戦争体験(インタビュー3)
    日本人インタビュー
  1. 証言1 沖縄10.10空襲
  2. 証言2 インパール
  3. 証言3 東京大空襲
  4. 中国での日本軍
  5. 証言4 戦争体験(中国)
  6. 証言5 戦争体験記2(中国)
  7. 全般的な話
  8. 証言6 海軍−トラック島大空襲
  9. 証言7 北支その他
  10. 証言8 フィリピン
  11. 証言9 ニューギニア
  12. 証言10 ビルマ
  13. 証言11 フィリピン
  14. 証言12 海軍整備兵
  15. 証言13 中支
  16. 証言14 満州→シベリア抑留
  17. 証言15 中支
  18. 証言16 海軍飛行隊
  19. 証言17 樺太在住→学徒出陣
  20. 証言18 満州、北支
  21. 証言19 北支→ニューギニア
    台湾元日本兵インタビュー
  1. 日本軍武器の再利用
  2. 証言1-10の前書き
  3. 証言1 義勇志願兵
  4. 証言2 学徒兵
  5. 証言3 軍属(看護助手)
  6. 証言4 軍夫(輜重)
  7. 証言5 軍属(熱地農業技術員)
  8. 証言6 学徒兵
  9. 証言7 軍工(高座会)
  10. 証言8 軍工(高座会)
  11. 証言9 脱走兵
  12. 証言10 軍工
  13. 証言1-10の補足
  1. 証言11-20の前書き
  2. 証言11 軍工/国府軍経験あり
  3. 証言12 軍工/国府軍経験あり
  4. 証言13 軍工(馬公)/国府軍
  5. 証言14 海軍志願兵/国府軍
  6. 証言15 海軍志願兵/国府軍
  7. 証言16 徴兵/国府軍
  8. 証言17 軍工(高座会)
  9. 証言18 海軍特別志願兵
  10. 証言19 海軍志願兵/国府軍
  11. 証言20 高砂義勇隊遺族
  12. 聞取りの注意点-軍隊を知らずして
  13. 証言21 シベリア抑留
  14. 東条英機スパイ説
  15. 証言22 アミ族志願兵
  16. 証言23 アミ族義勇隊遺族
  17. 証言24 アミ族志願兵2
  18. 証言25 ピュマ族志願兵
  19. 証言26 パイワン族義勇隊遺族
  20. 証言27 パイワン族警備隊
  21. 証言28 台東パイワン族戦前のようす
  22. 証言29 屏東パイワン族戦前のようす
  23. 証言30 戦前の台湾霧社のようす
    沖縄編
  1. 戦前の北大東島
  2. 証言31 戦前の北大東島の生活
  3. 戦前の渡名喜島
  4. 証言32 戦前の渡名喜島の生活
  5. 証言33 戦前の久高島の生活
  6. 証言34 中国大陸
インタビュー1、2
 識字学級/中華学校/朝鮮学校や教育等



戦跡

戦時中の日記

戦前/戦時中の時事評論


台湾2009


中国/韓国/北朝鮮
時事
読書感想
エッセイ
創作

過去ログ
活東庵を日付順に保存
(2007年5月以降)

沖縄10.10空襲

活東庵公開日:2008/3/5

 沖縄那覇は米軍が上陸する前、10.10空襲(ジュウジュウクウシュウ)を受けている。その体験談を聞く機会があった。興味深い内容なので抜粋を記す。
 体験者は当時小学校にあがる前の年齢。

*******************

那覇市郊外前島は1630年頃より塩田が盛んで、首里へ塩を献上していた。
一家は塩田(塩たき)で生計をたてていた。
おばあさんはカミンチュで、一族にとっての巫女のような立場の人、
既婚女性はみな刺青をする風習で、那覇士族の誇りが高かった。
おばも霊感があり、まだ戦争の気配のない頃から
「戦争が来るよ、ぱちぱちするよ」と那覇の街中をふれて廻った。
狂っているように見え、おばあさんはそんなこと言うと巡査に捕まる
といって連れ戻しに行った。

おばあさんはじめ、一族やまわりはみな、戦争が起きていることを知らなかった。
日本が開戦していることも知らなかった。
役所や教員など、知識人の人たちは戦争が来ることを知っており
疎開したりしていたようだが、自分のおばあさんや父母は何もわからない。
新聞を読むのはインテリ、インテリじゃないから知らなかった。
沖縄に兵隊が入ってきても、戦争が起きたとは思っていなかった。
前島は僻地で、平和だった。
何ごともなく、仲良くやっていた。

しばらくして10.10空襲が来る。
高貴な人の墓のある大きな七ツ墓のガマに逃げ込んだ。
遺骨を入れる甕(ズシガメ)を、「ごめんなさい、隠れさせてください」と
手をあわせて拝みつつ、片付けて隠れた。

照明弾が落ち周囲は真っ白になった。
馬が銃弾を受けて倒れ、大人たちが群がって解体、
食料がないため、どこかへ持っていって食べたのだろう。

父がここにいると大変だから逃げようと言う。
周りの人はみな、兵隊を追っていけば大丈夫だからと南方へ逃げる。
父は兵隊についていったらだめだと言って北へ逃げる。

途中サトウキビを齧って飢えをしのぎながら、
昼間は艦砲射撃の音が聞こえる中潜み、夜移動した。
死体がころがっていたが、何がなんだかわからない。
みなパニックになっていた。

うちも焼かれ逃げ惑い、2月上旬に佐久川屋類(浦添市)のガマに隠れた。
大きなガマは避難民がすでに入っていて入れなかったため、
崩れやすいガマに入った。
弟が泣くとうるさいため、おしめで口をふさいだ。
2/23、明け方、祖父とおばはガマの中で熟睡していた。
おばあさんは霊感が強くて入り口にいた。
父もガマが崩れやすいことを知っていたので外にいた。
艦砲射撃が始まり、ドカンときて、ガマがパッとくずれた。
父がたまたまいた兵隊に助けを求め、掘ってもらった。
兵隊は一人が数人か、覚えていない、たぶん一人だったと思う。
首まで埋まっていたのが、土の中から出るとすっと軽くなった。
「生き返った」という感覚、 祖父とおばは中にいて助けることができなかった。

おばあさんはあとで、あの子(おば)の言っていたことは本当だった、
「信じていれば」と悔やんだ。

南部ではドンパチやっていたが
泊の人は人にきいて具志川の高江洲に逃げてきた。
情報を得ながら人々が集まってきて、残っている民家にお願いして入れてもらう。

3月頃自分たちも高江洲にきた。
自然発生的に今で言う難民キャンプのようになり、
後に米軍が来て、そのまま収容所になった。

父は土地を持っている人に頼んで芋を作らせてもらう。
芋は半年で収穫、
この頃、食料は米軍物資ではなく、近くの浜で魚貝類を拾って食べた。
みな集まってきてひさしを借りての集団生活、
戦争とは無関係の生活だった。
半年から一年ほどそうしていた。

アメリカが来ても逃げる人はいない。
みな従順。
おばあさんは、石に蹴躓いたら、つまづいたあんたが悪い、
石が痛かったろう、と石に謝りなさい、というような人。
言うことを聞いていれば餓死することもない。
捕虜になったら死ぬ、というのは
(日本兵から言われたなど、そういう教えを知っていたのは)知識人だけ。
食物を与えてくれる人たちが自分たちの味方。

アメリカが守ってくれるとは思っていないが、
ここには親戚一堂もいるし、食物もある。
アメリカに助けられたと思っている。
友軍にもガマで助けられたが
アメリカは恩人である。
だから、今でもシュプレヒコールできない。
基地は出てゆけと言えない。

高江洲を捕虜収容所と言うが、実際には捕虜じゃない。
今で言う難民。
みなが言うから、捕虜収容所と呼んでいる。

収容所ではいやな目にあっていないし、強姦されたという話も聞かない。
8/15も終戦も知らない。

やがて、泊は軍用地になっているから帰さないが、
そのかわり、一人働ける人がいれば米軍の仕事をしながら
楚辺に一軒家がもらえることになった。
配給ももらえるという。
こうして泊、那覇の人たちが萱葺屋をもらった。
父は港湾作業ができるため、送られてくる物資を運ぶ雑役の仕事を得る。
こうして8歳頃一軒家に来た。

楚辺に来てから米軍物資がもらえるようになった。
配給所があり、米がある。
占領時によく配給を受けた。

小中学校は、当時役所が使用したりで空いた校舎に入ったため、あちこち変わった。
10歳から新聞配達をして家計を助け、中学は卒業できなかった。
それが心残り、今からでも学校に通って単位とって中学だけでも卒業したい。

おばあさんは、いつも正直に生きなさい、貧しい人には優しくしなさい、
きれいな心でいなさい、と言っていた。
こういう戦争をしていることすら知らずに亡くなった人も、弔わなければならない。
そこで平和の礎として活動している。
沖縄の社会に貢献するよう勤めている。

*******************

 戦争が起こっていること自体を知らなかった、という話も面白いが、お父さんの本能的な判断、「周りはみな、兵隊を追っていけば大丈夫だからと南方へ逃げたが、兵隊についていったらだめだと北へ逃げた」という話には考えさせられた。アメリカや日本兵に助けられた云々のくだりについて、この戦争に巻き込まれたそもそもの原因は米軍と日本軍ではないか、と言うこともできよう。素朴だが、そこが見えていない人たち、と。だが、その直感力に敬服する。「アメリカが守ってくれるとは思っていない」、「友軍」という感覚あたり、盲目的につき従っているわけでもない。距離を置いて自分たちの運命は自分で決める。こういう人たちも一種、真の”まつろわぬ民”かと思う。まつろわぬ民、とは国家に過度に依存せず、自活していける人たちのことと考える。
 思うに、教育には本能や直感を鈍らせる部分がある。理屈で心の中の声をだますようなところがあるのだ。

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インパール

活東庵公開日:2008/3/27

 太平洋戦争のインパール作戦に参加した軍医さんの話を聞いた。
 インパール、ナガランドからは毎年、アジア学院にもクリスチャンの研修生がやって来る。卒業生を訪問した際も、戦跡を案内されたり、旧日本軍で働いていた人だの、軍票が出てくるだの、戦争と切り離せない旅だった。話に出てくる地名で、マニプール州のところは何箇所か訪問したことがある。

***********************

生年:大正3年
召集:志願、現役
所属師団:近衛四連隊→60師団野戦病院付軍医→15師団歩兵60連隊第一大隊
兵科:軍医 
階級:入営時:軍曹 復員時:陸軍軍医大尉
所属師団:60師団野戦病院付き/15師団歩兵60連隊第一大隊
取材日:2008年2月17日(日)
取材場所:東京都田園調布教会

昭和16年10月20日
短期現役として26歳で志願
召集地:東京近衛師団歩兵4連隊
 2ヶ月訓練を受けているとき、12月8日に太平洋戦争が始まった。
昭和16年12月20日 陸軍軍医中尉任官

昭和17年1月1日
 みな南方へ志願して行ったが、幼少の頃ひどい盲腸を経験し外地勤務は無理とのことで、東京第一陸軍病院に配属される。
日清東亜の兵士の腸漏の処置をする
昭和17年4月10日
 60師団野戦病院付属軍医として中支に派遣される。60師団は警備師団で軍医は13人。常州のステパノ記念病院勤務。クリスチャンとしてステパノ病院の占領に反対、中国人にとっても病院の占領はよくないと反対したため、院長に睨まれ、これがビルマに飛ばされる原因となった。

 中支では療養所の所長をしていた。独立歩兵大隊では、患者が出ると上海の陸軍病院に入院するが、重症でないものは療養所に来た。蘇州常州でコレラが発生、療養所でも将校待遇の准尉が町に出てりんごを食べてコレラを発症、その世話をした当番兵が翌日コロリと亡くなった。一度人体を通過した菌は強力になる。これは大変だと調べると保菌者が10人おり、この騒ぎでコレラの処置を覚えた。今でもコレラが流行ったら対処できる。

昭和18年5月1日
 ビルマに向かう師団で軍医が一人足りないからと転属になり、15師団歩兵60連隊第一大隊軍医任官に任官。手続きで南京に一ヶ月、烏孫に集結、サイゴン、プノンペン、バンコク、チェンライを経由してビルマに入り、マンダレーからチンドウィン河を渡ってタウンダットへ向かった。

 昭和19年3月15日、インパール作戦開始。歩兵大隊付のため常に最前線、 大隊の軍医3名のうち、N中尉戦死、自分は負傷、T見習士官戦死。

 タウンダットまでは日本の陣地だったが、タウンダット以降は敵地になる。戦闘があるかと思ったが、敵は陣地に構えていて外に出てこず、さほどでなかった。
 これが結果的にふくろのねずみとなり、入ったところでめちゃめちゃにやられて放り出されることになった。敵は女王のおじマウントバッテン卿が指揮官、1年前から準備していた。

 モーレで第2中隊が総攻撃をかけるが3重の鉄条網に阻まれ味方の損害が増すばかり。
 このときの中隊長がG中尉だった。バンコクで貨車が1輌盗まれたとき、中尉は軍の機密書類を紛失した。当時タイは第三国でスパイが跋扈、本来なら軍法会議ものだが戦局慌しくうやむやになっていた。その責任を感じた中尉は白刃をふるって切り込み、機関銃の餌食となって華々しく戦死した。いわゆる死んで天皇陛下にお詫びする、だった。

 一中隊がシタチンジャオを攻撃するが、同じように失敗。これではしょうがない、と師団は一大隊をパレルに移動させることにする。
 アラカン山脈をのぼり、10日かかってパレルを見下ろすアングルックに到着。早く着きすぎて2日間食料がなかった。
 飛行機が爆撃してきて山全体が禿山になるほどだった。深い壕を掘ってその攻撃を耐えた。翌日、グルカ兵が突撃してきた。直接対峙した敵はみなグルカ兵、白人ではなかった(将校は白人だったようだ)。負傷して歩けなくなった衛生兵を連れ、谷底と稜線は敵が来るので山腹を通って逃げる。その後テグノパールに集結。

 昭和19年5月19日、英軍陣地ライマトールヒルを攻撃することになった。
 昼間は敵の飛行機が飛んでくるため、夜中に一列縦隊で電話線を手探りでつたって進む。50分歩いて10分休止。
 しかし、敵もレーダーで知っていた。

 早朝4時、休止中に迫撃砲の攻撃にあい、隣にいたT君が「T、やられました!」と叫ぶ。手探りでみると右腕がぐちゃぐちゃになっているのがわかる。1分して動脈からピューッと血が噴出すようになると終わりなので携帯しているゴム管で止血、ほっとしているとまた同じところに迫撃砲を受け、左太腿を切られた。
 大腿骨と動脈は無事だったので命に別状はなく、片足で竹内君と死に物狂いで山上に戻る。
 山上には敵が作った大きな二車線の道路があり、そこに寝かされた。
 運よく糧秣を運んだ味方のトラックが戻ってくるところに出会い、野戦病院まで行くことができた。

 味方の部隊は先に進み、5日後にライマトールヒルを総攻撃。
 夜中3時に工兵隊が鉄条網を大鋏で切って敵のトーチカに突撃、寝込みを襲われた敵は逃散した。
 午後、敵が十榴砲を打ち込み、トーチカが壊れて日本兵が負傷、軍医でないと手当てができないためT見習士官が呼ばれたが、行く途中、速射砲で撃たれ戦死した。
 自分はその後、サイゴンの陸軍病院に入院。

 昭和20年1月、ビルマ方面軍司令部から両目両手両足負傷以外は退院してビルマに戻れとの命が下り、多くの負傷兵が自己退院させられる。
 片目片足の負傷兵を連れてラングーンへ戻る。当初200人いたが到着時には80人になっていた。ビルマ方面軍で自分は中野学校の謀略部隊の中に入れられ、他は各部隊に配属された。謀略部隊はカレン族の懐柔を行っていた。

 敵がマンダレーまで南下している中、ラングーンの軍司令部は毎晩宴会をしていた。久留米の翠香園が移動してきており、高級将校は毎晩芸者の取り合い、このとき初めて炭坑節を聞いたが、日本が滅びようとしているとき、亡国の踊りと感じた。

 マンダレーから敵が南下、ラングーン陥落寸前に脱出、高級将校は飛行機でモールメンへ逃げる。他は陸路で脱出、最初トラックや車に乗ったがシッタン河で置いてゆく。あちこちで車両を燃やす煙、爆発音、2,30Mの火柱と熱で地獄でないかと思った。

 昼歩けず夜歩き、タトンから列車に乗せてやるとのこと、みな喜んだ。無蓋車だった。夜9時出発してすぐ、敵のゲリラに機関車を爆破され、いきなり停止したため、連結部分に乗っていた兵や前方に乗っていた兵が大勢落ち、ひかれて亡くなった。

 モールメンの港に着くには、夜間二艘の船の間に橋桁を渡してサルウィン河を渡るが、接岸が難しい。ヒマラヤの雪解け水の濁流で、こぼれ落ちた兵隊は必ず死ぬ。夜が明け始め、敵の飛行機が来たら大変と気が気でなく、対岸につくとみな蜘蛛の子を散らすように逃げ、その直後飛行機による機銃掃射があった。
「ビルマの竪琴」の水島上等兵は河で亡くなった兵隊の死体を拾って荼毘に伏して歩いたが、多くの兵士がそうやって亡くなった。

 モールメンから国境近くへ向かう。コーカレーで軍服を脱ぎ、ロンジーを捲いて無料診療所を開いた。
 当時ビルマのアウンサン将軍が英軍に寝返ったため、日本軍はカレン族を手なづけていた。カレン族も日本人を熱狂的に迎えた。自分はクリスチャンで、カレン族もクリスチャンだったので良かった。当時熱帯潰瘍が多く、ヨーチンで治した。インド人を治したらひれ伏して足元に口付けし感謝された。50年医者をやっているがこれほどありがたがられたことはない。

 敵は落下傘部隊をさかんに落としており、雨季があけたら大変だと思っていると、8月15日で終戦になりほっとした。死ぬまで軍隊にこきつかわれる、と思っていたから。

 謀略部隊にいたから戦犯と同じでつかまるため、原隊に戻る。泰緬鉄道でモールメンからノンプラドックへ行く。死んだと思われていたため、驚かれる。部隊はバンポンに駐留、衛生隊に組み入れられる。終戦時の階級は陸軍軍医大尉。

 昭和21年6月、駆逐艦神風で帰国、浦賀で500円もらって帰る。

大隊1000人のうち帰国できたのは100人、将校も少尉は100%戦死、負傷した2人の大隊長、自分と、負傷しなかった主計課の将校の4人しか帰れなかった。

戦傷で3分の1、アメーバー赤痢やマラリアで3分の1、餓えで3分の1が亡くなった。
中国では討伐隊といって、糧秣は現地物資に頼る、と書いてあった。
つまり現地のものを盗んできて煮炊きしなさい、ということ。
このため、中国で餓死した人はいない。
アラカン山脈は人の住んでいないところ、盗むものは何もなかった。

助かったのは神の御心、神の御心で生かされた。
戦死した同僚の兵隊の慰霊鎮魂と、戦争で痛めつけられた東南アジアの人たちのためにと、戦後インドネシアとカンボジアで数年づつ医療協力で外科手術を行った。戦友のためにも働かなければならないと思う。

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東京大空襲

活東庵公開日:2008/4/21

 東京大空襲にあたり、救助に向かった工兵学校生の話を聞いた。


生年:大正12年
出身地:東京都
召集:現役
所属師団:独立工兵第27連隊
兵科:工兵 (甲種幹部候補生)
階級:入営時:陸軍二等兵 復員時:陸軍少尉
取材日:2008年3月
取材場所:東京都

 昭和18年12月、特殊工兵として有名な独立工兵第27連隊(満896部隊)に現役入隊。集合地:広島。基本的に九州の部隊だが、この年のみ東京山梨など関東から入隊した。満州国牡丹江省穆稜県興源鎮で訓練、工兵の訓練は一番大変で、1日4食出た。土方、漕艇は重労働、電信柱や船を担いだりもする。独工27は工兵のエリート、あらゆる機械を有線(電纜)で操縦する。(このときの話には出ていないが、専門家の話によると無線操縦も行う特殊部隊だったという)

 昭和19年9月、甲種幹部候補生に合格、松戸の陸軍工兵学校に入校。あらゆる火薬について学び、爆弾も信管等を見れば分解できるようになった。

 昭和20年3月、東京大空襲となり、工兵学校生に出動命令が出た。地下工場に女子挺身隊300名が閉じ込められ、工兵でないと開けられないと工兵学校の学生全員が動員された。
 夜中歩いて松戸の地獄坂を下り、避難民が逃げてくる中を逆方向へ向かう。江戸川の対岸は火の海、鉄橋は熱くて渡れず船で渡った。
 工場は時計のS工舎の工場だったが、時計ではなく機関銃を生産していた。扉は工兵でなくても開く状態だったが、21歳の自分よりも若い女性がみな、機関銃を梱包する紐で足を縛り、お互い刺し違えて自決していた。火の海で助からないと思ったのだろう、窒息状態で生きているかのように死んでおり、中へ入った生徒はみな、文字通り腰を抜かした。死後硬直を起こしていたため、トラックに積めるよう手足を伸ばすとボキボキ音がした。

 その後隅田川で死体収容作業に従事。川が真っ黒になるほど死体が流れていた。女性が多く、女の死体は上向き、男は下向きに流れてくる(この女は上向き、男は下向きの描写は中国戦線その他でもよく聞く)。このとき、この戦争は負けると思った。
 焼け残った漁船を集め、斜めにつなげて死体を岸へ寄せ、鳶口をあごへかけて陸へ引き上げる。それでも船の隙間から東京湾へ流れてゆく死体もあり、次第に増えてゆく。東京湾の死体収容作業も行ったが、残った漁船も焼け爛れ、遠くまで探しに行けない。明るいと空襲があり、暗いと探しにくかった。

 集めた死体は学校の校庭などの広場に集めて木造家屋の焼けかすを集めて焼いた。戦後、品川区の教育委員会の人が、どの小学校にどのくらい死体を運んだか知りたい、と訪ねてきた。学校で幽霊が出るということで校長人事や教頭人事が大変だという。本当の話だ。そりゃ幽霊も出るだろう、あれだけの人が亡くなったのだから。

 自分たち外地経験のある工兵生は、内地体験しかない生徒よりも実際の対応にたけており、皆で知恵を出し合い、寝起きする場所の確保や食料の確保(届けると言っていたが届かなかったため、焼け残りを工兵機材で掘り出すなど)を行った。

 長い間、隅田川は自分にとって恐ろしい川、電車でわたるときも目をつぶった。80歳くらいになってようやく隅田川に慣れた。今は懐かしい。

 昭和20年4月工兵学校卒業、東京師管区工兵補充隊(東部第14部隊)に転属。第四中隊付台湾高砂族志願兵教官となる。
 米軍が上陸する県により、千葉や栃木の陸軍を利根川を渡って移動させる必要がある。焼けた漁船しかなく、船を動力するには櫓と櫂が必要。
 高砂族はまじめな人たち、身体能力も高いが、(山岳民族で)船が漕げないのが欠点。日本の若者より体力があり有能なので、教えることになった。利根川は流速1m、対岸に渡り沿岸流を利用して遡り再び横断して元の位置に戻る横方向移動ができるようになれば訓練終了だった。

 最後の頃、乗る飛行機がなくなった海軍の将校が陸に上がってきた。やることがなく、アメリカの不発弾の分解法を学ぶことになり、その教官になる。自分よりも年齢が上、休みにしようと言われ、巡察のあるときは授業のジェスチャーだけでもとらせてくださいとお願いする。これで戦争に勝てるのかと思う。

 自分は満州の独工27に戻らなかったが、今でもつきあいがある。彼らはシベリアへ行ったり群馬へ引き上げた。松代大本営を守るため、軽井沢で米軍を阻止できるのは独工27だと群馬に入った。富士見村の高原に碑がある。

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中国での日本軍

活東庵公開日:2008/5/26

 支那事変以降日中戦争に参加した元兵士の話を聞いていると、初年兵教育の一環として中国人を銃剣で突き殺す教育があった話をよく耳にする。おそらく中国で教育を受けた兵士はほぼ全員やっているのではないか、という。
 便衣隊もいるので自分たちには兵隊だか民間人だかわからない、よい気はしないが上官の命令だから従わないわけにはいかなかった、という。
 人によっては日中戦争で日本軍に殺害された中国人は全体で一千万くらいになるのではないか、という人もいる。いわゆる、中○連のように共産寄りだったり反戦を主張するタイプの人ではなく、大東亜戦争には日本にも正当な理由があったという考えの人でもそう言う人がいる。

 高見順の『敗戦日記』にも、敗戦後の日本の弱い立場について、復員した人などが町で「戦時中、日本が支那にしたことを思えば」とひそひそ語る場面がある。当時はそれが暗黙の共通認識だったわけで、いろいろあったのだろうと感じた。

 そうした話を見聞きすると、いわゆる”南京大虐殺30万”という中国の言い方は、南京に集約させて魂鎮めをしているような気もしてくる。逆にそこに集約させて、全体を語ろう、と。

 それでも、事実で遺したほうがよい。南京での出来事は市内と市外で明確な数字を出す。日本軍がよく歩いた鉄道沿いの山東省河北省湖南省などについても別途、明確に出す。
 一方、表立って語られることのあまりない、ある時代の暗黙の共通認識は、その時代の空気を知っている人がいなくなると継承されずに消えてしまう。そのためなかったことになったり、曲解や別の主張が出やすい。特に日本のように空気に支配されやすい社会は、あとから調べる際に問題が多い。目に見える形で遺しておく必要がある。

 ところで、兵隊にもいろいろいる。大人しいのもいれば、気の荒いのもいる。悪い兵隊もいて下をいじめたり、不寝番のとき寝ている兵のものをとったり、洗濯せずいつも汚くしていたり、なついている部落(中国の村落)はあまり荒らすなと言われても火をつけたり殺したり。勝つつもりでがんばって戦っているのもいれば、こんな状況で勝てるのか?と最初から懐疑的で特攻覚悟の突撃を命ぜられても土壇場で逃げてしまうヘタレ気味だったり(高学歴者に多い)。

 中国戦線で、上官にひどくいじめられ日本軍を抜け出し中国軍に参加した戦友がいる、という話を聞いた。部下を引き連れて毎晩陣地の城門外まで来て「XXいるか」と仇討ちに来た、しつこくて気持ち悪かった、最後には日本軍に捕まって処刑されたそうだ。
 自ら、というのは珍しいが、八路軍の捕虜になったりで中国軍に参加した兵士や軍属(特に医者や看護婦)の話はときどき聞く。逆の話はまったく聞かない。元兵士にその点を尋ねると「日本の軍隊はそういう雰囲気じゃない」と言った。軍属に朝鮮人や台湾人はいたが、と。
 この話に、取った相手の駒を自分の駒として使用可能な中国将棋と、使用できない日本の将棋の違いを連想した。

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戦争体験記(中国)

活東庵公開日:2008/11/17

 最近、対象的な2つの戦争体験を聞いた。まずその1編の抜粋を、以下に載せる。

生年:大正9年
出身地:東京都
召集:現地召集(山西省太原)
所属師団:佐倉16連隊→独立混成(第十)旅団(詳細不明)
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:伍長
取材日:2008年9月
取材場所:東京都

昭和15年7月13日 高校卒業後、満鉄グループの華北交通に入社する。各都道府県で1名づつ、自動車部隊、切符売りなどさまざまな部署の人材を募集していた。山西省太原の自動車廠で勤務することになる。
 太原は閻錫山のいた土地、山西モンロー主義で栄えており、独立国のようだった。対日感情もよく、現地の人も日本人に親しみをもっていた。

昭和16年秋 現地召集され、翌年1月2日に佐倉16連隊に入隊、初年兵教育を受ける。軍隊は学歴関係なし、1日早く入隊しただけで先輩。小遣いは8円80銭。その後朝鮮、満州、斉南を経て太原へ、独立混成(第十)旅団に配属される。
 旅団は主に山西省を移動、行軍の毎日だった。戦闘は山岳戦で、平地のないところ。相手は八路軍(パーロー)と中国軍(蒋介石)がいたが、パーローが主だった。勝ち戦が多かった。中国人には私兵(傭兵)も多く、お金でやりとりして、今日は蒋介石軍、明日は八路軍と変わった。
 食糧は配給で不自由はなかった。夜間は、移動が多かったこともあり、現地の家に入ることはほとんどなく、野宿が多かった。夜露は毒なので天幕を下に敷いて地べたに寝た。雨の少ないところで雨で困った記憶はない。
 その後、無線教育を受け、無線兵となる。

 無線部隊の班長のとき、本隊とはぐれ山の中に取り残されたことがあった。みな無線兵で小銃も2丁しかなく、班長どの、どうしますか、と聞かれ困った。中隊本部が来てくれ助かる。

昭和19年春 伍長任官

昭和20年 行軍で広東まで来ていたが、反転し、上海へ向けて移動開始。ポツダム宣言受諾を無線で聞いたが、玉音放送を聴いた記憶はない。
 上海のほうへ行くからおかしいとは思っていた。うすうす感じてはいたが、負けたとは思っていなかった。当時日本軍は200万くらいいたから負けるなんて考えられなかった。みなまだ戦えるのになぜ降参したのか、と天皇陛下を恨んでいた。どうせ降参するならなぜもっと前に降参しなかったのかと思う。1日遅れれば大勢が犠牲になる。
 上海で武装解除。最後戦友から「終戦直後軍曹になったと張り紙があった」と聞くが都庁の軍歴では伍長だった。
昭和21年春 鹿児島に復員。

 独立混成は別行動をとっていた。作戦で他の部隊と一緒になると「独混か」と言われ重要視されず、別軍みたいに取り扱われた。別行動のため、あまり敵と会わないようなところばかり歩いていた。旅団長はしょっちゅう変わった。中隊長小隊長は変わらず、メンバーも同じ。最後分かれがたかったが、出身地もバラバラ、戦友会はない。
 ラジオの尋ね人の時間にずいぶん自分も呼ばれた、と連絡をとっていた戦友から聞いていたが、こちらも生活に忙しくそのままになってしまった。
 何とか作戦、とよく言っていたが、興味がなかったので覚えていない。歩いたところの地名もあまり覚えていない。
 部落は日本軍がいると安心した。部落を守っている。新しい部落がなついているかどうかは、日本語がわかる人がいるかどうか、拡声器で反応を見て見分けた。
 新兵さんがくるというので喜んでいたら補充兵だった。40くらいのや乙種丙種。20代の若い健康なのと違い、背嚢をしょって歩けない。無理してひっぱってゆくが、そういう人を連れて歩くだけで大変だった。
 甲幹試験について、受けるかどうか人に相談したが、受かると戦地が長引くと聞いて受けなかった。そういう人が多い。
 軍隊は慣れれば楽。慣れない人、体の弱い人は大変だろうが、食住は確保されているし、男同士で何の気兼ねもない。
 華北交通は、戦後、大塚の事務所へ行って退職金をもらった記憶がある。
           以上

 友人の父親に取材した内容だが、新兵に中年や第二乙種丙種の補充兵が来て大変だった話が興味深かった。
 一般に、戦後文章や映画などに記録を残す人は、文筆業その他表現活動に従事する人が大半で、いかに軍隊が非人道的で、自分が合わずに苦しんだかを書き残すケースが多い。一方、志願で入った若者や、徴兵検査で甲種合格の現役兵は、書き残す人もいるが著名な本や映画として一般の目に触れやすい状況にはない。小説や著名人の日記、映画を見ているだけだと抜け落ちる当時の状況、実感があるな、と感じた。
 同様のことは「軍隊は慣れれば楽。食住はあるし、男同士で何の気兼ねもないし」という話にも感じた。よくこうした話では、最後にお約束のように「だから戦争はいけない」というフレーズを入れなければならない雰囲気があって、それはそれで嫌いなのだが、そう結ばない人もときどきいる。

 余談だが、必ず一定の着地点にもってゆかなければならない暗黙の決まりは、1980年代までの中国映画で、どんなに途中までの内容がすばらしくても、最後に必ず「中国共産党万歳」に(無理やり)もってゆく必要があり、突然崩れてしまうのと同質のものを感じる。強制と罰則(場合によっては暴力も伴う)検閲かどうかと、雰囲気かどうかはもちろん、かなり異なるが、マスメディアなどではやわらかい検閲があって、そこへ持ってゆかねば放送されない、などがあるだろう。
(中国映画「黄色い大地」が、さいご「中国共産党万歳」と言っているようで、実は途中までで川に飲み込まれてしまう秀逸なendingをとったことは有名。)

 ところで、何十人もの人の話を聞き続けているうち、「軍隊は慣れれば楽」という言葉が出てくるように、中国戦とアメリカとの戦いは根本的に異なっていた、ということが実感としてわかるようになった。おそらく、戦闘そのものの圧倒的な違い同様、戦争に至った経緯もかなり異なる。
 どう異なるのか、詳しい内容は、もう一人の証言の抜粋とともに、次回に回すが、中国との戦争はほぼ侵略だが、昭和16年12月8日以降のアメリカや連合国との戦争は、日本の右派の主張も一概に切り捨てられないと感じる。

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戦争体験記2(中国)

活東庵公開日:2008/12/14

 最近中国に関する対照的な戦争体験記を聞いたことで、前回はまず、中国での戦闘にも理由はあったし軍隊もそう悪いところではないとする話について紹介した。
 今回はかなり批判色の濃いほうを紹介する。

生年:大正2年
出身地:東京都
召集:現役 二回目:現地召集
所属師団:麻布3連隊 二回目:独立第10守備隊
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:上等兵
取材日:2008年9月
取材場所:静岡県静岡市

昭和8年
 徴兵で麻布3連隊入隊、初年兵教育
 麻布3連隊は後に2.26事件を起こし、懲罰兵団のため友人は誰も残っていない

昭和9年
 鉄道省大宮工場に採用
昭和12年
 母の死をきっかけに転属願いを出し、軍属として中国山西省へ。鉄道無線には電池が必要で、その維持のため線路沿いに転々とした。
 食料は徴発でなく軍の食糧。兵隊は月16円のところ、軍属は220円もらえ割が良かった。

 山西省では、日本軍は軍閥閻錫山と関係がよかった。
 閻錫山はすごい人。日本の軍事を勉強し、経済、仏典も研究していた。山西モンロー主義をしいており、そこだけで独立できるよう、軍事と民生の工場を24持っていた。周囲から攻め込まれぬよう、鉄道も狭軌にしていた。世界中の良い機械を集め、最後は航空機まで作ろうとした(それを日本軍が奉天かどこかへ持っていった)。中国人からは非常に好かれており、蒋介石は軍事だけ、民事は閻錫山のほうが上だった。さいご、行政委員長となる。

昭和15年 
 日本で小さい鉄工所を買い、港湾庁の許可を取って中国に移設し日本軍の砲弾の製作をはじめた。中国人、韓国人を使っていた。中国人と韓国人は仲悪い。

 当時、日本軍はお金を作るため阿片、コカイン、モルヒネを売っており、某政治家(のちの首相経験者)の下で働いていた家内の兄もかかわっていた。戦争に負けだすと国際法違反に問われはじめたため、トカゲの尻尾切りで個人が勝手にやったことにされる。海千山千の義兄は逃げたが、自分が憲兵に捕まり零下15度の独房に21日間拘束される。普通だったら死んでしまうが、若い頃登山をやっていたため対処法を知っており生還した。しかし、戻ったら生後7ヶ月の娘を亡くしていた。娘は憲兵と義兄の上司だった某政治家に殺されたと今でも思っている。
 この憲兵隊長は戦後人民裁判にかけられた。一人1発ずつ鞭で叩いてゆき、誰の鞭で死んだかわからないため叩いた人に罪はないとする方法で、中国人に殺された。

 中国に来て数年で負けると思ったので(軍人が勝つ気がない。金もうけばかり)中国人と仲良くすることにした。技術屋なので何でも直してやると喜ぶ。中国人は、負けて捕虜になっても、こいつは使えると思うと殺さない。敵も味方も面白がって首を切る日本軍とは違う。

 当時、中国人はお札とメキシコドル(銀貨)に財産を分けて持っていた。お札は政権が変わればパーになる。お札も朝鮮銀行券、日本銀行券、中国の法幣、関税札と4種類あった  昭和14年に中国人は、日本軍はじき帰るよ、早くお金まとめたほうがよい、負けて帰ることになるよと言っていた。中国人は政権交代に慣れている。

 中国軍は日本の銃を持っていた。チェコ機銃も持っていたが小銃は三八。日本兵が売り、むこうも日本の銃をほしがっていた。

昭和20年6月
 太原で現地召集。  独立第10守備隊に歩兵として配属、中支へ申告に行くと、すぐに太原へ戻れという。食事も出ず、せめて水でも飲ませてください、と水をもらって帰り、再び砲弾作りに従事。

昭和20年8月15日
 太原で玉音放送を聴く
 数日間書類焼却と毒ガス処分に従事。毒ガスはびらん性と窒息性とで青と赤とあり、山に埋める。蒋介石の中央軍が強力だったため、毒ガス弾を使用していた。山砲で毒ガス弾を撃った。

 山西省は武装解除されていない。
 居留民2万4千名がおり、それを守れとの軍命令が出た。澄田中将(息子が日銀総裁)らは、あとでそんなことは知らない、という。逃げて勝手に残った、と軍命令で残った山西の日本兵らは逃亡兵の扱いになる。彼らは、それまでの軍歴分もすべてパーになって恩給がない。

 敗戦と決まったとき、朝鮮人のうち、今の北朝鮮地方出身の人はぱっといなくなった。南出身の人は呑気に残っており、退職金をもらって帰っていった。当時から気質は異なる。北はこすくておっかない、南は怠け者と見られていた。中国人は態度が変わらなかった。

 閻錫山が「きのうまでは敵、今日からは味方」と言い感銘を受ける。その後閻錫山のもとで砲弾工場を継続。何も変わらなかった。

昭和21年
 国民政府の嘱託となる。

昭和23年
 日本転勤命令を受け、佐世保に上陸。そのとき引揚証明書を取られ、軍人であることを消された。最後の階級は敗戦上等兵。
 国民政府大使館に3年間勤務後、退職金をもらって退職した。

 10年間中国にいて、本当の敵は日本軍だった。日本の国家は国民をごまかす。中国の戦争も、隣のものをかっぱらう戦争だったが、満州は日本の生命線だのいう。それに舞い上がった民衆が損をするのは当然。みな取り憑かれて満州へ渡った。虚偽の宣伝に踊らされた。現実を見ようとしない。

 戦後、台湾にある閻錫山のお墓を二度お参りしたが、名前はいっさいなく「世界大同」の文字のみ。この文字は空からしか見られない。
           以上

 立場が異なれば見えてくるものも考え方も異なってくる。だからできるだけ大勢の証言を聞いたほうが全体像がつかめる。
 最後の2段落は説得力があると思うが、特に最後から2番目は中国戦を集約した言葉だと思う。前回も書いたが、中国戦(15年戦争)と対米戦(太平洋戦争)とは戦闘の質も大きく異なるが(元兵士はたいてい、中国派遣後、戦局のあやしくなった南方へ送られているが、中国での戦争は後から思うと子供の戦争だった、それほどアメリカとの戦争は武器も規模も桁違いだったと口をそろえて言っている)、目的も動機もまったく異なる別々の戦争(もちろん、連動はしているが)だと感じる。

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全般的な話

活東庵公開日:2009/4/30

 このところ、大東亜戦争の体験のある老人の話を聞く機会が多い。直接取材したり、取材テープを再生したりで聞くのだが、すでに百数十人の話を聞いた。
(ちなみに大東亜戦争、と書いたのは、太平洋戦争では対米戦争がメインで中国戦がぬけてしまうこと、十五年戦争は中国大陸での戦争に関する呼称、第二次世界大戦では1941年の対米宣戦布告以降になってしまうため、このようにした。左系の人はいやがると思うが、当時も使われていた呼称だし、中国、仏領インドシナ、ビルマ、南洋、対米すべて網羅すると思うので)

 海軍、陸軍、歩兵機関銃兵通信兵輜重兵などさまざまな立場の人の、千島、満州、北支、フィリピン、ビルマ、ガダルカナル、ニューギニアなどさまざまな戦場での話を聞いていると、いままで漠然としていたあの戦争の様子が少しずつ見えてくる。

 昭和13、14年あたりに兵隊にとられた人は、いったん除隊したあと2回3回と再び行っている。16,17年あたりになると除隊せずそのまま続けて移動するのだが、特徴として、どちらも最初は中国に行くことが多い(昭和16年以前は、戦場は中国だけだったので当然だが)。
 その後、昭和18年19年になるとフィリピンやビルマ、南洋諸島、ニューギニアへ転戦している。すでに対米戦争での旗色の悪いころで、この移動で初めてアメリカとの戦闘に遭遇し、中国戦とのあまりの違いに驚いた人が多い。重火器の圧倒的な威力と物量に、アジアの戦争は子供の戦争ごっこだった、と言う人も多い。(中国派には不愉快な証言かもしれないが、そう言う人が多いのは事実だ)
 また、最後まで中国戦線に残っていた人たちから、負けている気がしなかったから玉音放送を聴いて驚いた、まだ戦えるのになんで降参したんだ、とみな怒っていたという証言もよく聞く。(これも中国派には不愉快だろうが、そう言う人が多い)
 一方、ニューギニアやフィリピン、南洋諸島などは食べるものもなく餓死者が相次ぐ状況だった。

 一方、昭和19年20年兵は、志願の15,6歳の若者か、徴兵の場合はそれまでなら兵隊にとられなかった乙種丙種か妻子のいるおじさんで、新兵として迎える側は「とても戦力として使えなかった」と言い、徴兵された側は「抑留だので同年兵が一番多く亡くなった。弱かったからもたなかった」と言う。また、すでに海上輸送がアメリカの潜水艦による攻撃で機能していなかったため、内地だけで終戦を迎えた人も多い。

 捕虜の扱いは国力による、ということも如実に感じた。もっともひどかったのはソ連で、シベリヤ抑留など強制労働で有名だが、抑留者はみな、ソ連はひどく貧しかった、と言う。子供も大人もぼろぼろの服を着ていた、兵隊も腕時計なんてないからみな盗られた、なんでこんな国に負けたのか、と癪に障った、という人が多い。ソ連はナチスドイツとの戦いで疲弊しており、女子供老人が多かった、男は傷痍軍人か身障者を多く見かけた、という抑留者もいる。捕虜が強制労働させられたのは、疲弊した国を立て直す目的もあったのでは、イタリア人やドイツ人捕虜も強制労働させられていたという人もいる(捕虜の扱いに関するドイツとの感情的なあれこれについては『ベルリン陥落』にも記載されている)。
 ニューギニアなど、オランダの捕虜になった人も、捕虜といっても、降伏以降も食料の配給も何もなく、自給自足生活が続いた、部隊ごとに勝手にやっていた、オランダは貧乏な国だから、という。
 オーストラリアの捕虜になった人も、ひどい目にあったと言っているそうだが、まだ直接話を聞く機会がない。

 アメリカの捕虜になった人は、怪我をしていれば丁寧に治療してくれ、食料もレーションが配られるなど豊富、みなまるまると太ったという。その代わり、一緒に相談などしないよう、部隊はばらばらにして収容所に入れられ、戦犯調査も厳しく行われて現地の人による首実検も行われた。収容所から作業に行くこともあったが、厳しくなかった話が多い。
 フランスの捕虜になった人も、紳士的な待遇で食事もベトナム人が作ってくれおいしかったという。
 イギリスの捕虜になった人は、悪く言う人もいるが、ドライなだけで悪意とは違う、と言う人もいた。アメリカ兵は個人的に知り合いになると目をつぶってくれたりする面があるが、イギリス人はそういうところがなく、作業の時間も5時なら5時できっかり終了、早めてくれることもなければ残業もなかったという。

 中国は、大量の日本兵が残留しており、向こうにとっても危険だったので、とにかく早く返そうという意識が強く、アメリカの船も使用してどしどし復員させていった。基本的に日本兵は日本兵で固まって帰還を待ったが、待遇が悪かったという話は聞かない。中には密約で中国内戦の傭兵となり、”蟻の兵隊”のように内戦を戦わされた人たちや、八路軍に参加させられたり、理念に共鳴して自ら参加した人たちもいる。中国共産党のためのスパイ放送をやっていた野中参三の話など、中国での戦争の話は、軍事技術云々よりも権謀術数、さまざまな生き方がかいま見え、そちらの意味でも興味深い。

追記:
 下に他の取材証言の抜粋を載せるが、全般的な話の追加として、もともと海軍は人数が少ない。徴兵検査のときは勝手に決められ、自分でどちらに行きたいと希望することはできない。
 軍隊といえども兵科によってやっていることがかなり違う。通信や主計、整備兵だと直接ドンパチやることはほとんどないし、生存率も高い。機関銃などは死亡率が高いと聞いた。
 昭和19年後半や20年に召集された人は戦闘する間もなく終戦を迎えたりシベリア送りになるケースが多い。
 その他、入隊が志願か徴兵検査(現役)か召集(赤紙)かも重要。昇進コースもさまざまあり、そのどこにいるかによって立場も変わる。

 話の内容はそのまま残すことを基本方針にしている。それは主義主張に関してもそうで、戦争は絶対やってはけないという立場の人も、あれは正当な戦争だったと言う人もそのまま編集せずに残す。
 一方、話している内容が真実かどうか、という問題がある。これはその場で確認できればその場でただし、できない場合は他の資料と合わせてゆく、つまり歴史学にゆだねる。本人の思い違い、長い年月がたっているので記憶のずれもある。意図的な糊塗もあるだろう。それも含めてまずはできるだけ話してもらうようにしている。
 直接語れる人が少なくなりつつある今、まずは語ってもらい、直接の証言をできるだけ残すことだ。

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証言:6 海軍−トラック島大空襲、フィリピン
生年:大正15年
出身地:熊本県
召集:志願
所属師団:佐世保第二海兵団
兵科:飛行機整備兵 
階級:入営時:四等整備兵 復員時:一等整備兵曹
取材日:2007年12月)
取材場所:熊本県熊本市

昭和17年
学校へ行くため佐世保の海軍水交社に勤務、朝の部に通学。いずれ軍隊に召集されるのは必至なことと、当時少年航空兵が若者の憧れの的のため受験。飛行機整備兵として合格(飛行兵は1割も採用しないとのこと)。

昭和18年
大村海軍航空隊に配属
その後第九四期普通科飛行機整備術練習生として相模野航空隊入校
同年9月海軍五五一航空隊(木更津)に入隊
九七艦攻、天山艦攻を搭載した航空母艦千歳にて横須賀港を出航、シンガポール、コタラジア(スマトラ島北端)に上陸。当時は大東亜戦争はどこでやっているのか、と思うくらいのんびりしていた。

内南洋は激戦とのことでシンガポールから航空母艦海鷹でトラック島へ向かう。
昭和19年2月11日トラック諸島の楓島に到着
2月17日午前5時、空襲警報が発令され大編隊が来襲。零戦とグラマンの空中戦が空一杯に始まり曳行弾が交叉、敵艦隊による基地と艦船への爆撃が始まり、炸裂弾や水柱で大変な惨状。昭和十六年の真珠湾攻撃の所と場所を変えての再現かと思う。夜を徹して飛行場を使えるように工事。
翌18日も早朝に再び空襲警報、味方戦闘機はほとんどやられたのか思うままにやられる。夏島の艦隊用の大燃料タンクがやられ、約1週間燃え続けた。日本海軍の粋を集めた艦隊が撃沈されてゆくさまは何とも無念だった。これで戦争に勝てるのかとひそかに思った。
夕方5時に最後の敵機が引き上げ、夜総員集合、玉砕覚悟の訓示、まだ若かったので死ぬという意識よりも興奮した。

その後は毎日空襲は受けたが、その日の攻撃目標となった島のみが攻撃されたため、 よその島のときは呑気にすごせた(大小140の島がある)。米軍が特定の島のみ攻撃したのは、攻撃目標の島への道筋に艦船を配置し、撃墜された場合に乗員を引き上げるためだった。 後で聞いた話だが、楓島には囚人が島流しになっていたという。犬養毅暗殺実行犯の青年将校だったらしい。

昭和19年7月、数字の航空隊は解隊になり、第一航空艦隊司令部付となる。病院船でフィリピンへ向かう。違反なので臨検にあわぬよう出歩くなと言われる。(橘丸が兵員や武器を積み込んで臨検を受け撃沈されている)。
昭和20年1月、陸戦隊に編入され、マニラ防衛隊としてマッキンレーの山下奉文将軍の壕に入る。このためマニラ市街戦は見ていない。
壕の中には水がなく、外のドラム缶に水を汲みに行くたびに迫撃砲にやられて死体が重なっていた。壕には負傷者が次々と運び込まれ、大隊長への連絡にゆくとき水をくれと呻いていたのが、連絡から戻ると真っ暗で静かになっていた。誰かの手か足を踏んだが何の反応もなく、マッチを擦ってみると全員死んでいた。
壕を出て東海岸まで転進するため、歩けない兵を殺したという。その後米軍のビラで「防空壕は日本軍の墓場」とあった。

東海岸で現地の人の家を、家人を追い出して占領したときは憲兵が来てあまり無茶しないでくれと言われた。
マニラ市街では戦闘中現地の人に撃たれた人もいた。
その後追い詰められ山奥に入った。
米軍の警戒兵は黒人で、日本兵を発見すると発炎筒を焚き、それをめがけて迫撃砲が来た。常に黒人が前線で白人は後方、その後収容所に入ったときも黒白の区別ははっきりしていた。
食料も乏しくなり、みなマラリアで苦しんだ。動けない兵に殺してくれと頼まれたり、動けなくなった同年兵にみなで食料と手榴弾を渡したことがあった。彼はみなが離れてすぐに手榴弾を破裂させた。
連絡係だったので中隊と大隊の間を往復したが、藪のあちこちに病気の兵がおり、死ぬと蝿が卵を産みつけ、丁度口に握り飯をくわえたように見える。2,3日すると動き出し骨が見えてくる、着用しているものが黒く見えてきて食い尽くすまで約一ヶ月かかる。

昭和二十年八月十五日、ラジオで終戦の詔勅を聞く。
いつか内地から救援がきて捲土重来を期すものと思っていたのでみな涙を流す。
武装解除され捕虜収容所へ。相談できぬよう、部隊をばらばらにして収容される。
昭和二十一年、突然戦犯容疑で戦犯容疑者収容所に送られる。その後疑いは晴れたが、6ヶ月入れられた。
のちに、フィリピン人の虐殺のあった街に同時期にいたためではないかということがわかる(この虐殺は別部隊によるもの)。

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証言:7 北支その他
出身地:東京都
所属師団:独立混成第八旅団第32大隊第三中隊、落下傘部隊、暁第1982部隊
兵科:軽機関銃班、落下傘部隊、通信兵
取材日:2008年3月、5月
取材場所:東京都

昭和13年
 麻布連隊に入隊
昭和14年2月
 独立混成第八旅団第32大隊第三中隊に配属、満州へゆく予定が北支派遣となる。

 河北省晋県で初年兵教育を受ける。敵を銃剣で突き殺すすさまじい教育、敵兵か農民か自分たちには見分けがつかず、命令でやった。毎日軍事教練があり、すさまじさに落後する者もいた。体が丈夫だったので一期検閲を無事終了。

 最初軽機関銃班だったが、3ヶ月後に希望を聞かれ重いので小銃班へ移動。
 あまりしゃべらない性格から推薦されて暗号教育を受け、暗号兵となる。当時大東亜戦争が始まりつつあり、暗号でどんどん入ってきた。解読して部隊長のもとへ持ってゆく。暗号は新しいことが次々入り、全軍について解読するため、秘密兵としてあまり一般兵と交わらぬよう個室をもらった。暗号兵は敵に囲まれたら暗号書を食べてしまえと言われた。
 暗号兵は無線士が打ってくるものを解くから、無線士が下手だと数字が出てこず、解くのが大変。上手だと正確に解ける。討伐に出かけても、みなが休憩の時間に解かなければならないので、休めない。

昭和15年11月18日
 南智邱において、第三中隊分遣隊が八路軍の大軍に囲まれ、小隊長以下ほぼ全滅する戦闘に遭遇、九死に一生を得る。日本兵の遺体は皆全裸、目はくりぬかれ耳鼻が切り取られて誰だかわからなかった。中隊長にはなぜ小隊長と一緒に死ななかったと言われた。大隊長はよく死守したと褒めた。

 当時、この戦闘以外は基本的に日本軍のほうが優勢だった。
 共産軍は武器はよくなかったが勇敢だった。正規軍は負傷した日本兵捕虜に包帯捲いて返したり正しかったがお坊ちゃん。共産軍は粘っこく野生的。

 同期で討伐で捕虜になったのがいる。初年兵だからと向こうが助けて送り返してきたが、戦友会には決して出てこなかった。
 ひどい上官がいていじめられ、日本軍を抜け出して中国軍に入った日本兵がいる。部下を従え城門の外で「XXいるか」と仇討ちに来た。その後日本軍に捕まり処刑された。
 悪い兵隊も多い。下の兵を苛めたり、不寝番のとき寝ている兵の物を取ったり、洗濯せず汚い格好のままだったり。

 部落は日本軍が来れば日本軍、八路軍が来れば八路軍に尽くす。部落に良くしてくれればよい。
 なついている部落は荒らすなといわれ、隣の部落に討伐にゆくが、中には気の荒い兵隊もいて悪いことをやる。隊長によっては部落に火をつけたりする。みな情報がすでに行き渡っており、残っているのは老人だけ。火をつけられると苦しいからみな出てくる。それを殺したりする。
 討伐要員は普段は宣撫工作を行い、戦いを専門にしているわけではない。某隊長の遺品を整理したら、かなりのものが出てきた。
 
昭和17年
 暗号で落下傘部隊の募集を知り、どうせ生きて帰れないならパレンバンの落下傘兵のように華々しく戦死しようと応募。適正検査があり、体の重い人、平行感覚のない人はだめ、足の強さもみる。全陸軍から募集、100人中10から15人しか受からない。
 所沢で、体を柔らかくするため軽業師のような基本訓練を受ける。次に二子玉川で、高いところから落として足を鍛える訓練を繰り返す。着地が下手だと足を折る。だめな人はどしどし原隊へ戻された。宮崎で最後に飛行機から飛び降りる訓練。一瞬風圧で意識不明になる。ふわふわ落ちているようで、二階から落ちるような衝撃があり、骨を折る人もいる。

 落下傘部隊はビルマ作戦に参加することになり、その前夜の歓送会のさなか、教育要員として日本に残れと言われる。その後部隊はビルマで全滅、当時の戦友は誰も残っていない。
 主力が全滅したため部隊は解散、北支の原隊に復帰。この頃はもう日本軍の旗色が悪く、劣勢だった。敵のほうが多かった。

昭和18年12月
 現役はとっくに満了しており、予備役で務めていたため、いったん内地に帰る。

昭和19年2月
 2ヶ月後再召集、通信兵が足りないと暁第1982部隊の船舶担当となる。船がなく大発で訓練、出ると負けで船がやられ、やることがなかった。本体は台湾のため、台湾へ向け出港したときも本隊がやられて沈み、自分たちは後備だったため助かり引き返す。

昭和20年8月15日
 内地で物資を調達しているうちに終戦。信じなかったので、どこで聞いたか忘れた。

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証言:8 フィリピン
生年:大正10年
出身地:東京都
召集:志願
所属師団:松本連隊→不明
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:一等兵
取材日:2008年4月
取材場所:東京都

証言:
昭和18年11月
 大学を卒業した秋に召集を受け、松本連隊に入隊
 一期検閲後、第一線選抜としてフィリピン派遣が決定する。これはもう帰れないと思った。
昭和19年
 フィリピンへ向かう途中、台湾を抜けたバシー海峡で、輸送船が魚雷によって撃沈される。飛び込めず躊躇して船と一緒に沈んだ兵も多い。自分は飛び込んだが、潮の流れが速く、泳いでいないと沈んでしまう。力尽きて亡くなった人も多い。1、2間後に護衛艦に救助される。日本へ帰れると思ったが、マニラへ上陸した。マニラでは掃討作戦に参加。
昭和19年後半
 米軍が攻めてくるとのことで、ロペスへ向けて行軍。山道で半月ほどかかった。車や船で輸送するのでなく歩いて第一線まで行く状況に、「戦闘にならない」と内心思う。勝つためならよいが、何のために目標地までゆくのかわからず不安だった。

 行軍の途中、空中戦を見たが空襲は受けなかった。ロペスへ着いたとたんに一転、激しい空爆を受け味方は大損害を被る。激しく出血している者も多いが軍医はおろか衛生兵すらいない。シャツを裂いて止血しても何にもならなかった。米軍が上陸したら突っ込め、最後まで戦えとの命令だったが、みなどうしたらよいかわからず、隊長の一存にまかせることになった。

 隊長は残った弾をすべて兵に配分し、突撃兵には銃剣を、肉弾兵には爆弾を渡す。自分は肉弾兵となり、なんとなく嫌だなと思ったが、みんなやってきたんだからと自分に言い聞かせた。
 二人一組で敵の戦車を待ち構えるが、近くの建物に迫撃砲が落ち火災が発生、戦車が来る前に爆弾が危ないぞ、と爆弾を置いて逃げる。ジャングルで翌日、相方の戦友に会う。当初はお互い話にくかったが、とにかくここは危ないと二人で逃げ、ジャングルの中を10日ほど彷徨った。

 4〜5人のゲリラに遭遇し拘束される。根拠地に向かう途中、後ろを歩く戦友の悲鳴が聞こえた。おそらく殺害されたのだろう。東北の貧しい農家出身の人だった。

 根拠地に着くと窪地へ連れて行かれ、村人が大勢遠巻きに見守る中、刀に口付けするよう何度も強要された。ここで殺されると思ったとき、爆撃音がして戦車が見え、日系二世の米兵が来て処刑を止めてくれる。

 米軍の捕虜となり、マニラ近郊のバターンガスへ。他二人の日本兵とともに飛行機でニューギニアへ飛び、その後オーストラリアで徹底的な取調べを受ける。うち一人は士官学校出で英語がよくできる人だった。
 出身校、連隊名を聞かれ、また向こうも連隊のことをよく知っており松本の町にも詳しく相当情報を持っていた。白人だが下手な日本人よりも上手な日本語を操り冗談も言う。取調べは捕虜となった兵全員が受けるのではなく一部のみ、なぜ自分が取り調べられたのかよくわからない。とにかく彼らの言うなりになるしかない、と考えた。

 取調べが終了し、収容所へ入る。大きな収容所だったが、みなお互いあまり話をしなかった。捕虜のためいつどうなるかわからない、会話を交わすゆとりのある気持ちにもなれなかった。勝っている戦ならまだしも、戦闘についていまさら話したいとも思わない。マージャンや野球をやる人もいたが、みな現状を忘れるためだった。

 終戦は収容所で迎えたことになるが、当時終戦の情報は入らなかった。帰国するときも、理由は言われなかったしこちらも聞かなかった。ただ、大体想像はついた。

昭和21年6月
 浦賀に復員、浦賀が空襲でやられていた。上野まで来ると相当やられている。これでは負けて当然だと思った。

 収容所では、シベリアのように(民主)主義の教育だのは一切なかったが、死の行軍が噂になったことはある。マニラの虐殺、バターン死の行軍も、日本軍としては理由があった。でもやられたほうから見れば虐殺。負ければ賊軍というが、負けるとそういうことになってしまう。

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証言:9 ニューギニア
生年:大正10年
出身地:東京都
召集:現役
所属師団:北支駐屯第一連隊第十一中隊、陸軍27師団224連隊
兵科:歩兵
階級:入営時:二等兵 復員時:陸軍中尉
取材日:2008年6月9日
取材場所:神奈川県

証言:
昭和16年12月10日
大東亜戦争が始まってすぐ、現役兵として近衛歩兵第5連隊入営
唐山の、北支駐屯第一連隊第十一中隊にて初年兵教育
長辛店にて二期教育

昭和17年4月20日
甲種幹部候補生となる

昭和17年6月1日
南京金陵部隊にて将校教育を受ける

昭和17年11月30日
卒業。見習士官を命ぜられる(7期)
原隊復帰

昭和18年6月25日
陸軍27師団224連隊(山形連隊)に転属。山西省の警備にあたり、大行作戦に参加。
山西省は山がちのところで、国府軍、八路軍と3つどもえの戦いだった。八路軍はまともに戦争せず、すぐ逃げてしまう。まだ日本が勝っている感じだった。
しかし、後から考えると、アジア人の戦争、中国での戦争は子供の戦争ごっこだった。
米軍との戦争は、猛烈な空襲、重砲弾にさらされ桁がまったく違った。

昭和18年10月
南方へ転進。南京で部隊編成するが、どこへ行くかは極秘だった。装備は支那より落とされたと感じた。南方の服装だったので、ビルマかニューギニアを予想。

昭和18年12月1日
少尉任官

上海から下関に着くと、住民が旗を振ってくれ、何とも言えない気持ちになる。しかし上陸はできなかった。

輸送船の甲板上は竹の筏だらけで、潜水艦に撃沈されると覚悟する。2、3千トンクラスでも貨物船のため10mある深い船倉に2、3百人、さらに兵器や馬も詰め込まれ、上陸したときには山のような荷に驚いた。ジグザグ走行で、スピードは7、8ノット、狙われたら終わりでやられた船は見捨ててゆく。

兵隊は部隊と一緒に行動しないと生きてゆけない。体の弱い者、負傷した者、落伍した者は置き去りにされる。

昭和19年12月
パラオで元旦を迎える
のどかなよい所だったが、病院船の橘丸がおり、ミイラが並んでいた。聞くと骨と皮ばかりのマラリア患者で、ニューギニアとはものすごいところだと感じる。

昭和19年1月15日
ニューギニアのサルミ上陸
アジアのジャングルと異なり、ニューギニアは大密林
すぐに大河(モンベラモ川)を遡行して100キロ奥地に分駐

ピオニール(オランダの属領)で土人にオランダは滅びたと宣撫
人喰い人種もいるが、酋長は非常に人格者だった

道路偵察隊長としてピオニール〜サルミ間の内陸を偵察の任に当たる
地図がないため歩測
最初案内役の土人が逃げて失敗、酋長らと再決行し1日5キロ、約2ヶ月かけて200キロ踏破し海に出る。
途中古参兵の初年兵いじめを注意し、無言の抵抗にあう。ここまで来ても人間関係に苦労する。

昭和19年5月
サルミはすでに敵機の空襲を受けており、ホーランジャから敗走兵らが来る。案内してくれた土人らは空襲の恐怖に顔をこわばらせ何か言うが、こちらも余裕なく対応できないうち去っていた。今思うと食糧も持たせずそのままで、かわいそうなことをしたと思う。
砲弾の鉄を引き裂く音はものすごく、気が狂う兵もいる

岬へ行くと米軍艦がずらりと並んでいた
米軍は艦砲射撃を開始、上陸

昭和19年5月19日
将校斥候を命ぜられ、5名連れて敵情偵察に出る。
アラレへ2名で行き敵陣潜入。被弾して肩を貫通したため、部下を情報の報告に行かせ、単独でトム陣地を見つけ地図作成。

5月25日
先遣隊将校に情報を報告
師団長がただちにトムを夜襲し米軍を殲滅、大勝する

その後司令部の場所を知られ砲撃される
傷を治して第一線に復帰すると、前から機銃弾、頭上から迫撃砲弾が雨アラレ状態

6月24日
総攻撃を行う
砲弾により左足を負傷、7月1日ガス壊疽により大腿部より切断
衛生隊は医薬品、食糧共に不足し屠殺場と呼ばれていた

斥候の功績により師団から5名の兵隊が派遣されてきて、衛生隊から師団高級軍医部へ運ばれた。外へ出ると白骨街道、まだ息のある人たちが
「助けてくれ」「殺してくれ」と言っている。
後方へ入るとみな結構食事している。特に主計が太っていた。

昭和19年11月3日
明治節に論稿行賞で将校斥候の功績で賞詞を受けるが、負傷とマラリアで、頭を上げることすらできない状態。鏡で6年ぶりに見た自分の姿は橘丸のミイラと瓜二つ、生ける屍の状態だった。

昭和200年
米軍はサルミを撤退しフィリピンへ
戦闘がなくなり、現地自活の生活に入る
みなマラリアで衰弱死するが、なぜ生き返ったか記憶にない。おそらく栽培収穫したサツマイモで体力を回復したと思う。当番兵がよくやってくれた。彼は終戦間際熱病で寝込み、その頃体力の回復した自分が逆に面倒を見たが、戦後復員前に亡くなる。
日本で息子を会ったとき、彼とそっくりで驚いた。

昭和20年8月15日終戦

8月20日
陸軍中尉
オランダは金がないため、その後も自給自足生活。まとまっていたため、捕虜の気分はまったくなかった

昭和21年6月
氷川丸で帰還、国立病院へ入院、義足の訓練を受け、マラリアと肺結核で久里浜病院で2年間療養

その他:
入隊する前、中国で3年間仕事をしていた。武漢の青年団で、中野学校へ入る前の小野田少尉と知り合い、今でも親交がある。

中国で日本軍は悪いことは一切していない
部落の人たちを守るために駐留しており、部落の長も日本軍に「自分たちを守ってくれ」と言ってきていた。

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証言:10 ビルマ
生年:大正10年
出身地:鹿児島県出水市
召集:現役
所属師団:第五航空教育隊→ビルマ派遣軍第19飛行場大隊整備中隊→第7航空地区司令部
兵科:航空兵 特業:通信
階級:入営時:陸軍二等兵 復員時:陸軍兵長
取材日:2008年7月
取材場所:埼玉県

昭和17年3月1日
現役兵として第5航空教育隊で4ヶ月訓練を受ける
昭和17年7月10日
行き先不明のまま門司港を貨物船で出港。高雄港、シンガポール港に寄港して、約1ヶ月で8月15日ビルマのラングーン港に上陸

昭和17年9月1日
第19飛行場大隊整備中隊に配属
その後、第7航空地区司令部に転属

トングー、メークテーラー、マンダレー、へーホーなどを転戦
移動が多く、一箇所に半年以上いることはなかった。移動手段は行軍と自動車と半々で、行軍は1日に約20キロ歩いた。

航空兵で通信(有線)だったため、おもに先遣隊として入り電話回線を敷設、通信網を整備してから交換勤務に従事

まれに英軍の空襲を受けたが単発的だった
戦争は基本的に乾季のときのみで、雨季は戦争はなかった

たまにボロボロになった日本兵を見かけたが、インパール作戦に参加した日本兵だった。作戦があることは知っていたが、結果などはまったくわからなかった。

食事は日本食、現地の人が作った
ビルマ人は親日的、食糧も豊富だった。だんだん楽しみにしていた慰問袋が来なくなるなどあったが、戦況悪化はあまり感じなかった。後方部隊だったこともあるが、恵まれていたと思う。

昭和20年4月28日
モールメンを出発、国境を越えてバンコクへ入る
この時点ではまだ平穏で、なぜ移動するのかよくわからなかった
勝ち戦だと思っていた
移動手段は行軍と自動車と半々、バンコクも平穏だった

昭和20年5月
仏領インドシナのサイゴンに退却

昭和20年6月4日
第7航空地区司令部のみ仏領インドシナのプノンペンに退却
フランス軍を見かけたが、日本が負けている感じはなかった

昭和20年8月15日
玉音放送を聴いたが、「これからだよ」という偉い人がいたりで負けた感じはしなかった。
その数日後から、フランス軍に降伏するのだから失礼のないように、と毎日降伏の練習をした。仏軍は紳士的で、武器は取られたが私物などは取られなかった。

当番制で仏軍部隊の掃除をした。
日本人は気が短いから、ビルマで英軍捕虜を蹴ったりしたが、仏軍の紳士的な様子に、これが逆だったらどうだろうと考えた。

昭和21年5月10日
鹿児島に復員

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証言:11 フィリピン
生年:大正9年
出身地:東京都
召集:現地召集(台湾)
所属師団:台湾歩兵第一連隊→第14方面軍直轄独立自動車第63大隊→第35軍経理部
兵科:歩兵→主計
階級:入営時:二等兵 復員時:主計軍曹
取材日:2008年5月
取材場所:東京都

証言:
昭和16年10月
 台湾の製糖会社に勤務時に召集、台湾歩兵第1連隊に入隊
 訓練はなく、旭小学校でフィリピンの地図の仕分を行った

昭和16年12月8月
 開戦により、夜列車で高雄へ移動
 台湾軍司令部参謀部の当番兵となる。参謀部の当番兵は中学を出ているのがなった。
 台湾軍から比島派遣軍に編成替され、フィリピンへ向け出港。高雄港でも澎湖島周辺でも日本の軍船をたくさん見かけた。

昭和16年12月
 リンガエン湾に無敵上陸、次々都市を攻め落とす。
 翌17年1月10日頃マニラ入場、入場式をとり行う。
 しばらく参謀士官付当番兵を務めてフィリピン各地の視察に随行。その後、当番兵などいらない、とのことで第14方面軍直轄独立自動車第63大隊へ編入される。自動車隊は日産、トヨタ、シボレーの車種で分かれており、シボレーの部隊に入る。自動車隊では匪賊掃討に出動。
 南方総軍の寺内伯爵がサイゴンから来て、地方軍のお前らは移れと言われマッキンレーに移動。

昭和18年7月28日
 第35軍が創設され編入、経理部へ行き経理の教育を受ける。経理部は営繕課、金銭経理、糧秣経理に分かれ、糧秣に入る。移動する軍隊に補給する命令を出す部署だった。

昭和18年11月末
 軍司令部のあるセブ島へ巡洋艦で移動
 壕を掘って準備する

昭和19年11月1日
 10月20日レイテ島にマッカーサーが上陸したと聞き、輸送艦にてレイテ島オルモックへ。満州の玉兵団を輸送するための高速輸送艦に乗るが、3杯のうち1杯は撃沈される。
 着いてすぐ糧食を民家に隠すが、昼間、米軍の赤とんぼが偵察に飛び、夜間、長距離砲(20センチカノン砲)で隠した糧食がやられる。第35軍は玉兵団と米軍に挟まれる形で西海岸のカンミポットという岩山へ、レイテの山の中を逃げ回る。食料は現地の土民の畑から調達したり鶏を獲ったり、乾燥トウモロコシの粉をひいた。玉兵団は満州から馬を連れてきたが、食べさせる稲藁がなく役に立たなかった。

昭和20年1月
 レイテにいてはだめだ、玉兵団は優秀だから逃がせということになり皆行ってしまう。35軍は残されたが、経理部士官と一緒だったため、これで最後だという大発に乗ることができた。大発は夜、山の松明をめざして来るが魚雷でやられることも多い。また、銃痕を応急処置で布で塞いでいたため、大勢乗ることができなかった。
 セブにはまだ衣食があったが、すぐに米軍があがってきた。北の天山基地へ行くが、空襲でひどくやられる。B24は後ろに機関銃がついていて、一人でも狙ってきた。
 自分たちは軍経理部でまとまっていたが、たいていは雑兵となりばらばらになっていった。雑兵同士まとまっているのもおり、これが危険。縄張り意識があり、日本兵が日本兵に殺された。フィリピンのゲリラにも襲われることも多かった。信号弾があがると危ない。フィリピン人は家族を殺されたり財宝を獲られたりで日本兵を恨んでいたため、ゲリラに捕まると殺された。自分たちは必ず2人で行動するようにしていた。レイテでもセブでも、とにかくよく歩いた。

昭和20年8月末
 米軍が撃ってこなくなり戦争が終わったとわかる。
 収容所へ行くと、終戦前にバンザイした先輩の日本兵が大勢おり、丸々と太っていた。しかし皆偽名だった。自分たちがバンザイしなかったのは、米軍の前にゲリラがいたから。米軍は殺さず捕虜にしてくれるが、ゲリラには殺される。
 商業学校で英語を学んでいたため、セブとレイテの収容所では戦犯の通訳となる。フィリピン人が首実験に来ると、日系二世の米兵と日本兵で英語のできるのとセットで調べる。収容所では第一段階の調査、さらに取り調べが必要な人はマニラに送られ再聴取となった

昭和21年12月26日
 名古屋熱田港に復員。
 米軍から進駐軍に連絡がいっていたようで、日本でも進駐軍の通訳となった

補足:
 比島派遣軍マニラ入場の記念アルバム、および自動車隊のアルバムがある。まだ戦況が悪化しない頃、軍属の看護婦さんに頼んで先に持ち帰ってもらったもので、みなボカ沈でやられたため、おそらく自分しか持っていないだろう、という。日本軍が勝ち戦の頃の、貴重な写真集だった。

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証言:12 海軍整備兵
生年:大正11年
出身地:静岡県
召集:現役
所属師団:横須賀第二海兵団→第801海軍航空隊付第11航空艦隊第25航空船隊→横浜基地第1081海軍航空隊横浜派遣隊
兵科:海軍整備兵 
階級:入営時:海軍二等整備兵 復員時:海軍二等整備兵曹
取材日:2008年9月
取材場所:静岡県静岡市

昭和17年12月1日
 徴兵第一乙種で海軍整備兵として現役編入
昭和18年1月10日
 横須賀第二海兵団に入団、海軍2等整備兵
昭和18年4月15日
 一等整備兵
 第801海軍航空隊付第11航空艦隊第25航空船隊
昭和19年5月1日
 海軍上等整備兵
昭和19年11月1日 
 海軍整備兵長、17日より台湾の第801海軍航空隊東港基地勤務を命じられる
昭和20年5月18日
 東港基地派遣勤務を免ぜられ、上海、福岡と飛行機で移動、横浜基地へ
昭和20年7月15日
 横浜基地第1081海軍航空隊横浜派遣隊入隊
昭和20年8月15日
 横浜で玉音放送を聞く
昭和20年9月1日
 海軍二等整備兵曹
 終戦により除隊

 飛行機の整備の仕事だった。船の人は船に泊まるが、自分は倉庫勤務だったので、横須賀でも台湾でも下宿から通った。夕食と朝食は下宿で食べる。夜出るときに、よく酒保でお酒や甘いものを買って下宿へ持っていった。下宿は自分で探す、自分は出身地の人の家へお願いした。下宿先が良い人だとよいが、よくないと大変。下宿代は海軍が払う。台湾でも食料は主計から配布され、苦労はなかった。

 玉音放送では、もういいよ、と言われどんどん帰った人もいる。航空隊の一番えらい人は自動車に乗って帰っていった。自分たちはガソリン燃したり武器を隠したりした。

後記:脳梗塞を患ったため多少話が不自由だったが当時の資料を保存しており、熱心に話してくれた。

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証言:13 中支
生年:大正9年
出身地:静岡県
召集:召集、現役
所属師団:静岡34連隊→河南省黄陂県黄陂の第三師団本部
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:二等兵
取材日:2008年9月
取材場所:静岡県静岡市

証言:
昭和15年12月20日
 徴兵で静岡34連隊入隊、西富士錬兵場で初年兵教育

昭和16年5月18日
 静岡から神戸へ、揚子江を遡り、河南省黄陂県黄陂の第三師団本部へゆく
 結核になり上海へ戻る

昭和16年12月8日
 大東亜戦争始まる
 武漢へ戻り、留守部隊で陣中日誌を書く任務にあたる。これで助かった。第一次、第二次長沙作戦があり、大勢戦死した。その後、残りの部隊はサイパンへ
 陣中日誌は、根拠地に出かけXX村を警戒、探索にゆくなどと書いた。大きいことはスパイでわかる、支度をするからみな逃げてしまう

 みな連隊旗に忠誠を誓って戦った。日清日露以来でボロボロだった。自分は傷病兵で一足先に帰ったが、最後どうなったか。靖国の話は全然出ない、戦死者は従軍僧がいてお祈りし、遺骨にして送る。日本へ持ってゆく人は大喜び。

 食料調達は朝鮮人の軍属がやっていた
 実際現地では聞いたことはないが(東京では聞いたことある)、中共軍に参加した山西省の野坂参三が岡野進の名でスパイ放送をやっていた
 とにかくスパイ、便衣隊が多い。荷物担いだり床屋だったり、いくつもあってお金次第でどっちにでもつく。

 新四軍につかまりそうになったことがある。最初はやさしい、乱暴しないと聞いた。
 土地は丘陵の連続、低いところにクリークがあり、魚がいる。魚、野菜に寄生虫が多く、うっかり食べると大変。

 何度も病気になり、野戦病院ですごすことが多かった。病院では赤痢が多い。回虫も多く、回虫で腹痛になり部隊が全滅したことも。当時はレプラだのすごい病気があった。戦闘で気が狂ったのもいた

昭和19年
 傷病兵のため、病院船で広島へ戻り療養所に入る

昭和19年12月
 東南海地震発生、藤枝の実家へ戻る。当時報道されなかったが袋井が一番ひどく線路がなくなった。清水もかなりやられ、沼津は地震、空襲、艦砲射撃でひどかった。B29が空一杯、真っ暗になるほどで高射砲を撃っても届かない。それに特攻機がぶつかってゆく
 米軍はラジオでサイパン便りを放送しており、ビラも配ってどこに落とすか予告していた

昭和20年8月15日
 故郷で玉音放送を聞く。やれやれ電気をつけられると思う
 傷病兵のため、34連隊ではないが軍籍はあった。病気が多く、最後まで二等兵

後記:紹介者の話では多少認知症が入っているとのことだったが、当時のことは鮮明に覚えているようすだった。

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証言:14 満州→シベリア抑留
生年:大正12年
出身地:静岡県
召集:現役
所属師団:静岡第二師団戦車第35部隊(実質第3方面司令軍経理部兵科:機動歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:不明
取材日:2008年9月
取材場所:静岡県静岡市

昭和18年5月23日
 第二乙種のため補充兵として満州へ。機動歩兵として、戦車第35部隊入隊。軍神西住戦車隊長の戦車第7連隊の流れを汲む部隊
 甲種、第一乙は現役兵、はぶりがよい。補充兵は頭数が多かく、第三丙まで来た
 戦車隊はみな短銃で、一式装甲兵銃、九九式短銃
 6月に師団動員がかかり、フィリピンへ行くため昼夜猛演習、しかし補充兵は満州に残留となる。同年兵はフィリピンで戦死
 訓練では、戦車砲手のため砲の格好をした台にしがみついて上下左右に動かした。キャタピラを掃除するのが大変だった。少年戦車兵が入ってきた。みな体ががっちりしていた
 戦車隊は歩兵のように布団をきちっとたたまなくて良かったので、その点楽だった
 
昭和18年7月9日
 奉天の第3方面司令軍経理部へ派遣される。銃は置いてゆけと言われ戻るつもりでいた
 食料は軍属の調達係がいた

昭和20年8月15日
 旅団司令部で玉音放送を聴く。雑音がひどかった
 千人ずつ大隊を組んで北上始まる。司令部管理部でその手配を行う。経理部教育隊も9月1日に北上、どこへ行ったかわからない
 原隊の戦車隊の連隊1200人も終戦と同時に現地召集した人は招集解除で返し、虚弱兵は入院措置で800人となる。モンゴルのウランバートルの抑留で51人死亡、静岡の19、20年兵の大半は補充兵、弱いからもたなかった

昭和21年3月15日
 最後、管理部も北奉天駅から北上

昭和21年4月12日
 ハバロフスク到着、抑留生活始まる。収容所の兵舎の2階に満州国の大臣たち(満人)がいた。すぐに第二収容所に移ったのでどうなったかは知らない。
 ソ連はひどく貧しく、こんな国に負けたのかと癪に障る。農作業に従事、ジャガイモを一往復植えて戻ってきて1日が終わり、それくらい畑が広かった。ノルマはない。食事は足りないが炊事が分けたので喧嘩はなかった。よそはそれでもめたらしい。亡くなった人はいない

昭和22年1月14日
 ハバロフスクを出発、一番早いダモイだった

昭和22年4月18日
 ナホトカ着、おなかを壊して入院

昭和22年6月28日
 舞鶴復員

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証言:15 中支
生年:大正6年
出身地:栃木県烏山市
召集:召集 二回目:召集
所属師団:近衛第4連隊→中支の鍛冶川部隊(近衛部隊)  二回目:宇都宮59連隊
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:軍曹
取材日:2008年11月
取材場所:栃木県烏山市
出身地:栃木県馬頭町

証言:
昭和14年8月
 畑でタバコの葉を収穫していたら、赤紙がきたと連絡があった
 近衛師団第4連隊に入隊
 烏山から近衛に入隊するのは明治以降3人目で大変な名誉

 中支の鍛冶川部隊(近衛部隊)に配属される
 鉄道で奥へ入るとすでに戦闘中、鉄兜をもらわないまま戦った
 新兵は、古い人が死んだり怪我したりで鉄兜をもらった
 宜昌作戦、第一次長沙作戦、第二次長沙作戦、浙かん作戦に参加
 浙かん作戦は玉山飛行場を取る作戦(ANSIでは"かん"の字が出ない)

 最初は機関銃で、九二式機関銃を3人一組で扱う
 分解するので手入れが大変だった
 すぐ敵に狙われるため、一箇所でぶたずに(撃たずに)
 屋根の上からなど、移動してぶつ

 途中で迫撃砲になったが、志願ではなく部隊で変わった
 馬に積んで歩き、12人一組で扱う。測量係などがおり、自分はぶつ係
 一発で当たるのは珍しく、三発で一発当てる

 長沙作戦では揚子江を船で馬を運んだが、馬に慣れている人がいない
 馬頭は博労の村、馬の扱いは達者だったので、馬を下ろす作業を頼まれた

 上海、南京、漢口と行軍し、野宿が多かった
 天幕を張ると敵に見つかるため地べたに寝る 
 漢口の西から新野までの300里を1ヶ月で往復したこともある
 行軍中燃すものがなく、家の戸を背負って運んでいた
 夜、敵と区別するため、腕に包帯を巻いて敵の中に入った

 夜暗くなってからご飯をたき、今日のメシはおいしい、と言っていたら
 敵味方の血の混じった真っ赤な水で炊いたからおいしかったことがある
 戦死した兵は二週間すると暑くて溶けて骨だけになる
 溶けた遺体は服で敵味方を区別する

昭和17年12月
 除隊
 満州から朝鮮、九州と通って戻る

昭和19年7月
 再召集
 宇都宮59連隊に配属

昭和20年4月
 茨城県東海村へ敵が上陸するということで、守備につく
 勝田が艦砲射撃でやられ、偉い人の首が飛んだ
 くっつけて元に戻して始末しろと言われ、烏山の兵隊が担当した
 首を飛ばした破片を今も持っている

昭和20年8月15日
 東海村にて終戦
 常陸にアメリカの捕虜がいて、戦後いばっていた
 最終階級:軍曹

後記:
 脳梗塞で退院したあとで体調がよくなかったためあまり長い取材はできなかった

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証言:16 海軍飛行隊
生年:大正15年
出身地:熊本県
召集:志願 (岩国海軍飛行隊第3期乙種(特)飛行予科練習生)
所属師団:鹿谷海軍航空隊配属 801空攻撃703飛行隊
兵科:飛行兵 
階級:入営時:不明 復員時:海軍二等飛行兵曹
所属師団:司令部付第五海軍航空艦隊801空攻撃703飛行隊
取材日:2009年4月
取材場所:東京都杉並区

昭和16年
 小学校高等科卒業後、飛行機会社に事務で入る
昭和17年
 予科練にあこがれて試験を受ける

昭和18年8月1日
 岩国海軍飛行隊入隊
 第3期乙種(特)飛行予科練習生となる
 6ヶ月、座学、通信、手旗などの基礎訓練
昭和18年9月
 三重海軍航空隊入隊
昭和19年1月25日
 卒業、高雄海軍航空隊入隊
 第3期(特)飛行術練習生となる
 飛行機に乗った訓練を行う
昭和19年8月15日
 第二高雄海軍航空隊入隊
 第36期飛行術練習生(射撃整備)
昭和19年10月20日
 卒業
 卒業まぎわに台湾沖航空戦があり、地上でガソリンを入れたり支援する

昭和20年1月5日
 鹿谷海軍航空隊配属 801空攻撃703飛行隊
 一式陸攻で対潜飛行に従事する
 ルソン海峡に潜む潜水艦を電磁探知機で探して沈没させる任務
 昼は潜っていて出てこない
昭和20年3月
 この頃から大変になる
 敵の起動部隊が九州沖へ現れ、毎日のように爆撃、雷撃に飛ばさせる
 一式陸攻は一式ライターと言われ、どんどんやられる
 日本は少しでも軽くして速力をあげようとし、アメリカは少し速力が落ちても防弾などの設備を頑丈にした

 これではだめだということで偵察攻撃隊となる
 801空偵察703飛行隊と改称
 偵察に絞って敵の機動部隊を探し出し、待機している特攻隊に連絡、攻撃してもらう

 特攻隊は昭和19年10月に出たが、もともと戦闘機が特攻隊になった
 自分は陸攻だったため特攻隊ではなかった
 しかし、一式陸攻も下に魚雷をつけ、現地に着くと操縦士が魚雷に飛び乗って突っ込む「人間魚雷」の特攻を始める
 1回目は3月18日。このときは全員やられ、その後何回出てもほとんどやられた
 戦友が行ってくるよと飛び立ち、帰ってこなくなる。随分亡くなった

昭和20年4月
 敵は沖縄に移動、中城湾に敵の輸送船がいた。毎日爆弾を抱いて飛び立つ
 陸軍の兵も追い詰められ、食料弾薬がなくなり、陸軍を援護して弾薬を運ぶ
 その一方で米軍基地を攻撃。両方やって大変だった

 沖縄まで行くのに通常は夕方6時に出て朝5,6時に戻る
 途中まではなんでもない
 到着した頃、グラマンが待っていてやられてしまう
 急にガーとやってくる。グラマンに会ったらとても太刀打ちできない
 逃げるしかない
 敵の電波探知機に見つからないよう、真っ暗な中海上5Mの低空飛行でゆく
 波があたることもある
 真っ暗な中、流れ星がシューシュー流れるのが見え、気持ち悪い
 見つかると花火のように上下からやられる
 毎日、この地を踏むのはこれで最後だなあと思って出て行った

 飛んだところはわかってしまうので目的地に行くしかない
 インチキすればばれちゃう
 桜島を目当てに戻ってくる

昭和20年5月17日
 諫早沖に墜落したことがある

昭和20年7月1日
 大分海軍航空隊に移動、夕方敵の艦載機が低空で来て飛行機がみなやられてしまった
 九州には練習機を含め4000機ある、全機特攻だと特攻命令が出る

昭和20年8月14日
 この日なかなか命令が出ず、普通夕方6時に沖縄に向かうところを夜中に出た
 翌朝戻って寝ていたら、昼から重大放送があると言われる

昭和20年8月15日
 玉音放送。これから陸戦だと思う
 大分から偉い人(司令部付第五海軍航空隊の親分)を乗せて厚木へ向かい
 飛行機を引き渡して、小田急線で帰る

 最後の階級は海軍二等飛行兵曹

 戦後戦友と「ああ軍歌」という木島ノリオのTV番組に戦友達と何度か出た
 昭和30年代の番組とのこと

後記:
 秋はとても元気だったが、冬病気をされて入院、かなり体調が悪そうだった。
 ご本人が話しておきたいとのことだったので取材させてもらったが、短時間だったため再取材したかった。しかしこの後まもなく亡くなられた。

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証言:17 樺太在住→学徒出陣
生年:大正12年
出身地:福岡県
召集:学徒出陣
所属師団:久留米西部第52部隊 (山砲兵第212連隊)
兵科:砲兵 観測通信班
階級:入営時:二等兵 復員時:軍曹
取材日:2009年7月
取材場所:東京都新宿

昭和5年
 小沼小学校入学、小学校4年生のとき小森小学校に入学

樺太は10月に初雪が降り、11月から3月まで根雪が溶けない。5月まで雪が降る。

当時樺太は石炭が取れた。王子製紙もあった。住んでいた小沼村は養狐業がさかんで、カナダから銀黒狐を輸入して養い、襟巻きにして売っていた。父の転勤で次に住んだ西海岸沿い小森村はニシンで有名で、春になると海の色が真っ白になるほどあがってきた。数の子を取ったあとは肥料にしていた。

小学校にはロシア人もおり、近所に5,6軒ロ助の家があった。みな日本語を使い、ロシア語は聞いたことがない。アイヌ系もいた。土民のオロチョンは、シスカのほうにかたまって住んでおり近所にはいなかった。

昭和11年4月
 豊原中学校入学。豊原は大きな町、当時は日本人しかいなかった。
 村長など内務官僚を勤めた父親が亡くなり、母の実家のある福岡県八幡に戻り、八幡中学に転入。
昭和16年4月
 中央大学予科入学
昭和18年12月
 学徒出陣にて久留米西部第52部隊
 (山砲兵第212連隊)入隊、二等兵
昭和19年3月
 幹部候補生乙種合格
昭和19年4月
 陸軍伍長に任官、初年兵教育係として残る
昭和20年4月
 動員令にて菊地32606兵団に編成替
 沖縄救援に向かうことになり、直前に出た船団は全滅したが、自分の船団は途中で引き返したため助かる
昭和20年6月
 宮崎県都農で本土決戦に備えて退避壕を掘る
昭和20年8月15日
 終戦。玉音放送は雑音がひどくて聞こえず
昭和20年8月22日か23日
 召集解除で鉄道不通のため、線路を歩いて帰る(高鍋から先は通じていた)。
 九州は独立しよう、あくまでアメリカと戦おうという連中がいて、武器弾薬を持たされ通常よりも早く召集解除で戻った。あとで見習士官が武器弾薬を取りに家まで来た。

体が強くなかったため、砲身を担いだりはせず、観測通信班になった。馬の世話は大変だった。水を飲まないと糞詰まりの病気になり、寝ずの番で腹を藁でこすった。

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証言:18 満州、北支
生年:明治45年
出身地:福島県会津若松市
召集:現役
所属師団:歩兵第29連隊第3中隊→独立混成第3旅団通信隊→独立混成第3旅団司令部付
兵科:歩兵 
階級:入営時:二等兵 復員時:少尉
取材日:2009年5月
取材場所:福島県会津若松市


昭和8年1月20日
 現役兵 歩兵第29連隊第3中隊入隊
 12月1日 仙台陸軍教導学校入校

昭和9年11月10日 同校卒業 
 12月1日 伍長(定年により、兵隊1年やる必要がある)
 二年兵教育(演習)を受ける。

昭和10年12月1日 軍曹
昭和11年2月27日
 2.26東京戒厳令勤務。若松から1個中隊が行き、宮家の警備にあたる。青年将校が謀反を起こしたと聞いたのみ、その他のことは知らなかった。情報は入らない。兵隊は命令のみで動く。
 3月20日若松原隊帰還

昭和12年4月19日
 満州派遣 新潟から東興へ。広いが山がちのところ。匪賊討伐を行い、まだ戦闘はなかった。
 12月1日 兵曹長(定年により、兵隊2年やる必要がある)

昭和13年4月28日 ハルビン移動
 5月21−22 徐州会戦。迫撃砲を打ち込まれ戦死者も出た、もうだめかと思った。

昭和13年10月29日−翌年1月9日
 パラチフスで入院

昭和14年4月1日 上級職(年限まだのため、位より上の仕事をすること)
昭和14年8月29日 ノモンハン事件参加、9/1ハイラル、9/7将軍廟
 9月16日 停戦協定。戦闘が厳しい(全滅)と聞いていたので、帰って来られないと思っていたが、戦闘せずに停戦。行軍がきつかった。
 9/25八等瑞宝章 10/24牡丹江掖河
 12月1日 准尉
 満州では、匪賊討伐以外は兵器検査、制服検査など、日曜は慰問袋を開けたり蓄音機で歌ったり。

昭和15年3月29日
 結婚により内地帰還
昭和16年6月30日
 独立混成第3旅団通信隊へ転属。
 7月5日 山西省山享★(漢字が出せないため偏とつくりを分けた)県駐屯

昭和17年11月16日
 新潟県高田で初年兵受領
昭和18年4月20日−5月22日
 大行作戦参加
昭和19年2月16日
 六等瑞宝章
 准尉で編成などを担当していた。

昭和20年5月30日 少尉 独立混成第3旅団司令部付
 5月31日 予備役編入
 8月15日 終戦 司令部にて玉音放送を聴く。
 通信隊は内地情報を盗んで持っているため、噂はあった。内容ははっきりしなかったが、負けたことはわかった。内地に帰れるのはいいが、どうなるか心配、お先真っ暗。中国人の態度は変わらない。日本人は感情的だが、中国人は変わらない。
 書類整理で燃やしていた。
 10月14日 山西省山享県出発
 11月5日 天津第118師団司令部着
 12月2日 北支方面軍天津連絡部勤務。戦犯容疑がかかり、復員に時間がかかる。

昭和21年1月14日
 天津から佐世保に復員。千葉県稲毛で留守事務を行う
 3月13日 召集解除
 3月23日 福島県地方世話部で勤務のため千葉出発
 5月22日 第一復員事務次官

 山西省はあまり敵対行動はなく、治安はまあまあ、八路は奥にいた。現政権は火事場泥棒でとったもの。

 初年兵教育といえば、終戦の頃は朝鮮の兵隊もいた。習慣もあわずなかなか容易でなかった。終戦後逃げたのもいる。

 戦争をするには理由がある。負けるけんかをしてはだめ。けんか、戦さ長引かせてはだめ。戦争は負けてはだめ。勝てば官軍。

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証言:19 北支、ニューギニア
生年:大正9年
出身地:山形県上山市
召集:現役
所属師団:歩兵第132連隊補充隊→北支那歩兵第224連隊第七中隊→豪北派遣第36師団歩兵第224連隊第七中隊
兵科:歩兵軽機関銃隊
階級:入営時:二等兵 復員時:軍曹
取材日:2009年5月
取材場所:山形県上山市

昭和15年12月1日
 歩兵第132連隊補充隊入営
昭和16年1月30日
 北支那歩兵第224連隊派遣のため山形出発
 2月11日 第七中隊編入 山西省晋城県沢州の警備
 中原会戦、沁河作戦、二十七軍掃討作戦参加
昭和17年
 冬季山西粛清、晋翌予辺区、南部大行、秋季山西粛清の各作戦参加
昭和18年
 十八春夏大行作戦参加
 10月9日 南方軍転用のため沢州出発
 10月18日 中支南京着、同地警備
 10月20日 軍令陸軍第65号により第36師団編成改正下令
 11月25日 編成完結歩兵第224連隊第七中隊編入
 11月27日 豪北派遣のため呉淞港出港
昭和19年1月15日
 パラオ経由でニューギニアのサルミに上陸
 5月に米軍が上陸
 サルミ、マッフィン、トムの戦闘に参加
昭和19年8月1日
 第六中隊転属
 8月7日−20年2月20日
 サルミ地区敵進攻破砕作戦参加
昭和20年8月1日
 陸軍軍曹拝命
昭和20年8月15日 停戦。
 山奥で農業をすることになり、各部隊から一人出せということで8月14日朝に出発した者が、翌夕方戻ってきた。ふぬけで物も言わない。負けたと直感。大隊長がドラム缶風呂で諸葛孔明が負けたときの歌を歌っている。負けたことを確信した。その後処理業務
昭和20年12月4日
 北園部隊(ホーランジャ移動労務団)編入
 12月6日 ホーランジャ到着
 ホーランジャでは強制労働をさせられた。ポツダム宣言を受領しているのだから捕虜は返すべきという話はあった。ホーランジャへ移動するときも、賠償のかわりに物を置いてゆけという。
昭和21年6月20日
 田辺港に上陸、翌日復員

後記: 証言9の人の部下だったためニューギニアの話は大体同じ、中国の戦闘のエピソードもかなり話してくれたが(正味4時間。上山市・山形市出身兵士の個人的な情報も多い)なまりがきつく聞き取りにくい。時間のあるときに再アップできれば・・・。

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