- 戦争体験記(インタビュー5)
台湾の元日本兵 原住民(高砂族)編(証言22-27)
取材日:2010年6月
証言:22
召集 アミ族長老
生年:大正15年
所属師団:比島派遣軍捕虜収容所第一分署
兵科:
取材場所:中華民國花蓮県
実家は貧乏だった。
公学校へは13歳で入学した。お金がなかったから13歳まで行かれなかった。両親でなく、おばあさんが行かせてくれた。
さまざまな会費、鉛筆、帳面代は自分で稼いだ。春は菜の花を採って売り、山で日本ワラビを採ってきて売った。
学校に6年通い19歳で卒業
学校を休んで手伝いをしていると、受け持ちの平田先生が来て、卒業したら学費を出すから日本へ行って勉強しなさいという。父は許したが母が許さない。先生は何回も来た。本当は行きたかったけれども行かれなかった。
その後お金を稼ぐため給仕に行った。
21歳のときの11月、サトウキビ会社が操業前の工員募集をした。これに応募して2年働くが病気になって辞める。
24歳まで村の青年団長(一週間に一度訓練)や家庭防空壕指導員などをするが、このため全然仕事ができなかった。そこで25歳のときアルミ会社に勤めることにする。
昭和16年 戦争がはじまり、召集令状が来た。
昭和17年1月17日 出征。友達親戚にも知らせなかった。
台東周りで高雄、台北総督府へ行く。15人(台湾人2人、アミ族13人)だけ総督府の地下室に集められ、訓示を受けた。特務と言った。一週間後高雄に戻り、40日間輸送船を待つ。
昭和17年2月に出航、15隻でバシー海峡を越える。一隻魚雷を受ける。自分は護衛艦に乗っていた。マニラで2泊。
比島派遣軍捕虜収容所第一分署に配属(アメリカ人捕虜の収容所)分署長トシノ大尉
15人で6ヶ月初年兵教育を受ける。戦争の訓練、夜は学課(作戦)だった。
高砂義勇隊は軍属で訓練は受けていない。しかし台湾でも軍服をもらっていた。自分たちはずっと私服、戦地でやっと軍服をもらった。
一期検閲後、夜点呼で誰がどこへゆくか発表があった。分署から1個分隊の軍司令部派遣が発表され、14人のうち自分一人がその分隊に配属され軍司令部へ派遣された。他の14人はそのまま捕虜収容所に残った。
一個分隊の分隊長は寿豊村の警察部長をしていた慶應出のイダ部長。とてもやさしい人だった。
1班に15人、班長は日本人、衛生兵が一人、アミ族5,6人、そのほか台湾人や日本人がいた。
さらに軍司令部からの命令で南へ派遣され、ニューギニア、ソロモン、ラバウルなどあちこちを特務兵として回った。一人ではなく、同じ分隊から数人一緒に行く。
仕事内容はどの部隊が何をやっているかという資料を取って上へ報告する。民間の部落にも入って情報をとる。部落の人は、みな日本の教育を受けているから日本語をしゃべる。
仕事が終わったからマニラへ帰れといわれてマニラに戻る。
昭和20年頃
アメリカが上陸してきて決戦となる。糧秣を運搬して山中へ退却。
山へ入ったのはいい、糧秣はある。防空壕を掘って備えるが、分隊長は弾を節約しなさい、撃つなと言う。
アメリカがしょっちゅう谷川沿いにあがって来る。アメリカはそばにいる。
毎日観測機が飛んでくる。編上靴ははけない。靴の下に鋲があるため、音が出る。みな足袋だった。
米軍が3回目に上がってきたとき、タコツボに入って待っていると、隣の人が頭を出して撃たれた。
あるとき、分隊長は撃つなと言うが引き金引いてバーと掃除してやった。アメリカはワーとびっくりして山を下りた。翌日爆撃され、砲弾にあたって糧食めちゃくちゃ、食べ物ない。足を砲弾の破片にやられ、野戦病院へ連れていってくれたが、場所がない。自分で小屋を立てないといけない。いつまでも治療を受けられない。
日本人や台湾人は食べ物がない。アミ族が藤の芯、木の実、草をとってきた。分隊では自分が教えて、みな植物をとれるようになった。
罠はワイヤーがないからかけられない。山地の人たちはどこでワイヤーとったかわからない。(注:アミ族は先住民族だが平地に住み、田畑を作って暮らしていた。感覚的にも漢族に近く、山地の狩猟採集民と異なる。当人たちは「自分たちは山の民族ではないから高砂族ではない」と言っている)
一ヶ月で足もだいたいよくなり、イダ部長に14名の兵を連れて糧食泥棒に行けと命令される。日本が負けていないときも行っていたので場所はわかっている。
1週間の命令、谷川を下り3日目の夜に到着。壕がたくさんあり、アメリカ兵はてっぺんにいてテントがきらきら光っている。一番端の小さい壕で、翌日の晩から泥棒はじまり。豆でも何ででもいい、とってきて夜明けに壕に戻り、4日間盗んだ。4日目に携帯燃料でご飯を炊いたら、米兵が蒸気を見てやって来た。せっかく炊いたご飯も食べられない。壕で抵抗し、22歳の日本の若い初年兵が飛び越えて撃たれた。3日間壕にいた後、米軍の捕虜となる。イダ部長はまだ山にいたから、そのあとどうなったかわからない。
アメリカの収容所では日本人と台湾人は分けられた。台湾人と山の人は一緒だった。収容所では日本兵になった理由を聞かれた。徴用と答える。期間が過ぎたら台湾に戻れるという話は出たが、半信半疑、このままアメリカに残されて奴隷にされるのではという思いもあった。
昭和20年8月15日
陛下が降参した。戦地では兵隊は降参していない。解散令もないから解散もしていない。
悔しいけどやむをえないと思った。弾や食糧がないのが問題だった。あればいつでも戦う。
民国35年
高雄に復員、北回りで戻ったがバカだった。宜蘭から花蓮港の間の列車がなかった。バスもなく失敗した。中国の兵隊のトラックをつかまえ、乗せてもらって村に戻った。
村では歓迎会はなかった。隣村ではあり、自分も参加したことがある。
しばらくぶらぶらしたあと、購買部に勤めたり商売したりしたが、母が戻って百姓をしてほしいと言ったので村に戻った
意見:
アメリカとの戦争は陛下が承諾したのではなく、東条が承諾した。東条英機はスパイだったということは、大げさには言っていない。秘密。軍司令部にいなければわからなかった。それで息子が東条を切った。(カメラのないところの話では、「息子は正しい人だったからそういう父親を恥じた」と語る)新聞にも出た。写真がある。
山本は短期戦、東条は長期戦。長期戦にしたのは、その間にアメリカが武器を作れるようにするため。東条はアメリカを応援していた(カメラのないところの話では、「アメリカからお金をもらっていた」と語る)。山本五十六は撃たれたのではなく自爆。山下将軍は処罰された。山本五十六も自殺しなかったら犯罪者になっていた。
大陸とは戦争ではなく、演習に行った。事変であり、戦争ではない。蒋介石と戦うために行ったのではない。国が狭いから広いところに演習に行った。
日本の政府は台湾を慰問してくれない。むしろ大陸で謝った。台湾の青年が一生懸命命をなげうって日本のために加勢してあげたのに、いまだにご苦労さんと一言もお詫びしてくれない。そりゃ民間はとてもいい。しかし政府、日本政府が台湾に来てご苦労さんと一言、それで気が済む。日本の政府が台湾の兵隊になった青年にお詫びをしてほしいと思う。
証言:23
アミ族 第四回高砂義勇隊兵(故人)の妻
生年:
取材場所:中華民國花蓮県
故人とは同じ村出身。第四回義勇隊から戻ったあと結婚した。
みな、警察からあんた行きなさい、という命令で行った。
アミ族は送別会を開き歌と踊りで送った。沿道に大勢の人が出て軍歌を歌い、駅まで万歳万歳と見送った。
南回りで高雄へ行き、ニューギニアへ行った。結婚後聞いた話では、食べ物の苦労話が多かった。この草食べられるかなあと悩んだり、水をあげたら亡くなった日本兵の話などをしていた。夫は日本人と話すのが好きだった。
高砂族は山の人のことを言う。アミ族は高砂族ではない。高砂族は山から降りてきてアミ族の首を刈る。アミ族は首を刈られる側だった。日本軍で山の人もアミ族も高砂義勇隊と一緒にされた。
公学校を卒業。公学校には台湾人とアミ族が通い、日本人は小学校に通った。高砂族は蕃童教育所に通った。学校は1クラス50人、厳しい先生もやさしい先生もいた。
授業は日本語、アミ語を使ってはいけなかった。アミ語を使うと学校の点数引かれるよと言われたが、話だけ。実際に引かれることはなかった。
学校から帰ると子供は家の手伝い。田圃の作業や、近くの山で薪をとったりした。
中学はお金がかかるため、ほとんどが小学校まで。小学校を卒業すると女中や給仕になって働いた。
自分は学校で給仕をしたあと、派出所の電話受けになった。掛けてくるのはほとんど日本人。日本人は、警察や学校の先生など大勢いた。線路の反対側には精糖工場もあり、工場の人たちもいた。
アミ族は牛を使って田圃を作る。山狩りもして、ワナで山豚をとった。服は麻や絹から糸を紡ぎ、バンブーで織った。綿はまだなかった。
今山は緑の木々に覆われているが、昔は山でも畑を作っていたためハゲだった。日本時代よりもずっと昔から、山で落花生、おかぼ、粟、芋、里芋を作った。田圃の仕事は一時しかない。その他の時間に山の畑を作った。
川向こうの山はアミ語でチクマタン(ある本島人の名前からついた)、部落のすぐ上の山はチャリマンと言う。仕事へ行くとき、回りに山の名を告げて出かけた。
ここはサトウキビの精糖工場もあるため、空襲があった。昼間は空襲があるから、夜田植えにゆく。空襲が激しくなると、みな山へ疎開した。防空壕を作って食糧を運んだ。空襲は毎日同じ時間にあった。
8月15日 終戦はスピーカーで流れた。ほとんど兵隊に行っているから、みな残念な顔をしていた。これからどうなるか心配だった。
アミ族と日本人は親しい。持って帰れないものはアミ族にあげる、と置いていった。3ヶ月後、日本人は帰っていった。豊田(南にある町)には日本人の移民村があったが、戦争が終わって日本へ帰っていった。
国民党が精糖会社に入ってきた。二二八事件のとき、みなに外に出てはいけない、出ると撃たれるぞと言ったこともあった。部落はほとんどアミ語なので、中国語は勉強していない。
しばらくして後の夫も含め義勇隊に行った人たちが戻ってきた。みなで歓迎の会を開いた。日本の兵隊に行ったということで、こっそり戻ってくる、ということはなかった。その後夫と見合いで結婚した。
さいごに:
戦地へ行った人が苦労したのに、ご苦労さんでしたというものがない、という気持ちはある。夫は厚生省まで陳情に行ったが「政府は民間とは話ができない、民国政府と話すべき」と言われた。陳情は今ストップしている。
証言:24
志願 アミ族
生年:大正12年
所属師団:比島遊撃隊川島部隊
兵科:歩兵
最終階級:上等兵
取材場所:中華民國台東県
公学校に1〜4年まで通う。
日本人は派出所くらいで、付近にはいなかった。本島人も2、3軒だった。
先生の紹介で台東の公学校で5、6年生を終え、さらに高等科へ2年通う。台東までバスで1時間、平日は親戚の家に住み、土日に家へ帰った。
その後商売を1年したあと、学校の給仕になった
日本の高砂族の政策は、最初は軍夫として徴用、次に義勇隊、そして最後に実際の鉄砲を持つ兵隊を集めた。
昭和19年 学校教員に採用され、4ヶ月の講習を受けて代用教員になる。日本の青年団などをいろいろやる。
同年 日本の教育に憧れて志願兵となる。
身体検査で甲種合格、この部落で20名受けて6名合格。出征時には、道路や川沿いに大勢並んで見送ってくれた。
新竹の教練所で4ヶ月の激しい訓練を受ける。高砂族の志願兵(義勇隊ではない)のみ600名が、銃の使い方、山中での戦闘方法を学ぶ(モロタイ島では米軍が小さい滑走路を作って飛行場を飛ばしていた)。
昭和19年5月 高雄から輸送船でフィリピンへ。
フィリピンに約1ヶ月滞在、ここで薫空挺隊と川島部隊300名に分かれた。薫空挺隊はその後レイテで全滅。
川島部隊は4中隊に分かれ日本人は1個中隊に5〜6人、残りは高砂族(ブヌン、タイヤル、パイワン、アミ)がいた。台湾人はいない。
当時、義勇隊がコレヒドールを乗り越えてアメリカ人を全滅させた話が印象に残っている。
川島部隊は最初セレベス島に上陸する。状況を見に行くよう言われ、船の状況を見に行く。日本の輸送船が見えみな戦場に行くんだなあと思ったが翌朝はもういなかった。みな捕虜となったという。その晩やられたのかわからない。気の毒だった。これは危ないというのでモロタイ島へ移動する。昼に移動したため飛行機がどんどん飛んでくる。船から下りても弾が飛んでくるから動けない。
自分は第二中隊、中村中隊長。1班6名、4班に分かれ各々の行動に入る。
斥候として船の状況を調べてこいと言われるが、アメリカの船が島を囲んでしまっており、島を出られない
4中隊で糧秣を分け、ジャングルの中に入る。通信もできない。山の中だから伝令も頻繁に連絡できない。飛行機は頻繁に上空を飛んでいる。
米軍は台湾や沖縄を攻撃するための飛行場をモロタイ島に作る。こちらはただモロタイ島を守るだけ。ただ部隊長の命令で動いた。
一番辛かったのは食糧。食糧不足がきつかった。米、乾燥野菜などすぐなくなった。部隊長の命令で食糧を管理せいと言われた。火を起こすと飛行機が飛んでくるから火を起こせない。ぜんまいなどを噛んで噛んで食べた。敵の廃残物も(とったりした)。この戦争は食糧で負けた。
日本人は食糧がわからない。山の人は山の食べ物に詳しい。ヤギ、山豚、鳥、トカゲ、ワニを取って食べる。山のことはブヌン族など山の人が詳しい。
山から木の実、藤の芯、椰子の汁をとって食べる。芋のつるを切って夜炊いて食べた。日本人を連れて行って一緒に食べた。塩の代わりに唐辛子を使った。
山の人は山の事情よくわかる。日本の兵隊は原始の生活を知らない。カタツムリも椰子もモッカも生で食べた。
戦争はやっており、機関銃でババババーと撃ってくる。彼らと対抗できないが必ず戦う気持ちでいた。
日本の兵隊は靴をはかない生活ができない。湿地帯だから靴を履くとすぐ濡れて重い。自分は4年生まで裸足だったから裸足で行動した。みな着物もぼろぼろ。半年間ぐらいそんな感じだった。
モロタイには原住民がおり、芋、バナナを植えていた。盆地で食べ物を探し、畑から芋をとった。しょうがない。
中隊長から命じられ、彼等と一緒に一週間ほど生活したことがある。言葉は通じない(多少アミ族と似ている言葉もあったが)。彼らは最初日本人とつきあったが、自分たちは食糧をあげられないから、アメリカが来ると食糧のためにアメリカ側になった。
ある日自分の中隊長が5,6名の兵と一緒に敵情を調べに行った。ある盆地で弾が飛んできて負傷した。
中隊長に負傷しましたというとそのまま自分を残して帰ってしまう。自分で歩くしかなく、血がどんどん出てくるので三角巾で血止めをする。怪我をすると水を沢山飲むので、川の水をたくさん飲んだ。その晩体が弱っているから寝ていると、山豚が血のにおいをかいでやってきた。翌日部隊に戻るが、医務兵は薬もない。自分で椰子の汁で洗って2ヶ月で直した。
その後通信隊にまわされる。通信隊といっても電通もないし通信できない。ただ通信機を担ぐだけ。日本人5〜6人とだた通信機を担いだ。
ある晩、通信兵が敵の襲撃を受けるが、夜だから見えない。通信機で敵の弾を防ぐ。日本人の通信兵一人が死ぬ間際となり、班長がおんぶして医務室へ連れてゆけという。蕃刀を下げておんぶして山を下りる。途中で亡くなったので仕方がない、木の葉を切ってかぶせ、祈りの言葉をかけて戻る。通信隊はやがて解散。
ある日中隊長が兵と一緒に敵情を調べに行き帰って来なかった。自分の中隊長だが待っても待っても帰ってこなかった。戦争が終わってからの会合で部隊長とその中隊長も来た。聞いてもはっきり話さない。九州へ中隊長の墓参りにも行った。
スニヨン(李光輝、中村輝夫)がいた。彼は義勇隊で訓練は一緒でない、兵隊の訓練は受けていない。義勇隊からモロタイ島へ来て同じ部隊に編入された。
ある日朝4時前に敵の襲撃を受けて散り散りばらばらになった。2時間後に戻って元の行動に戻ったが、スニヨンは兵隊の訓練を受けていないからか帰ってこない。待っても待っても帰ってこない。死んでもいない。探して見つけたが「帰らない」「怖い」と言う。殺される、日本の軍隊が怖いという。そのまま30年島に残った。
戦争よりも餓死が多かった。いろいろな人が食糧を分けてくれた。飯ごう1杯で1日の生活をした。
昭和20年9月 敵の宣伝ビラが回ってきて飛行機から日本語で「戦争は8月15日で終わりました。安心してください」と言う。みな手をあげてワアーと喜んだ。部隊長は信じない。9月まで山の中にいた。
川島部隊300名中130名だけ残った。川島部隊長の指揮のもと集まる。
アメリカが収容する。しばらくして現地へ戻り、農機具を持ち畑を作って自給自足の生活をする。芋は2ヶ月で肥える。芋のつるを取ったり、2ヶ月くらい芋の生活していた。
畑の仕事は部隊長中隊長小隊長皆一緒。自分は体がまだよくなかったので畑仕事しないで部隊長の当番をした。
その後日本人と台湾の兵隊に分かれた。復員は日本人が先だった。船を待つため港に行き、台湾兵130名がアメリカの輸送船に乗って基隆に上陸した。さあどうするか、戦争は負けた。支那兵は支那兵で兵隊ではない。金はないし戦地からの着物を支那兵に出して金を集めては基隆からトラックで台東まで来た。
台東には40名中20何名戻った。戦死した兵隊の骨(灰)を袋に入れ、台東で箱を作って入れてそれぞれの部落に持って帰り、親などに分けた。自分の部落では6名中3名レイテで全滅、1人戦死、2人だけ帰ってきた。
戦争に負けたから誰も相手にしてくれない。親戚が集まって迎えてくれただけ。
その後は自給自足で畑を守ってどうやら生活をした。兄弟4人は分家、80歳までは仕事をしていた。10年前、幸い政府から年金が1人6000円出るようになった。
絶対に戦争をやってはいけない。戦争は恐ろしい。勝っても負けてもいいことない。
日本の兵隊は武器さえあれば決して負けない。武器がない。
戦争に負けたから大きな声でしゃべれない。
蒋介石が兵隊を集めている、お金をあげるから申請しなさいと言われ台北まで行った。
蒋介石は大嫌い。大陸で共産党に追われて台湾に来た。
日本人が、戦場に行った台湾の青年のために報酬を与えたというが、蒋介石が渡していないと聞いた。日本を恨むようにしたらしいという。
兵隊に行ったことは回りにしゃべっていない。日本語わかるのはこの村ではもう、自分と家内だけ
アミ族は母系制で女性のところへ婿に来た。戸長は女だったが、自分の時代は違う。母の世代までは母が戸長だった。
昔は裏山でヤマブタとったり木を切ったりしたが、今は政府から狩猟を禁止されている。木を切ったり魚を採ることもできない。
昔は本当の山と耕作できる山と違っていた。耕作する山があり、粟を植えていた。綿を作って着物にした。
10年前から川の水が減っている。
収穫祭は7月15日
証言:25
特別志願兵 ピュマ族
生年:大正10年
所属師団:台北第三部隊→輝1782別班遊撃隊
兵科:歩兵
最終階級:伍長
取材場所:中華民國台東県
注意:耳が遠く、細かい質問は難しかった
ピュマ族は日本統治時代とてもかわいがられた。ピュマ族はとても日本語が上手で標準語だったので、ほかの原住民と異なり日本人から好かれた。
地元部落の公学校に4年、市街地の公学校に2年行き6年生で卒業
台東公学校の高等科へ行き、青年訓練団を受ける
昭和16年 台東の農業技手学校(今の農校)を卒業
支那事変のため学校では兵隊の訓練ばかり
17歳(昭和17年の間違いと思われる) 農林学校の教員試験を受け、利嘉国民学校の教員となる
このとき名前を日本名に改める
昭和18年 特別志願兵制度に応募、身体検査に合格
昭和18年9月23日 台湾を離れる前に妻と結婚
昭和18年10月15日 出征
台北第三部隊に入隊
新竹湖口で正規軍に入り戦闘教育を受ける(高砂義勇隊でない)。500人が訓練を受けた
3ヵ月後、中野学校の訓練を受けた幹部から特別に3ヶ月訓練を受けた後、遊撃隊に編入される
遊撃隊は銃を持たない。戦闘手段は爆薬。最初は爆薬の梱包の仕方、次に手榴弾、ダイナマイトの縛り方。攻撃は主として夜間、昼間ではない。
昭和19年5月28日 高雄出発
同年6月2日 マニラに上陸。高砂族500名は次の2個中隊に分かれた。
遊撃隊の編成:第一中隊:神田部隊 第二中隊:川島部隊(同じ遊撃隊だが内容が少し違う)
自分は川島部隊に入る
第一中隊は薫部隊(航空隊)に編集され、レイテ島へ(その後全滅)。川島部隊はハルマヘラへ。
大東亜戦争では最初はよく戦った。フィリピンから次々と占領したが、だんだん兵が”弱くなってきた”。というのは、ハルマヘラには第32師団(石井中将指揮)が駐留していたが、32師団は北支(満州)の寒いところから暑いところへ来た部隊。このため熱暑病やマラリアにかかる。日本人はとても体が弱い。
東部ニューギニア(ブナ)からニューギニア西へ、アメリカがずっと日本人を押してきた。アメリカのニューギニア占領完了、次はハルマヘラに上陸するだろう、と警備を厳重にする。第32師団は設備もよく整え、いつでも迎え撃てるよう警備していた。
モロタイ島はハルマヘラから50キロ離れた小さい島。モロタイ島には森田大佐指揮する二個大隊が警備していた。
第二中隊はハルマヘラでさらに第二遊撃隊を編成、主力はハルマヘラにおき遊撃隊がモロタイ島へ行き、森田部隊と守備の交替をした。
遊撃隊の総員はわずか484名。戦闘機材は銃は持っておらず、爆薬、手榴弾、ダイナマイト
第二遊撃隊は4個中隊に分かれ、第四中隊と本部:南地区の警備、第一中隊:西地区、第二中隊:東地区、第三中隊:北地区。自分はハシマ中尉の第三中隊に配属される。
平成12年門脇氏が訪問したところ、苗字がなぜかハシマではなく秋成だった。北九州門司にある秋成中尉のお墓におまいりに行った。
昭和19年9月15日 アメリカは必ずハルマヘラに上陸すると待っていたところが、変更してモロタイに上陸。アメリカの正規軍2万8千人、補充隊1万2千人、計4万人が上陸した。
これに400人の高砂族の遊撃隊で立ち向かう。どう戦争するか?一人に百名が相手。銃はなく爆薬で戦争する。
東は海が浅く西は深くなっており、アメリカは深いところから上陸した。米軍はフィリピンに接近するためにモロタイに上陸。6箇所に飛行場を作りフィリピンを攻撃する。
アメリカの設備はとてもものすごい。日本人が台湾で飛行場つくるにはもっこ担いでエッサエッサ土をならす。アメリカは機械化部隊、最初は艦砲射撃、散り散りになった椰子の根などをずーっと押してゆき、深いところは機械で土を掘ってトラックで埋める。1週間で作った。
自分たち高砂族遊撃隊は待ち構えていて夜間攻撃。爆薬を持って指令部、兵隊の幕舎、軍事設備、トーチカなどを攻撃する。
米軍は海岸から3キロの間椰子はすべて倒し、戦闘区域に?線(聞き取れず)を張り、そこから100mの間平らにして飛行場を作っている。
高砂族遊撃隊は幕舎攻撃。普通攻撃は二人でするが、状況を見て一人侵入、一人で爆薬持って目標の幕舎を攻撃する。さいごに大きな飛行場が2箇所残っていた(他の飛行場は爆薬で攻撃)。最後まで攻撃しようとしていたところ停戦、戦争が終わった。
まだ若い、力もある、日本精神もある、大和魂も持っている。やるなら来い。
遊撃隊は銃を持たない代わりに蕃刀を持っている。昼間は宿営地の攻撃、迫撃戦闘といって蕃刀ふるってヤアー、とやる。一ヶの幕舎に米兵は50人くらい。
攻撃に参加した宿営地には4ヶの幕舎があった。当時自分は伍長で分隊長だった。10名の兵隊を連れて1つの幕舎を攻撃する。丁度米軍が昼飯を食べているところを攻撃した。最初ダイナマイトつき手榴弾(梱包する)を投げ、爆発すると米軍は銃を持って撃ちながらくる。自分たちは蕃刀を持ってヤアーと進む。米軍は30〜50発出る自動短銃。日本人の兵隊が持っている三八式歩兵銃は弾が5発しかない。これでは戦争にならない。爆薬で残った者は銃で向かってくるが、蕃刀を持ってヤアーとやると向こうは怖がって逃げてしまう。足の速いものは銃を拾って後ろからバーンとやる、あるいは蕃刀でバーとやる。ピュマの蕃刀は槍式で両刃、自分は6人切った。その後幕舎に戻って食べ物がないか見る。糧秣やテント機材を担いで山へ逃げる。面白い。山の人は物を担ぐ。
戦争というものは靴をはいてするもんじゃない。私たち遊撃隊はみなはだしだ。はだしで山を走る。トゲがささっても気づかないくらい皮膚が硬い。日本人はそうじゃない。日本人は靴がないと歩けない。
戦争はしてはならないものだ。映画やTVで見ると死んだら助けてあげる。しかし高砂遊撃隊は鉄砲に撃たれらそのまま。哀れなものだ。死んだら泣く人もない、棺に入れる人もない。死んだらそのまま。本当に惨めなものだ。それを見て助けようにも助けられない。ここから早く山へ逃げないといけない。自分も同じ、命惜しい、死んだものは死んだもの、しょうがない。映画で見る、TVで見る、ああいう戦争じゃない。死んだら死んだ、助けられない。
自分たちの部隊には糧秣は1年分あった。しかし戦争が激しくなり、ハルマヘラから切込隊を編成してモロタイ島に応援に来た。その兵隊たちに糧秣を分けてあげなければならない。12月頃米の一粒もない。腹が減っては戦はできない。そこでマカン作戦(食糧作戦)。糧秣求めて一方向を攻撃することになった。
戦争中、宿営地の攻撃に2回参加、幕舎攻撃を2回、陣地攻撃を2回やった。伍長だったので攻撃、情報収集、敵情視察の3つの任務があり、攻撃は6回しか参加できなかった。
ハシマ中隊長、ミネタ伍長、自分、兵隊二人、この5人で本部へ連絡に行った。帰る途中、岡田伍長、XX兵長、自分と兵隊で敵情偵察を命ぜられ、戻ると集まる場所にいない。ミネタ伍長と兵隊が死んでいる。中隊長を探しても見つからない。中隊本部へ行き、また5,6名で探すが見つからない。そのまま行方不明になった。そのあと帰ってきたというが私はわからない。日本に招待されたとき、ハシマ中尉は亡くなっているときいた。部隊の記録では行方不明になっている、捕虜とは言っていない、しかし実は捕虜になって帰ってきた。
遊撃隊の幹部たちはとても私たち部下をかわいがる。だから食糧がないときは何とか食糧を調達して助けた。バナナの実を食べ、実がないときは木を切り中の芯を食べる。日本人の幹部に食わせたら下痢した。しかし2回3回食べたら慣れたようで止まった。モッカも最初実を食べ、なくなったらモッカを倒して柔らかい芯を蕃刀で削って食べる。日本人幹部もこれを食べた。豚と同じように食べた。今思うとモッカの芯まで食べてよかった。
戦争よりも餓死が多い。そういう日本人が多い。食べ物が欠乏して体が弱って死んだのが多い。自分の部隊の日本人幹部たちは高砂族のおかげで日本内地に帰ることができた。
台湾の人は食べられる木、木の実がわかる、毒のある木の実もわかる。戦地へ行くと食べられるものはたくさんある。
昭和20年8月15日 戦争やめました。日本が負けたとは信じられない。戦争には勝っている。モロタイ島の遊撃隊は勝っている。6つの飛行場のうち4箇所つぶした。でも戦争は終わった。残念でした。
終戦でアメリカに収容された。自分たちは捕虜ではない。内地へ帰るのを待っていただけ
蕃刀はアメリカに没収され、燃やされた。山から持ってきた荷物は全部接収された
戦争が終わったという情報はあった。遊撃隊は負けていない、信じられない、負けたとは思っていない。
戦争が終わったときには確かに終わった。というのは米軍はもう鉄砲を撃たない。私たちを見ても撃たなかった。
戦争が終わってもまだ米兵残っていた。終わったなら帰るはず。米がまだ残っていたのは日本兵を探すため。自分たちは幕舎を攻撃をして糧秣を接収して帰る。
本当に戦争が終わったのは、前田中尉(捜索隊長)、日本人が出てきた(説得に来た)。それで本当に戦争が終わった。日本の捜索隊は台湾軍など軍歌を歌いながら放送で呼び出した。
本当に負けたと思ったのは、基隆に上陸して裸にされたとき。あのとき本当に戦争に負けたと思った。外地では負けたと思っていない。
戦争中、3回泣いた。
1.アメリカ軍4万人が上陸した。1対100。艦砲射撃で椰子林をみな倒す。これで終わりだと思った。高い山に登ってみると平野がみな丸焼けだった。いやー、このとき泣いた。
戦地へ行くと天皇陛下万歳の騒ぎでない。日本人さえ倒れる前には「カカア(おかあさんのこと?)」と言う。私の同胞は「イナー」呼びます。
2.攻撃時に自分の部下が倒れたとき。かわいそうだ、助けようにも助けられない。
3.戦争に負けたんじゃない。戦争には勝っている。ところが戦争が終わって船に乗って基隆に着くと、台湾の国民党(陳儀長官)の憲兵隊、支那人の憲兵隊が待っている。アメリカからもらったセーラー、皮靴だのをとって裸にしてしまった。残ったのはふんどし一本。このとき本当に日本は負けたと思って泣いた。それまで負けたと思っていなかった。
基隆の波止場では役所に勤めている台湾人が迎えてくれ、汽車の切符をもらった。お金はない。東部の者は基隆から蘇澳まで汽車、鮮澳から花蓮港まで船、花蓮港から汽車で帰った。やはり帰ってくるのはわかる。汽車で台東に下りたら家族が待っていた。
最初船の上で日本の内地に帰ると思った。
出征直前に結婚した妻は、3年も5年も帰るまで待つと言った。本当かどうか、状況見て日本へ行こうと思った。本当に待っていた。帰ってきてから妻と二人で畑を作った。男の子が6人生まれ、子供らが大きくなり母親の世話をするようになってから亡くなった。生きていて良かった。妻も子供も持った、自分で幸せだと思う。
日本へ招待されたとき、川島部隊長はもういない。墓へ行こうとしたが時間がなかった。
九州に行ったとき、ハシマ中尉(中隊長)の墓まで行った。
今山では獣をとることはできない。
時局がどうなろうと関係ないが、時局を見ると中国と手を結んだ形だ。こうなると中国は台湾を飲み込む。台湾の近くには日本がいる。日本に影響するぞ、できたら日本も応援してほしい。
以下いただいた資料から:
川島第二遊撃隊 生還173 没156 不明33 計362
昭和19.1.20 輝1782別班遊撃隊
4.29 兵長
6.2 マニラ
7.5 ハルマヘラ
7.12 モロタイ遊撃隊となる(師団長命令)
7.22 第一中隊 ワカブラ モロタイへ
8.7 第二中隊 サンゴオ モロタイへ
9.10 伍長
9.15 第一切込隊遊撃隊戦闘開始
昭和20.5.23 高丸攻撃隊20高地最後の攻撃
8.30 モロタイ捜索隊 終戦の転進
9.3 アメリカのドルバ収容所
9.9 ハルマヘラ島現地自活のためドルバを離れる
9.10 ペラワン地区で自活生活
昭和21.4.30 復員のためペラワンを離れカムラハへ
6.2 カムラハよりモロタイ経由台湾へ
6.11 基隆着
証言:26
パイワン族 第一回義勇隊兵士の義弟
生年:昭和5年
取材場所:中華民國屏東県
かつての村の名前:カサギザン
蕃童教育所に8歳で入学。日本が来るまで教育は受けてない。当時の教育は生蕃教育といってまず言葉。蕃童教育所は5年間通う。
先生は男の日本人。先生が警察、医者もやった。日本人は二人いて交替する。5,6年くらいで転勤した。奥さんもいた。宿舎が違う。
教育所卒業後は山の仕事をした。芋、里芋、粟を作っていた。
卒業後2,3年たって光復
高栄利(姉の夫)は第一回義勇隊でニューギニアへ行き米軍と戦った。
兵隊経験の話はわからない。この回はほとんど帰ってきた。
軍隊の生活かわいそう、芋やバナナ、バナナないとバナナの葉も食べたと言っていた。
義兄は戻ってきて日本の警察の警吏になり派出所に勤めた。2,3年後中国の警察に接収され中国の警察になった。日本の兵隊から帰った人はみな警察になった。
日本の軍隊に行ったからと嫌な思いをすることはなかった。みな義勇隊だったことを隠さない。第一回はよかった。帰って警察になった。ほかは帰って畑の仕事をした。
日本の教育と民国の教育は差が大きい。日本時代の教育ではあまり高い教育を受けていない。教育所4年だけ、中学は行っていない。日本の教育の仕方は精神に非常に影響を受けた。泥棒など悪い習慣は全然ない。
民国が台湾に来て山の教育レベルは少しあがった。平地の人と同じように大学まで行かれる。でも教育はあまりよくない、自由にしすぎる。
証言:27
パイワン族 警備隊 第七回高砂義勇隊遺族
生年:昭和4年
取材場所:中華民國屏東県
パタイ社出身。粟や芋を作っていた。ずっと山奥で塩がない。1日歩いて平地のアイリャオ部落で塩を買う。山の薬をとって平地で売る。
おばあさんは麻、木の皮で着物を作る。地機で織った。一番丈夫なのは麻。
家は石で作った。屋根は石、柱は木で作る(両流れの屋根)。
山の生活は貧乏で不便だった。
5歳のときパイランへ移住する。頭目が移住を決めた。
2年ほどして、パイランの蕃童教育所に4年間通う。授業は国語、算数など。
先生は最初山の人だった。あいうえお、平仮名などを教わる。
2年生は日本人の先生だった。山の言葉をしゃべると罰があった。叩くとか正座させる。それを嫌だなと思う感じはあった。
日本人で一番偉いのは部長、取締りが学校の先生、お医者さん、警察は日本人。日本人の子供は自分で教育していた。
教育所卒業後は山の生活をしていた。
枋寮の警備隊に4ヶ月行った。戦争に行かず台湾を守る。年齢で何歳から行きなさいと決まっていた。20歳から始まってゆく(23歳で入ったと本人、計算はあわない)。すぐ降伏したから長くいなかった。
枋寮のコータンという部落で防空壕を作り、米・缶詰を防空壕に入れた。第一第二第三壕を掘る。1,2名の日本兵が命令していた。各部落から100人ほど来ていて、みな同い年。みな山の人で台湾人はいない。パイワン族だけ、屏東県だけ。
日本が負けたのはわからない。日本人がいなくなった。特に何も言われず勝手に帰った。日本がいないからしょうがない。2日歩いて部落に戻る。
警備隊は鉄砲を持っていた。鉄砲なかったらどうやって守る。日本が負けて帰るとき、さいご倉庫に返した。
枋寮では空襲があった。
国府軍には参加していない。二二八事件は山は関係ない。
兄は命令で第七回高砂義勇隊に参加した。命令は命令、南で戦死した。毎月兄が貯金してくれていた。戦死の手紙が来たが両親は泣かない。死んだら死んだ。仕方ない。遺骨ないから信じない。
戦前の台湾 日本統治時代の生活 高砂族/霧社(証言28-29)
取材日:2010年6月
証言:28
パイワン族 日本統治時代の生活
生年:昭和3年
取材場所:中華民國台東県
6歳のとき、日本政府の方針で移住により山を下りた。4部落が移住した。畑はそのまま山の上にあり、山は近いので両親や姉が家から山に登って畑を作った。当時は平地もパイワン族の土地だった。台湾人、福建人はみな西部から来た。
公学校に6年間通う。福建人、ホーロー(福、人偏に老)人(=台湾人)、福州人、客家、原住民が通っていた。1学年2クラス、1クラス3、40人。
授業は朝4時間、午後3時間ほど、日本の歴史、地理、日本語、算数を学ぶ。
日本人は他の台湾人よりも、我々原住民をかわいがる。
先生は日本人、校長先生は田中昌一先生、大鳥先生(男)。
パイワン語を話すと日本語を話せと木札をかけた。
卒業時は「仰げば尊し」を歌った。妻の時代は台湾の歌を歌った。
卒業後、商業学校に3年間通う。本当は5年だが戦争が激しくなったので家に戻る。
17歳のとき、庄役場の財務課に勤める。庄長三田喜造、朝8時から夕方4時頃まで勤務。
役場では長く勤める人の給料が高い。日本人もパイワン族も同じ待遇だった。
日本が降伏したときに役場をやめる。
B29、P38の空襲があり、「空襲警報」とラジオで流れるとすぐに防空壕に入った。
自分の部落には爆弾は落ちなかった。南の金崙で橋が狙われ、まちがえて学校に落ちた。すべて吹っ飛び奉安殿だけ残った。
終戦は新聞か日本人から聞いたかで知った。惜しいなあと考えた。
中国が派出所を接収。中国とは合わない。蕃社の馬を縛る、でたらめだった。
日本人は役場、衛生所、派出所、部局、学校の先生など大勢いた。
みな引き揚げていった。もったいない、惜しいなあ、離れたくない気持ち。80歳の男女はみな日本人を懐かしいと言う。悪い印象はない。
蒋介石の軍隊が来た。歩いてきた。どこでも馬を縛る。村の人の物をとるとかそういうことはなかった。
台東農学校に2年生で入り2年間学ぶ。授業は中国語。もともと中国語は使えるがぺらぺらではなかった。
民国37年卒業
農校の先生の薦めで音楽の試験を受け、学校の音楽教師になる。合唱団、楽隊を率い、県代表となったり数々の賞をもらう。45年間勤務。
民国40年 結婚。
パイワン族は文字がない。頭目の言葉が法律のようで反対できない。なんでも服従した。頭目が移住を決めればそれに従う。日本人も頭目を尊敬していた。警察も助けられる。
頭目は系統で決まるので選べない。女の頭目もいる。現在2箇所は女、子々孫々まで変わらない。頭目は通常金持ち。今では7月21、22日の収穫祭のとき、気持ちだけ頭目にあげる。
かつて保留地といって日本時代は山を自由自在に使えた。芋、粟、里芋を作っていた。
中国になってから国有地となり林務局が管理、原住民の保留地は少ない。
かつて焼畑生活で5、10年で山中を移動。移る、移る、また戻るの繰り返し。焼畑では粟、おかぼ、高粱を作った。
粟が一番大事。粟の収穫は勝手にできない。今でもそうで、頭目が最初に刈る。ピュマ族も粟を一番大事にしている。粟は炊いたりおかゆにしたり、米とまぜたりして食べる。粟酒もある。
海が近いので魚もとる。
妻とは日本語で話す。パイワン語はあまり使わない。子供たちも日本語を少し話す。
自分はクリスチャン、このあたりは天主教が多く、パイワン族の半分が天主教。
頭目名(2010年現在)
太麻里 王梅玲
拉加崙 高春花
利里武 李成仁
加拉班 陳勇義
証言:29
パイワン族 日本統治時代の生活
生年:昭和5年
取材場所:中華民國屏東県
もともと山奥に住み、焼畑で移動をしていた。
昭和1年 命令により山奥から、ここから30分ほどの上の部落に移動
民国39〜42年 現住地(平地)に移動
移動には反対しない。日本時代は命令、移住は頭目が決めてみな従う。2回目は日本人の畑だったところに入った。
蕃童教育所に5年間通う。みな原住民、3,4年生24名、上は18名。
あちこちの部落から歩いて通う、遠いが仕方ない。
貧乏だと学校行かなくてもいいんじゃないかというのもあるが、勉強しないとだめだから勉強する。
山の言葉を話すと「蕃語を使いました」という札を胸にかける。
卒業証書は大東亜戦争でもらっていない。その後家の仕事を手伝った。
日本時代は家族が多いと金がもらえる。子供が多いと金がもらえる。子供が生まれたると派出所に登記する。そのとき日本名をつけた。
日本人の買い物は、山の人を二人雇って朝早く歩いて潮州行き、米もらう野菜もらう。郵便はまた違う。
パイワン族はふだん村の外へ出ない。日本時代は平地へ行くには証明がいる。別の村へ行くにも証明がいった。日本が来てからそうなった。安全の問題でそうなった。
翼に日本の「丸」を書いた飛行機がきた。日本の飛行機だと思い手を叩いていたら、屏東の岡山飛行場に爆弾を落とされた。あれインチキだ。
第一回は岡山飛行場、第二回は屏東。空襲は毎日来る。生徒のときはみな防空壕に入った。宣伝ビラをまいていた。派出所へ持ってゆく。日本語で書いてあった。
山の人は男は必ず兵隊に出る。だから日本時代もいずれ18歳になったら兵隊へ行くと思っていた。
義勇隊が出てゆくときは踊りとか見送りがあった。
終戦は、派出所の警察が話した。日本が負けたと聞いた。みな困った、泣いている。
1年たって日本人が帰った。みな追い出した。そして中国が来た。1年後というのは、平地は早い、山は遅い。
光復後、兵隊ではなく、9ヶ月訓練を受け北京語のできる台湾人の先生が来た。
外省人は来ない。
基督教はここへ移動してきた頃、子供や女が教会へ行った。宣教師は台湾人で山のことばで布教した。今も牧師は台湾人。
山では罠で山豚、鹿、熊をとった
日本時代は派出所に鉄砲があり、借りて狩をした。返すとき獲物を持ってゆく。
今は山で狩をしてはいけない。今山菜や木の実をとってはいけない、山に入ってはいけないというが、秘密に入る。
昔宗教はない。お祭りはある。
先祖の墓は山の中にある。
出草は日本時代はもうなかった。日本時代は許さない。骸骨はあるけど外には出さない。
証言:30
漢族 戦前の霧社の生活
生年:大正15年
取材場所:中華民國霧社
生みの親は埔里から40分くらい歩いたところに住んでいた。10人兄弟で、今も4人残っている。生まれて11ヶ月で育ての親にもらわれ、霧社に来た。
育ての母は幼くして両親をなくし、大家が食べさせなかった。それで日本人の警察の夫婦に育てられた人だった。厳しくしつけられ、和裁も仕立ても教わった。結婚相手も探し、結婚費用も持ってゆくものはすべてそろえてくれた。箪笥いっぱいの着物も、警察の奥さんがそろえてくれたという。
育ての父は床屋だった。日本人を相手に月8円稼ぐ。朝駐在所と霧社事件の記念碑の掃除をして、散髪をする。父は日本人の主任、部長からとてもかわいがられていた。
母は日本人に育てられたからきれい好き、お産の手伝いで1ヶ月ほど身の回りの世話をすることをよく頼まれ、月10円もらっていた。
育ての両親は台湾人だが、家でも日本語を使い、日本人の宿舎に住んでいた。このため自分だけ公学校ではなく小学校に通い、他の台湾人は公学校、山の人は蕃童教育所に通った。
公学校は埔里にあり、霧社の台湾人は親戚などから家を借りたりして通った。蕃童教育所は各部落にあり、警察が先生も兼ねた。蕃童教育所は4年間で、女の子には警察の奥さんが裁縫を教えた。教育所のあとは、霧社に農業教習所があり、山の人だけが通って農業を学んだ。この学校は警察が先生。
父母は日本人にかわいがられたから、自分も小学校に行かれた。自分のことを日本人だと思っている人も多い。教師となった後、生徒たちもそう思っていたりする。
各部落の警察の子供は、学校へ行くため霧社に下りてきており、宿舎があった。また霧社にも警察の人が多くおり、独身者が10人くらいいた。霧社事件のあと警察が増えた。母は独身者のまかないをしていた。隣のおじさんは酒飲みでいつも飲んで寝ており、母が鼻に水を入れて起こしたりした。
霧社は日本人が作った町で、山からいい水が来ている。
霧社事件当時、霧社には山の人はいなかった。日本人が大半であと少し台湾人がいた。山の人はサクラ(蕃社名)など奥の山の部落にいた。日本人は200人以上いた。今の霧社は山の人も多少いるが、大半は戦後やってきた台湾人。
昭和5年、霧社事件で小笠原郡守が殺された。逆霧社事件でサクラのほうの3つの部落の人が殺された。自分は事件のとき宿舎にいた。父が日本人が全部殺されたから今度は台湾人を殺すだろうと逃げた。石川部長の宿舎に行き、太平村まで歩いていった。
小学校を6年で卒業後、埔里の高等科に2年通う。
12歳のときまで眉渓まで徒歩、その先埔里までトロッコだった。その後道が通じてバスが通るようになった。
台中の師範学校卒業。本当は8年間だが、自分たちは3年間通った。
埔里の小学校から師範に進む人は大勢いた。ただし台湾人で進んだのは自分一人だけ。
シンガポール陥落当時、霧社はほとんど日本人だったが陥落の行列には山の人も参加していた。
昭和18年 18歳で埔里の公学校の教師となる。埔里公学校には北校と南校の2つ公学校があった。
師範を出て学校の先生をしていた頃、男はみな兵隊にとられ残っている者はうすばかか丙種ばかり。みな結婚相手がいなかった。15人女先生がいて10人が独身、自分が一番若く33歳が一番上、残りは27歳くらい。33歳の女性は家が金持ち。姉がみな医者と結婚しているため、日本の兵隊となり軍医について働き医療行為を手伝える人と結婚した。その男は貧乏だったが、昔は女の子に持参金をつけたので、田圃も2甲(1甲=約1ha)つけてもらった。田圃は権利書だけ、どうせ実家も小作雇って作らせているし彼女たちもそうだった。こうして不在地主が増え、蒋介石が三七の制度で地主3、小作7で分けた。金持ちの友人は大変だった。小作人は自分の土地ができて喜んだ。
写真屋のおじさんが、私と静子姉さんを娘にしていた。台湾では義理の娘というような習慣がある。写真屋は鳥居さんと言う福岡出身の日本人で、警察の写真を担当していた。娘3人がおり、奥さんが精神を病み、妻子をおいて台湾に来た。霧社事件で殺された日本人女性の骸骨を押入れに持っていた。金歯があったためで、昭和17年に金を供出することになり、歯医者がこの骸骨を買いに来た。おじさんは光復後も日本に戻らず、静子姉さんのいるマシトバ社へ行った。静子姉さんがマラリアで亡くなると、おじさんは気落ちして餓死した。まだ日本と国交があった頃、日本大使館から日本人の墓がないかと問い合わせがあった。マシトバ社の人が墓を掘り出し、遺骨を日本の大使館まで持っていた。奥さんが受け取ったはずだ。静子姉さんは山の人で日本人と結婚したが、戦争にとられ部落にいた。
昭和19年12月 埔里で教えていたところ、嘉義が丸焼けになり、焼け出された人が大勢親戚を頼って霧社に疎開してきた。人数が多くて大変だとのことで、霧社に呼び戻され疎開児童を教える。
霧社に当時22歳の李香蘭が「サヨンの鐘」のロケに来たことがある。1ヶ月ロケを見に通った。
霧社には防空壕があったが、爆弾は落ちなかった。上を飛んでゆくので、みなで見上げると翼がきらりと光り、手を叩いた。P39が飛んでいった。
空襲はないが空襲警報は鳴る。最初は防空壕に入ったが壕には蚊がいるので、警報が鳴ると子供を帰すようになった。
昭和20年8月15日 終戦は学校でラジオ放送から知った。池田校長先生が天皇様の放送があるからと言い、校庭に集まった。山だから放送がよく入らない。何を言ったかはっきりしなかった。あとから聞いて知った。霧社には学徒動員で来た日本の兵隊が大勢駐屯していた。よく散髪に来た。すべて東大京大慶應早稲田などの日本人学生で、台湾人の兵隊はいなかった。
負けたとき、なんで負けたんだろうと言った。
日本人が帰るとき、京大の人から一緒に来てくれと言われた。父の反対で結婚できなかった。あと2ヶ月終戦が遅かったら結婚していた。日本人のおばさんたちが花嫁衣裳の着物あるからねと言っていた。今の夫はこのことを知っている。
日本人の引揚げの手伝いをしたのは自分たち親子3人だけで、あとの台湾人は戦争に負けた日本人の世話をする人はいなかった。
霧社、埔里では日本人を叩く人はまったくいなかった。仕返しをしなかった。山の人も日本人からそれは叩かれたが、叩かなかった。台中はひどかった。叩かれた仕返しにヤクザ連中が叩いた。男はみな兵隊にとられ奥さんと子供ばかり、台中の日本人はみな鍵を閉めて親しい台湾人に買い物に行ってもらったりした。
自分たち親子はかわいがられたが、日本人の警察が台湾人を叩くのをずいぶん見た。
引揚げてゆく日本人のおじさんが「支那人はどこへ行っても嫌われる民族だから注意しなさい」と言った。日本でこのおじさんに再会したとき、「いじめられなかった?」と聞かれ、「それはいじめられたよ、教育程度は低いのに台湾人を馬鹿にして、あたしたち台湾人は随分いじめられた」と答えた。日本人がいじめるより蒋介石の軍隊のがいじめた。
日本が負けてまず陳儀が来た。陳儀と一緒に来た人はまだよかった。次に蒋介石が二百万人の兵隊を連れてきた。蒋介石の連れてきた人たちは文字が読めない。もう国には戻れないから地元の人と結婚した。
光復後は、2桁の掛け算もできない外省人が先生として分配されてきた。校長の夫が困り、1年生を教えさせた。「信じられる?」と言うので、「その人自身も困ったのでは」と言うと、「俸給もらえるからいいんじゃない?」と言う。「その人は自分のレベルあげようと努力したんですか?」と聞くとまじめな人ではあったようで努力していた、でも基礎がないから、と言う。大陸には漢文を教える私塾があり、そこへ通った人もいるので文章は書けるという。ただ算数などがまったくだめ。光復後の小学校は台湾人も山の人もいた。
光復後、中国語で授業することになったので、授業のあと、夜中国語を学んだ。学んでは翌日使っているうちに3ヶ月で使えるようになった。定年まで勤め、今はのんびりしている。
二二八は何もない。郷長が山の人を止めたので山の人も参加していない。
夫は校長先生になった人で、自分のところへ養子に来た。中国では男が養子に来た場合、長男は夫のもの、次男は妻のものになる。姓も同様に名乗る。次男は早く亡くなったから三男が葉家をついでいる。娘の夫は、父が外省人で字が読めない。母は広東人、昔田舎の人は女の子は嫁にやるからと言って勉強させなかった。そういう人が多い。だから字が読めない。それで自分が行くと遠慮している。でも子供は立派に育てた。息子二人ともコンピュータの技術師になった。最初外省人と親戚になるのはいやだと言ったが、夫が「年寄りはいずれ死ぬんだから」と言った。でもなかなか死なない。今90歳以上、でもまだ生きている。
山の人は古い人は日本語ができるので日本語で話す。山の人と結婚する台湾人も多い。感心なのは山の人は姑が嫁をいじめない。戦前、日本人と結婚した台湾女性は日本人の姑とうまくゆかず、離婚された人が多い。ただ、離婚されても戻らない。籍が日本人になっているからまた結婚する。
山の人に、イナ(嫁)が台湾人だとどうかと聞くと、洗濯も掃除もちゃんとやる、山の女よりいいよという。山の人のほうが素朴で話しやすい。台湾の女性は離婚して子連れで山の人と結婚する。平地の怠け者と結婚するより良いと言う。
山の人は学校の先生を見るとちゃんとおじぎをする。今の台湾人の子供は先生に挨拶しない。民国の教育はよくない。
霧社は尾根筋なので台風のときはひどいでしょう、と言うと、「ひどいひどい、特に花蓮港から来るときはものすごい風だ、今は鉄筋コンクリートだからよいが、昔は板張りだったからよく飛ばされた」という。
家は結構高い。山上なので建築資材を全部あげる必要がある。下で800万元で立つ家が1500万元かかる。土地もないから余計高い。