インタビュー2
  1. あるスリランカ女性の半生
  2. 日本語学校経営苦労話
  3. 静岡に生きる
  4. 識字教室の話
  5. 民族文化映像研究所
  6. ある面接
  7. 女性登山家の警告
  8. 朝鮮学校・中華学校訪問
  9. 障害児教育に関わる
  1. 篠島に生まれて
  2. 椎葉村に生きる
  3. ある老ジャーナリスト
戦争体験:日本人インタビュー
戦争体験:台湾人インタビュー
時事

読書感想

エッセイ

創作

過去ログ
活東庵を日付順に保存
(2007年5月以降)

障害児教育に関わる

執筆日:2000/5/28公開日:2003/3/21

 おもに自閉症の子供たちを小学校併設の特殊学級で見ている。自閉でも、親によって態度がまったく違う。親の態度の違いによって、結果は大きく異なると思う。別に自閉が直るわけではないが、親があきらめないで接している子は、生活リズムの基本ができていて、障害が重度でも自分で物を食べたり排泄したり朝起きて服を着替えるなどをこなすことができる。
 もっともひどかった例は、下に二人の健常児のいるケースで、母親は自閉症の長男には食事のとき好きなものを好きなだけ与えていた。また、寝てくれていれば確かに楽なので、学校が休みの日は部屋で起こさずに寝かし続ける。生活のリズムがまったくできていないし、学校へ来ると、食事も一気に口に含んで飲み込めず、騒ぎになる。家ではお茶で流し込んでいるという。そういう子でも、少しづつ与えるとちゃんと自分で食べられるようになる。給食のときに、そうしつけると、その子の母親も「ちゃんと食べられるようになるんですね」とは言う。でも夏休みなんかで自宅にいると、結局元に戻ってしまう。下に二人いて大変だとは思うが、でも小さい頃はいいが、高校生くらいになって体力ついたらどうするんだろう、と思う。きっとコントロールが効かなくなると思うし、心配だ。
 精薄など知恵おくれのケースでも、親が話しかけている子は、話しかけずにほっておかれる子よりも反応する、ほっておかれている子は反応が鈍い。
 生活のリズムができているといいのは、会社に勤められるようになること。特殊学級を出ても、大企業だと従業員の2パーセントだか障害者を雇う必要があるので、倉庫などで働くことができる。基本的に自分のことは自分でこなせて、単純作業を行うことができ、まわりとトラブルを起こさない人であれば、勤められる可能性がある。

 自閉は基本的に人間関係がだめ、みなさんこだわりがある、それが崩れるとパニックになる。自閉が情緒的でないとは言えないが、欠けている面は確かにある。アメリカの自閉症者で、IQが高く大学へ行き、牛の屠殺を楽にするための目隠し付拘引器を発明し、その会社を起こして事業家として成功した人がおり、昨年日本へ来て講演した。彼は最初、他人の気持ちがまったくわからなかった、だからそれをあとから学習した、と言う。頭のいい人は、あとから学習できる。

 障害児とは話題がそれるが、通常の健常児のクラスを見ていても、ずいぶん変わった親が目に付くようになった。変な人が親になる世代になって、そういう人が子育てしているから、どんどん子供が変になってきていると思う。運動会などで他人のことを考えずビデオ片手に最前列に陣取ろうとする父親なんかを注意すると、「他の人もやっているだろう。あっちは注意しないのか」とごねる。今の子供はどうこう言うが、こういう親を見て育てば仕方ない、子供のせいではないと思う。塀などのブロックを積む場合、一段目が少しずれていると、最初のずれは微妙だが、その上に積んでゆくと上へ行けば行くほどずれが大きくなる、そんな感じがある。
 またちょっと攻撃的というか、黒白はっきりつけたがる親も増えた。友人にもそういう、過剰に黒白はっきりつけたがる、人に譲ったり交渉して妥協したりが下手な人がいる。言っていることは正しいが、理屈は通っても人が避けるタイプで、田舎の民宿でバイトしたときにまわりとトラブルを起こし神経症っぽくなったとき、やはりな、と思った。その子の家へ遊びに行ったときに母親がそういう人だった。とてもさばさばした人で、変な人ではないのだが、朝食とかも「はい、これ」という感じでポンと出し、別に親子で会話するでもなく、ふだんは穏やかだがちょっと反対のことを言うと身構える感じもあって、こういう雰囲気の家庭だからこういう人ができたのかな、と思った。普通、そうしてどこか欠陥のある家庭をモデルに対人関係を学んでも、世間で受け入れられないと、友達のまねをしたり、どうしたら受け入れてもらえるか工夫したり、すてきな人に憧れてそうなろうとしたりして、先の事業家ではないが「学習して学ぶ」ことをするが、それのできない、やろうとしない人たちもいる。

→TOP(目次)

篠島に生まれて

執筆日:1995年8月公開日:2003/3/21写真つきの同文は島ページ

 明治36年生まれ。普通は小学校は4年しか行かなかったが、6年1ヶ月行った。同級生は4人。今みたいに難しくなかったから、賞状、帳面4冊なんかをもらった。同級生のうち、男子が一人だけ中学に進んだが、早死にした。
 子供の頃から、家の手伝いをした。網を作るのが大変で、手足の指をすべて使って作る。松の葉をかいてきて、舟板が強くするため船底を焼いたりした。やらせれば子供でもたいがいのことはできる。
 篠島に田んぼはないので、当時は米は食べなかった。日間賀は田んぼがあった。渥美郡は温かいので、米でも花でもなんでもあり、買って食べる人もいた。畑では芋、葉物類を作っていた。子供の頃、葉物を摘みに行かされ、全部抜いてだめにしたことがある。
 水汲みもした。島の井戸にはいい井戸と悪い井戸があり、いい井戸は塩気が少ないのだが、それでも塩っぽい。当時はお茶は飲まなかった。
 あかりはランプとあんどんで、ランプ磨きも子供の仕事だった。

 子供の頃はよく泳いで、貝、うに、なまこを採った。海は怖くない。よく働いたが、無邪気に働いていたあの頃が一番楽しかった。働くことは辛くない。二十六で結婚するまで、そうして働いた。

 兄弟は4人。本当は7人。二人と兄嫁はチフスで死んだ。魚を食べ、ハエが多かったのでチフス、赤痢はよくあった。次男もかかって大変だった。
 魚はよく食べた。当時はふぐも採れ、ふぐの刺身はおいしかった。今は篠島周辺では魚が採れなくなり、皆漁師をやめ民宿をしている。日間賀はまだましだが、やはり今はあまり採れないだろう。佐久(佐久島)はまだ採れると思う。

 両親は八十まで生きた。当時としては長生きだ。
 結婚は二軒隣の人とで、母親同士で決めた。舅は頭のいい人で、日よりを見るのがうまく、今日は大漁だと言うと本当にそのとうりになった。夫は親思いだったが、いっこく人(頑固者)だった。
 あるとき兄弟で魚の仲買のようなことをやり、七百円の借金をこさえた。それで漁師をやめ名古屋へ出ることになった。(別の話では、ドラマ「澪つくし」のように難船して漂流し、積んでいた米俵の藁まで食べるような経験をしたので、「もう漁師はいやだ」と名古屋へ出てきたと聞いた。)
 それで祝言をあげずそのまま名古屋へ行く。三十円の結納金だった、と何度も言う。それじゃあまりかわいそうだ、というので佃煮や漬物をもらった。夫は会社に勤め、自分は内職をした。絞りはよくやった。飴を包むのもやった。絞りは当時需要も多く、素人でもやれたので数カ所から取ってやったりした。親戚を3人くらい引き取って、面倒見たこともあった。
 戦災で家が焼けたため、子供を連れて歩いて河和まで逃げたり、いろいろあったが、こうして家も建てられたので、まずますの人生だったのだろう。

→TOP(目次)

椎葉村に生きる

執筆日:2001年8月公開日:2003/3/21写真つきの同文は旅行2ページ

 ここでは中学生は寮に入る。上椎葉周辺は自宅から通うが、それ以外の東西南北に広がる地域の子供たちは寮生活を送る。土曜のバスで自宅に帰り、日曜のバスで学校へ行く。かつては5〜600人の生徒が大きい体育館のようなドームで寮生活を送った。松尾にも中学があるが、その2つしかないので、上椎葉は日本一の寮と言われていた。3年生が1年生のご飯をよそうしきたりがあった。20人一組が同じ部屋で室長がいた。ホームシックにかかった女の子もいたが、うまいもんが食えるから嬉しかった。水無までは比較的早くバスが通ったので、水無までバスで来てそこから歩いた。日曜の昼、皆でバス停で待ち合わせてまた学校へ行った。大河内の連中はほとんどすべて歩いた。朝早く向こうを出て学校へ戻り、土曜も学校を昼出て夜着いていた。
 三十年前までは中卒がほとんどで、いわゆる集団就職で岸和田だの和泉だの大阪に出た。紡績企業が多かった。当時高校に進むのは珍しく、親戚中でお祝いをした。中学の寮も多少寮費がかかったし、高校から下宿だと月5万かかる。二人三人子供がいると大変だ、田舎は他は安いが教育にお金がかかる、子供を教育するにはよくない、という(これは別の女性からも聞いた)。

 今の子はちょっと雨だったりするとすぐ車で送り迎えされているから、軟弱になった。子供の数も減り、人ともまれていない。けっこう若者が村に戻ってきていて、それが問題になっている。「都会の人間関係に疲れたから」と戻り、親のところにいれば食うのも寝るところも困らない。親も困ったと思いつつおいてやる。でも村に仕事はない。バイトやときどき賃仕事をしている。
 外国人の嫁さんはいるが、月何万だか仕送りしたり、ある程度お金が貯まると別れたりという話は聞く。

(別の山村出身の知人も、隣家の男の子が戻ってきてひきこもっている、卒業後町に出て働いていたが何かあったらしく戻ってきた、子供の頃はよく一緒に山で遊んだし勉強勉強言う家でもなかった、と言っていた。別の地方出身の友人は、「そういう話やいじめの話は、都会よりむしろ地方のほうがあると思う」と言っていた。)

 もともと椎葉村は尾前の北は宮崎の藩、尾手納の奥は熊本の人吉藩、大河内など南は島津の藩だった。風習も言葉も違うから、たいていどこから来たかすぐわかった。
 また焼畑で有名なところでもある。今でも続けているところがあるが、それは広い土地持ちだから可能だった。大分から30年、ずっと通っている大学の先生がいる。だから彼は焼畑のことは何でも知っている。ただ、近年は鹿の被害がひどい。
 椎葉神楽も有名で、博多や宮崎から毎年見に来る人もいる。5地区あり、11月末から12月の土日にかけて次々奉納してゆくから、毎週見る人も、見るところを決めて来る人もいる。たいてい一晩中やって、飲み食い自由の無礼講、出し物は同じだが33曲あり、それぞれ地区によってまったく違う。
 冬は雪が昔は1m積もった。峠は2m。今は暖冬だから30cm。(昭和20年か30年頃仕事で何度か椎葉村に行ったという鹿児島の人も、あそこは雪が深い、当時は道も未舗装ですごかった、と言っていた。)

 ちょうど、同じ宮崎県の綾町に寄ってきたところだったので、その話をすると「夜逃げの町を復興させたそうだが、でもあそこは町に近いでしょ。宮崎から車で30分だし平地に近いし。だからいろいろできる。ここは厳しいよ。上椎葉まで出るのに車で40分。そこからさらに駅まで2時間かかる。つくづく大変なところだと思う」

 むかしは小さい集落にもおまわりさんがいた。尾手納あたりだと分署があって5人くらいいたときもあったが、今は上椎葉にしかいない。人口が減ったからじゃないか、何人あたり何人と決まっているのだろう。時々回りにはくる。尾前の小学校も昔は300人いたが今は20数人で複式だ。
 耳川はダムの多い川だが、その一つのダムの対岸の集落は陸の孤島のようなところだ。入り江になっていて、ぐるっとまわりずっと奥まで行かないと道からは行けない。今道を作っているところだが、前は船で物資を運んでいた、このダム湖にもポンポン船が出ていて、大河内のほうへ行っていた。今はダムはボート禁止になっているが、入り江が深いからその方がずっと速かった。まだ段段畑が残っており、3軒ある、みなおじいさんたちだ。
 選挙では誰がどこに入れたか大体わかる、投票率99.99%だ、山行って忘れとっても電話だので呼びに来る、昔は担架にのせて文字書けんでも何か書かせて投票させたという。

→TOP(目次)

ある老ジャーナリスト

活東庵公開日:2007/8/8

 先月、関西に自給自足生活を送る知り合いを訪ねた。現在難病と戦っており、病気療養中ということもあって畑の作業が遅れがちというので、手伝いを兼ねての訪問だった。

 彼は元記者からフリーになったジャーナリストで、労働業界の現状を告発した本を何冊も出版している。特に1980年代に出版された自動車業界の偽装労組関連の本は、当時大きな反響を呼んだ。今読み返してみると、民社党、というのは一体どういう党だったのだろう、とつくづく思う。野党のようで、与党の自民よりも悪質だった感がある。一見野党、ヒダリに見える立場が利用されやすく、そして党員もそれを利用した状況があったのかもしれない。

 本を立て続けに出した当時、陰に陽にさまざまな脅しがあったことも、あちこちに書いている。脅しの電話から自宅への脅迫、窓ガラスが割られ、取材先へさまざまな偽電話がかけられ、妨害を受けた。
 それでも、出版した本の後ろに、自宅の住所電話番号本名を載せることをやめなかった。もちろん、当時と現在では事情が異なる部分も多いが、その後ネット社会になっても、その姿勢は一貫している。
「本田勝一なんか絶対住所出さないし写真も撮らせないでしょ。俺は知ってるけどね、一般には出していない。でも俺は全部隠さず出したからね。来るなら来い!て」
 その後企業問題からゴミ問題に、さらに地球環境から農業へと関心がシフトしてゆき(現在エコは大はやりだが、当時はまだそうした問題に声をあげるのは少数派だった)、企業のことをごちゃごちゃいうより自分でやるべき、と故郷に戻って自給自足生活を始めた。現在ではその活動のほうが有名で、その生活ぶりがTVの1時間番組で紹介されたりしている。

 一口に圧力に屈しなかった、脅しに屈しなかった、と言うが、それは並大抵のことではない。実際、取材対象の某大企業の労組関連では、死者も出ている。大会社の場合、病院もその企業のお抱え病院なので従業員カルテも改竄し放題なのだ。いちおう、当時は電車のホームの先頭に絶対に立たないようにしていた、というが、それでも毎日無事戻ってくるかどうか心配だった、と奥さんは言う。

 本を出したあと、ある人から連絡が入った。その企業の労組の権力争いから追放され、十数年潜伏していた人からだった。重要な取材源の一人として探していたが、どうしてもみつからなかった人だ。その間、彼は社会的に抹殺され、職安で仕事を探しても妨害が入り、結局偽名で細々と生きていた。ジャーナリストが直接彼と対面し、話を聞けるに至るまでが、またスパイもののようなのだが、ここでは割愛する。その後潜伏者は復活し、天皇と言われた労組トップは消えた。
 私は、なぜ怖気づかずにやれるのか問うた。繰り返すが、脅しに屈しない、というのは、口で言うのはやすいが、実際に実行するのは非常にきつく、難しい。何度かその話をしているうちに、老ジャーナリストは
「ひょっとしたら、俺にもヤクザっぽいところがあるのかもしれないね。『やれるもんなら、やってみい!』て」と笑った。なぜかこの言葉は、非常に印象に残った。

 故郷に戻ってからも、外部から望まない設備が持ち込まれるという地元のトラブルで表に立ち、裁判でも争った。集落はかたまって反対したという。「よくあのとき、みんな一つにまとまったわね」と奥さんは振り返って言う。
 このときもやはり、ヤクザ風の人がやってきて大声で脅しながら長々といすわったりした。
「ああやって大声出して脅す人間は、本当は気が小さいの。そういうのが多いんだよ」
 集落でも、その設備の業者からお金をもらった人がいる。結局みなで団結したとき、そのお金を返した人、返す金がないと言って返さなかった人、ちゃっかりもらったままの人、など様々だ、金がないと言う奴も立派な車乗っとるしな、とジャーナリスト氏は笑う。中心になった人物は小学校の同級生で、いろいろ問題はあるが一本気な信頼できる奴だ、という。そう語るときの口調は暖かで、人の弱さも欠点も見越した感がある。

 奥さんも、都会育ちのお嬢さんのようで、どうしてやはり根性の座った人だった。そうでなければ支えきれないだろう。

→TOP(目次)



←インタビュー1   インタビュー3→


[時事] [地方・農業] [中国/北朝鮮] [よもやま] [読書/映画感想] [パソコン] [エッセイ] [創作]


 | モンゴル | チベット | ラダック | 東北インド | 中国 | 1999北京 | ミャンマー | 台湾の廟 | 韓国 | 台湾2009 | 
 | マザーテレサ | シッキム | ハワイ | タイ | クルーズ | アメリカ | ドイツ | キプロス | スイス | イタリア | 
 |  小笠原 | 四国へんろ | 国内 |  | 里山 | 震災 | 雑穀栽培 | 林業 | 就農 | 銭湯記 |
時事/創作 | ミャンマー歌手 |  北京放送 | 

ホーム    

Mail us: oinu_dd*yahoo.co.jp(*→@に変更)