ある日の翻訳室公開日:2005/1/15
あたし、てこうなんです
ナナちゃんは最近しょっちゅう、「あたし、て古いことよく知っているんです」と口にしている。思えばムラオカさんが家庭の事情から在宅勤務に切り替わり、部屋に通ってこなくなってからだ。ムラオカさんはIT関係専門の翻訳者で、年齢がナナちゃんや私よりもちょっと上だった。理系だが言葉にもうるさい。「君たちは物を知らない。特に昔の言葉や習慣を知らなさ過ぎる。日本語をもっと大切にしろ。もっと勉強しろ」と若手の翻訳者に対してよく喝を入れていた。
産業翻訳は仕事量は多いが面白みに欠ける。文芸翻訳は奥が深い。それが英語好きからこの世界に入った人達の定説だが、ナナちゃんもゆくゆくは文芸物に関わりたい、と勉強を続けている一人だった。がんばり過ぎてか、ときに何日も部屋に来られなくなるほど精神状況の悪化するときもあり、職場の机の引き出しには安定剤ばかりが束になって無造作に並んでいた。ムラオカさんの遠慮のない指摘は、そんな彼女の気にさわったらしい。彼がいない昼休み、よく他の文芸翻訳狙いの年配女性達と「あの人ちょっと言葉きつすぎますよね」とこぼしていた。ムラオカさんは、仕事はできるが偏屈な人、と見られていた。
そのムラオカさんも部屋からいなくなり、たまに緊張が走っていた部屋も穏やかになった。そしてナナちゃんは「あたし、昔のことに詳しいんです」と言うようになった。年配女性翻訳者らは「若いのにそんな言葉、よく知っているねぇ」「そうよね、ナナちゃん、年齢不詳だもんねえ」とにこやかに受け答える。
ナナちゃんは「あたし、て子供の頃、野原を走り回っているような子供だったんです」と話し続けた。ナナちゃんは小学校から大学までエスカレーター式の大都市の私立校を出ている。学校も自宅も都会の真ん中にあり、通学は小学生でも電車か車の送り迎えだ。皆それを承知しているが「そうよね、健康少女よね」「お転婆だったのね」と、ロールプレイを演じるように和気藹々と応じていた。
やはり若手で帰国子女のキヨエは、「あのおやじの言ってることは一理あったよ。確かに彼、あたしたちより物知りだったし、薀蓄たれかもしれないけど聞いてて勉強になったよ」と言っていたが、これをナナちゃんの前では言ってはいけない気がした。
ヌケ
同僚翻訳者の成果物をチェックしている女性が隣の人に
「本当にこれでいいのかなあ」と言っている。
「そうそう、ケアレスミスが多いのよね」
「そのこと、彼女に言ったら?」
「彼女のことだから怒らないわよ。内心むっとしても」
「そうそう、内心むっとしても表面はすみません、ていうわよ」
「でもいざ本人が来ると、言わないだろうなーあたし」
「その場その場でうまく調子あわせちゃうから」
「本人前にしたら『こんな長いのよくやったねー』て」
そこへ当人が現れた。自ら「ヌケが多いかもしれないんですけど」と言った。
二人は「しょうがないわよー」と笑った。
人徳
年配の女性翻訳者たちは、部屋全体でさよなら会を開いてもらったりプレゼントを受けるタイプの人のことを「人徳があるから」と評する。つまり親しい数人で集まることはあっても、全体からは開いてもらえないタイプの人もいるわけで、営業へ移ったキヨエもその一人だった。
始めは怒っていたキヨエだったが、しばらくたってお昼を一緒にとったとき、彼女はこう言った。
「やっぱり一緒にいて楽しくないと呼ばれないんだよねー。あたしも、周りの雰囲気ぶち壊すようなこと随分言ってきたなー、て思う」
私は、言っていることはわかるが、回りの気に入るようにふるまってばかりいる必要もないんじゃないか、と言った。
「あたしも、自分を隠してまで周りに合わせる必要はないと思うよ。ただ、せっかく皆が他愛もないことで会話を楽しんでいる程度のものにまで、真剣になって反論することもなかったかな、て」
そしてやはり主婦、て保守的だと思う、と三十代はじめで未婚のキヨエは言った。
「家庭があってそっちのが大事で、会社はいやになればいつでも辞めてもいいわけだ。そういう人達は。だから会社ではできるだけ摩擦を少なくする方向でやってゆきたいわけだ」
Keep professional distance
翻訳室の人たちは、互いにあまり立ち入リ過ぎぬよう、注意深く相手の反応を見ながら行動を決めてゆくところがある。しかしプルーフリーダーとして勤務しているアメリカ人のジェフさんは、寂しいからか話し相手を求めて、自分のこともあれこれ話せば、相手にも遠慮なく聞いてくるところがあった。その話し相手の一人に選ばれたユミさんは、正直それに辟易しているようすで、最近ジェフさんを無視しがちになっていた。
ある日、ジェフさんが、斜め前に座っているアリムラさんに、ユミさんは自分のことを悪い人間だと思い込んでいるらしい、と悲しそうに言った。アリムラさんは駐在員の妻として海外経験も長く、気さくな印象の年配女性翻訳者である。彼女はジェフさんの言葉に対し、
「うん、By the way」と話題を変えた。
ジェフさんはときどき、日本人は話をはぐらかす、ちゃんと聞いてくれない、とこぼしていたので、彼が席を立ったあと、
「今ジェフさんがユミさんとのトラブルの話をしていたけれど」と言うと、
「ジェフさん、そんなこと言っていない」とアリムラさんは言う。あれ、英語を聞き間違えたのかな、と思っていると、彼女は
「あのね、あたしジェフさんからそういう相談されても困るの。ユミさんとジェフさんの問題でしょ」と言った。
彼女に限らず他の翻訳者も、プルーフリーダーの愚痴や悩みごとの打ち明けに対して、「Don't mention that」と話を打ち切ったり、「By the way」と話題を切り替えるところがあった。
もう一人の若いプルーフリーダーのジョーさんは、
「やはり職場の人間関係と、外の人間関係は分けて考えたほうがいい。僕も最近になって気がついたけど。相談しても、どっちの側についたと取られるか、とか、みんないろいろ悩むでしょ。日本の職場では Keep professional distance でゆくのがいいよ」と言った。
幸せはハイソに集まる
カヨさんとエトウさんは、同じ大学出身だった。そのためか、お互いライバル意識があり、ときどき火花を散らしていた。エトウさんは小学校からエスカレーター式私立のお嬢様、嫁ぎ先も祖父の代から大手企業オーナーの家柄で、現在二人の子持ち、学生時代はフルブライト留学していた。留学先の学校もアメリカの有名なお嬢様学校で、南部出身で人種偏見の気のあるジェフさんも、彼女の留学先を聞いて態度が変わったとのもっぱらの噂だった。一方カヨさんは長野県出身で、やはりメーカー勤務の夫との間に二人の子供がいた。
エトウさんは知る人ぞ知るタイプのブランドを上品に着こなし、毎回服装に合わせた大粒の色石の指輪をはめてきた。尊大さのない優雅な物腰の彼女は、部屋には週2日ほどしか通って来なかったが、来れば会話の中心に座った。
お昼休みの皆の会話には良識的な意見をさし挟み、お調子者のハヤシさんからは「さすがエトウの奥さま」とおどけて追従されていたが、そうした彼女に対し、ことさら「それは違うと思う」と反論するのがカヨさんだった。エトウさんも、いつも一人反対意見を述べる彼女が目障りだったようで、ときどき苛立った様子を見せた。
「そうやってすぐひねくれてとるんだから!」と言うときのエトウさんの口調は、他のときとは全く異なり、鋭くとがっていた。
あるとき、エトウさんが「長野は貧しいところよー」と何気なく言った。あてつけでも何でもなく、カヨさんが長野出身であることすら忘れ、たまたま口にしたのだろう。エトウさんは政治家などの話題でも「あら、あの方田舎者よ。だってXX県の出ですもの」と言うようなところがあった。それにカヨさんが反応した。
「ちょっと、随分な言い方じゃない」
「あら、あなたのこと言ったんじゃないのよ」とエトウさんは優雅にいなした後、「すぐそうやって悪くとるんだから!」と嫌悪をにじませた早口で言った。
またいつものバトルが始まった。二人の仲が険悪になると、普段は皆聞かなかったことにして間に入らぬよう、ひっそりしている。一度だけ、喧嘩の嫌いなナナちゃんが、「もう二人ともやめてよー」と泣き出しそうになりながら席を立ったことがある。
このとき、なぜか私にもかちんと来るものがあって、思わず
「今のはエトウさんが悪いですよ」と言っていた。
エトウさんは驚いたように眼を見開いて振り向き、
「そうお?私そんな酷いこと言った?」と不満そうにこちらを見た。
そして「そんな風に言われると、こっちだって傷つくわ」と黙ってしまった。カヨさんもどこか、余計なことを、といった表情で憮然とした。気まずい沈黙が残り、なぜかカヨさんが
「ごめんね」とつぶやいた。
その後、カヨさんの翻訳が、少々誤訳が多いのではないか、と問題になった。しばらくしてから彼女は翻訳からはずれ、チェックを専門に行うことになった。エトウさんは相変わらず官公庁のレターなど、重要な案件を手がけている。なんとなく、カヨさんの元気がなくなり、エトウさんにあまり噛み付かなくなったなと感じていた頃、子供のいる翻訳者の間で、入試の話題がのぼるようになった。ちょうど、そんな時期になったのだ。
ある日カヨさんが部屋に出社してきて、「だめだった。中学落ちた」と言った。子供が受験に失敗したらしい。さらに彼女は無口になった。一年後、今度はエトウさんの子供の大学入試の発表が出た。いつも「ぜーんぜん勉強しないのよ」と言っていたのに、国立T大に受かったという。このとき漠然と、幸せは、すでにあるところに積み重なってゆくものだな、と感じた。
活動家、てやーね
いつものお昼休みの会話で、当時問題になっていたJR駅構内に寝泊りする路上生活者の話題になった。
「汚いから浮浪者と一緒のベンチに座りたくないのよね。こんなこと言っちゃいけないのはわかっているけれど」とユミさん。
「支援者や活動家、てなんだかいやよね」と元英語教師で子供が大きくなり仕事を再開したという、読書家のトクダさん。
「転落するのは楽よね」とユミさんは軽蔑するように言った。
「あたしあの支援者、ていうのがいやで。なんで駅に居座ってもいい、なんて運動しているのかしら」
「そういうことするなら、その人達自身が自分の家に連れて帰ればいいのよ。でもそこまでしないじゃない?」
「そうよね。社会に反抗したいから、ああいう運動やっているのよね」
あるとき、エトウさんもいる席でスウェーデンの強制避妊手術の話題になった。
「あれはひどいよね」
「福祉先進国なのに」
と皆口々に言っている。そこへエトウさんが
「でもそれが日本でもあった、て新聞に出ていたのよねー」と残念そうに言う。
ユミさんが
「すぐそういうことを言いたがる人がいる」とあら探しした記者に腹が立つ、といったようすでチッと舌打ちした。
エトウさんは
「でもあれはそうよ。優生保護法というのはそういうことなんだから」
と日本の場合は当然、といった感じで冷ややかに言った。エトウさんはこの新聞社は金持ちイコール悪という構図があるので嫌いだ、とつけ加えた。
こうした会話はテニスのボレーのように滞りなく続く。別に問題を解決しよう、とか、議論したい、というのではなく、ただ日々感じている苛立ちを発散し共有したいだけなので、別の角度からの意見を述べることは、不協和音となり嫌がられる。
ある日ハヤシさんが
「日本と韓国、て1910年に一緒になっているのね。35年だって。あたしそんなに長いと思わなかった。読んでいると、あるとき急にじゃなくて、自然にそうなってゆくのよね。日本の支配下に」と話している。
普段はこうした会話に口を挟まないようにしていたが、このときにはさすがに黙っていられず、
「また不愉快な思いをさせちゃうかもしれないけれど、自然に、てことはないと思うよ。やはり意図や計画性があったと思うよ」と言った。一瞬険悪になるかと覚悟したが
「そうね」彼女は素直にうなづいた。そして、この話題は立ち消えとなった。
地雷
お昼休みのおしゃべりは、時事問題に熱くなることもあるが、大抵家庭内のできごとだの他愛のない話題が多い。そういうときは、明るくおしゃべりなハヤシさんが場を盛り上げる。
「主人のね、ボーナスが少なくて開けて思わず『エー!』で言っちゃったの。言った後、あー、悪いことしたなー、て思った。そしていつもそこから主人が自分の取り分を取ってゆくんだけど、ガバ、て取るのよね」とジェスチャーを交える。「でまた、『そんなにぃ?』て言ってしまって、あ、またいけないこと言っちゃったー、と思って」
ときどき、その場にいない人の噂や評が話題に上ることもあった。大抵こそこそ言われるのは場の空気を読まない直言タイプの面々だが、ある時ハヤシさんが浮かれ、ちょっとはしゃぎすぎていたことがあった。エトウさんが周りに何か囁き、彼女らもまた何か返した。それを見咎めたハヤシさんが
「何か言った?」と聞き返し、彼女たちが気まずそうに黙ったのを見て、
「もういいや、聞かなかったことにしよう。聞いたらあたし、泣いちゃうかもしれないから」と言ってようやく静かになった。
立ち直りの早い彼女は、午後には何ごともなかったかのようにエトウさんの脇へ行き、
「エトウの奥さま、教えてくださいな」とおどけた口調で英語の解釈について質問している。
また、ある人のことを話題にしているところへ当人が来ると黙る、という現象もときどきあった。言われた当人は気付かなかったふりをし、密かにいったい自分の何が皆の癇に障ったのか反すうし、受け入れてもらえるよう改め、以降は言動に配慮する、というのが、この部屋でのまっとうな対処法だった。
私はこの現象を心密かに”地雷”と呼んでいた。ある一定枠を超えたり、行き過ぎたりすると、”No”が出る。でもそれが何なのか、どこからどこまでなのか、明確な印も範囲規定もない。まるで地雷原をゆくように、ここかな、あそこかな、ここ大丈夫かな、と注意深く進む必要があった。
あるときキヨエがその対象になったとき、彼女はわざと「今私のことしゃべっていたでしょ」と皆の前で口にした。これはタブー、掟破りだったので、案の定、部屋の人達は
「あたしたち、そんな話してない」と地雷の存在を否定した。ユミさんは
「なぜそう思うの?」と冷たく尋ねた。
その後給湯室で一緒になった一人は、
「あのとき、みんながなぜ”あたしたち、そんなこと言ってない”、て言い張ったのか、他の人達のことはわからないけれど、自分自身で言えば、丸く収めたかったからですよ。大したことじゃないし、言い争うことでもない。ここは会社だから、仕事が優先で、そういうことは丸く収めるべきですよ。彼女はそれがわかっていない」と言った。
神保町
プルーフリーダーとして勤めるネイティブは常時3人いた。翻訳者も含めた中でこの部屋での勤務が最も長いジェフさん、俳優志望のジョーさん、そして3人目はしょっちゅう入れ替わった。すでに七十代のジェフさんは気難しい人で、彼に意見する若いプルーフリーダーとうまくやってゆくことができない。もう何人もジェフさんと衝突しては辞めていた。元々記者出身で英文力は非常にあり、クライアントからも「次回もぜひ彼で」と指定のある人だったため、会社も彼を重宝していた。また衝突相手も、彼の仕事内容やライター理論には太刀打ちできなかった。ジョーさんはわが道を行くタイプだったため、適度な距離感がジェフさんとの摩擦をうまく防ぎ、また頭のいい人で上手に彼を立てたので、こじれずやっていた。
ジェフさんは昼休みの会話にも食事会にも参加しなかったが、そのときどき気に入った人を相手に話しこむことがあった。それで皆、彼が太平洋戦争に参加したことや、戦後進駐軍として来日し、そのまま日本が気に入って残ったこと、マックのパソコンを7台所有しており日記を毎日つけていること、その際には過去の同じ日付の日記を読み返す習慣のあること、太平洋戦争を生涯のテーマに、本を執筆中であること、すでに第一回はアメリカの出版社から配本済みであること、などを知っていた。その一方、この部屋へ来るまでの日本での生活の詳細は不明だった。一時期結婚していたらしいとの話もあったが、あまり話さないよね、暗い過去でもあるのではないか、という人もいた。あれだけ長く日本にいてほとんど日本語ができない、というのも不思議だね、と皆言っていた。
あるとき、ジェフさんから、オウム事件について質問を受けた。警視庁総監狙撃事件、地下鉄サリン事件、と立て続けに起きた頃、アメリカ人は母国大使館からオウムによるテロの対象だから気をつけるように、と警告を受けていた。それで彼らも情報を求め、事件の真相を知りたがっていたのだ。私はオウムの人達は戦争中の日本人と同じだ、アサハラが「Stop it!」と言えばぴたりとやめるだろう、天皇の宣言で一億総懺悔になったのと同じだ、日本人は全然変わっていないね、基本的に主義主張じゃないよ、と答えた。ジェフさんはしばらく沈黙し、今まで聞いた意見の中で一番わかりやすい解説だった、と答えた。
彼に褒められるのは珍しいので気をよくし、ところでなぜ日本にとどまっているのか尋ねてみた。日本が好きだから、といういつもの答えに、どこが?とさらに聞く。人がいい、安全な社会、そうした回答を予想していたところ、返ってきた言葉は思いがけないものだった。
「神保町があるから」
なぜ神保町かというと、例の戦争の記録を執筆する資料探しに最適なところだという。しかし彼は日本語ができない。英文の資料なら香港あたりのほうがあるのではないか?そう尋ねると、香港にもしばらくいたことがあるが、あそこは意外に当時の英語の資料はない、神保町にはそれがあるのだ、それが日本のすばらしいところだ、と答えた。そして翻訳室の壁一面に並ぶ本棚を指差し、あの辞書類も今までかけて神保町で集めてきたものだ、と言った。そのとき始めて、会社の備え付け辞書と思っていた4つの書棚のほとんどが彼の私物で、それを自由に使わせてもらっていたことを知った。
リーダー交代
新しいプルーフリーダーが来た。コンピューターサイエンスを学んだ五十代のイギリス人男性で、背の高い温厚そうな紳士に見え、コーディネーターや年配女性の人気は抜群だった。みな「ウィリアムさーん、教えて教えて」としょっちゅう席へ質問に行く。「ウィリアムさん、すごーい。何でも知っているのね」とハヤシさんもアリムラさんも眼は星だ。コーディネーターの若い女性たちも「ウィルさん、て素敵な眼をしていますよねー。本当にまっ青なの」と噂していた。
最初、ジェフさんとウィルさんは、うまくいっているように見えた。いつものようにジェフさんは新人にアドバイスし、ウィルさんもなごやかに応じていた。ウィルさんは今までの人と異なり、歳もいっていたし力もあったので、ジェフさんも一目置いているように見えた。
しばらくして、ジェフさんはウィルさんにあまり話しかけなくなり、マイペースで仕事に専念するようになった。ジョーさんに対しても同様なので、とりたてて不自然ではなかった。
ただ、ウィルさんのほうから呼びかける「ジェフ」という声には何か引っかかる冷たさがあった。ジェフさんのほうも最初は聞こえないのか返答せず、2回目で大袈裟に気付いたようすで振り返った。そして「Sorry、耳が遠いから」ととってつけたような笑顔とジェスチャーで耳を指差してみせた。
やがてジェフさんは、部屋の翻訳者たちとも距離を置くようになった。ひたすら仕事に専念し、今までのようにあれこれ話しかけてこない。こちらから話しかけても生返事だったり無視したりする。トクダさんや私などは、もとから彼とはつかず離れずできたため、劇的に態度が変化したとも感じられず、さほど気にならなかった。しかし彼は、以前よく話していた人については、明らかに避け、無視する感じがあった。
話し相手だった人たちは、もともと和を重んじ、言葉以外の態度からも心境を読み取るタイプの人達だった。そこで、いったい何があったんだろう、彼を怒らせたのだろうか、と非常に気に病んだ。ハヤシさんもその一人で、ずっとかわいがられていたのがこじれた、と感じた。
「そういえば、子供が受験のとき、彼が不用意に受験の結果を聞いてきたのよね。あたしカリカリしてたから、急に不機嫌になって、しばらく彼から話しかけられても冷たくあしらって無視していたの。あれ以来、なんかおかしくなっちゃった気がする。でもその後子供もどうやら合格が決まったし、あたしのほうからも積極的に話しかけたり笑わせようと随分努力したのよ。でも、いったん本人の心の中で”ダメ”、てなっちゃうと、もう元に戻らないのよね」
ただ、彼はそうした個人に対する好悪の感情を仕事に持ち込むことは一切なかったので、うまくいっていないと感じても、日英訳のプルーフは安心して頼むことができた。
あるとき、アリムラさんのパソコンのファイルが壊れた。ウィルさんに見てもらったが直らず、彼女はかつてコンピュータ会社で働いていた私のところへ来た。原因はすぐにわかり、ファイルは復旧したのだが、そのときウィルさんの様子がなんとなく妙だと感じた。ふと、彼はプライドの高い人で、あまり関わりあいにならないほうがよさそうだ、という気がした。以前来ていた別のプルーフリーダーもそうだったが、対外的ににこやかな白人男性には意外と専制君主タイプが多く、紳士を演じている人ほど、内ではストレスから問題を抱えている人が多い、一種直感だが、そう感じた。
やがてウィルさんの試用期間も終わり、契約社員として週5日来ることになった。彼は、これからこのオフィスの効率化プランを書くつもりだ、と言った。他のプルーフリーダーは皆アルバイト待遇である。ジェフさんは執筆活動があるので1日の勤務時間が短く、ジョーさんは公演中休むためだが、ウィルさんはこの部屋のボスとして勤務することになったのだろうか。
もともと部屋にはボスはいなかった。組織上は別室に部長がいるが、仕事もコーディネーターから請けていたし、ほとんど関わりがなかった。最も勤続年数の長いジェフさんが、部屋の中で何となく自由気ままに振舞ってはいたが、ボスというのでもなかった。翻訳者の中にもそういう人はいなかった。彼があれこれ指示することになるとしたら、ジェフさんはどうなるのだろうか。また、
以前からいるジョーさん、他の翻訳者との関係は?
この日の夕方、終業時間も間際のことだった。ジョーさんがアメリカ人的あけっぴろげな調子で、向かいに座っているウィルさんに対し、「その汚い手で俺のパソコン触るな」みたいなことを言って自分のノートパソコンを手元に引き寄せた。軽い冗談まじりの苛立ちだったのかもしれない。
ウィルさんは直接やり返さなかった。が、じっと座って何事か考え込んでいた。
5時半になっても帰ろうとせず、何か考え込んでいる様子なので、ジョーさんが何ぼんやり座っているんだよ、さっさと帰ったら、というようなことを例の調子でずけずけ言う。ウィルさんは yah と言い、ちらりと時計を見上げる。ジョーさんのほうがばたばたと荷物を片付け、bye と帰っていった。
ウィルさんは残っている翻訳者相手に、日本語でガーデニングの話を始めた。
「イギリス人はいつでもぐるぐる考えている。あの人とこうだ、ああだ、とか。でもガーデニングをしていると考えなくてもいい。だからガーデニングが好きだ」
「えー、ウィルさん、それ、て日本人みたいー」と例によってハイテンションなハヤシさん。ウィルさんは
「いや、日本人はもっと自然に近い、というかいつもぐるぐる考えていない」と言うので、それは違う、とトクダさんが言った。彼は
「日本人にそういうと、いつも違うと言われる。でも二十年日本にいて思うが、日本人はイギリス人ほどぐるぐる考えていない」
トクダさんが何を考えているのか、と尋ねると
「あの人にああ言われたとか、今度こう言おうとか、そういうことだ。ガーデニングはそのヒーリングなんだ」と答えた。
ウィルさんは座禅を組んでいるとも聞いた。それも、飼い慣らさねばならない何かを心奥に抱えているためかもしれない、と感じた。
ジェフさんとウィルさんの関係は、ますます微妙になっていった。表立ったトラブルはないが、ジェフさんは明らかにウィルさんと話をすることを避けていたし、ウィルさんが執拗に「ジェフ」と呼びかける声には怒気が含まれていた。
その約1ヶ月後のことだった。突然ジェフさんが真っ赤になって部屋へ飛び込んでくるなり、ウィルさんの脇へずかずか歩み寄り、何事かわめいた。
ウィルさんは向きなおり、傾けた首に右手をあて、冷然とした表情でわめく彼を睨み据えていた。すぐに前を向くと、何事もなかったかのようにパソコンに向かった。しかし手が震えている。
つと立ち上がると、今度はジェフさんのところへ行き、辞めるのはお前だ、と怒鳴った。ウィルさんが怒鳴るのを聞くのは、皆初めてで、一瞬部屋が凍りついた。
ジェフさんは黙って立ち上がり、部屋から出て行った。
しばらくたち、興奮したようすで大きいビニール袋を手に戻ってきた彼は、いきなり書架に並ぶ辞書類を引き出しては、破り捨てはじめた。真っ赤な顔で鼻歌なのかフンフン鼻を鳴らしつつ、次々引きちぎってゆく。
あまりの剣幕に皆あっけにとられ、息を押し殺している。ハヤシさんなどは体を震わし、涙を流していた。
書架にあった辞書類をほとんど破り捨てると、ビニール袋に詰め、ゴミ置き場へ持っていった。ただ、注意深く、地図など十数冊は残されていた。最後に残った本を抱え、出ていった。
彼はいったん部屋を出たとき、別室で働いている部長のところへ行って、会社を辞める、と宣言したらしい。ただそのとき、ウィルさんとの諍いは話さず、あんたが嫌いだから、と部長に言ったという。ジェフさんらしいな、と思った。
ジェフさんが本を抱えて出ていった後、ウィルさんは皆に向かって
「もう limit だ!」と言った。
「今まで耐えに耐えてきた。もう限界だ。」
「私はジェフが好きだ、何度か話しかけようとした。でも彼のほうが私を無視したのだ」
それは違うと思った。彼は部長には「ジェフは何も教えてくれなかった」と言い、一方、次長には「部長はジェフに私を教えるよう指示した。確かに彼はいろいろ言ってきた。でもあれはおかしい。私はすでにプルーフリーダーとして経験があるから、そういう人に彼が教えるのは間違っている。コンピューターも趣味程度で決して詳しくないし、言葉も古い、よくない」と告げているのだ。
「ジェフが私を嫌いだという態度をとったのだ。あなた方も同様の思いをしている。ジェフの急に変わる気分に振り回され、皆びくびくしている。彼は人付き合いも悪く何を考えているかわからない。過去のことも語りたがらない。私も随分問いただしたが決して言わない。あれは何か隠している」
ユミさんもハヤシさんも、明らかに先ほどのジェフさんの様子に怯えていた。現在ジェフさんの怒りを買ってか無視されている自分たちは、仕返しされるかもしれない、とも言った。
「そうだ。だから私は決断を下した。辞めるのは彼だ」
ハヤシさんはウィルさんの決断を respect する、と言った。ほかからも、仕方ない、という声があがった。
私は、わざわざ部長に喧嘩を売るようなことを言った彼の心情も理解してあげたら、と言った。
ウィルさんは荒げていた声をいったん落とし、
「私のせいでごめんなさい。私は short temper だが、でもそれをかなりコントロールしている、忍耐強い人間だ」
謝る彼に皆、「しょうがないわよ」「ウィルさんのせいじゃない」と口々に言う。
ウィルさんは上手に自分を見せ、印象よく持ってゆく手段を知っていた。
ジェフさんが多くの人と口をきかなくなった”むら気”には理由がある。一方的に理由もなく無視したのではない。今までにも、彼が例の”地雷”を踏むと、相手がその返答として彼に対しそれとなく冷たくする、彼は地雷の存在そのものを知らないから戸惑い、わからない、と心を閉ざす、その繰り返しが基本にあった。よくおしゃべりするお気に入りの相手は、これまでもたびたび変わってきた。ただ、相手は変わっても、いずれの人とも決定的に決裂したことはなかった。
そこへウィルさんが来た。皆がウィルさんをちやほやし、ジェフさんをあまり構わなくなった嫉妬や寂しさもあったろうし、ウィルさんとの間できっと何かあったのだろう。彼はついに会話、働きかけを放棄した。そこに見えるのは怒りというより諦めもしくは絶望に近い感情で、彼による仕返しは考えられなかった。
それにしても、うまくいっているときには多くの人が「ジェフさーん、教えて」と小走りに彼の席へ質問に行き、「ジェフさん、thank you!」と笑顔でプレゼントを受け取っていた。それが、ちょっとした行き違い、踏みはずしから、今まであった関係すべてが崩れてしまう。あっけなく、脆いものだった。
しかしジェフさんは辞めなかった。会社が慰留を要請したのだ。このため、決定的な出来事はこの騒ぎのさらに一ヶ月後に起こることになる。
昼休みのおしゃべりで、ジェフさん最近精神的に不安定で、ほとんどの翻訳者と口をきかなくなっちゃっているのよね、こういう雰囲気、いやあね、という話の出ていた、夕方のことだった。
仕事中にウィルさんが突然、
「I'm sorry to disturb you」と切り出した。
そして、あなた方は今日、自分かジェフか、どっちかを choose しなければならない、と言う。
ジェフは言葉も古いしIT関係の知識にも乏しい、今までは確かに良い仕事をしたかもしれないが、今は歳でミスも多い、これから仕事の質を上げてゆく上で彼はよくない、こうした話を先日部長があなた方にしているはずだ、とウィルさんは言った。部屋の皆は聞いていない、と答える。
「何が本当かわからない」とウィルさんは頭を抱えた。
そして、みなジェフにはいろいろ不愉快な目にあって不満がある、いつもお昼休みに話しているではないか、そうしたことも含めて今ここに部長を呼んで皆で話し合おう、と告げ、すばやく部屋を出て行った。
「choose?」と私は言った。
ナナちゃんも
「あの choose というのは変ですよね、私たちが選ぶとか、そういう問題じゃないですよね、あたし、呼び戻してきます」と言って走り出て行った。
さらに
「こうした話し合いをするなら、ジェフさんもいたほうがいいなあ」とも言うと、トクダさんも、
「そうね、そうでないとフェアではないわよね」と言った。
しかしウィルさんのほうが速く、すでに部長を連れて戻ってきていた。
そして彼は
「いつもの話を部長にしてあげなさい」とハヤシさんに言った。
指名されたハヤシさんは一瞬戸惑ったが、一呼吸し、今までたまっていた思いを一気に話はじめた。急に無視され戸惑っている、原因もわからない、質問にも行けない、彼は私を嫌って露骨に避ける、こんな思いをしながら会社に来るのも胃が痛む思いだ、ひょっとしたら恨まれて何かされるかもしれない、彼女は語りながら涙を流し始めた。
続いてアリムラさんもウィルさんから
「あなたも困っていたでしょ」と声をかけられ、似たような体験を語る。
別の若い翻訳者は
「あなたは妙な写真を見せられた、て言っていたじゃないですか」と水を向けられた。
皆、次々とジェフさんの困った面について発言し始めた。エトウさんその他比較的冷静な人たちも、彼は気分屋で態度がころころ変わるので、その様子を見極めて質問しなければならず、皆びくびくしている状態だ、今はほとんど彼と話す人がいなくなってしまった、部屋の雰囲気がきわめてよくない、というようなことを言った。私は皆の話す内容に対し、「それはそこまでではないのではないか」、「それには理由がある」などと口をはさんだ。そして、確かに今トラブってはいるが、彼は私情を仕事に持ち込むことはなく平等にこなす、確かに人付き合いは悪いが、私物の辞書を長年皆に開放してきた、部屋で使うコーヒーメーカーや飴を入れるガラス壷もプレゼントしてきた、精神的に不安定になったのはごく最近だ、と言った。
ウィルさんが口をはさみ
「あなたは彼とうまくやっていたからいい。でも私は困っている。みんなも困っている。Don't pretend that there is no problem! You are dreaming!」と言った。
声は冷静だが、コーディネーターが「すてきな眼ね」といったブルーの瞳はつりあがっていた。
部長は黙って聞いていたが、「大体わかりました。帰って検討します」と言って出て行った。
その後もみな仕事が手につかないようすで、興奮して話続けた。ハヤシさんは
「あー、でもすっきりした。ずっとこう、もやもやしていて気になっていたのー。仕事に来るのも気が重くなるし」と胸のあたりをかきむしるまねをしながら、晴れ晴れとした表情で言う。
「わかるわー、その気持ち」とアリムラさん。
「あたし話ながら興奮して涙が出てきちゃった。手もぶるぶる震えていたのよ」
若い翻訳者は、彼のセクハラまがいの言動(といっても触るとかではなく、服装の評価等なのだが、アメリカではこうした言動はセクハラ行為に当たる)を興奮してしゃべっている。
急に解放されたようにはしゃぐ姿に、どこか違和感を覚えた。かつては「ジェフさんのプルーフ、さすがねえ。こうやってまとめるのね」と感心していたユミさんや、コーヒーメーカーを部屋にプレゼントされて「How kind you are」と喜んでいたハヤシさん、アリムラさん。みな彼のそうした面をどこかへ置き忘れ、一方的に悪い面ばかり話している。そもそも彼のしていることが、こうして全員から集中攻撃され、暗にやめて欲しいと圧力を加えられるほどのことに当たるのか、そのこと自体が疑問だった。ジェフさんに無視されたと皆言うが、大体それはそちらが採用してきた神経戦的手法ではなかったか。ジェフさんの過去が謎で怖いというが、ウィルさんだって大差ない気がした。彼の経歴には有名家電メーカーやコンピューターメーカーの名がキラ星のごとく並んでいるとの噂だったが、ひょっとしたら、自尊心の強さから周囲の態度を許せず、衝突し、これまで職場を変えてきた人かもしれない、そんな気がした。
「プルーフも勉強になったし、辞書を使わせてもらったし、いろいろ世話になったこともあったよ。みんなだって "thank you ジェフさん" とか "How kind you are" とか言ってたじゃない。それが今は悪口ばかり言ってにこにこしている。なんかおかしい」
するといっせいに皆から、エー、と声があがった。
「これは悪口じゃない、あの人はこういう人だけど、どうしたらいいだろう、て話合っているのよ」とハヤシさん。
「これを悪口ととるなんて」とアリムラさん。
ハヤシさんが
「あなたの人の見方とあたしのとは随分違う。これはいつか言っておきたい、と思っていたけど」
ユミさんも
「辞書だって、あたしだったら辞めるとき、皆さんどうぞ使ってください、て置いてゆくわ」
うん?私物をどう処分しようと本人の勝手だろう。もし責めがあるとしたら、辞書を捨てた彼ではなく、感謝もなしに当然のように使っていたこちらのはずだが?
「なんか無理してバランスとろう、バランスとろう、としているように感じる。みんなの意見に一人でわざと反対しているみたい」
「大体あなた発想が学生よ。NGOだのなんだのにいて、普通の企業に勤めたことなんて、ないんでしょ」
「ありますよ。コンピュータ会社に5年いました」
「コンピュータ会社でしょ。Gパンはいてゆくようなところでしょ」
彼女たちは一斉にわあわあ言ってくる。その様子に”集団ヒステリー”という言葉が思い浮かんだ。
「これは battle だ」とウィルさんは冷ややかに言った。
「それはジェフもやっている。あなたもやっている。子供と親だってそうだ」
そうか、やはり覇権を取りたい、そういうことだな。1ヶ月前のジェフさんとの大喧嘩も、彼が怒鳴るよう仕組んだのだろう。今回の”話し合い”も、タイミングを計り、誰を押せば雰囲気が走り出すかを読んだ彼の仕掛けだ。こんなけちな翻訳室ごときの覇権を握ったところで何ほどでもないだろうが、そういう性なのだろう。
翌日、ウィルさんが部屋へ入ってくるなり、
「まだジェフが辞めることになっていない!部長は何を考えているんだ」と顔を真っ赤にして怒鳴り、鞄を放り投げた。
「エー、あれだけ訴えたのに、まだわかってくれないの!」ハヤシさんやアリムラさんはパニックになって立ち上がった。彼女たちは部長の前でジェフさんを批判したため、もし彼が辞めなかった場合きっと仕返しされる、と本気で心配していた。
前日 choose というのはおかしい、と言っていたナナちゃんも立ち上がり、
「皆で私たちはウィルさんを選ぶ、と言いにゆきましょう」と思い余ったようすで言った。
「そうよ、部長のところへ行きましょう」とハヤシさんも賛成する。
「でもみんな、と言っても違う意見の人もいるから」と意味ありげにアリムラさんがこちらを見る。
「別に世代交代そのものに反対しているわけじゃないけど。ただこういうやり方はなんかおかしいと思うだけで」もごもごと私は言った。答えつつ、この程度の内容しか口にできない自分がなさけなかった。本当に言いたいことは、他にある気がした。何に引っかかっているのか、表現する言葉が出てこなかった。だめだ、言葉が見つからない。彼を辞めさせる、ということが既定の事実として走り出していた。いつのまにそういうことになったのだろう。本当に、全員で部長に嘆願してまで、辞めさせるほどのことなのか。どこかにすり替えのある気がしたが、でもどこだか、わからない。皆に届く言葉が見つからない。
「では、彼女も賛成してくれたので、翻訳室として言いにゆきましょう」とナナちゃんが言った。
で誰が行くか、ということになった。ハヤシさんは怖気づき、ナナちゃんが、あたしが行ってもいい、と言う。いや、一番若いナナちゃんにそれはよくない、やはり定年退職後ここへ来ている男性翻訳者かエトウさんあたりに、皆を代表して行ってもらえないかしら、とハヤシさん。しかし二人とも渋っている。
そこへ次長から、ジェフさんが正式に辞めることになった、という通達があった。
その後
その後しばらくして、私もこの会社を辞めた。コンピュータ関連会社での仕事の誘いがあったためだが、間接的な理由に、ひょっとしたらウィルさんは次に自分をマークするかもしれない、という読みと、昼休みの皆の会話に抱く違和感とがあった。
この判断は結果的に正しかった。
その後、仲の良いコーディネーターから聞いた話によると、ウィルさんは私がやめた後、私が束ね役になっていた某IT企業の仕事のチーフになれる、と思っていたという。しかし、会社が選んだのはアリムラさんだった。
それまで英語力がある、とアリムラさんを買っていたウィルさんの態度は一変した。ちょっとしたミスをあげつらい、彼女は英語ができない、翻訳者としての能力もない、と攻撃しはじめた。一方で部長には、自分のほうがコンピューターに詳しく業務経験も積んでいる、日本語だって流暢に操れる、その自分ではなくなぜ能力のない彼女がチーフに選ばれたのか、自分が日本人ではないため差別しているのではないか、と怒鳴り込んだそうだ。
しかし、今回は翻訳室の人たちはウィルさんに同調しなかった。むしろ、アリムラさんをかばい、辞めたいと部長に相談に行った彼女を支える側に立った。孤立無援に陥ったウィルさんは、精神的に不安定になり、ささいなことで怒鳴りつけたりするようになったという。そして、一見温厚でトラブル嫌いに見えるナナちゃんが
「あの人おかしい。事件になる前に辞めてもらったほうがいい」
と吐き捨てるように言ったという。
ウィルさんはいったん在宅勤務となったが、それも続かず、風の便りではイギリスに帰ったらしい、とのことだった。日本人と結婚していたそうだが、どうなったのだろうか。
この騒ぎの後、それまで別室にいた部長は翻訳室にも机を置くようになった。
一方、ジェフさんは、プルーフリーダーの仕事からは完全に退き、第二次大戦の本を執筆中である。時折神保町に出向く以外、ほとんど自室にこもりきりだという。ただ、彼と手紙のやりとりをしている人は、すでに部屋を離れた翻訳者を含め、何人かいる。
実は私も一度、彼と喧嘩をしたことがある。その直後、彼がくれたカードが手元にある。「Sorry I exploded, but we work as a team!」と書かれている。彼にもチームとして働こう、という価値観はあったのだ。おそらく他の人達にもこうしたサインを送っていたと思うが、でもそれは届かなかった。
今振り返ると、ジェフさんが辞めることになったのはいた仕方のない面もある。彼と長年手紙のやりとりを続けている人の話では、彼自身、ウィルさんの来る前から、そろそろ引退して残りの人生は戦争に関する本の執筆活動に専念したい、と言っていたともいう。
そうした、仕方のない面もあるにせよ、長年勤めた会社をああいう形で辞めることになった経緯には今でも疑問を感じる。また、ウィルさんにしても、彼のことは個人的に好きではなかったが、それでも彼が最後、精神的に不安定になったのは、孤立し誰一人彼の気持ちを聞く人がいなかったためだ、とも思う。また同じことが起きたのだ。なぜ誰一人聞かないのだろう。この1対多(残り全員)、という常に部屋の底流に流れていた空気とは、一体なんだったのか。
ただ、このプチ集団ヒステリー疑似体験を経たことは、良い財産になった。
余談だが、この欠席裁判の直前、同じ部屋の同僚が謝りに来たことがあった。かつて皆のお昼休みの会話に私が反論を入れるのが目障りで、一時期私の言うことにことさら反対したり無視する雰囲気があったことを詫びにきたのだ。そのときはすでに解消していたので、「もうだいぶ前の話だし、気にしてないからいいよ」と言った。
それでも彼女は
「あのとき、あなたの心を傷つけちゃったんじゃないか、て思ってて、ずーっと気になっていて」と一生懸命に詫び続けた。
なぜかその姿を見るうち、ありがとうと喜ぶ気持ちは冷めていった。あなたは、またきっとやるよ。そう感じた。同じような雰囲気になったとき、あなたはきっと、自分でも気付かぬうちに、皆と歩調をあわせているよ。謝り続ける姿に申し訳ないと思いつつ、冷ややかな思いは頭を離れなかった。
この直感は当たった。欠席裁判のとき、ジェフさんと特にトラブルはなかったはずの彼女も、やがて興奮しながらパニック状態になった人達と同じことを口にし彼を責めていた。
カヨさんにも後日談がある。彼女はエトウさんに噛み付いていた頃、エトウさんの義父がオーナーである会社の名を知らなかった。ある日新聞の訃報欄でそのことを知り、ひどく驚いた。その後ぴたりと、エトウさんとは衝突しなくなった。笑顔で対応し、ネガティブな意見は述べず、彼女の意見は肯定的に受け止めた。エトウさんのほうも「すぐまたひねくれる」と言わなくなり、会話もスムーズに進むようになった。ナナちゃんも「最近カヨさん、楽しそうですね」「明るくなりましたよね」と嬉しそうに言う。以前はカヨさんが休みの曜日の昼休みには、彼女の皮肉な発言に対する苛立ちが話題にのぼることも多かったが、もはやネガティブな意味で彼女のことが皆の話題が出ることもなくなった。そしてカヨさんは翻訳者試験を受け直し、合格して翻訳の仕事に復帰した。
カヨさんのようにすれば、楽だろうな、とは思う。でもそうすることにより、確実に見えなくなる面、聞こえなくなる声がある。耳を塞がせるような不快さは避けつつも、届く言葉を見つけなければならない。不快感を与えないイコール迎合する、でもない。そのへんの、芯を見失わないバランスが、なかなかに難しい。
あとがき
長年気にかかっていた、職場でのよもやま話をやっと書き上げることが出来ました。つくづく感じるのは、文章力不足と視点の甘さ。この物事の捉え方、詰めの甘さが半端なものしか書けない原因とつくづく感じる。
この作品について、本当なら完全な小説仕立てにして、ジェフさんが孤立していく過程など説明調の部分も、エピソード化したほうがわかりやすかったかと思うのですが、今回は敢えて当時書きためた一次資料しか使わない(エピソードを捏造しない)構成にしました。よって小説というよりは一種ノンフィクションです。名前、人物設定その他、特定できないよう、変更は加えてあります。ひょっとして自分が、あの出来事が、モデルではないかと思われる方、同人の面倒を見てくださった某作家先生の「なぜご自分がこの人物のモデルだ、と思われたのですか」という言葉を返しておきます。
ここに書いた内容については煽られやすい人々で分析、考察しています。
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