからだというが、そうじゃない。あの人たちにはわからない。日本の不合理なところもちゃんと知っている」「3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。三つの祖国と三つの自分(日本人→中国人→台湾人)、さいごは台湾人としての誇りを忘れていない。」と語った。

 かつて韓国を語るとき、何を見てきたか、本当の姿を見てきたかどうか、という類のことが話題になりがちだった。知り合いの日本人どうしが韓国について語っていたときも、日本の搾取を批判する立場の人の意見に対し、穏健な立場の人が
「僕の知っている韓国の人たちは、あまりそういうことを言うとかえっていやがりますよ」
と言うと、批判的立場の人が
「私の知っている韓国人とあなたのお友達の韓国人とは質が違うから」と言った。
こうしたことは他の”政治的に問題のある国”についてもありがちで、政府が人権で批判されているある東南アジアの国に関するBBSでも、
「あなたは某国の本当の姿を見てきたのか」
「あなたこそ本当に体験した話を語っているのか、報道内容や人権派の語る内容を真に受けたバイアスをかけて見ているだけではないか」
とけなしあいになったことがあった。

 さまざまな人が体験した数だけの某国がある。それは国に対してだけではなく、会社、個人に対しても言える。キーセン旅行で知る韓国も実在する”本当の”韓国、日本の植民地時代の傷跡を回る旅で知る韓国も実在する”本当の”韓国。”おもねる”とされる意見、”糾弾型”とされる意見、どちらも実在してこの世を構成している。「上っ面しか見ていない」「主義主張のバイアスで見ている」どちらもそのとおりだ。

 まだ予告編しか見ていないのだが、6月下旬に公開されるドキュメンタリー映画「台湾人生」の予告編の中に、
「悔しさと懐かしさと。永遠に解けない数学なんです」という言葉があった。これが植民地時代を体験した台湾人の心を集約していると思う。

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台湾元日本兵の証言−10人

活東庵公開日:2009/6/22から順次

証言:1 義勇志願兵
生年:大正15年
所属師団:緬甸派遣7900部隊
兵科:歩兵
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國台北市

昭和17年
 300人の義勇志願兵を募集しており、17歳で志願(当時はまだ植民地に徴兵制度はなかった。志願兵制度のみ)、試験にパスして一週間後に召集令状が来る。育ててくれていた祖母は怒った(師範学校助教だった父は亡くなっていた)。
 シンガポールで3ヶ月の初年兵教育を受ける。このとき地元の華僑に会い、200年植民地となって初等教育を受けている地元民が10%程度であることに驚く。台湾は47年で85%が初等教育を受けていた。イギリスと全然違う、日本はありがたいと思う。

3ヶ月後、ビルマのラングーンに送られ、恩賞班に配属される。

昭和19年
 2年後、消灯前に台湾出身者が集まってワイワイ騒いでいたらK軍曹に「お前たちチャンコロ」と怒鳴られる。日本のためにがんばっているのに、と悔しかった。これがもとで衝突が起こり、内務班で大きな問題になる。リーダーだったためメイミョーに転勤させられた。内務班では日本人も台湾人も一緒だった。

 メイミョーでは警備任務、使役などでバーモへ交替で行く。イギリス軍や中国軍の襲撃、爆撃、砲撃があった。英軍は10台から15台の戦車に続いて200人のグルカ兵で攻めてくる。先頭はグルカ兵やインド兵で、イギリス兵は一番後ろにいた。武器は三八式歩兵銃。中国軍は雲南省から来た兵で言葉が通じず、北京語のようだったがよくわからない。中国兵の武器はアメリカの装備だった。当時はゲリラはなかった(オンサンは日本側、負け始めると反乱を起こして離反)。

昭和19年3月
 インパール作戦始まる。インパールでは城内に突入している。軍票もお祝いのお餅も全部用意していた。しかし突入したものの補給が続かず、すぐに追い出された。犠牲を払ったが成果はあった。みなそれを知らない。当時の人でないとわからない。
 前線視察に来た木村中将が空挺部隊に包囲され出られなくなったため、突如撤退命令を出した。

昭和19年夏
 このため撤退が開始され、自分もメイミョーからイラワジ川沿いに撤退を始める。昼間はグラマンだのの機銃掃射を受けるため、移動は夜間。夜だからどこに水があるかわからず、水を飲めないことがきつかった。聞いた話だが、歩けない病兵は薪の上で焼いてしまった。這い出してきた兵も衛生兵が戻して焼いた。

 シッタン川を越えたトングーで下痢とマラリアの熱発を発症し、モールメンの野戦病院に後送される。さらにバンコクの陸軍病院に後送されるが、泰緬鉄道で移動中、たびたび空襲を受ける。兵は逃げるが病兵は逃げられない。死んだのも多い。
 さらに一週間後、プノンペンの兵站病院に後送され治療を受ける。病院では日本兵台湾兵の差なし、下士官将校も一緒、ただし将校は高等官食堂で食事をするため食事は異なる。

昭和20年8月15日
 プノンペンで玉音放送を聴く。残念だと思った。こんなに苦労したのに降参するのは情けない。隣の患者が自殺しようと首に小刀の切っ先をつけて手で叩くが、力がない。ぽこぽこ音がするだけ。翌朝周囲を血の海にして死んでいた。飛行機で飛んで自殺したのも見た。
 木造船でメコン川を下りサイゴンに集結。ゲリラの死体がたくさん川を流れていた。ビルマの原隊に帰れないため他の部隊に編入される。佐々木中将を中心に毎週浜辺に集合して討論、「10、20年後に日本はまた立ち上がろう。忠臣蔵みたいに」という結論になった。
 連合軍の命令でロンハイ村へ先発隊として送り込まれる。ベトナムのゲリラは日本兵には親切。フランス兵はゲリラにやられるため、田舎には行かれない。それで先に送り込まれた。二週間後にフランスが来て、またゲリラ戦が起こった。
 武装解除されているため戦さはできない。兵の職業訓練として、孵化(養鶏の卵をかえす作業)に配置された。
 ときどき胡志明(ホーチミン)の兵隊が女を連れ、胡志明軍に参加してくれとやってきた。独立したら5万渡す。それにのった人もいる。胡志明が強いのは日本兵が入っているから。ハノイで駆逐艦の少将が配下の兵もろとも参加したこともある。

昭和21年5月20日 台湾に復員。義父の新聞社に入社。

その後228事件にまきこまれる。陳儀が共産軍が反乱しているとして南京の中央政府に第21師団の派遣を要請。自分もものすごい拷問を受け、銃殺寸前だったが、白崇禧国防部長が反乱ではない、台湾のリーダーを殺すな、裁判をかけていない者を殺すなと命令を出し終結。


さいごに:日本人へのメッセージ

志願したのは、国を愛する気持ちでいっぱいだった、自分の国を自分で守る気持ちでいっぱいだったから。そういう文化と時代だった。どうせ受からないだろうといたずらな気持ちもあった。当時植民地で差別されていたが、それで日本を嫌いになるのではない。平等でないから、兵隊になれば平等になると思った。

初年兵教育のとき、「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏のためにしっかりやってくれ」と言われた。前線のためにしっかり駆け回っているのに「帝国主義だ」は飲み込めない。日本のために命を出して駆け回ったのに、敵の国にさせられた。

前線にいた兵隊は大東亜共栄圏のために戦っている。自分のことで戦っているのではない。みな命が惜しい。それを捨てて戦っている。GHQの弱体化政策で軍が悪いとされているが、また本国のリーダーたちのことは知らないが、前線の兵士はみなそうだった。
自分にとっての大東亜共栄圏とは、シンガポールでの体験から、同じ黄色人種アジアで平等にやってゆけたらと考えていた。
今大東亜共栄圏は実現している。戦前の地図はみな白人の奴隷だった。この戦争のおかげで今のアジアがある。230万の命を投げ込んで戦ったかいがあった。

この戦争の責任をみんな日本に投げ込んでいる。けんか両成敗ではないが、これは不公平と思う。

しかし、戦後の日本政府の態度も納得できない。終戦直後は余裕ないから仕方ない、それはわかる。しかしその後神武景気で日本は発展した。負けたとたんに切り離されてしまった。

日本政府に一言ある。お金ではない、
「台湾の軍人軍属のみなさん、ご苦労さんでした、ありがとうございました」
この一言がほしい。天皇は恐れ多いからせめて総理大臣の誰か一人に。それが台湾日本語族の願いだ。

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証言:2  学徒兵
生年:昭和2年
出身地:新竹州
所属師団:陸軍
兵科:歩兵(警備兵)(学徒動員) 最終階級:一等兵
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國台北市

子供の頃、二二六事件、五一五事件に強い衝撃を覚えた。14、5歳だったのであまりわからなかったが、すごいことだと思った。

昭和17年
 台湾に志願兵制度ができる。

昭和18年
 関東軍の一部が南へ行く足場として台湾に来るが、バシー海峡不通で20万の兵が残留した。関東軍の兵は学校を兵舎としたため、学校は休みになる。
 経済整備令が出て雑貨屋が閉鎖され、物資が全面的に配給制となる。

昭和19年
 野菜、肉、タバコなどの食料が配給制となる。闇取引が流行、米は少なくサツマイモなど、汽車で南方へ食料の買出しに行った。日本では戦後の買出し列車が有名だが、台湾では戦時中買出し列車があった。お互い助け合う気持ちがり、無料で家に泊まらせたりしていた。
 最後の年(昭和20年)には疎開した。各自田舎の親戚をたより、特に台北の小学校などは強制的に疎開させられた。

 昭和19年頃制空権を取られ、米軍が毎日空襲に来るようになった。フィリピンから来て思うままにやられる。
 毎日定時に来るため、定期便と呼ばれた。ラジオを聞いていると、台南州に警戒警報発令、しばらくして台南州に空襲警報、台中州に警戒警報発令、またしばらくすると台中州に空襲警報、新竹州に警戒警報と上がってゆく。
 攻撃目標は鉄道、駅の倉庫や軍事施設で町の被害は少なかったが、嘉義のみ見せしめにやられて焼け野原になった。台湾に多いコンクリート製の建物ではなく、夏涼しく地震に強いということで孟宗竹を使った建物が多く、燃えやすかった。
 毎日来るが、沢山は爆撃しない。精神的な脅かしで、台北爆撃も脅かし、焼夷弾は落としていない。嘉義には見せしめで焼夷弾を落としたが。東京大空襲も怖がらせるため、戦争を続けたらとその民はこうなると。

 当時は各家庭でも防空壕を掘っていた。半地下で夜中でも入らないと処罰される。
 昭和18年以降、夜は電灯を覆うようになり、消防訓練もあった。

昭和19年末
 国家総動員令により、17歳以上の男子はみな警備召集、中学は学徒動員されることになる。

昭和20年
 新竹中学のとき警備兵として召集される。
 新竹州の山手地区の新埔で、米軍上陸と長期決戦に備えて横穴掘りに従事した。当時全島でこうした洞穴を掘っていた。今でも残っており、台北の圓山ホテル一帯にもある。宜蘭の古い飛行場には掩体壕も残っている。
 学校が兵舎となり、洞穴まで毎日通った。内務班では内地人本島人一緒、幹部(伍長以上)は日本兵。軍事教練も受けたが、銃もないから木銃を使い、形式的だった。

 台湾に上陸したら犠牲が多いということで、米軍は沖縄に行く。沖縄に上陸したら台湾には来ないとわかった。戦争の目的からみれば、とっても役に立たない。空襲はその後も相変わらず続いた。

 大人は敗戦のきざしを感じていた。子供は信じていた。太平洋戦争まで、日本は負けたことがなかったから。

昭和20年8月15日
 校庭に集められて玉音放送を聞く。残念と思ったが、日本が去り中国が来ると聞き、中国とは何かわからないから呆然となった。一方日本が敗れて去るのはうれしい。植民地だから、民主的人権的に平等に扱うのは難しい。
 数日間で荷物をまとめて帰った。
 台北ではなく地方だったため、その後も中国との接触はあまりなく、青天白日旗がはためいていただけだった。
 一年後に台北の師範大学に入学したときに、中国を痛感した。

 10月25日に国民党政府が来るまでは無政府状態だった。これ以降日本人の引き揚げが始まり、一部技術者などが台湾に残ったがそれも4,5年で帰った。引き揚時に、30キロ1000円までの持ち出し制限があるため、日本人は道端で荷物を売っていた。余った分を台湾の友達に送ったりする。日本人は正直、1000円なら1000円、不正なことはあまりしない。ゲリラ戦もなし、負けたら負けた、グルになって反抗するとかしない。

 中学生のとき日本人とよく喧嘩をした。日本人は横暴だから。喧嘩はしたが恨みはない。血気にはやった喧嘩で、中学校の同窓会は頻繁に開かれている。戦後の経済発展も、引き揚げた人が橋渡しをして、同窓の好みで代理店になったり、同窓同僚が大きな役割を果たしている。

 2、3歳上の人たちは志願兵として何万も徴集されている。社会人でも勤労奉仕として半強制的に徴集され、昭和19年末には徴兵制度も敷かれて中学生も学徒兵となり、公務員以外はみな取られた。軍属は給料が良いため、志願する人が多かった。


最終階級:一等兵



さいごに:日本のみなさんへ

戦後、日本は台湾を引き揚げたあと、台湾の30何万の兵士軍属らに一つも面倒を見なかった。敗戦で祖国の中国に戻れたからとサヨナラだった。

日本が台湾を引き上げた後、台湾の兵士たちは言葉も文字もわからない社会で、日本の手先だといじめられた。

台湾人は中国人でも日本人でもない。日本時代は中国人、光復後は日本人と言われる。戦後日本は神武景気でよくなったが、台湾は長い戒厳令でひどい目にあった。

日本との50年のつながりのためにひどい目に遭わされた。
田中首相のときに、利益のため、人情もかえりみずに台湾は切り捨てられた。
日本は50年の間に文化を残し、それを引き受けたが故にマイナスにもなった。

国民党政府はかつての敵である共産党と一緒になり、台湾を中国の一部として扱っている。
日本と利害関係の多いこの台湾を取られた暁には、日本も酷い目に遭わされる。日本はそれを知りつつ、中国に対して控えめ、台湾に対して支援もできない。

このことを日本の人たちにわかってもらいたい。
台湾は日本とも近いし、日本は文化も残した、それをわかっている台湾人も多い。
もう少し交流が強くなり、台湾のこと、台湾の過去を知ってもらいたい。あなた方のことだからと言わず、親戚、友人に関心を寄せるように切迫した情勢に関心を寄せ、もっと多くの日本人が声援を寄せてほしい。

日本が台湾を支配して50年。台湾に何をしたか、台湾の人が何を思っているか、ゆくゆくはどうなってゆくか、日本の人たちに知ってもらいたい。これは多くの台湾人の願いだ。
これは悲願になると思う。ゆくゆくは併合されるだろう。朝鮮が日本に併合されたように。そういうことが将来あっても、それを何百万の人たちが煙たがっている、おそらく1000万以上の人が嫌っている。

そのために奮闘しないといけない。日本みたいに一つの国だからとのうのうとしているわけにはいかない。次の世代は、中国に併合されるか独立するかの瀬戸際だ。日本はれっきとした一つの国だから永久に変わらないのに比べ、台湾は400年間、いくつかの国に統治されて誇りを失った。自分がどこの国の人かわからない。
自分の世代は、一つの国として生きてゆきたいと願っている。

台湾人であるという誇りを持っている。中国人とは違う。もともと原住民がいたところへ、中国南部から入った人たちと混血し、その後日本の文化を取り入れた、特別な文化がある。

自分には3つの祖国がある。戦前−日本、戦後−中国人、ここ20年−台湾人。
中国人にはなりたくない。中国人はお前日本の教育を受けたからだというが、そうじゃない。日本の不合理なところも知っている。3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。
三つの祖国と三つの自分(日本人→中国人→台湾人)、さいごは台湾人としての誇りを忘れていない。

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証言:3  軍属(看護助手)
生年:大正15年
所属師団:南支派遣軍波第8600部隊広東第一陸軍病院陸軍看護婦
兵科:軍属(看護助手)(志願)
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國台北市

昭和19年5月
 学校出たばかりの人や社会の人を求めて看護助手を募集しており、志願した。
 あこがれて志願した人と、役場からこの家は兵隊が出ていないからと勧められた人といる。全部が志願ではない。社会(社会に出て働いていた人の意)の人は志願が多い。
 敵潜水艦の魚雷攻撃により台湾海峡の運行状況が芳しくないため、高雄で約1ヶ月待機する。

昭和19年6月23日
 広東到着。
 1ヶ月の教育を受けた後、病院に派遣され、第一外科に勤務。第一外科から第六外科まであり負傷兵が多かった。宵班明け班とあり、宵班は夕方5時から夜2時までで交替勤務だった。

 敵に爆撃されるとすぐに患者が入ってくる。そうでないときは内科の患者ばかり。前線から来る人は大変、そういう人はかわいそう、手も足もない。止血で手が真っ黒になった台湾の軍夫が運びこまれたことがあった。この手切るよと言うと泣いたが、切って元気になり台湾に帰ってきた。戦後ときどき会った。

 広東についてから、夜になると毎日空襲があった。地下壕に隠れ、うとうとと眠ってしまう。台湾を出た頃は、台湾ではまだ空襲はなかった。

その後西村分院に移動、さらに田舎の広東省清遠県源潭墟の患者療養所に派遣される。

昭和20年8月15日
 源潭墟患者療養所で、兵隊や患者がみな集められ、部隊長が出てきて終戦したという。敗残兵かと自分で言っていた。がっかりした。一生懸命働いたのに。
 部隊の人たちはみなやけになってお酒を飲んでいた。

 中国政府に、台湾人はこれから中国人になると日本人とは別に集結させられた。
 日本兵は捕虜として道路掃除をさせられていた。中国人は何もしない。いじめるようなことはない。日本兵も自覚して集まっていた。

昭和21年6月
 東山から引き揚げ、船で平安に復員。船がないため時間がかかった。

さいごに
日本政府に、台湾の軍属にも恩給や慰問などを支給してほしいと要求したが相手にされなかった。日本人と同じ待遇はされていない。終戦後60余年、無念で死んだ人が沢山いる。日本のために兵隊軍属になったのに悔しい。

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証言:4 軍夫(輜重)
生年:大正13年
出身地:台北市
所属師団:海南島自動車部隊、陵水工事事務所
兵科:海軍軍夫(徴集)
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國台北市

 14歳で公学校卒業

昭和18年
 運転免許をとり、台北市役所でバスの運転手をしていた。
 市役所で4〜5人一緒に海軍の軍夫として徴集される。

昭和18年12月28日
 海南島楡林に上陸。
 海南島に上陸したとき恩賜のたばこをもらった
 自動車部隊に配属され、陵水工事事務所で物資(食料)の輸送任務にあたる。
 日産は力があり山を登るなら日産がよい。トヨタは力がなくてだめ。

 米軍の空襲があったが、高射砲を当てていた。
 海南島には赤軍根拠地があった。討伐の先遣隊は台湾人ばかりが行った。
 海南島では物資は足りていた。食料は飛行場に運ばれてきた。米は不足していたが、山奥に隠してありそれを取りに行った。支那人には(食料を)あげない。その他地元民から徴発も行った。代価は払わない。相手は抵抗するが、兵は銃を持っている。抵抗してはいけない。

 一緒に行った4,5人のうち、一人がマラリアで亡くなった。
 海南島では言葉は通じなかった。

 慰安所があった。香港、汕頭(スワトー)、上海の女がいた。朝鮮人はいない。商売でやっている。強制ではない。
 
昭和20年8月15日
 玉音放送を聴く。日本が負けるとは思っていなかった。最後の一人までと思っていた。負けたときはがっかりした。
 集結して自給自足生活。3ヵ月後にはりま丸に乗船し、香港で給油して高雄に復員、汽車で台北の萬華に戻る。
 香港から高雄までで8人くらい亡くなった。はりま丸で帰台できなかった人たちは大変だった。

民国39年
その後国民党に入らないとだめだから情報省に入り、陸軍准尉になる。国民党はごまかすからやめた。


さいごに:
 普通の家庭に育った。軍隊にいたときは良かった。

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証言:5 軍属(熱地農業技術員)
生年:大正14年
出身地:台中州彰化県
所属師団:横須賀海軍総本部南太平洋第八艦隊所属ラバウル海軍基地
兵科:海軍軍属(志願)
取材日:2009年5月、7月
取材場所:中華民國台北市

証言:

当時日本は台湾各州に農業試験場を設け、将来南方進出時に役立つ準備をしていた。
戦局は日々に悪化、軍属として皆志願した

昭和18年 彰化青年学校卒業後、熱地農業技術員鍛錬所に入所(二期生)
 南洋進出目的で台湾青少年を海軍軍属として養成する施設で、志願。強制ではなく自発的、戦況が切迫し愛国心のもとに参加した。家族は賛成した。

昭和18年5月
 台中州農業試験場に配属される。ここでは、農場で野菜、稲、芋を作っていた。台中65号はとても有名な稲で、1株10本1本に100粒つく。そうした粒数調査も行った。

昭和18年7月上旬
 高雄からリオン丸輸送船でマニラ、セブ、パラオを経て、一ヶ月かけてニューブリテン島のラバウルに到着。敵の潜水艦が多いため輸送船で行く。
 着いてすぐに、兵も軍属も防空壕を掘った。防空壕はとても堅固

 その後第一線で食料確保に励む。17万人分の食料は持ってこられず、輸送もままならないため、また長期戦に備えて自給する必要がある。そこで熱地農業技術員の自分たちががんばった。5000人の生産隊がラバウル各地でジャングルを伐採して農場を切り拓いた。

 ラバウルの農場では陸稲、芋(サツマイモ、サトイモ、品種多い)、とうもろこし、かぼちゃ、ささげその他豆類を栽培し沢山とれた。
 種はみな台湾から持ってきた。
 除草が一番大切。南洋は大変。ジャングルの葉っぱがいい肥料になった。土は良い。おおむね芋ばかりで害虫にやられなかった。稲は害虫にやられた。葉物は白菜。毎日虫取り。農作物の成長もとても速い
 無理すると病気になるから、暑いときは働かない。各農場に軍医が派遣されていた。小隊長、分隊長など幹部は日本人。
 農場は100mX100m区画。
 収穫はみなで行いトラックで輸送。空襲を避け夜出荷した。ガソリンはまだあった。
 味噌、サイダーも製造していた。味噌は日本人にとって大事。防空壕で作っていた。

 食料配分で内地人(日本人)本島人(台湾人)の差はなかった。
 空襲はあった。農場で機銃掃射を受ける。
 敵の上陸はなかった。

 マラリアに罹り、ラバウル本部に後送された。直ったあと防空壕で味噌を作った。
 
 ラバウルにいたとき、山本五十六が亡くなったが、当時は秘密だった。あとでわかった。


昭和20年8月15日
 玉音放送をラバウルで聴く。台湾人はどうなるかと思った。日本人は泣いていた。戦死した軍属は二人いる。大和魂だから犬死とは思わない。また台湾に戻ったあと日本へ行き結婚した人もいる。

終戦後
 豪州軍が上陸してきて、台湾出身者はココボに集結、帰国船を待つ。
 豪州兵は穏やか、あまり関係ない。
 台湾人は捕虜にならなかったが、武装解除はされた。
 印象に残ったのは使役。戦時中米国のパイロットが落ちて捕虜になったことがあったが、みな銃殺してしまった。その遺骨を掘りに行った。30人掘り出された。アメリカ人なので骨が長かった。日本人は捕虜に対して同情しない。

昭和21年3月
 日本の輸送船で基隆に復員


さいごに1:
 蒋介石が補償はいらないと言った。しかし大陸だけかばい、台湾人のことはかばわない。台湾人はそれを恨んでいる。
 日本政府は台湾のことをフォローしてくれない。中国人の台湾人差別が激しい。それを日本人はわからない。外省人は独裁政治だ。

さいごに2:
今の国民党の政治は腐敗している。豪邸を建てて台湾のお金を浪費している。
国家を失った台湾人。日本は貴重な施設を残したのに国民党が破壊した。


★補足:(取材後に送られた手記より)
当時日本は台湾を五州(台北、新竹、台中、台南、高雄)三廰(花蓮、台東、澎湖)に分けて施政しており、各州廰八箇所に農業試験場があった。昭和18年より、この試験場に熱地農業技術員鍛錬所を設け、台湾青少年の南洋進出目的での養成を開始した。
18年3月一期生、5月二期生、7月三期生、各期400人を各農業試験場に分配(各場50人)、総計1200人が受訓した。
一期生は18年6月上旬、二期生7月上旬、三期生8月中旬に高雄港より出港。

ラバウル上陸後翌日から農工作所に向かい、艦隊勤務精神でジャングル開墾に勤める。
毎朝5時総員起し、朝会で宮城を敬礼し軍歌を歌う。
1時間半課業後朝食、半時間休憩後課業、12時昼食、1時から5時まで課業。その後は自由行動、5時半から6時に夕食をとる。8時就寝。
課業は農墾隊、工作隊、壕堀隊、医務、炊事などに分かれていた。

日本海軍は三次のソロモン海戦で戦艦が全滅、生き残った兵士がラバウルに上陸したため、自分たち生産隊は1日も早く自給自足を達成できるよう全力で食料生産に努力した。

ニューブリテン島の東にケラバット農場、トベラ農場、ランバータ農場、ラバンド農場を建設、ニューアイルランド島にも牧場と農場(カビエン農場)を建設し、各農場に約100名の隊員が配置され食料確保に努めた。

ラバウル本部では高い山の麓に25メートルおきに防空壕を多数建設。通路をめぐらし、敵機が来るとみな壕に入る。壕内部の空気の流通はよく、涼しい。500K爆弾にも耐える。
味噌の製造は直径3m、高さ3m半の桶を4,5個使って作った。

昭和18年末に制空権制海権ともに失い、毎日空襲を受ける。飛行場も港も破壊され、ラバウルは焼け野原、農場でもグラマンの機関銃攻撃を受ける。

昭和20年8月14,15日
 終戦の詔と無条件降伏が発表され、戦友達はみな打撃を受け失望した。

昭和21年3月初め
 ココボ集団地で1ヶ月過ごした後、日本の船で基隆に到着、翌朝の汽車で故郷に戻った。同時に日本籍を失い、途方に暮れた。

一番記憶に残るのは、ラバウルの空中戦を親目で見たこと。壮烈で一生忘れられない。

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証言:6  学徒兵
生年:昭和3年
出身地:台北市
所属師団:陸軍第三中隊
兵科:学徒兵(召集)
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國台北市

 当時内地人の子供は小学校、本島人の子供は公学校に通う教育システムだった。
 自分は台湾の学習院と呼ばれる第一師範付属の公学校に通っていた。医者や金持ちの息子が多く、公学校と小学校の両方の教科書を学んだ。
 当時の台湾人のエリートコースは1.旧制の台湾高等学校、2.第二師範(府立で官費で勉強できる。月給も出る。先生になるしかない。地方の優秀な子が多い)、3.中学/女学校(州立。師範に受かると受けてはいけない−府立で格が上なため)

昭和16年
 台北第二師範学校に入学。台北第一師範学校は内地生のみ、第二師範学校は内地生30人、本島人10人の構成。のち両校が合併して台北師範学校となる。予科は5年だったが終戦ごろ4年に短縮される。
 当時、改姓名して田口と名乗っていた。みな自発的で半分くらい改姓名していた。朝鮮は村人がみな金や李で日本にとって都合が悪いので半強制的だったが、台湾では強制的ではない。

 戦況は次第に悪化、完成寸前の台湾神社に南方から来た軍用機が墜落、流言蜚語を流したら大変なのでおおっぴらには言えなかったが、日本は厳しくなるのではとの悪い予感にみなピリピリした。この軍用機には宝石など財宝が積まれていたため、信頼できる師範女子部が回収したとのうわさもあった。

昭和20年3月
 本科1年(16歳)のとき、学校全体に赤紙が来て学徒兵として召集される。学校がそのまま兵営となり、現役兵が大勢やって来て軍事教練を受ける。
 教育召集を受けた先生は伍長になったが、受けなかった先生は二等兵で一緒だった。のち民俗学大家となる国分直一もその一人。そのほか、台北師範学校教師にはのちの沖縄県知事となる屋良朝苗もおり、みな同じ第三中隊に入る。

昭和20年5月頃
 第三中隊は、羅東から山に入ったタイヤル族の蕃社ロンピヤへ移動。若者は義勇隊でおらず、老人と女子供しかいなかった。
 機関銃陣地を作ったりタコツボを掘ったりして米軍の上陸に備える。内地人本島人も先生も生徒もみな一緒に行った。米軍は沖縄に来るか台湾に来るかわからない、台湾の東海岸に来るかもしれないと言われていた。沖縄上陸のことは知らされていなかった。

 食料はひどかった。飯盒におかゆ、島ホロギクをとっておかずにした。

 空襲にはあっていない。ロンピヤに移動後、台北では空襲があったらしい。蒋介石が台湾に来るつもりだったため、台湾を壊さないよう米軍に頼んでいたと思う。

 原爆についてはデマ伝聞で町全体が全滅するマッチ箱爆弾が落ちたと聞いた。

 幹部候補生の日本人現役兵から「近々片がつくみたいだ」と聞いたことがある。

昭和20年終戦直前
 蕃社毒虫にやられ、栄養不足と衛生状態が悪いため化膿、骨までやられて三清陸軍病院に入院する。あちこちの中学の学徒兵がマラリアや毒虫にやられて入院していた。

昭和20年8月16日か17日
 学徒兵の伝令が来て「大変なニュースを聞いた」「日本が負けたらしいよ」と敗戦を伝える。戦陣訓で洗脳されていたため、「まさか」と思った。どうなるかわからず不安だった。

昭和20年8月20日頃
 陸軍病院も解散となり、薬をやるから原隊に戻れと言われる。数日して森林鉄道で羅東に戻り、列車で台北師範に夜遅く帰り着く。三八銃や背嚢飯盒を校庭に集め、校長先生が「いずれ大陸から陳儀という行政長官が来る。自分は恥をしのんでここに立っている」と訓示を垂れた。

昭和20年9月頃
 10日ほど休みとなったあと、学校再開。教育実習もやっていた。10月25日に国民党が来るまで1日1日と状況が変わり無政府状態だった。

昭和20年10月25日
 光復節

 国民党側の外省人の師範の先生が学校に来た。一部農業などの先生は日本人でも残った。国分直一も台大に引き抜かれて残ったはず。
 
 内地の同級生は中山北路に筵を敷いて臨時の露天商をやっていた。持ち出し制限があり、現金1000円まで手荷物20キロまでしか持ってゆけないため、それ以外は売っていた。泥棒や暴力はあったらしい。

昭和21年3月
 本科3年のはずが1年だけで繰り上げ卒業となる。

 この頃までに、日本人は静かに引き揚げて言った。
 日本人が引き揚げ生徒も先生もがらあきとなったため、台師では臨時の入学試験をして生徒をかき集め、また自分は国民小学校の先生となる。


その後音楽大学に留学、大学院を卒業し、コンサート活動のかたわら音楽大学の教授を勤め、各種審査員を兼任


後記:
 NHKの報道は偏向取材だ、新潮の記事のほうが正しいと言っていた。『諸君』、上坂冬子、国書刊行会鈴木満男著の『日本人は台湾で何をしたのか』を推薦。

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証言:7  高座会メンバー
生年:昭和5年
出身地:台南州
所属:神奈川県高座郡大和村上草柳の高座海軍工廠
兵科:海軍軍工(志願)
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國嘉義市

昭和18年
 公学校卒業後、高等学校卒業資格がもらえること、および給料がもらえるため、海軍工員に志願して選抜試験を受け4期生として合格。当時13歳。

 基隆から船で3日かけて神戸に到着。その後鉄道で神奈川県高座郡大和村上草柳の高座海軍工廠に入廠。寮での団体生活、畳の部屋に1室10名、1寮に20室、寮長は台湾人。半工半読の毎日で学科は英語、国語、物理、化学など。4期生まで勉強できた。当時は食料はあった。着いた当初1ヶ月、みな毎晩ホームシックで泣いていた。

 海軍はとても厳しい。海軍制裁、バッター制裁、甲板掃除、対抗ビンタ、みなやった。軍律によるもので理由なくいじめられることはない。

 日曜は休みで鎌倉、熱海、東京、八王子、町田、池袋などにみなで遊びに行き楽しかった。

 見習実習後、名古屋三菱航空機製作所に派遣される。軍属の身分で民間工場に出張扱い、1日2円で待遇は良かった。

 機械工として飛行機(雷電機)を製造する。雷電機は日本で一番強い。ゼロを改良したものでゼロより強い。B29より強い。1万メートル上空までゆく。1年で5000台作る予定だったが実際には120機しか作れなかった。10代で飛行機を作れたことを今でも不思議に思っている。先生や工場の指導員、幹部は日本人は少なく技術中尉と技術少尉のみ、台湾人がほとんど。第4中隊小隊長も台湾人、雷電機は台湾人が作った。

 5時に起床ラッパが鳴り、5分で洗面、5時半朝会、6時朝食(食券で食堂で食べる)、昼食と昼休みをはさんで午前午後と工場で実習、5時に終了、夕食。夜は2時間ほど自習(四書五経など)して10時消灯、日曜は休み。最初の1年は正常だった。

昭和19年
 1年後、飛行機が足りず残業が多くなる。空襲が激しくなり、昼食の握り飯を持って地下工場で作業するようになる。残業で1週間眠れないこともあった。材料はあった。空襲で仲間(台湾からの軍工)が60名亡くなった。靖国に入っている。
 日本人も男は海外に出ていて子供と女だけ。日本人だってつらい。
 食料は足りないが日本人にもない。

昭和20年8月15日
 大和の海軍工廠の広間で玉音放送を聴く。緑の島へ帰れると思う。早く帰りたかった。
 終戦後すぐ中国人となり、高座に自治会を作って入る。中国政府(外交部)が来て接収する。

昭和21年1月
 横浜から引揚船(日本船)で復員。台湾は混乱していた。200人ほど日本に残った。一部中国へ行ったのもいる。
 1000円以上は持ち帰れなかったため、横浜に残してあった。それを最近申請して受け取った。日本人の偉いところはそのまま残していること。占有しない。

 戦後高座会を作る。
 高座海軍工廠の工員は7期生まであり全部で8419名。1943年に4期と5期、1944年6期、2期生は現地の日本人だが日本人は少ない。女子挺身隊(日本人)もおり、工場の支援をしていた。自分たちにとってお姉さんだった。彼女たちは毎年台湾に来ている。挺身隊と結婚した人も、さらに台湾に連れて帰った人もいる。

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証言:8  高座会メンバー
生年:昭和5年
出身地:台南州鹿草庄
所属:神奈川県高座郡大和村上草柳の高座海軍工廠
兵科:海軍軍工
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國嘉義市

昭和19年
 国民学校卒業(昭和16年国民学校令により小学校は第一国民学校、公学校は第二国民学校となった)。
 台湾総督命令で海軍の学生を募集していた。試験は難しく50人中3名が合格、6期生となる。大変な誉れ。

昭和19年4月1日
 朝5時出発、母は泣いている。庄長、先生、先輩後輩ら大勢に万歳万歳と見送られる。
 鹿草から嘉義駅に集合、ここでも歓呼の声の中100名が専用列車に乗って岡山の海軍基地へ行き、基礎訓練を受ける。

昭和19年4月29日
 天長節の日に基隆から船で8日かけて神戸港上陸、鉄道で高座海軍工廠へ行き入廠。半工半読の毎日、午前中勉強、午後仕事。夜は甲板掃除や洗濯。
 
 見習実習後、名古屋三菱航空機製作所に派遣される

 胴体工場に配属され、胴体組立作業を行う。1日30機製造目標。
 食料は欠乏していた。けちんぼだった。
 外出日は楽しかった。

 だんだん戦争も激しくなり、勉強できない。毎日防空壕に入る

昭和19年12月7日
 大地震に襲われる。

昭和19年12月18日
 B29の空襲に襲われる。一緒に逃げた学徒挺身隊(日本人)が目の前で亡くなる。おなかをやられたり酷かった。この空襲により工場で500余人亡くなり、台湾の少年工も32名が亡くなった。

昭和20年1月下旬
 1月5日再び空襲で工場が破壊されたため兵庫県川西航空機製作所、姫路工場、横須賀海軍工廠と移る

昭和20年8月15日
 終戦。中国人になったときは嬉しかった。一緒だった女学生は全員泣いていた。
 日本の幹部は「日本は反攻するよ。軍はまだ負けていない」と言う。仕方なく一週間ぐらい働いた。反抗できない。

昭和21年春
 浦賀から米山丸で基隆港に入港。中国軍司令官が来ていろいろ言うが、支那兵はみっともない。行儀が悪い、だらしない、迎えに来た人を殴っている。自分たちは船を降りてからも団体で行動したが、彼らにはその行儀がわからない。
 
 日本で教育を受けられて良かったと思う。日本へ戻った、逃げて帰った人もいる。

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証言:9  脱走兵出身地:台南州
所属師団:台湾第六部隊工兵隊→海軍
兵科:陸軍工兵→海軍(徴兵)
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國嘉義市

嘉義高工(初級中学)電気科卒業。戦時中のため初級中学5年のところが4年に短縮、本科も3年が2年に短縮された。勉強はあまりできず、退避壕づくりばかりやっていた。
就職先は卒業間際に決まっており、四日市の海軍燃料廠、岡山(台湾)の岡山航空分廠、高座(厚木)の航空工廠が多い。

台湾綿花に就職。嘉義飛行場の臨時徴役でグライダーを引っ張ったりしたことがある。
予備召集で、6ヶ月の予備訓練を受ける。

昭和19年11月
 徴兵で台湾第六部隊工兵隊に入隊。それまで志願兵制度はあったが、自分は工兵隊の第一回の徴兵部隊となる。台湾第六部隊工兵隊の司令部は小港飛行場にあった。

 海軍がほしいと言ったため、部隊は小港から屏東の萬丹に移動。
 日本は”兵源が足りない”、1小隊4、50人に日本人は1,2人、小隊長は日本人。食事は少なく鉄拳制裁もあり、あまりいい生活でない。
 新兵ながら中隊長(大佐)の当番兵となる。このため、いろいろ情報を得ることができた。日本軍の上の人たちには全然戦闘意識がなかった。戦ってもだめだと思っている。
 当番兵の仕事はお茶出し、食事運び、奥さんと同じ。炊事に食事を取りに行くときは、中隊長の当番兵だから、こっちも威張ったもんだ。

 台湾沖航空戦のあったとき、悲観的な気分があった。将校すら一目おく万年上等兵が「だめだよ、戦争やったって武器がなくちゃしょうがないじゃないか」と言っている。みな悲観的だった。台湾沖航空戦では台湾は激烈に抵抗した。このため米軍は沖縄を襲った。真ん中からちょん切る作戦。
 
 フィリピンから来た飛行機が台東の大武山の間を抜けて、屏東高雄台南を爆撃する。最初はこっちも戦闘機があがるが落ちてしまう。落下傘で落ちる兵をグラマンが掃射するから目も当てられない。残酷じゃない。戦争は食うか食われるか。日本軍が人を殺したというが残酷じゃない。戦争とはそういうもの。

昭和20年4月3日
 嘉義は空襲で焼け野原となる。それまでは機銃掃射のみで2、30分で去ったが、この日は焼夷弾を落とした。軍用列車が爆発し、どんどん燃え広がった。嘉義は阿里山の檜で有名、製材工場も多く、檜作りの家も多く、世界で一番高級な家の町だった。すべて焼き払われて焼け野原、城隍廟だけが見えた。お金を持っていた嘉義を貧困のどん底に陥れ、このため嘉義の近代化が遅れた。人々は防空壕に逃げたため、死者は出なかった。

昭和20年6月17日
 中隊長付きとなって得た情報と、台湾の部隊の戦闘意識の低さを見て、逃亡する。
 逃亡兵は多い。だいたい20%は逃げている。台湾で召集された兵隊は、日本人の厳格さに耐えられない(日本人は軍人勅諭で頭がそうなっているが)、また台湾兵は”品質が悪い”=言葉がわからない(日本語知らない人も多い)→聞いてもわからない→命令どおりに行動できない。

 結果においては、逃げたのは悪かった。当時は食料も不足、服も不足、人情味のある台湾とはいえせちがらい時代は身寄りがなければ大変。逃亡するとき、二人の同期兵と一緒に逃げた。一人はすぐつかまったが、重営倉に入ったものの軍法会議にならず処罰なしで退役した。もう一人は逃げ切った。逃げなければ退職金ももらえた、苦労も余計だった。

 自宅に帰ると捕まるので、帰りたくても帰れない。あちこちさまよう。兄貴の家に行くと捕まりそうになり、マンホールを伝って逃げる。車がサーチライトで探しており、山の中へ逃げる。ある日、落花生が200元もすると言われ、邪魔かけてはと立ち去る。日本人の牧場主の家に15日間隠れるが、配給券(1日1合1勺)がないと食べ物が足りないと言われる。カトリック教会に行ったときは密告された。朴子で派出所の取り締まりをやっている別の兄のところで追跡を免れた。
 
昭和20年8月15日
 朴子で敗戦を知る。終戦のニュースは知れ渡っていた。

昭和20年8月27日か28日
 汽車に乗り竹囲で降りたとき、「これだこれだ、兵隊から逃亡して捕まえそこなったのこいつだ」と憲兵が言う。しかし、もう任務もないため何もされなかった。

中国政府に接収された綿花会社に復帰。仲の悪い同僚が「逃亡兵だ」と言ったが「俺は逃亡兵じゃない、何の証拠があるのか」と答えたら黙った。

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証言:10  軍工
生年:大正14年
出身地:台南州嘉義
所属:四日市燃料廠
兵科:海軍軍工
取材日:2009年5月
取材場所:中華民國嘉義市


嘉義工業学校機械科卒業。成績がよく、学校が選抜して海軍の四日市燃料廠へ行くことが決まる。

昭和17年4月
 卒業と同時に、全国の工業学校卒業生24名(台北工業、台中工業、嘉義工業)とともに基隆から輸送船で4日かけて神戸へ、東海道線の名古屋経由で四日市へ行き、海軍燃料廠に入廠。
 高雄に燃料廠ができる予定で、その実習のため日本へ行った。日本へ行くときに期間は言われていない。軍部がこうと言えばこう、発言権はなく従うしかない。

 寮生活で日本人と台湾人は一緒(台湾人は少なかった)。午前中勉強、午後仕事の半工半読生活。日本も食糧不足で食べ物が足りず、バナナや芋の皮まで食べた。ホームシックよりもお腹がすいていた。

 原油から軽油、重油、ガソリンを精製する、加熱分析蒸留の従事をしていた。
 月給制で月70円、日本の小学校出の工員よりもずっと良かった。

 日本人とはよく喧嘩をした。虐待されたことはない。若いときの喧嘩は血気さかんなため、後腐れない。みな仲良し、戦後集まっている。少なかったが韓国人もいて喧嘩をした。
 四日市のときは空襲はなかった。

昭和19年
 2年後台湾に戻り、高雄の燃料廠に移動。工場長は日本人。
 高雄では空襲を受ける。
 アメリカの飛行機が来ても、日本には止める力がない。これは苦しいなあと思った。
 私は逃げない、どこまでも政府の命令に従ってやれるところまでやろうと思った。

昭和20年8月初め
 赤紙をもらう。8月20日が入営日だった。終戦で入営できず、残念だと思った。若いから戦争を見てみたかった。
 
昭和20年8月15日
 ラジオを玉音放送を聴く。残念無念、苦労してきたのにアメリカのヤンキーに負けるとは。
 中国政府が燃料廠を接収したため、公務員となる(中国石油)。工場長は台湾人になり、自分は工場長補佐。
 日本人が帰るときは別れが惜しかった。親しかった人も多い。特に悪い人たちじゃない。一文なしで帰ってどうするか、彼らの生活はどうなるか考える。
 その後中国石油を辞め、商売を起こして成功。



大正14年生まれだから日本生まれだ、なぜ日本へ行くのにパスポートがいるのか。日本も土地が狭いからやむをえないが・・・

戦後、先生を日本に訪ねたし四日市へも行った。3年前までは同窓会もやっていた。あの頃の先生は厳しかったが思いやりがあった。今の若い人は生徒が先生を殴る、台湾も日本も教育の失敗だ。

天皇陛下は自由主義、いい人だ。戦争をやるつもりはなかった。日本が戦争に突入したのは軍部の責任。

日本は無理な戦争をした。満州まではよかった。国力、人力から見て無理だ。日本の軍部は無理をした。いい悪いでなく、あまりに欲張りすぎた。

日本人でも内地人と本島人とあった。差別はあった、それは残念だ。植民地の運命とはそういうものであると、それは覚悟している。
私は世の中を見る目が人と違っている。水の流れに沿って生きてゆく。逆らってはだめ。

戦争はやってはいけないけれど、やってしまったものは仕方がない。
負けるか勝つか。
日本は負けた。
負けた現実を認めなければならない。

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台湾元日本兵の証言(証言1-10の補足)

活東庵公開日:2009/6/22から順次

★補足1(A氏証言)

学校は内地人(日本人)が行く小学校、本島人(台湾人)が行く公学校と分か
れ、日本に協力的な人の子供は小学校に入ることができた。

日本統治時代、1つの州(五州あった)に中学はひとつだけ。主に日本人の生
徒がゆき本島人は数%。私立は少なく、豊かな人は日本に留学した。
台北のみ、第一中学(内地人)、第二中学(本島人)、第三中学(本島人+成
績の悪い内地人)と第一高女(内地人+5%の本島人)、第二高女(内地人)、
第三高女(本島人+成績の悪い内地人)とあった。
中学校進学は、頭が良くて経済的に豊かでないと進めない。

日本人は湾高(今の師範大学)から内地の大学、湾高に受からなければ内地に
戻って受験した。

台北帝大は農業中心、南進政策の拠点で台湾人は少なかった。

1920〜30年代、台湾の金持ちは日本へ留学させ、彼らが戻ってきて人権運動、
反日運動、デモクラシーをやった。住民自覚運動が起こり、平等を叫んでいた。
その思いは満たすことができなかったが、願いの種となった。


戦後、日本の残した功績に触れてはいけない雰囲気がある。神社も片端から壊
した。ただ、ここ20年は逆に、国民党政府も残している。台南の烏山頭ダム
の八田與一氏は特別。
後藤新平も同様、強烈な優越感があった。鯛は鯛、平目は平目、台湾人は初等
教育のみでよいとした。だから銅像が建つことはない。ただ基礎を築いたこと
は事実。日本時代、戸籍、地籍を明確にした。台湾統治の基礎を築いた。一方、
反日は容赦なくつぶした。

日本植民地時代50年のうち、はじめの20年は不安定だった。あとの30年
は平和。中国政府後はだめ。

言いか悪いかは別にして、明治時代に日本は種をまいた。日本の影響は大きい。
中国の影響はない。マイナスのほうが大きい。

教育勅語の内容は孔子孟子の言っていることと同じ。

日本人の先生の3分の2はよい先生、3分の1は悪い先生。1945年に日本人の
先生が引き揚げ、20年後に台湾の生徒たちが先生を迎えた。切符を買ってあ
げあちこち旅行させてあげた。先生に殴られた子もいる。今では人権蹂躙だが、
当時は殴られたからこそ心構えが変わり、出世したと捉えた。

中国人は日本人を迎えて大騒ぎするとは奴隷根性だというが、台湾人のそうし
た気持ちをあの人たちはわからない。

悪い先生とは自習ばかりで教えてくれない不真面目な先生のこと。まじめな先
生のほうが多かった。日本の先生は学業成績よりも人としての教育を重視した。
たとえば、嘘を言ってはいけない。中国人は嘘をつく。それは身を守るための
ものだ。それを直した。

中国人は流浪の民。奉仕の心はない。奉仕していたら自分が死んでしまう。秩
序も同じ。動乱が多いことによる。日本は清潔、誠実、時間厳守。日本は平和
だからそれができる。



満州へ行った日本人、軍国主義になった日本人は愛国的だ。食うに食えないか
ら満州、ブラジルに出て行った。動機はよい、やり方が悪かった。

警察は横暴で百姓をいじめたりがあった。日本人は全体的に(台湾人の)反撃
は受けていない。暴行を受けることはなかった。理由は、軍隊を持っているか
ら。

戦時中半分強制的に貯金させられ、和平条約で返されなかった。十数年前に120倍の価値で返してくれたが、実際の数千倍になるはず。
朝鮮戦争までは日本も大変だったのはわかる。
その後毎年国会に請願に行ったが相手にしてくれない。



戦後、蒋介石は反日教育を行った。

台湾で日本軍の兵隊に採られた人は、国民党政府によって日本に協力したと迫
害された。
先生も嘘ばかり。生きるために蒋介石万歳を言う。

以前は集会は非合法だった。隣もどういう人かわからないため、マンションで
も挨拶しなかった。戒厳令下で知り合いになるとひどい目に遭う。どういう人
かわからないときは近づくな。そういう時代だった。

以前は本省人対外省人と明確だったが、今は統一派にも本省人がいるし、独立
派にも外省人がいる。以前は本省人と外省人は友達にならなかった。今は表面
上は争わずに付き合う。
中国人ですか、台湾人ですが、YesNoはそれぞれ、中国が強くなっているから
統一派が強い。アメリカも日本もサポートしないから独立派はひとりぼっち、
中国人の民族性の悪さをわかりつつ統一も仕方ない。

今の台湾の人権も、蒋介石が与えたものではない。かつての留学生たちによる
もの。中国から香港の大学に留学中の学生にこうした話をしたら「中国も同じ」
とそっと言った。

日本人は個々に殴ったり蹴ったりはあるが、蒋介石は反政府だと牢屋に10年
20年ぶちこむ。



和平条約では「日本は台湾領土を放棄する」のみしか言っておらず、誰に返す
とは言っていない。

自分は日本人の心も台湾人の心もわかる。政治は手品みたいなもの。裏を見る
ことができれば怖くない。裏が見えないから怖がる。


★補足1(B氏談)
今の台湾に対して、日本にも百分の五か十の責任がある
でも日本人はその意識が薄い。なぜなら負けたから力がない
アメリカは台湾を見捨てた。そのため蒋介石の馬賊が入ってきた
今の台湾人は植民地の四等国民か五等国民のような扱いだ



★補足:改姓名について
改姓名しなかった台湾人の書いた本では、御用商人、御用紳士が積極的に改姓
名したとする。家族全員が日本語を話せたら「国語の家」の栄誉の木札を受け、
日本人並みの配給を受け、日本人に改姓名することが許され、入試でも優先採
用された。軍人軍属を出した家も「誉れの家」の栄誉の木札を受け特配、就学
が優遇された。


★補足:師範学校について
同じ本によれば師範学校卒の教員は招集免除などの特典があったため、徴兵逃
れに師範受験者が急増した(九州など内地からの台北師範受験者も急増)、と
ある


★補足:二二八事件
1945年、日本の敗戦後、国民党の軍隊が台湾に入ってきた。彼らは阿山仔
(外省人)と呼ばれ、300年ほど昔、明王朝末期に福建省から台湾に移住し
た民の末裔である甘薯仔(本省人)とは区別される。外省人が支配層となって
かなり圧制を敷いたことや、文化の違いなどもあり、外省人と本省人の仲は悪
化していった。

1947年2月27日、公安局警察と密輸取締り官が密輸タバコを売っていた
女性を殴り、品物から売上金からすべて押収したことに周囲が同情、群集がど
んどん集まってきた。怖れをなした警察は拳銃を乱射しつつ後退したが、近所
の青年が流れ弾に当たって即死、女性も重症を負う。

これに憤慨した群集が警察車両を破壊、警察署を取り囲む騒ぎに発展。日ごろ
の不満と恨みが一気に噴出して、数日にして全島に反政府運動が広がる暴動と
なった。

陳儀が共産軍が反乱しているとして南京の中央政府、蒋介石に第21師団の派遣
を要請。

3月8日、支援部隊が到着したあと、反政府勢力の摘発と弾圧に発展し、白色
テロを行ったとする。李登輝政権が誕生し、戒厳令解除と民進党が合法化され
るまで、暗黒の時代だったとする(本省人側から見た場合)。

実際、国民党が軍事力で鎮圧した際、台湾人エリートを暴動との関連を調べず
に逮捕殺害するケースが相次ぎ、2万人以上殺害された(行方不明者も多く正
確な数はわからない)。

しかし、南京から送り込まれた白崇禧国防部長は調査した結果、これは反乱で
はない、台湾のリーダーを殺すな、裁判をかけていない者を殺すなという命令
を出し、終結する。

これがいわゆる二二八事件で、本省人と外省人の対立が決定的となった。
また二二八事件に触れることもタブーとなった。

陳儀はこののち失脚、その後蒋介石暗殺を謀ったとして処刑された。

1988年に李登輝が国民党総裁となり、1990年、二二八事件遺族と会見、
政府による調査を開始し、1997年2月28日、二二八記念館が開設される。

2000年民進党政権が誕生。

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日本軍武器の再利用(証言11-20より)

活東庵公開日:2009/9/26

 日本軍の兵士や軍属、軍夫として働いた経験があり、その後国府軍の兵士となった台湾人たちの話を聞くと、国府軍として訓練を受ける際、あるいは中国に渡ったときに、日本軍の武器や軍服を支給された、という話がしょっちゅう出てくる。彼らは「日本軍の軍服や靴は質がいい、国府軍の軍服はだめ」と言う。

 今回聞いた中でも、銃は日本の九九式を使用した、三八式歩兵銃を使用した、日本の三八式野砲を使用して共産軍と戦った、陸軍砲兵の砲手だったが兵器は日本軍から接収した八一式迫撃砲を使用した、と聞いた。
 三八式野砲を使用した人は第一砲手で班長、1中隊に野砲は3門、全部で9門あり、砲を引くために馬が6匹、弾薬に2匹、その他あわせて10匹必要だった。当時の戦争では馬は重要で、馬は水が足りないと力が出ないので水を探すのが大変だった、という。
 八一式迫撃砲を使用した人は、1班1座十数人で使用(中国の軍隊組織は、1団4連、1連3排、1排3班)。野砲は長距離、迫撃砲は短距離で、兵器の扱いは台湾人のほうが詳しい、蒋介石の軍隊は何もわからない、と言う。
 このほか、八路軍に対して山東省金郷を守備していたとき、私営隊(中国人)が日本刀を持っていて、十数人の中国人の首を切っていた、という人もいた。

 海軍でも、日本の賠償艦を活用した話をよく聞いた。国民党は海軍が弱かったため、新聞で台澎海軍技術員兵大隊を募集、日本時代の造船技術を持つ台湾人の若者を集めた。
 たとえば、上海で賠償艦の接収に従事、日本の駆逐艦(一等駆逐艦雪風、二等駆逐艦紅葉など)や回護艦を大砲、魚雷をはずした空っぽの状態で受け取り、自分たちで修理、反攻に使ったという。賠償艦は日本側が上海等に持ってゆき、国府軍側が上海で12隻、青島で12隻と接収、馬公に持ってゆき、一部は売ったが大部分は修理して使用した。1、2ヶ月整備すればすぐ作戦に使えた、という。射撃の試験船ももったいないから日本からもらった、甲板が厚いから使える。台湾は日本時代の造船技術が残っており、工場もあるため修理回復は速い、という。

 こうした話に、私が面白いな、と思ったのは、よく日本では武器が古かったから負けた、何しろ明治時代の銃(三八式は明治38年の意)を使っていたくらいだから、と言うのを聞くが、中国軍同士の内戦でも、その日本軍の武器を使っていた、という点だ。ほかにない、足りない、ということもあるのかもしれないが、中国大陸では”土方馬方帝国陸軍”と自嘲気味に言われた馬を使用した大砲、明治の武器が通用し、(大半が沈められ)最後に残ったのは”雑木林”と言われた海軍の船が再利用され活躍したことになる。
 当時の世界では、大半の国が”土方馬方帝国陸軍”のレベルだったのではないか、むしろアメリカ(とヨーロッパの一部)がレベルの違う、突出した戦争を行っていたのではなかったか、という気がする。

 一方、”土方馬方”も結構侮れない。米軍を泥沼に引きずり込んだベトナムやアフガン、イラクなども、近代兵器よりもゲリラ戦法だ。

 同じく評判のよくない「糧秣は現地物資に頼る」の考え方の原点については、こちら(現地調達・・・

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証言11-20の前書き

取材日:2009/07

 今回の取材では、高雄市の関懐台籍老兵曁許昭栄文化協会の薛宏甫氏の多大な協力を仰ぐことができた。証言11から17までは薛宏甫氏が取材に同行してくれ、台湾語しか話せない老兵については台湾語から英語に通訳する労もとってくれた。
 同じく、真理大学の張良澤先生も証言17の人を紹介してくださり、台湾語から日本語への通訳もしてくださった。
 お二方に感謝したい。

 張良澤先生は現在、許昭栄氏の遺品である取材記録や遺作を整理中である。
 薛宏甫氏には『台籍老兵的血涙故事』という高雄周辺に在住する老兵の貴重なインタビュー記録をまとめた労作がある。今回取材した人々も、この本に紹介されている人たちがメインである(現時点ではここに名前を載せていないが、ご本人がOKなら明記しようかと思う)。

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台湾元日本兵の証言2−10人

証言:11 軍工/国府軍経験あり
生年:昭和3年
出身地:屏東県
所属:陸軍工廠 屏東飛行場
兵科:陸軍軍工(志願)
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國高雄市

昭和15年
 屏東県内埔公学校卒業してすぐ、仕事がないため自分で陸軍工廠に志願。合格し、屏東の飛行場でエンジン製作部門の試運転場で働く。

 エンジンの組み立てが終了したら、油漏れの有無、1秒で消費するガソリン量などをチェック。油漏れなどがあると修理もする。忙しかった。

 自分は後?(口編に向)班、1班10人くらいで6班あった。
 6ヶ月宿舎で暮らしたあと、外に家を借りて住んだ。給料は1ヶ月10何円、当時の台湾では大きいお金だった。

 台湾人の班長もおり、試運転場のトップは顧さんという人だった。

昭和16年 太平洋戦争始まる
 戦争後半は米軍のグラマン、ロッキードが屏東市内を機銃掃射、工場も攻撃し飛行場では仕事ができないため、工場が疎開した。第二回目は海豊に疎開。
 空襲は怖くない、外に出てみていた。
 若かったため、日本が負けるとは思っていなかった。

昭和20年 工場で玉音放送を聞く。涙が出た。

民国35年
 志願して中国(国府軍)の兵隊になる。若いから中国へ行ってみたかった。
 台湾で6ヶ月の訓練を経て、上海へ。行ったことがないから最初は嬉しかった。最初は言葉がわからなかったが、今では北京語も上手に使える。しかし使いたくない。普段は台湾語と日本語のチャンポン。
 中国の兵隊の”動作”はまずい(よくない)。軍服は日本のものを使用、銃も日本の九九式を使用。
 所属は70軍139旅277団3営第1排第2班。1班12名で半分以上は台湾人、大陸の人は2,3人。3班で1排、3排で1営。
 山東省の金郷を守備。相手は八路軍。その他私営隊もいた(彼らが日本刀を使って十数人の中国人の首を切っていた)。
 
民国37年
 徐州で大戦闘があり、戦死者も多かった。
 敗戦にともない、自分で汽車にのって上海へ。軍服を着替えて、台湾同郷会で台湾行きの船の情報を得る。

民国38年
 密かに船に潜り込み基隆に到着。ロープを使って密かに小船に乗り移り上陸。

民国40年
 徴兵制が敷かれ、2年間兵役に着く。台北の輜重隊に配属され、GMCの車を運転する。毎日ご飯が足らなかった。

民国42年 除隊。

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証言:12 軍工/国府軍経験あり
生年:昭和4年
出身地:台中州彰化県
所属:海軍第61航空廠
兵科:海軍軍工(志願)
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國高雄市

彰化県秀水国民学校卒業後、楠木青年学校で2年間学ぶ。

昭和19年
 日本の神奈川県の工場に行くつもりで志願した。空襲警報で身体検査に遅刻し、岡山の日本海軍第61航空廠の兵器部に派遣される。迫撃砲、手榴弾、七七式歩兵銃など、管の螺旋を製造した。
 ラッパの音で5時起床、7時から夕方7時(金曜は5時)まで、海軍式の生活。幹部はみな日本人。

昭和20年
 空襲が激しく工場は山の中へ移転。
 会議場に集められ戦争は終わったと聞く。日本人はみな嘘だと言っていた。岡山海軍工廠は解散になる。

民国35年(昭和21年)7月
 仕事がないのと、徴兵制の噂があり、どうせ行くなら早めにと志願して中国(国府軍)の兵隊になる。屏東で訓練。
 70師139旅277団に配属、その後70師直轄野砲営(営=連隊)。日本の三八式野砲を使用して共産軍と戦う。1中隊に野砲は3砲、全部で9砲あった。第一砲手で班長だった。
 砲を引く馬は6匹、弾薬に2匹、その他あわせて10匹必要。当時の戦争では馬は重要だった。馬は水が足りないと力が出ないので水を探すのが大変。水を探しに行って捕虜になる者もいる。部隊を離れると共産党の部隊に入れられた。
 
民国37年
 徐州会戦で大敗、師団は全滅。70師は台湾人が多い、幹部のみ大陸の人。強かったが大陸での戦闘経験はなかった。高砂族も大勢いた。
 砲兵は勝っていた。強い部隊は毎日にように戦争だった。
 
 共産軍はみなゲリラ。一般の人は共産党だった。

 徐州のあと青年軍の予備幹部の訓練部隊である202師に参加。

民国38年
 蘇州で父親が亡くなったと聞き、帰台を求め基隆に復員。

 国民党が負けた原因は、国民党軍は軍紀が悪い。村に到着しても村を防御しない(ゲリラ戦で夜襲ってくるが)。自分たちは自分たちで防御の姿勢をとっていた。
 台湾人国府軍の生き残りは少ない。大体10分の1。

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証言:13 軍工(馬公)/国府軍経験あり
生年:昭和2年
出身地:台中州
所属師団:馬公海軍工作部→高雄海兵団(日本海軍工作科予備練習生)
兵科:海軍軍工→志願兵
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國高雄市

昭和16年
 台中中学の夜学と、私立台中中学会(弁護士の小畑駒三氏が開き、台中一中の校長が校長を勤めていた)に通う

昭和16年
 馬公海軍工作部工員養成所見習科入学
 馬公海軍工作部は明治からある。澎湖島は明治から有名な要衝の地。日本に馬公会もある
 この学校は高等学校出か成績が甲種乙種でないと入れない。試験は100何十人が受験し、48名合格、18人日本人、30人台湾人(うち澎湖島23人、台湾本島7人)。台中市は日本人2人、台湾人3人で一番多かった(澎湖島を除く)。

昭和19年4月1日
 馬公海軍工作部工員養成所見習科卒業
 本来は4年制だが戦争中のため3年で繰り上げ卒業
 海軍工員となる。馬公の海軍工作部の陸上基地機械据付工程に配属
 海軍軍艦の修理を行っていた。一度ドックに落ち半死半生だったこともある。
 
 技手養成所に入り、技師となる

昭和20年
 兵役で志願兵として日本海軍工作科予備練習生となり、高雄海兵団に入団し基礎訓練を受ける。
8月15日
 馬公海軍工作部にいた。その場での発表はなかった。行軍して小学校へ行き、上から敗戦を聞いた。上の人が、ビラをまいたから、皆取って来きて書いてあるとおりにしろと言う。ビラに書いてあることは、パイナップルの缶詰が当たったとか、相撲をとれ、など。負けたショックをやわらげる配慮だったと思う。惜別会だった。
8月16日 解散
 
民国36年
 日本は武装解除され、連合国に武器を渡した。中国も賠償艦をもらう。他の国は自分で操縦できるが、中国はできなかったため新聞で台澎海軍技術員兵大隊を募集していた。
 二二八事件に参加したため、募集に応じる。二二八事件では日本語で参加を呼びかける放送があった。
 中華民国海軍機関少尉に任命され、駆逐艦に乗船

民国38年
 南京で共産軍の包囲網を突破して長江を下り長江口へ。この功績により中校に昇進、高安軍艦の接収に派遣される。

民国41年
 技術官として日本の三菱重工へ行く。
 日本や米国からもらった船を持つが、当時の台湾では最終検査や修理ができない。当時国交がないため、民間に委託した。連絡には日本語が必要なため、通訳となる。
 
 艦長とけんかをして船を離れることになる

民国45年
 胃下垂で軍隊を離れる。このため、恩給はもらえていない。

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証言:14 海軍志願兵/国府軍経験あり
生年:昭和元年
出身地:屏東県潮州
所属師団:海軍志願兵 高雄海兵団 高雄警備隊(石部隊対空部隊)機関銃砲隊
兵科:機関銃隊  最終階級:一等兵
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國高雄市

昭和19年
 海軍訓練所で訓練を受ける。教官は日本人、新兵は台湾人。最初一等兵、訓練が終わったら一等兵
 朝5時起床、夕食5時、夜は科目があったり自習、夜十時就寝

 卒業後、高雄警備隊(石部隊、対空の部隊)の機関銃隊に配属される
 1隊7名、日本人も台湾人もいた。計測も砲手もみなすべてやる
 
 グラマンを撃墜して恩賜のたばこをもらったことがある。一人2本。
 左営の軍港に艦隊が停泊しており、アメリカのグラマン戦闘機が急降下してそれを攻撃していた
 自分の砲台で7機、グラマン戦闘機を撃ち落した。アメリカの爆撃機は5000m上空を飛び、日本の高射砲は3000mまでしか届かない。P24を撃ち落すのは難しいが、グラマンは急降下して爆撃する。そこを狙う
 米軍は航空写真をとっており、どこに砲台があるかわかる。このため、B24に攻撃される

 爆撃を避けるため、嘉義の航空燃料廠に砲台を移転

昭和20年8月15日
 嘉義の航空燃料廠でラジオで玉音放送を聞く。負けたか、と思った。アメリカの兵器は日本に比べ強い。勝つ見込みない。
 一週間後に解散、お金をもらって帰る
 日本人は帰り、1ヵ月後に国民党が来る

民国36年
 台澎海軍技術員兵大隊に志願して参加。国民党にはまだ海軍兵がなく、日本の海軍経験者を歓迎した
 青島に米軍顧問団による海軍の学校があり、訓練を受ける

 アメリカが国民党に軍艦を援助、その船の接収にアメリカへ行く

 その後、共産党の軍隊と海戦を行う。大陳島付近で共産党の魚雷艇の攻撃を受け、乗っていた太平艦が撃沈、付近の艦船が救助に来て助かる(共産党のスパイのせいで航路がばれていた)

民国39年
 敗戦により台湾に撤退。高雄、基隆、澎湖島

 その後も軍艦に乗り、船艇長を務めたあと、左営港港務官、港務隊分隊長、最後に港務隊少校を勤めて退役。30年近い海軍生活を終える。


日本兵も台湾兵もみな同じ、区別ない
台湾兵も大陸兵もみな同じ、区別ない
日本軍も国府軍も同じ、軍隊には変わりない


注記:薛宏甫氏いわく、薛氏の取材時に、彼は日本軍時代についてはよくしゃべるが、国府軍時代については口が重くなる、何か隠していることがあるようだ、と言っていた
このあと、日本時代に預けたお金をもらっていない話について薛宏甫氏が確認したところ、たいした金額でないからどうでもよい、と答えたという

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証言:15 海軍志願兵/国府軍経験あり
生年:昭和4年
出身地:高雄州岡山
所属師団:海軍志願兵(第6期)
兵科:水兵科だが実質整備兵 最終階級:一等兵
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國高雄市

高雄中学を受験し合格したが、学費の関係で入学できなかった
このため弥陀学校高等科に入る

昭和20年
 左営郊外の右中(右昌)の海兵団に最後の志願兵(6期)として入隊。訓練施設は5期から疎開して、台中の山の中、南投県名間郷に移動していた。
 昔は東海兵団で1、2ヶ月基礎訓練、次に西海兵団で第二期、卒業前に1ヶ月訓練、その後艦艇に派遣されていた。つまり東海兵団西海兵団でボート、陸戦、砲術、水泳など艦隊用の基礎訓練を6ヶ月受けていた。
 自分のときは、山の中でみな整備兵ばかり。自分は水兵だったが艦隊がないから整備兵と同じ。戦車の破壊など陸戦ばかり。山の上に兵舎があり、1班18−25人、教班長は日本人。海軍整備兵の名義で陸戦を行う。
 もともとは水兵科だった。(「水兵科は”五官端正”体格がよく容姿もよくないとなれない。その他は整備兵などに回される」と本で語っている)船がないから水兵訓練するは必要なく、整備兵訓練になった。
 山だから空襲はない。食事は缶詰ばかり、蔬菜は少ない。

昭和20年8月15日
 入って6ヶ月で日本は敗戦
 玉音放送をラジオで聴く。もう戦争する必要ない
 400円、砂糖1キロ、米、靴をもらい、集集線に乗って岡山に戻る

1946年
 中国海軍志願兵第一期の募集に応じる。20歳徴兵制度を行うと発表があり、早めに入ったら20歳で兵長になれると志願兵となる
 米軍将校の下で、青島兵学校で士官訓練を受け、上等兵曹となる

 半年後上海に派遣され、賠償艦の接収の仕事に従事。日本の駆逐艦(一等駆逐艦雪風、二等駆逐艦紅葉など)や回護艦を大砲、魚雷をはずした空っぽの状態で受け取り、自分たちで修理、反攻に使う。佐世保などでは間に合わないから、日本側が上海などに持ってゆく。それを上海で12隻、青島で12隻接収して、みな馬公に持っていった。
 一部は売ったが大部分は修理して使った。1、2ヶ月整備すればすぐ作戦に使える。射撃の試験船ももったいないから日本からもらった。甲板が厚いから使える。台湾は造船技術は日本時代のが残っている。工場もある。だから修理回復は速い。
 一部は(共産軍の)捕虜になった。長江は長い。友人も捕虜になって30何年たってから戻ってきた

 中国海軍は船少ない。もともと中国海軍は南方海軍、北部海軍があったがみな日本に潰された。中国海軍は弱い。その後共産党の勢力が強くなる
 
1948年冬
 台湾に戻る

1949年
 中国側が敗戦、南京から台湾へ撤退

1972年
 海軍大尉で退役。大尉8年のため38年前の少佐待遇

 友人の呉振武は海南島の陸戦隊で日本軍の中尉だった。その後国軍の陸戦隊の創始者となる

 戦後64年たっている。慰安婦だのに対して賠償の必要はない(賠償艦の話を当初賠償問題と聞き間違えてこのように言った)

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証言:16 徴兵/国府軍経験あり
生年:大正14年
出身地:台南州永康庄
所属師団:台南第四部隊速射砲隊
兵科:速射砲隊 最終階級:上等兵   (徴兵)
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國永康市
注記:原語は台湾語のため、薛宏甫氏による英語の通訳

1944年1月
 陸軍 最初の徴兵制度の兵隊。徴兵は日本人がほとんどで永康庄大湾村からは台湾人は3人のみ
 台南第四部隊に入隊。成功大学にあった、
 第四部隊は3〜5000人おり、日本人、台湾人、朝鮮人、満州人が混じっていた。自分の部隊には日台のみだった
 1944年フィリピンに送られる予定だった
 
 3ヶ月の訓練の後、屏東の海岸の防御に送られる

 1ヶ月後に第四部隊は海南島に送られ、空港警備につく
 3人のうち他の二人は輜重隊に選ばれ、自分は速射砲(対戦車砲)部隊に入る。速射砲は馬で牽引する必要がある。16人必要で自分は弾込め係。速射砲隊には6門の速射砲と100人の兵士、1連隊に2速射砲部隊

 速射砲隊は海岸に残り、輜重隊は山へ行く
 海南島には赤軍、土匪、州軍がいた。土匪が一番強いが、対戦したのは赤軍。赤軍はヒットエンドラン戦術、一発で逃げ、日本軍はおっかけてばかり。密かに夜やってきて1,2発で逃げる
 州軍にはあまり会わなかった。武器がなかったのだろう。
 日本軍は強かった。ROCの軍隊は役に立たない(とジョーク)

 食料は豊かだった。食料調達で普通の人を襲ったことはない。日本兵は比較的よかった。国民党はよくない。一週間分の食料を持って歩くので盗る必要ない。市民は食事がなかった。米には虫がわいていたが、兵隊は大丈夫だった、市民は大変だった
 海南島は広東語で話は通じなかった
 
昭和20年
 終戦の3ヶ月前にお腹を壊し、高雄の海軍病院に送られる(陸軍だったがなぜ海軍病院に送られたのかわからないと本人)
 日本軍が占領しており、米軍は来なく、平和だった
8月15日
 日本が降伏し、故郷に戻る
 敗戦は病院の職員が教えてくれた。驚いた、なぜ負けるのかわからない。「日本精神はまだある(日本語)」日本が勝つべきだった

1946年
 国民党にだまされて軍隊に入った(仕事を探しに工場に行ったら閉じ込められ兵隊にされた)。独立95師
 中国軍の評価はあちこちで強盗していて誇りに思えない

1946,1947,1948年
 3年間北京にいた。2年で大尉に昇進
 北京で輸送隊になり、次に歩兵になる。中国兵のときも日本精神があり強かった。このため敵の攻撃部隊に割り当てられた。攻撃で率いた連隊が速く進みすぎ、支援がなくときどき退却した。武器は三八式歩兵銃

1949年
 上海防御戦役で上海防御に当たる。埠頭で最後に銃を撃ち、一緒に乗船。共産党が上海を占領し逃げることになった。国民党は最高の武器を持っていた。共産党はたいした武器は持っていなかった(皮肉)

1950年
 退役

 大陸では多くの台湾人が逃げた。95師では台湾人の多くが逃げた。工場で働くと言われ軍隊に送られた、このためだ。輸送隊でも15%しか残らなかった

 日本が負けたのは裏切り者がいたからだ。東条首相がその頭だった。山本五十六が撃ち落されたのもそのせいだ。部隊内の一般的な見方だ。台湾人もこの意見を信じている。

日本時代は、台湾には2人の将軍しかいなかった。今は数百の将軍がいる。不要だ。

注記:薛宏甫氏は、彼の話は本当かどうかときどき疑わしい、東条首相云々もどうか、彼の話は歴史的価値があるか疑問だ、と言う(薛宏甫氏は自身の本で彼の証言を採録しているが−ただしこうした話は出ていない。2年で大尉に昇進だのも指すのだろう)。私はそう信じている台湾人がいる、ということ自体が面白いし貴重だと思う。

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証言:17 軍工(高座会)
生年:昭和2年
出身地:台南州北門
所属:神奈川県高座郡大和村上草柳の高座海軍工廠
兵科:海軍軍工(志願)
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國台南県北門郷
注記:原語はほとんど台湾語のため、真理大学の張良澤先生による日本語の通訳

昭和19年
 公学校卒業後、神奈川県の高座海軍工廠の海軍工員に志願。口頭諮問と身体検査を受け、8期生として17歳で合格。3名のみ合格した

 岡山に集合したが伝染病が発生し、1ヶ月かかった

 基隆から上海へ、米軍の潜水艦攻撃を避け大陸沿いに大阪に到着。その後鉄道で神奈川県高座郡大和村上草柳の高座海軍工廠に入廠。
 寮での団体生活、1室10名、1寮に20室、200人。5時にラッパで総員起こし、布団たたみ5分、顔洗い5分。夕方は5時まで作業、冬だったので霜焼けができた

 1ヶ月勉強したあと、横須賀海軍工場へ。螺子やスパナを持ってゆく係。種類を覚えるのに大変だった。飛行機を作っていたが、どの部分かわからない。1組40数人。

 横須賀で2ヶ月見習い作業後、川西航空機株式会社の工場へ行く。 その後、同じ会社の工場で、鳴尾で部品製造、宝塚で組み立てを行った。一生懸命お国のために働いた。
 宝塚でも倉庫から言われた部品を取ってくる仕事を行う。組み立て部門で、5つぐらい組があり、胴体の後ろのほうだった。
 鳴尾で空襲を受けた。一斉射撃され、川に飛び込んで避難した
 空襲で宿舎が燃えて防空壕に飛び込んだり、空襲は頻繁にあった

 台湾人と日本人は待遇同じ、1ヶ月50円

昭和20年8月15日
 宝塚で終戦。新聞で知る(放送も聴いた?)。すぐに命令を受け高座に集合するといわれ、その夜出発の準備をした。大阪駅で大雨だった

 高座台湾省民自治会に入る。中国人は一等国民、電車もただになった(本人は中国政府と一切接触しておらず、高座台湾省民自治会員証を配られただけ、どこから来たのかは知らない)。これを持って随分威張った。一車両占領したり、日本人を追い出したり。日本人は随分憤慨していた。この会員証は闇で日本人に売れていた

 戦後、米軍が高座の飛行場を接収したため、米軍の高座飛行場でアルバイトをしていた

昭和21年4月頃
 横浜から日本船で基隆に復員。天然痘が出たため、港で足止めされ1ヶ月かかった


結論から言うと、3年間非常によい経験をした。悲観もせず日本を恨んでいるということもない。

懐かしい話:川西工場のとき、同じ組で働く同期生に沖縄の少年がいて、炊事場に働く沖縄の少女を紹介してくれた。水筒にお茶を入れる口実で外に出て、毎晩特別にお握りを1つ用意してくれた。一言も言葉を交わしたことがない。名前も知らない

日本人と結婚し、奥さんを連れてきた台湾人もいる

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証言:18 海軍特別志願兵
生年:大正15年
出身地:台中州豊原郡
所属師団:海軍特別志願兵(第5期) 高雄海兵団西海岸寿山の司令部付
兵科:水兵科機関兵 最終階級:上等兵
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國台中市

公学校卒業後高等科に入る

15歳頃
台湾総督府勤業奉国青年隊で軍事訓練を受ける
その後公学校の運動場で軍事教練を教える教師になった
みなで歩いて豊原神社に参拝。東、宮城へ向かって礼拝。みなそんなに考えない。子供だから当たり前の神様として拝んでいた

局営バスの修繕工場で働く。1ヶ月125円の給料

昭和18年
 海軍特別志願兵第5期に志願。地方の警察が家へ来て「貴様志願しないか」と言い「はい、志願します」と言ってなった。うちは5人いたから大丈夫。強制的でなく、自分で面白みに兵隊さんになってみようかと思った。今はアピンコー(阿兵?)(兵隊兄さん)というが、当時は「兵隊さん」と言った
 高雄海兵団に入団、岡山訓練所で1ヶ月訓練を受ける。台湾人のみ、教官は日本人。厳しかった。海軍戒心棒でぶたれたり、歯かみしめで殴られたり

 水兵科機関兵になる
 新兵のときは東海岸、その後大行山へ行く

 車の運転ができる人を募っており、運転ができるため水雷参謀長の車の運転手になる。部隊に巡検に行くが、黄色い旗をたて、車のラッパを鳴らすと衛兵が敬礼する。運転時以外は待機している。

 空襲時は大行山小行山があり、ここに退避していた。小行山の中は軍事施設で迷路のようになっていた。500キロ爆弾が1mの厚みを破って落ち、不発弾だったがコンクリートが崩れ大勢の死者が出、担架で運んだ。腰の木札の部隊番号で誰かわかった

 特攻隊に編成され突撃の準備をしていた
 命なんか怖くない
 
昭和20年8月15日
 玉音放送が放送された。日本人を敵討ちで叩く人もいた
 祖国に帰ると喜んだ人もいた。しかしその後、日本のほうがよかった
 日本時代は泥棒する人は懲罰される。大人しい人、正直な人は何もない。捕まえたら29日牢屋に入る。1分間も早かったり遅れたりしない。それは日本のいいところ。

 昔の警察は柔道習っている。今の警察は弱腰でだめ。

 しばらくして帰った。支那兵が来て接収した。お金も品物も特にもらわなかった。混乱して交通も不便だから荷物は軽いほどよい。
 国民党が日本に来て、台湾の人は苦しかった。配給制もない。日本時代は配給制。

 日本人は嘘言わない。中国人は嘘ばかり言う。中国人はだめ。日本人は「バカヤロー」と言うが間違えたら「間違えました、すみません」と言う。

 大正15年生まれだから祖国は日本だと言っている。祖先は大陸から来たから、本当の祖国は中国だが、中国人は嫌い。

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証言:19 軍工・海軍志願兵/国府軍経験あり
生年:昭和2年
出身地:台中州
所属師団:岡山第61海軍航空廠、海軍志願兵(第3期)高雄海兵団
兵科:海軍工員、航空整備兵 最終階級:一等兵
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國台中市

公学校卒業後高等科に入る
高等科は台湾人が行く。日本人は日本人の学校へ行く

台中州の各庄(郷、鎮などの行政単位)から一人選抜して、今の競馬場のところにあった皇民奉公会の第3期青年練成所に入る。6ヶ月間、学科と軍事教練を受ける。1期60人、寮生活、教官は日本人も台湾人もいた。朝起きてふんどしで禊をする。

昭和17年
 高雄の岡山第61海軍航空廠が工員を募集していたので応募して合格
 兵器部の機械工作科に配属される。機械工場で、機関銃、歩兵銃(三八式、九九式)、手榴弾などを作っていた。

 日本人と台湾人とで待遇は、多少差別があったのではないかと思う
 独身宿舎に住んでいたが、日本人は忠健寮、台湾人は協和寮に住んでいた。食事は足りていた

 第61海軍航空廠の廠長は中村ゴロウ海軍少将だった。
 午前4時間、午後4時間の作業、夜は自由に外に出られた。軍属であって軍人ではない

昭和19年
 第3期海軍志願兵に志願。海軍航空廠で成績が良い、体格の良い人が海軍志願兵として高雄海兵団へ送られた。
 高雄海兵団の航空整備兵となる。訓練は厳しかったが、水兵と異なり、吊り床訓練や甲板訓練はなく、良かった。兵隊は日本人と台湾人がいたがほとんど台湾人、教官はほとんど日本人

 その後は空襲中だったため、大行山だのに退避していた。山中に大きな施設があり、備戦で(戦いに備えて)待機する毎日
 台湾各地の飛行場に戦闘機が疎開していた。台湾の飛行機は特攻隊が使うものだった。高雄飛行場は米軍の空襲で使えなかった。
 
昭和20年8月15日
 玉音放送を聞いた。失望した。自分たちはみな勇気があったし、大東亜共栄圏のためにがんばろうと思っていたのに、負けたから残念だった
 日本の兵隊は規律正しい。彼らは集結して日本へ帰るために待機していた。
 解散になり台中に戻った

9月から10月頃
 しばらくして国民党が来た。無政府状態。国民党の軍隊はでたらめ

民国35年
 台湾の若者たちをごまかして訓練して大陸に派遣して国共内戦に参加させられた。参加したのは、まだ若いから
 促成訓練後、船で上海、汽車で南京、揚子江の北、河南、山東、江蘇省へ移動。おもに山東省だった。
 陸軍砲兵の砲手だった。兵器は日本軍から接収した兵器、八一式迫撃砲を使用していた。1班1座十数人で使用。1団4連、1連3排、1排3班
 野砲は長距離、迫撃砲は短距離。兵器の扱いは台湾人のほうが詳しい。蒋介石の軍隊は何もわからない。日本軍の軍服は良くできている。中国軍の軍服はでたらめ(烏合の衆)
 
 国民党は腐敗していた。共産党は兵力は弱いが、人民が反感を持ち、共産党の軍隊と一緒に戦った
 国府軍の味方か共産党の味方か見分けはある。最初は国民党が強かったが、包囲された。人海戦術の遊撃戦だった
 中国の町には城(城壁)がある。共産党は国民党を城に入らせた後包囲する。糧食、火薬を消耗させからかってくる。
 徐州会戦 糧食、武器弾薬が続かないから上官が包囲を突破して助かった。途中捕虜になった人もいた。自分は鉄道で退却してきた。途中何度も友軍に捕まえられて前線に送られた
 河南徐州宿県でも一度捕まえられて送り返された

 共産党も国民党も若者を見れば捕まえて前線に送り出す。中国兵は弱い。徴兵制度が整っていない。金を持っている人は壮丁を雇って政府に渡す、若者を捕まえて戦線へ送り出す。中国人の精神は利己主義だから戦争はできない

 国民党の上海の飛行場の空軍に捕まった。上官が来たので、私は中国人ではなくて台湾人です、と答え、街に出ることができた。
 その後台湾同郷会を探し、幹部と話し泊めてもらう。今台湾は二二八事件だから帰らないほうが良い、と言われしばらくおいてもらう。
 その後台湾に戻る。蒋介石に失望し、自分で暮らすことにする。日本の会社に勤める


日本の軍隊は正確。国府軍はでたらめ、規律がない
共産党は兵力は弱いが、人民が蒋介石に反感を持っていた
中国各地の人々はみな違う。山東省の人はまだいいほう

日本の教育は正しい。正確。中国人と日本人は民族性が違う。日本時代の学校で勉強した者は、支那人の利己主義とは合わない
日本の教育の成功は、教育勅語のおかげだ

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証言:20 高砂義勇隊遺族
証言者:民族名、日本名、中国名あり
生年:昭和7年
出身地:台北州烏来ラガ社
所属師団:(高砂義勇隊遺族)
兵科:3番目の兄:高砂義勇隊 海軍陸戦隊
4番目の兄:高砂義勇隊 薫空挺隊
取材日:2009年7月
取材場所:中華民國烏来

4歳のとき、ラガ社から烏来蕃社に移住。警察の便宜のために山地から集結してほしいとの理由による

当時の生活
男の子 山狩り(山豚、鹿など)
女の子 芋、粟、サツマイモなど自分で植えて作る

蕃人教育所4年 日常時に使う日本語を学ぶ。国語、道徳、算数の3教科
高等科2年
山地の本と平地の本は異なる
自分の頃は小学校の教科書を使用していた
学校でタイヤル語を使ってはいけなかった
最後の頃小学校は日本人、台湾人、山地人一緒だった

道徳の教育は非常に良かった 怠けてはいけない、泥棒をしてはいけない

烏来には日本人として警察が5−6人、奥さん連れだった
日本の兵隊は戦争の最後の頃来た。学徒兵、日本人も台湾人も山地人もいた。飛行機が来たら日本の兵隊に情報を伝える。烏来には2000名くらいの兵隊がシロワンという場所におり、牛や馬も養っていた

烏来からは34名高砂義勇隊に参加、14名戦死
その他海軍や情報兵もあった

新店と烏来の間の道端に防空壕がまだ残っている
烏来発電所も日本時代に作られた
妙心寺はかつて神社だった。バスターミナルは小学校と区役所だった

昭和20年8月15日
毎朝朝会で集まり、校長が戦争の状況を報告していた
20日の朝、校長が戦争に負けたと報告したときはみながっかりした。自分も二人のお兄さんが戦争に行っているのに、戻って来れないのではと思った。
玉音放送の1日前の夜に皆知っていた(?)

毎朝早くアメリカの飛行機が飛んでくる。烏来にも一度だけ落ちた。小学校5年のとき、姉と知人が芋を掘っていた50m先に落ち、みなで見に行った

民国35年
終戦後 第一期の台北師範学生に選ばれる
台湾全省から成績の良い山地の学生65名を集めて4年間訓練した
それで北京語が喋れる。国語、数学、社会、自然、音楽、体育を学ぶ

民国39年(1950)
卒業したのは23名 生活に慣れない
みな学校の教員になった
自分はラハオの国民学校(小学校)の教員になった
学生のほうが年配だったりした。学校で日本語を使ってはいけない
師範学校出は自分のみ、あとは警丁から教員になった人など

さらに1年間後、師範の本科で3年間、師範の専科学校で2年間勉強(山地班でなく一般)
最後は校長を務める

光復後の生活は大変だった。杉の中心の柔らかいところも食べた

3番目の兄は小学校3年のとき、第3期高砂義勇隊として海軍陸戦隊でニューギニアへ行く
2−3日前に警察が集合させて駅まで送った
みな自分で喜んで志願した。兵隊に行った人は優秀な者、国家のために仕事をするのは立派なことだった
両親も名誉なことだと喜んだ
終戦後、脚や腰を撃たれて帰ってきた。光復の最中だったから家族だけで歓迎した。その後医務局の職員となる

4番目の兄は青年会の会長になり、日本時代の台北師範(第二師範)を出て学校の教員になった
第3期高砂義勇隊 落下傘部隊 薫空挺隊で特攻隊だった
500名参加して1人生き残った マラリアにかかり病院に行き一人だけ生き残る
戦後、県会議員と郷長になり、烏来慰霊碑を建てた
戦争中、日記を書いていた。その日記や賞状、写真などを中央研究員の人が持って行った

戦争に行った生活、戦った状況、敵の状況などを話してくれたが、特別なことはない。

4番目の兄はよく兵隊のことを言っていたが、日本の兵隊は精神がいい、と言っていた。

民国48年 2年間兵役につき、媽祖の陸軍大砲部隊で1年ちょっといた


日本時代は、新店や台北の人は自由に山に入れなかった。警察に登記しないと入れなかった。烏来の人が主に塩、米、その他砂糖、醤油を買いに外に出るときも証明が必要だった

日本時代は山地人と平地人はあまり接触させなかった。山地人の風俗習慣があり、平地人と合わない。終戦後そういうことはなくなり、自由に入ってくるようになった。
ただし、山地人の女性が平地人の男性と結婚してはいけなかった。山地人の男性が平地人の女性と結婚することはなかった。光復後30年たってその規定はなくなった

日本の教育は徹底的に教えてくれたのがいい点だ。

日本時代、山地の学生は農業学校や師範学校に行くことが多く、宜蘭の農業学校が有名だった。初めて田畑、水田を作り、山に果物の木を植えた。
光復後は農業、水産、工業学校などで勉強できるようになった
現在では大学に行くと奨学金がもらえる。成績85点以上、素行が甲だと申請できる。研究所は毎学期奨学金がもらえる。現在のいい点。山地の学生は小学校、高中は給食があり、小学校の学用品も無償
現在の欠点は、高中卒、大卒多く、大学で習ったものが社会とあまり合わず、仕事を探すことが難しい

山狩りはできるが、動物保護で捕れない動物が多い。捕っても良いのは猪のみ。猿、鹿はだめ。魚も保護している
昔はまじめだったら幸福だった。今はまじめでも大変
仕事がなくても食う心配はなかった。今は人間が多くなり仕事もない
川でも魚が多かった。今は少ない。水量が減った。昔は山に木が多かった。今は平地人が来て大木を切って製材して売っている。それで水が減った。
光復前の人口は300名くらい、今は2000名。5分の3は平地人


一番奥の福山村では月−金は老人ばかり、みな外に稼ぎに行っている。土日に帰ってくる。奥は政府のバスが1日3回通っており、学生が乗っている。小学校は奥にもあるが、中学校烏来のみ、高校は新店に行かないとない。
現在、政府は自分の住んでいる場所で起業するよう奨励している。しかし、烏来は、水源特別区だからいろいろ制限があり許可がでない。養魚をしたくて申請しても許可が下りない。伝統産業、織物もなかなかうまくゆかない。政府の政策は悪くない。ただ水源地の問題で許可が出ない。黙って作ると航空写真でわかってしまう

農業振興について農会を通して頼んでいるが、はいはい、と言うだけで進展がない。日本の技術者に助けてほしい

今と日本時代と精神が違う。日本は8時開始なら7時半に来て社長が訓話している。台湾はそういうことはない。

当時の青年の気持ちは、国家のために仕事している。どんなに苦しい仕事でもがんばっていた。昔山地の人は、両親、頭目の言葉を良く聞く。頭目の言葉は一つの法律だった。昔の言葉と日本の兵隊の言葉と非常にあう。天皇のために戦う(日)、祖先のために仕事する(山)、怠けてはいけない(日)、怠けると乞食になる(山)。

昔は冷蔵庫もないから、捕ったら全部食べてしまう
山の生活はとても厳格。5家族がいるとして、みなで狩に行く前日、頭目が各家族に悪いことをした人はいないか聞く。お祈りをして出発。鳥が前方から飛んできたらだめ(人か犬が怪我をする)、右から飛んできてもだめ(誰か悪いことをした)、後ろから来たらよい、鳥の声が聞こえたらよい、すぐ大きなものが捕れる。だめなときはすぐ戻る
狩では犬、弓、刀を使う。まだ何人か山狩りをする人はいる(ラハオ、タンピヤにはもういない。わな猟はまだやっている)。山狩りの時期は、祭りの一週間前のみ許されている。猪はいつでもよい。

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聞き取りの注意点(軍隊を知らずして)

活東庵公開日:2010.2.25

 先日、台湾の特攻兵の話を聞きたい人がいるのでサポートしてもらえないかと頼まれた。話を聞くと、韓国の特攻兵については本も多く知られているが、台湾に関するものはない、台湾にも特攻兵がいたと知って心をえぐられる思いがした、周りの学生もみな知らない、この状況は看過できない、と若い人にありがちな、やや性急な正義感に溢れていた。

 ところで、台湾や韓国の年配者で「特攻仲間だ」「特攻精神でがんばった」と言う人はよくいる。だからといってみな特攻隊だったかというと、そうではないことのほうが多い。
 日本人の元兵士でも特攻隊だった、と言う人は多いが、本当の意味で特攻隊だった人は少ない。聞き取りの際、「ニセ飛行兵に注意」というくらいだ。

 学生の根拠は、”神風特攻隊の訓練を受けた”というある台湾人元日本兵の本による。しかし彼は陸軍に入隊している。神風特攻隊は海軍。これはまずありえない。陸軍と海軍はどの国でも完全に別組織だ。(海軍の神風特攻隊の”成功”後、陸軍にも別の特別攻撃隊ができた)
 しかし、そう説明してもピンとこない様子で、感覚的に理解できないようだった。本人がそう言っているのだから陸軍に入っても神風というのもあるんじゃないか、と考えてしまうようだ。頼んできた人は、戦争当時幼く戦後教育を受けたバリバリの戦争反対反米親中の人なのだが、その彼女も同じ様子だった。

 また、特攻を行うには、そのために敵の居所を探したり、特攻機を現地まで誘導する必要があり、そうしたさまざまな役割の人がいる。特別攻撃隊に配備されても、索敵や直掩の人もいる。百中百死の特攻機への搭乗に選抜された人と、索敵や直掩に回った人とでは、危険は多いが”必死と決死の差”、完全に意識の差があったことは城山三郎などが(「一歩の距離」など)かなり書いている。
 基本的に「特攻隊員」はこの必死の立場に配置された人のことで、よって基本的には戦闘機乗りになる(重爆撃機や艦上爆撃機、練習機などによる特攻もあったが)。

 本にある訓練が”特攻隊員として”というのは何を根拠にしているのか、いくら読んでも私にはわからない、論文を作成するつもりなら事実関係は明確にすべきと思う、名前の出ている当時の航空隊訓練施設を当たって裏を取るのも一つの方法だと話した。
 すると「訓練の話は具体的だ、それがその索敵とかいうもののためかどうかはわからない」と言う。索敵はあくまで一例なのだが、このときも軍隊組織に関する基本的な知識がないのではないか、と感じた。学生も、70歳近い女性も、二人とも。それで、当時の日本軍の仕組みにも目を通したほうがよいと答えた。

 アジア好きな人は、東アジアや東南アジアと関わっていると先の戦争が関連してくることも多く、どうしても戦争絡みの話を避けて通れない。しかし戦後世代は軍隊について基本的なことを知らない。
 またアジア好き、アジアの人と友達になろう、というタイプの人はリベラル、反戦の立場の人が多く、戦争イコール悪、軍隊に対する忌避感、嫌悪感も強い。このため、当時の日本の軍隊が実際どういう組織だったか(非人道的だったなどといった感情的な内容ではなく、制度的な内容、つまり新兵募集や補充の仕組み、平時編成と戦時編成の違い、兵隊と将校の違い、昇進の仕組み、などなどについて)殆ど知らないし、勉強もしていないし、する気もない。
 これはいわゆる団塊の世代の人たちも同様で、戦争についてよく語る割には軍隊の実際的なことに関する知識がない。反戦本は読んでも、当時の常識や軍隊組織と制度について知らない。殴られた非人道的だったという手記や映画は見ていても、一期検閲とか内務班制度とかわからない、特幹甲幹予備役などの言葉を既に知らない。70近い年齢ですでにそうなのだ。
 このため、誤解やあやまった話もまかりとおりやすい。
 かつては私も同様だったので、あまり偉そうなことは言えないが、こうした状況はやはりまずいと思う。

 思うに、この神風特攻隊という老兵の話は、終戦間際になると航空隊で「全軍特攻」という言葉が使われるようになり(本土防衛のために全軍特攻精神でゆくという話で、実際の特別攻撃隊とは異なる)、その絡みで「特攻隊だ」と思った可能性もある、”神風”というのも日本人にそうした話をしたところ「ああ、カミカゼですね」と(安直に)言われたなどで本人も今ではそう思い込んでいる可能性もある、という気が、個人的にはしている。韓国の特攻隊員の話は残っており、台湾のものはない、というのは基本的にはなかったからではないか(基本的には、というのは薫空挺隊があるからだが、その話は後述)。あれば、林えいだいその他専門のノンフィクション作家が必ずとりあげているはずだ。

 自戒も含めて言うが、反戦系の人は、戦争についてあれこれ言うが、実際の軍隊の制度や組織についてきちんとした知識のある人、学んでいる人は少ない。こうした状況がまかりとおるのはおかしい。他の分野ならありえない。
 戦争、軍隊と言えば条件反射のように「反対」、タブー視して、その実、きちんと向き合っていない。その姿勢からの言論が許されている。大甘な言論分野だと思う。
 そして危険だとも感じる。まだ今は健在な、なまの体験と知識のある人々がいなくなったら、検証できなくなる。あやまった土台の上に議論が積み重ねられてゆき、あやまった方向に誘導されかねない。

 ところで、台湾人による特攻隊といえば、幻の薫空挺隊がある(第三次高砂義勇隊)。生き残りがおらず全容は不明、”幻”と言われていたが、現在では知覧特攻会館で顕彰されており、薫空挺隊も特別攻撃隊だったと認められている。

補足 2010.4.7 活東庵
 前回、戦前、戦時中の軍隊の制度を知らずに当時の戦争のあれこれを語っても、という話を書き、その例として特攻隊をあげた。
 先月末、ある元特幹の人と話す機会があり、気になって聞いてみると、神風特攻隊は海軍が始めたが、陸軍の特攻隊のことも神風特攻隊と呼んでかまわない、という。それは今現在の呼称ではなく、戦時中でもそうだったのか、と聞くと、そのへんごっちゃになっているが特攻はみなカミカゼだと言う。陸軍は振武隊などではないか、と聞くと、そうだがごっちゃになっているんだよね、最後は全軍特攻とか言っていたし、最後は境がはっきりしなくなった、という。
 一方、特攻隊の死として認められるかどうかは厳しいそうだ。特攻に行くために乗った輸送船が撃沈された場合は、特攻隊の死として認められない、これはおかしい、と言っていた。回天の場合は回天会がしっかりしているので、そうした死も認められているという話だった。

 戦前、戦時中の軍隊の制度をよく知らずに戦争を語る危険性とともに、もう一点気になることがある。
 かつて中国映画では必ず中国共産党万歳で終わらないとまずかったように、あるいは戦時中の創作物が国威発揚、戦意高揚でないと判断されると発表を許可されなかったように、今の日本社会では戦時中の話や平和と戦争がらみの話になると、映画でもTVでも小説でも、必ず最後に「戦争はいけない」で終えることを良しとする、予定調和のような雰囲気のあることが、とても気になっている(小説は若干反逆精神がある。マスを対象としないからかもしれない)。
 誤解されやすい内容なのでこうした内容を書くには注意が必要だが、別に「戦争はいけない」という思想そのものがまずい、と言っているのではない。個人的にはまずくないと思うが、話の落としどころをとりあえず全部そこに持ってゆけば安心、という雰囲気自体が安っぽくて好きになれない。もともと天邪鬼なので、みながAがいいと言っていると、でもそれは違うかもしれないと言いたくなる、というのもある。その時代の皆が”まる”としていることを言っておきさえすれば自分は正しい側で”いい人”なんだと安心し自負もする感じが、ドラマの作り方や語りとしてあまりに安直すぎる気がする。

 はっきり言って、”終戦”直後の教科書黒塗りなど逆検閲そのものだ。でも「この体験で大人は信用できないと思った」という話はよく聞くが、これも検閲であり方向は逆でもやっていることは戦前と同じと判断する話はまず聞かない。戦前も思想教育があったように、戦後も思想教育があった。その最中にいて気づかない人が多い。戦前も気づかない人が多かったように。

さらに後記:
 今年(2010)台湾で聞き取りをした際、この”神風特攻隊の訓練を受けた”という台湾人元日本兵と、少飛17期で同期だった別の台湾人元日本兵に会う機会があった。彼ははっきり「自分たちは特攻隊じゃない。その一歩手前だった」と明言した。
 一方、元特攻隊という台湾人元日本兵は、学生が訪ねた際、脳梗塞の後遺症で話のできない状態だったと聞いた。

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証言:21 シベリア抑留
証言者:民族名、日本名、中国名あり
生年:昭和2年
出身地:台南州斗六街(現在の中華民国雲林県斗六市)
召集:志願
所属師団: 陸軍特別幹部候補生として水戸航空通信学校長岡教育隊に入隊
 西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に配属
兵科:陸軍航空兵機上通信
階級:入営時:一等兵 復員時:兵長

昭和2年(1927年)
 台南州斗六街に生まれる
 父は師範大卒、斗六郡役所の社会教育書記で半任官の有力者だったため、公学校ではなく共学生として日本人用の小学校に通った
昭和16年4月 中学受験に失敗したため、父の薦めで東京の中学に留学
昭和19年3月 卒業
昭和19年4月 陸軍特別幹部候補生を志願
 水戸航空通信学校長岡教育隊入隊
 台湾人ゆえの肩身の狭い思いはなかった。自分は人懐こいし、古参兵がいなかったのでラッキーだったと思う
昭和19年12月 西筑波飛行場の滑空飛行第一戦隊に転属
 九七式重爆撃機の通信士を勤める。同隊は九七重が大型グライダーを曳行して、敵飛行場に強制着陸させる空挺隊だった
 レイテに派遣される予定だったがグライダー隊は出発せず、生き延びた
昭和20年3月
 空襲で訓練にならないため、朝鮮宣徳飛行場に移動
 連日夜間の離着陸訓練 上官は元大学生、ぶっとばす人はいない
昭和20年6月
 特攻出撃の意向調査で熱烈望に印
昭和20年8月15日
 新安州飛行場へ移動準備中に終戦
 玉音放送は聴いたが、雑音も多く、何を言っているのかみなよくわからなかった
昭和20年8月16日
 新安州飛行場へ移動
 さらに敗戦と不穏から平壌飛行場へ移動して次の命令を待つ
 大同江で泳いだりしているうちにソ連兵が来たので汽車に乗る
 沙理院で止められ武装解除
昭和20年9月
 民間服に着替えて数人で鉄道沿いに大邱をめざして歩くうち、避難民を乗せた貨物列車が来たので乗る
 新幕駅で日本の大尉が「男で軍歴のある者は一歩前に出ろ」というので正直に出ると、元山までソ連兵に連れて行かれる。逃げた人もいるが、一人では食えないため結局戻ってきていた
 興南の港から船でポシェットへ、さらに鉄道で西へ向かうが心細かった
昭和20年10月ころ
 中央アジア・カザフスタンに到着、抑留生活がはじまる。部隊はばらばらの混成隊
 中国に引き渡されることを恐れ日本人で通す。ソ連側の記録では本籍茨城の日本人になっている
 作業はモッコを担いだ土木工事が多かった。10mの深さに掘る。何に使うのかはわからない。その他コルホーズでの芋掘り作業、碍子のまわりに電線をまく通信関係の作業もあった
 元気なソ連兵はヨーロッパ戦線に投入されたため、満州に来たのは囚人部隊だった。シベリアは若い人か傷痍軍人が多い。カザフスタンには日本の植民地時代ソ連側に逃げ込んだ朝鮮人が、さらにスターリンに強制移住させられて多く住んでおり、運転手だのを勤めていた
昭和22年 舞鶴に復員
 帰国者は苗字のあいうえお順に決まった。日本名の”お”で始まる苗字だったため、早めに帰国できた

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東条英樹スパイ説

活東庵掲載:2010.8.27

 先月台湾へ行った際、再び台湾人老兵から「東条英樹スパイ説」を聞いた。
 最初にこの話を耳にしたのは、昨年訪台したときに会った台南の元老兵からだった。通訳してくれた台湾人の知人は「妙なことを言っているが、とりあえずそのまま訳す。でも彼の話は本当かどうか疑わしい」と前置きしつつ、老兵の台湾語を
「日本が負けたのは裏切り者がいたからだ。東条首相がその頭だった。東条英樹はアメリカのスパイだ。山本五十六が撃ち落されたのもそのせいだ。部隊内の一般的な見方だ。台湾人もこの意見を信じている」と訳した。
 帰り道、知人はさかんに「こんな話おかしいですよね、彼の話は歴史的価値があるか疑問だ」と言ったが、私は「そう信じている台湾人がいる、ということ自体が面白いし貴重だと思う」と答えた。

 そして今年(2010)、台湾を再訪した際、再び同じ話をする台湾人がいた。今回は花蓮県に住む原住民(高砂族)であるアミ族の長老で、志願兵(義勇隊でない)として日本軍に参加した人だった。
 彼も突然、「東条英樹はアメリカのスパイだった。アメリカに頼まれて戦争を始めた。アメリカは武器産業を助けるため、武器を使って戦争したがっていた。東条はアメリカからひそかにお金をもらっていた。それで開戦し、終戦も長引かせた」と言い始めた。
「前にも別の人から同じような話を聞いたのですが、その話をどこで聞いたのですか」と尋ねると、自分はあちこち行ったからどこということはない、そうおおっぴらに話していることでもない、とにかくそう聞いたし自分もそのとおりだと知った、という。
「その証拠に彼の息子は正しい人だったから、そういう父親を恥じた。息子が東条英機に日本刀で切りかかった事件があったが、あれはそういう父親を恥じていさめようとしたためだ」「山本五十六は自殺だった。東条のそうした部分を知っていて自殺したのだ。撃ち落とされたのではない」と言った。

 この話を日本に帰ってから何人かの戦前生まれの年配者にしたところ、東条スパイ説には一様に驚いていたが、山本五十六自殺説は聞いたことがあると言った。東条首相の息子の切りつけ事件は知らなかった。

 こうした話は、一人だけから聞いた場合はその人の特殊な信条かと思うが、まったく別の場所に住む別の部隊の人からも同じことを聞くとなると、台湾人の間に何かそうした共通認識があったことになる。
 元になる噂、本などがあるのかもしれない。あるいは、中国人は実利的な人たちだから、負けるとわかっている戦いに突入する心理がどうにも理解できず、そうした利害で理由付けして理解しようとしたのかもしれない。日本人には、勝ち目はないとわかっていながらも、ずるずると突き進んでゆく心情はなんとなく理解できるのだが。
 むしろスパイだから始めた、というよりも、場の雰囲気から逃れられずそのまま行ってしまった、というほうが日本人的には理解しやすいと思う。このへん、世界標準的には変なのかもしれないが。逆に中国人もスパイ好きで、何かと言うスパイスパイ言う。分裂しては誰某はどこそこのスパイだ、裏切った、どこそこと手を結んだと言いたてる。そういう理解の仕方が好きなのかもしれない。

 私は基本的に戦史的事実を調べたり、新しい発見を求めて話を聞いているのではない。それならむしろ、まだ記憶の確かな戦後まもなく、もしくは、せいぜい戦友会活動がさかんだった1980年代くらいまでに書かれた手記、聞き書きなどを集めたり、自費出版、私家本などを渉猟したほうがよほど資料価値は高いと思われる。兵隊軍属経験としての戦争体験者はいまや80代以上、記憶もあやふやになりつつあり、長年の思い込みや記憶違いも多い。おそらく、それらについてまともに裏づけしようとすると、かなりハードな作業になると思われる。
 また、戦後落ち着いてくると、強制や場の圧力で参加させられ、生死をさまよわされたあの戦争とは一体なんだったのか、一体自分はどこを歩かされていたのか(特に中国の場合)、どういう目的の作戦だったのか、などなどについて、かなりの執念を費やして本を読んだり資料を集め、個人でまとめている人も多い。そうした戦後に得た知識も、話の中に混ざってくる。

 このため、史料的価値としての体験談は、今はあまり期待できないと言っても良い。それでも、体験者が存命中にできるだけ話を聞いておきたいと思うのは、まず多面的に見たいがためだ。同じことでも、それぞれ立場や考え方によって捉え方が異なる。スーラの点描画ではないが、全体像がうっすらと浮かび上がってくる。また本からはなかなか伝わりにくい、当時の手触りを感覚的に得るためでもある。だからむしろ、事実に反するとしても、うわさや本人の理解の仕方そのものが面白くなってくる。それがその人の感じ方、理解の仕方なのだから。

 さらに言うなら、豊かな話を周りの多くの人から聞くことは大切と思う。ある黒人文学の作家が、自分は説話を聞いて育った、自分が小説を書いているというよりも、そういう多くの声、過去からの声も含めた、無数の背後に広がる声によって書かされている気がする、と語った。アイヌの萱野氏も、子供の頃から豊饒な説話を聞いて育っているから、自分がしゃべっているというよりも、そういう共通の中からしゃべっている気がする、だから話に困ることはない、と語った。「僕はこれを聞いて、ああなんという豊かな文化を背景に育ったのだろうと羨ましく思った」と民映研の姫田忠義氏は言う。(「野にありて耳をすます」はる書房)

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