戦争体験記(インタビュー6)
    日本人インタビュー
  1. 証言1 沖縄10.10空襲
  2. 証言2 インパール
  3. 証言3 東京大空襲
  4. 中国での日本軍
  5. 証言4 戦争体験(中国)
  6. 証言5 戦争体験記2(中国)
  7. 全般的な話
  8. 証言6 海軍−トラック島大空襲
  9. 証言7 北支その他
  10. 証言8 フィリピン
  11. 証言9 ニューギニア
  12. 証言10 ビルマ
  13. 証言11 フィリピン
  14. 証言12 海軍整備兵
  15. 証言13 中支
  16. 証言14 満州→シベリア抑留
  17. 証言15 中支
  18. 証言16 海軍飛行隊
  19. 証言17 樺太在住→学徒出陣
  20. 証言18 満州、北支
  21. 証言19 北支→ニューギニア
    台湾元日本兵インタビュー
  1. 日本軍武器の再利用
  2. 証言1-10の前書き
  3. 証言1 義勇志願兵
  4. 証言2 学徒兵
  5. 証言3 軍属(看護助手)
  6. 証言4 軍夫(輜重)
  7. 証言5 軍属(熱地農業技術員)
  8. 証言6 学徒兵
  9. 証言7 軍工(高座会)
  10. 証言8 軍工(高座会)
  11. 証言9 脱走兵
  12. 証言10 軍工
  13. 証言1-10の補足
  1. 証言11-20の前書き
  2. 証言11 軍工/国府軍経験あり
  3. 証言12 軍工/国府軍経験あり
  4. 証言13 軍工(馬公)/国府軍
  5. 証言14 海軍志願兵/国府軍
  6. 証言15 海軍志願兵/国府軍
  7. 証言16 徴兵/国府軍
  8. 証言17 軍工(高座会)
  9. 証言18 海軍特別志願兵
  10. 証言19 海軍志願兵/国府軍
  11. 証言20 高砂義勇隊遺族
  12. 聞取りの注意点-軍隊を知らずして
  13. 証言21 シベリア抑留
  14. 東条英機スパイ説
  15. 証言22 アミ族志願兵
  16. 証言23 アミ族義勇隊遺族
  17. 証言24 アミ族志願兵2
  18. 証言25 ピュマ族志願兵
  19. 証言26 パイワン族義勇隊遺族
  20. 証言27 パイワン族警備隊
  21. 証言28 台東パイワン族戦前のようす
  22. 証言29 屏東パイワン族戦前のようす
  23. 証言30 戦前の台湾霧社のようす
    沖縄編
  1. 戦前の北大東島
  2. 証言31 戦前の南大東島の生活
  3. 戦前の渡名喜島
  4. 証言32 戦前の渡名喜島の生活
  5. 証言33 戦前の島の生活
  6. 証言34 中国大陸
  7. 証言35 防衛隊
インタビュー1、2
 識字学級/中華学校/朝鮮学校や教育等



戦跡

戦時中の日記

戦前/戦時中の時事評論


台湾2009


中国/韓国/北朝鮮
時事
読書感想
エッセイ
創作

過去ログ
活東庵を日付順に保存
(2007年5月以降)

離島の戦前戦時中のようす

戦前戦時中の北大東島
取材日:2010年8月

「北大東島村史」  昭和61年5月30日刊行  平成1年2月28年再刊 より抜粋

全国隣組制度  島にはなかった トンカラリの歌ははやる
南北大東島 飛行場建設で大勢徴用される
出征兵士を送る壮行会もあった

S15.1.25 米飢饉の大東島
大阪からの飯米移入が物資統制でなくなる。このため台湾総督府より米をもらう
S17.1 食料配給制
勤労奉仕:青年学校生徒が出征兵士家族の奉仕にゆく
S19.3.12 燐鉱積船「泰仁丸」魚雷攻撃で轟沈
S19.4.1 燐鉱積船「南丸」魚雷攻撃で轟沈
S19.4.24 球部隊1個中隊 守備のため駐屯 
S19.7.25 豊部隊1個大隊 守備のため駐屯
S19.8.10 第一回内地引揚 社員の家族
S19.8.28 沖縄へ引揚 沖縄出身者は本籍地へ戻る者と、上陸必至とみて大分・宮崎へ行く者と分かれた
八丈出身者で疎開者は少なかった
S19.9.9 疎開の布達あり 引揚勧奨の形をとり、軍の作業・食糧生産に必要な者は残留
S19.10.25 軍が指示した者以外は引揚
当初は沖縄本島直行便もあったが、のち(奄美)大島の古仁屋へ行くようになる
住民は2000人から700余人へ
陸軍1000人 海軍500人が駐屯 島民男子は徴用
食糧が欠乏し、野菜・麦を植えたが天候の関係で出来はよくなかった
兵隊は学校、社宅、工場、民家に住んだ 住民は母屋を貸し小屋に住む
畑と建物を2、30円〜200円の捨て値で買い上げられ疎開させられた者もいる
徴兵検査で沖縄に渡り、戦死した者も多い
ハグエ(幕上)とハグシタ(幕下)の境界となる断崖は石灰岩だった。ここに壕を掘る
S19.10.10 グラマン掃射あり
北大東島で発動船が銃撃される
S20.3.1 南大東島初空襲
S20.3.10 南大東島大空襲
S20.3.21 北大東島初空襲
S20.4.21 艦砲射撃
S20.3ー4月 爆撃が激しくなり、島民も壕生活となる
空襲では高射砲が交戦
爆撃は南大東島の飛行場がメインだったが、工場・社宅の被害も大きかった
しかし立派な自然の洞窟や壕があったため、人的被害は少なかった(島民はゼロ)
S20.6.10まで空襲が続く
S20.8.15 終戦
S20.8.25 任務解除
S20.9.9  米軍指示にもとづき、兵器弾薬を分類集積
S20.10.14 復員船が入港(大東島の兵士を内地へ送るためのもの)
S20.11.25まで4次にわたって引揚

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証言:31  戦前戦時中の南大東島
生年:大正14年
取材日:2010年8月
取材場所:沖縄県南大東島新東

沖縄本島出身 一家で移住
9人兄弟の4番目 南大東に3人、本島に3人存命中で、このほか一番上と自分の間に二人、空襲で亡くなった弟がいた。

土地はすべて精糖会社のもので病院、学校は私立だった。
警察と軍の役所のみが政府から来ており、役場はなかった。
学校は小学校と高等科2年。その上までは行かれなかった。会社側が島を出ることを許可しなかったし、昔は労働力が必要だったので親も望まなかった。
先生は本土から来ており、沖縄方言を使ってはいけなかった。

農業していた人の畑も精糖会社の畑で所有権はなかった。畑ではサトウキビを作っていた。
野菜など他の作物を許可なく作っていないか、精糖会社の人がときどき確認に来ており、厳しかった

戦時中、南大東島の人口は3〜5000人ほど、戦後3000人くらい、現在は1300人

南大東島に駐屯していた部隊:
球部隊(1個大隊) 九州から
豊部隊36連隊 福井県鯖江の大隊
軍が来ると、島は軍の管理に入った。

20歳以上の島の男性は防衛隊に入った
大城中尉小隊長
女性は軍服の修理などの作業があり、5,6人で修理した。
野菜を作って供出したり、防空演習を行った。
隣組制度はあった。

軍の命令で疎開があった。仕事が出来る人は疎開に行けとは言われなかった。
疎開先は九州が多い。戦後戻った人も戻らなかった人もいる。
軍隊は疎開で出て行った人たちの家に入った。

一番上の畑は兵隊にとられた。
高射砲の秋葉砲台があった。

十十空襲の後から米軍の空襲がひっきりなしにあった。精糖工場はかなりやられる。 艦砲射撃で軍もけっこうやられた。弟が機銃掃射で亡くなっている。
夜艦砲射撃があると壕に入った。洞窟があったからよかった。鍾乳石は軍が割った。洞窟には地底湖があり、塩水だが飲めることは飲める。
上陸しそうだというと、どこどこの壕に入りなさいと言われた。いつ上陸するかとは思ったが、島の周りは断崖だから大丈夫とも思った。

8.15 中隊に集められ玉音放送の内容を聞いた。ほっとしたのとがっかりしたのと。
米軍が武器解除に来た。武器は沖合いに持って行き海に捨てた。
球が先に帰り、豊は12月暮に航空母艦「かつらぎ」で帰った。

戦後、本島でやられた人が、ここへ頼って入ってきた。
戦前は宮古島の人はほとんどいなかったが戦後は多い。宮古の人は、疎開で出て行って戻らなかった人の分を借りたりして戦後入ってきた。儲けて帰った人もいるし、そのまま土地を取得した人もいる。
今は沖縄の人が多い。

昭和25年頃より 土地所有権獲得運動がさかんになる。

玉置商会のとき、30年耕したら自分のものになると言われてみな小作をやっていた。口約束で証拠はない。その後玉置が傾き、東洋精糖へ売る(土地の権利は売っていないとも言われている)。さらに大日本精糖と合併、戦後沖縄の大東精糖が借りて営業を続けた。運動の相手は大日本精糖(藤山愛一郎が社長)だった。

昭和36年 キャラウェイ高等弁務官に陳情
昭和39年7月 無償で土地が明け渡される。ただし獲得運動で那覇まで行ったりでお金かかっているので1反いくらで買ったのと同じことだ。

昔はここ(新東)よりもっと東に住んでいたので、小学校まで6〜7キロあった。1時間半歩いて通った。今は親が送り迎えするので子供は歩かない。
高校へ行くようになったのは戦後。高校は本島にあるため、みな高校で島を出る。

戦前はサトウキビ1本だったが、今はカボチャ、パパイヤなどいろいろ作っている。
野菜は船で本土から来た。今も本島から来る野菜のほうが多い。
昔は米が切れる時期もあった。
水は天水だったが、よく雨が降るので困ったことはなかった。

サトウキビが一番安定している。
今は業者がいるから島に出稼ぎがいる。

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戦前戦時中の渡名喜島
取材日:2010年8月 「渡名喜島村史」より抜粋

台風が来れば飢饉と直結
鰹節業も昭和4年に破産状態
養豚もさかんだったがだめになる → ソテツ地獄となる

渡名喜島には戦闘部隊の駐屯はなかった。粟島とともに無防備のまま。
渡嘉敷、阿嘉、座間味、慶留間に守備隊

渡名喜島の小学校には御真影が下賜されなかった。交通、島の財政などによる下賜基準があったのかどうか不明

十十空襲は何もなかった
正月早々に空襲がある。山上の壕でくらす
1.19は特に激しかった むらさき丸轟沈
3.23光泉丸沈没
このため半年間孤絶状態となる

3.24慶良間諸島が燃え上がるのが見える
3.26米軍慶良間に上陸。渡名喜には来なかった
機銃掃射で亡くなった人12人 栄養失調で亡くなった人30人以上

6.10 粟国島が猛烈な艦砲射撃を受ける
7、8月は平穏に過ぎる
8.15 知らなかった
9.9 慶良間地区の隊長が兵隊を連れて上陸、敗戦を知る

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証言:32  戦前戦時中の渡名喜島
生年:昭和1年
取材日:2010年8月
取材場所:沖縄県渡名喜島

小学校6年、高等科に2年通った
渡名喜尋常高等小学校、波止場に分教場があった
先生は渡名喜出身の先生と本島の人がおり、女先生は袴、男先生は着物で1クラス50人くらい
最初帳面はまだなく石筆で勉強した。しばらくして帳面が入ってきた。鉛筆は短くなると竹で挟んで使った
最初共通語をうまくしゃべれなかった。方言札を首から掛けさせられた
教育勅語を覚えさせられた
子供の数は多く、自分は10人兄弟、厚生大臣から表彰状をもらった。渡名喜には表彰状をもらった家が2組あった

遊び おしくらまんじゅうのように、上からかぶさったり、
   中央に丸い石を置き、石に足をかけ手をつないでぐるぐる回るのが面白かった

みな卒業後は漁師になるなどした。
高校へ行く人も5,6人いた。高校に入る人は父親が出稼ぎに行った

大阪の人が渡名喜に来て工場を建てた。飛行機に使うペーパーの製品であるザグロ?(聞き取れず)製造工場で、自分も含め80人くらい働いていた。3年ほどやっていたが戦争になって工場はなくなった

渡名喜に兵隊は来なかった
粟国にも兵隊が来なかったが、粟国は砲撃された。村人が模型の高射砲台を作ったことが裏目に出てやられたらしい
空襲はあった。飛行機が来なくなったと安心していたら6、7名やられた
壕は自分たちでトンネル防空壕を作った

十十空襲のとき、久米島の奥で島のカツオ漁師がやられた
足をやられて飛び込み、泳いだ
トビウオが前後3匹づつ護衛し、渡名喜の手前にあるイイシナグワーを見つけた
潮の流れで西の山に泳ぎ着き、壕へ行って呼ぶと家族は「魂かなあ」と思った
イイシナ神(竜宮)を管理する家の人の話だ

3月20日、23日 慶良間が攻撃を受けるのを見た。慶良間は山からしか見えない
兄さんの子供をおんぶして、兄嫁がもう一人おぶって、頭にカズラ被って、兄と3人で壕へ逃げた
軍艦と飛行機、グワーグワーとけたたましい。島の上は雨が降っているよう
阿嘉のおじいは出稼ぎに出ていた。母親が女の子はひどい目にあうからと二股クワで死なせて自分は死に損なった

沖縄本島を軍艦が取り囲んだ。軍艦が行くのが見え、空中戦が見えた
誰かが「友軍機見たよー」と言うと嬉しかった
空中戦の音は違う。ブォウブォウ、パラパラと回る音
本島は東の浜から見える。夜になるとよく見えた。照明弾で昼のようだった
ヤンバルから糸満の先まで真っ白になっていた
昼も凪のときは見える

8月15日は知らない
9月9日、慶良間の人が上陸舟艇で来た。みな初め山へ逃げたが、だんだん出てきて話を聞く。日本負けたよと言う。はじめ信じなかった。

毎年6月23日には慰霊祭をやっている


主食はサツマイモ、魚(干し魚)、大根、にんじん
風が多くてサツマイモがだめなときは飢饉になる
飢饉の年には粟国に渡ってソテツを買いにいった。5,6年に一回そういうことがあった
60年前、サツマイモにバイラス病がはやった。終戦直後もはやった
葉が縮れるのでパーマと呼んだ。本島からカズラ買って同じ畑に植えた人は大丈夫だった
段々畑を作り芋を植えていた
サツマは南の畑のものがおいしく、北はまずい

米は特別なときしか食べられなかったが、あるにはあった
水がないから田は少ない。山中、山際に水が出て田があり、3,4箇所田のあとがある

飲み水は共同井戸 山の水のおかげかおいしい
20歳頃のとき各家庭で井戸を掘るようになった。掘っても辛い水しか出ずだめなところもある
2、30年前から濾過した水以外許可されなくなった
今は海水を真水処理して使っている

残飯で豚・牛・山羊を養った。多くて3,4頭いた
おじさんの家では6歳で牛を一頭与えられ、山へ連れて行って放牧していた
牛は食用のみ、畑では使わない。小さい牛だった。あまり所得にはならなかった
西洋牛が一頭だけ沖縄に来たとき、渡名喜の村長が最初に牛の鼻面を掴んで離さなかった
他の村長はみな怒った。この牛を連れ帰ったら島の牛が大きくなってうるおった
戦争中、牛をつぶして食べたため、いったん牛はいなくなった。戦後また牛が復活した
牛は30年くらい前になくなった

子供の頃は海にウニが沢山おり、2,3時間で袋いっぱいになった
貝も沢山拾えた ハマグリも多かった 藻草も拾えた
今はいない タコもいない 今は海が豊富でない
もちキビの人工肥料がよくないのではと言っている

かつお業が始まり所得がよくなった。島に6艘くらい船があった
那覇とは1ヶ月に6回航路があった

昔蚕を作っていた。桑はあった。春夏絹をとって自分たちの反物にしたし、絹をひきとるところもあった。蚕がきれいに繭を作るよう、夜なべして手伝わされた


渡名喜島では台風対策で地面を掘り込んで家を建てている
家の屋根は小さくても瓦葺で、瓦は本島から買っていた
粟国はところどころ瓦葺の家がある

渡名喜には昔木があったが、燃えたらしい
フクギの木があるが、唐から苗をもってきて植えたという話だ
家に使う竹は那覇から買っている

結婚は島内結婚が主だが、久米の人と結婚することもある
高校は那覇へ行く

昔墓は門中でやった。古い墓を今の墓地へ移動したときは大変だった。大きな甕の蓋に漢文で何か書かれていたが、読めないからみな壊して一緒にした
ユレー墓というのがある。寄り集まって作った墓で、門中ではなく親戚でもない。心のあった人同士10人くらいで作る墓

渡名喜島には神女(カンニョ)が6〜7人いる。血筋によるもので、行事のあるときに貢物を作って神に供える。
1月3日の神祭りでは、みなサトドゥンへ行く。サトドゥンは西の森にある、トナキの鎮守の神様のようなところ。
一年おきにシマノーシ(島直し)の行事がある。各ドゥンでは門中で集まって寄り合いをする日にちは決まっており酒や肴を持ち寄る。寄り合いの前に、神主(ヌンドゥンチ)(各ドゥンにおりやはり代々特定の家が継ぐ)へ神女が集まって話あう。旧暦4月26日からクビリドゥンで始まり、27日サトドゥン、28日ニシバラドゥン、29日ウェーグニドゥンの順に回り、5月1日神を見送る。各ドゥンの祭りでは神女が杯を持ってみなを回る。

島の発掘調査に参加した。5,6人で貝塚を担当した
3500年前、島中央部の平地は海で、人は西の山に住んでいた。柱のあとや米の化石が出てきた
何か出るときは色が変わる。土が赤くなったので何か出ると思ったら骸骨が3つ出た
金の指輪を掘り当てたことがある。後世のものだからと貰うことができた。大きかったのに那覇で作り直したら小さくなって返ってきた

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証言:33  戦前戦時中の離島の生活
取材日:2010年8月
取材場所:沖縄県

子供の頃の生活
水汲みを手伝った。井戸は4,5箇所あるが、台風が来ると潮が入る。水は甘いところも塩っぽいところもある。樋をつけて雨水もためた。
薪は山の中のシャリンバイの大きい木を集めた。
サツマイモ、大根、えんどう豆、豆腐豆を作った。粟も作った。ソテツも腐らせて食べた。田んぼはない。野菜も作っていなかった。今は粟も麦も鳥がつくのでやめた。
基本的に自給自足だったが、魚とって本島の友達と米に替えたりした。
おばさんたちは芭蕉で服を作っていたが、自分たちの頃は与那原で服を買ったり、母親の友達でペルーに行った人からもらったこともある。自分たちはもう機織はできない。

台風が来て餓死があった。カズラはひょろひょろ、芋は小さい。それでパラオへ行った。
パラオは糸満、本部、伊平屋などから、船持っている人たちが鰹船を持って行った。
親戚のおばさんが来てパラオ行くかと言うから「はいはい」と言った。「パラオ行くよ」と言った。

大きな船で鹿児島に着き、広島へ行き関門海峡を渡る。広島で下りたが、冬だったので寒かった。船長は沖縄の人、大きな船で船の中に食堂があった。

パラオは夏だった。海は静か、黒んぼたちの口が赤かったので、おばさんに人食べたのかと聞いたらビンロウだと言っていた。
マラカル島は漁業の人が多い。コロールは都会で日本人が大勢いた。
おばさん夫婦は漁船を2隻持ち、自分は炊事場仕事、トイレを洗いお茶を沸かした。
鰹節工場もあり、鰹節を作ったり乾燥させたり。自分も慣れたらなまり節を機械で粉にするのを手伝った。
果物、かつおの刺身をいっぱい食べられた。
日本軍の兵隊も大勢いた。友軍の兵隊さんがアイスクリームを持ってきてくれ、兵隊さんたちにかわいがられた。

あるとき接待でお茶を持ってゆくと、おじさんが「戦争が来るよー、早く沖縄に行かないと大変だから」と言った。「早く帰らないともう戦争来るよー」と言って帰ってきた。

昭和18年末
パラオから出るとき、もうパラオの港はやられて港から出られなかったので、軍の港から前後を守られながら出た。帰ってくるときも寒かった。内地に寄ったが鹿児島は寒かった。温泉に入ったり20日くらいいた。今日出るかまた出られない、明日出るかと準備して待った。広島宇品港に着いた。洋服を蒸して消毒され、夜しか船を出せないから夜船で町へ渡って1泊した。

パラオから帰ってから、毎日大きな6人乗サバニに乗って、防衛隊と兵隊の壕堀を手伝いに本島と行ったり来たりした。

昭和19年から空襲があった
戦争が始まると毎日空襲警報。アメリカの飛行機が沢山沢山来た。日本の兵隊が応援に来たと思って万歳万歳したらそうじゃない、もう機銃バラバラ。豚小屋は石で大きく作っていたので、豚小屋に隠れた。戦争が来たら豚は売ったり殺したり親戚どうしで分けたり。

島民は戦争中ヤンバルへ立ち退いた。島には日本兵も誰もおらず、戻ってきたときは野原のようだった。100年くらいたつ大きい家が3軒くらい残っていた。
山原で若い人は畑を作った。

山原では昼隠れて夜歩いた。人いっぱい道をゾロゾロ歩いていた。照明弾が怖かった。島中明るい。
ヤマトの兵隊が食糧をもらいに来た、沖縄の服を着てボロボロの穴のあいたのを着ていたが、ヤマトの兵隊は色が白いからすぐわかる。捕虜になってから草刈の使役に出たとき、ヤマトの兵隊が5〜6人、銃にもたれかかって死んでいるのを見つけた。

8月15日 負けたと聞いて泣く人もいる。負けたあとは、割り当てられて芋作ったり配給もらったりして生活。大きな家に分配され、アメリカの配給で食べていた。

2年ほど山原にいて、島に戻ったら家が3軒残っていた。人は誰もいない。裏に大きな家があって、広いから中にも人、自分らは庇の下で暮らした。やがて両親が仮小屋を作った。

島に戻っても配給があり、区長が割って、救済係(アメリカの救済物資を配る係)がみなに分ける。助かった。アメリカゆう(世)で何もかも贅沢になった。アメリカはやさしい。日本のときは餓死があった。

パラオで洋裁学校を出た人は、メリケン袋で作業服を縫って売った。島の大工たちのご飯を作ったり、豆腐の水を朝から汲んだりいろいろやった。

昭和47年 日本復帰

沖縄の人はサイパンにお参りにゆく。親戚のおばさんたちもサイパンだった。その子供たちを別のおばが育てた。パラオに住んでいる人もいる。

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証言34:中国大陸

生年:大正8年
出身地:沖縄県某離島
召集:現役
所属師団:熊本連隊西部16部隊
兵科:通信兵
階級:入営時:陸軍二等兵 復員時:上等兵
取材日:2010年8月
取材場所:沖縄県某離島
注:難聴と白内障で質問が難しかった。文中?とあるのは聞き取れず確認できなかった箇所

小学校高等科卒業
昭和9年 16歳でカツオ漁でパラオへ行く。島から大勢一緒に行った。当時パラオにはマングローブが多数自生しており、山がちの何もないところ。サイパンは砂地で野菜があったが、パラオは野菜もなく砂糖だけだった。

昭和14年 21歳のとき徴集されるが、実際検査されたのは昭和17年(24歳)のとき。漁業移民で行ったため数年空白がある。
パラオで移民同期の女性と結婚。

昭和17年12月 徴兵検査で戻る
同年12月10日 検査に合格、熊本連隊西部16部隊入隊
同年12月20日 支那出征。1万トンの御用船?で下関から玄界灘を越えて釜山に着く。寒かった。あくる日列車に乗り換えて大連へ、満州を越え武興に到着。武運長久を祈り、揚子江を上って正月に南京に着く。一週間南京にいたあと、また揚子江を遡り漢口へ行く。漢口から応城の師団司令部に行くと各隊が配置されており、各隊めいめい自分の基地へ随行されていった。自分たちは58師団の連隊本部のある湖北省のソウカ鎮?へ行き、そこに入隊した。
最初歩兵だったか配属先は軽機関銃兵。3ヶ月後、通信教育を受ける。

昭和18年終わり 通信兵となる

昭和19年 中隊復帰。歩哨や衛兵などを務め、戦争に出発した(湘桂作戦)。鉄砲を担いでひたすら歩くだけ。歩くのは体力的に辛かった。まだ暑さはなんでもない。広西省へ行くと、足はちくちくしてみな落後。落後する人はどうなるかわからない、元気な人は前進前進。中国は弾が来るだけ、迫撃砲があるだけ。沖縄は艦砲だった。

昭和19年10月10日 湖南省長沙が起点だった。それが終わって一時したら、大本営からの話として沖縄が焼け野原になった、人口も何万人犠牲になったと聞く。その後また前進、湖南省華容へ。日本軍は爆撃されて何もない。
さらに前進して桂林へ。58師団はオソドレイコウ?で??だから桂林は予備隊になっていた。どこの兵隊がやったかわからない。桂林が陥落して、10日ぐらい桂林にいた。その後仏印をめざして行った。南寧、リョシュウ(柳州?)へ行くとすると情報で仏印は北支軍が攻撃しているという(第37師団と第22師団)。自分たちはこっちへ追いついてゆく。向こうで警備しているからと反転する。満州が目的地。

昭和20年8月15日 広西省。暑かった。ちょうどお日様がロザン(魯山?)の山にかくれようとしていた。連隊長陸軍少佐横井ヒロシが「整列」と一声、みなあぐらをかいていたのが立ち上がると、訓示が始まった。
「日本は負けて大元帥陛下自ら停戦協定した」と言う。兵隊は何やかやなかったが、上官小隊長中隊長は泣いている。それから軍の師団司令部をめざして南京で武装解除され、鉄砲も階級も何もかも捨てる。さらに上海をめざして船を待つ。帰りは小さい日本の海防艦。

長崎の浦賀に復員。連隊1300人のうち復員できたのは600人。残りは支那の土地に埋もれている。
大村に5〜6ヶ月滞在した。みな食糧もないから、ショートリ(支那語の泥棒のこと、サツマイモ、カボチャを盗む)などもあった。

昭和22年 今帰仁村に着く。
沖縄に着いたら、那覇の町1軒もない。那覇の町は焼け野原だった。
同じ連隊に沖縄出身者は大勢いたが、みな戦争で亡くなった。島の人も沢山亡くなっている。

離島行きのLCTが今日はA島、明日はB島と出ており、島に戻る。
昭和15年に母親を亡くしているので、親戚で集まって元気を祝福しお祝いした。家内は喜んだ。父親がカツオ漁をやっており、交替でカツオ漁をして生活した。もぐり専門だったので鼓膜をやぶった。
島ではサツマイモ、大根をとる。

島に戻ってから熊本連隊の人から3回手紙が来た。熊本に来てくださいと書いてあった。

前進前進でよく歩いた 沖縄の人ただ一人生き残った。
兵隊の訓示は家庭と同じ。英兵は苦楽を共にし、訓辞を覚えている。戦友は家庭と同じ。けんかもするし安く話もするし。中には悪い人もいる。

戦後3回パラオ島へ行った。だいぶ変わり都会になっていた。今は観光地になっている。日本人やアメリカ人との混血も多い。


意見:
なんで同盟をしたか。なんでこういうことになったか。沖縄が今苦しんでいるのはこれ。普天間基地問題は国民が一緒になる(べき)。

出征のときバンザンバンザイ。その万歳ももうなくなった。あの時の町を思い出すと残念である。あんな体力と戦争をして負けて何もない日本はどうなっているのか。
沖縄の基地問題、あんなしてアメリカは聞いていない。国務省の発表はなんと言うているか。沖縄は日本のアメリカの大事な島。絶対手放さない。

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証言35:防衛隊

生年:昭和2年
出身地:沖縄県久高島
召集:召集
所属師団:防衛隊
取材日:2010年8月
取材場所:沖縄県久高島

学校に御真影はあった。宮城遥拝もやった。
先生は沖縄の人、ヤマトの人はなかった。
方言札は尋常小学校ではなかった。方言札ぶらさげたのは国民学校になってから。国民学校で、初等科と高等科になった。

15歳で高等科を卒業。

4月カツオ漁船に乗って石垣へゆき、10月頃島に戻って追い込み漁(もぐり)をして冬を過ごす。18歳までこうして生活していた。

昭和19年9月末 島へ戻る。
アメリカの潜水艦が日本の現場に入っているということで、本島に戻ってくるのも大変だった。八重山石垣から乗り西表に避難、宮古に1泊、沖縄へ来るまで3日かかった。敵に見つからぬよう、昼は船を走らせず、海にゴミを落としてはいけなかった。何も流すなといわれた。

当時は本島から久高へはサバニ(刳り船)で渡った。

島でも当時は、陥落したら万歳万歳と日の丸を振ったし、日の丸を持って出征兵士を見送った。
満州や支那で戦死した5,6人の遺骨を、島に各々お墓を作って横に並べて葬った。今でもあるが壊しているかもしれない。

十十空襲が始まった。情報ではガダルカナルとか聞いていたが、沖縄もしだいに危なくなる。
戦争で勝ち進んだことはよく放送されていたが、負けたことは全然入らない。それでも南方はもうだめ、米軍はいよいよ沖縄本島をめがけており、沖縄本島があやしいということは自分らもわかっていた。おじさんもサイパン島でなくなり、父親も鰹漁船の船長でテニアンに行っていたが、戦後16年ぶりに無事戻った。
そこで自分らも日中の漁を終えたら、青年団として夕方学校の校庭に集まり、1、2時間、知念村の兵事係から銃剣術を教わった。学校に小銃が5,6丁あった(実弾は入っていない)

十十空襲:久高島も空襲を受けた。漁業者は海に出ていた。アメリカ軍の艦載機が4機編隊で来る。最初星のマークがついているのを見てもアメリカとわからなかった。そのときは発射はしなかった。
 しだいしだいに津堅にも爆弾投下、本島もあちこちで空襲が始まっており、びっくりして「空襲だよー」、さらに潜水艦見たとか話を聞いてびっくり、ピザ浜のほうへ向かって歩いてゆくと、アメリカ軍の艦載機が4機が向かってくる。急に機関銃で撃たれた。自分たちに向けてではなく、砂浜に陸揚げされていた刳り船めがけてバリバリ撃っていた。住民は海岸線の岩陰に避難、自然の壕を整理して準備はしてあった。
本島にはまっくろに煙がたちのぼる。

昭和20年1月 ソン(村)から戦争が近いということで久高の人は全員立ち退きとなる。十月空襲のときも一時立ち退いたがすぐ戻っていた。日が暮れるまでサバニで何度も島民を運んだ。今のさんさんビーチとの間を何十回通ったかわからない。知念村の各部落に割り当てされて、自分は安座間に割り当てられて一週間くらいいた。

知念村の兵事係が回ってきて防衛隊に入りなさいと召集令状が来た。
島からは7名召集された。具志上小学校に10時頃集合だったと思う。夜明けに出て玉城へ下りて行った。
身体検査で甲種合格、一番ほめられた。毎日船漕いでるから筋肉もモリモリしていた。
安座間の部落の人もまじえ12、3名合格。

鈴木少尉中隊長 暁部隊第28師団工兵。自分たちは二中隊、一中隊は具志頭、二中隊は志堅原(しけんばる)に駐屯。民間の家に宿散した。自分たちの家はおばあさん一人住んでいた。6時起床夕方6時まで陣地構築。7,8mの特攻隊の艇を避難させる壕を作った。一つの壕に3隻くらい避難させるから3,40m掘る。掘るのは別の人がやり、壕を支える枠の運び屋をさせられた。作業後、夕方に訓練をした後、宿舎に戻る。

特攻艇は一人乗り、ベニヤで作られた体当たり用の消耗品。7、80キロのスピードで飛ばし、400キロの爆雷がすべり落ちる仕掛けになっていた。投下後4秒間に200m飛ばしたら自分も助かると指導していた。最初は効果があったらしい。そこでアメリカ軍は近寄らないよう艦船の周囲に電気を流していたらしい。

3月23日 検閲といって特攻艇を奥武島の橋のふもとに係留させていた。それをコンソジレット24(?聞き取れず)という米軍機1機が飛んできてバリバリ機関銃で撃ち、40隻中16隻沈没。残ったものを総動員で引揚げたあと、沈んだ16隻を海底から引揚げることになる。潜れるのは久高出身の4人しかいない。夜通し潜って、暗い中手探りで引揚げる。旧の2月で一番沖縄の寒い時。当時は今のようなジャケットなどない。陸で火をたいて温まった。夜明けまでかかった。このときは中隊長も自分らに頭を下げてありがとうと言いに来た。4人の中には36歳の人もいた。その後百歳近くまで生きた。特攻艇は全部トラックで運び、壕も橋もアメリカに利用されないよう爆破した。

糸数のアブチリガマに移動、20日間か一ヶ月くらいいた。2つ並ぶ壕の2番目に入る。夜間作業でキビ畑の中に穴を掘り、伐採した木を被せ土をかぶせて特攻艇を隠した。
米軍が西海岸に上陸した4月からは、昼は壕の中で過ごした。避難したボートはどうなったかわからない。日本軍は首里城あたりに閉じ込められた形になっていた。

5月24日、25日頃 中隊本部のある豊見城の高安部落に歩いて移動
5月26日 第二回切込隊に参加
 第一回切込隊は久高出身の西銘グンシンとジュウ三郎という二人の先輩が参加、米軍が慶良間諸島の神山島(ケージマウァ、無人島)から迫撃砲で攻撃してくるため、この陣地を攻撃する切込隊に出されて戦死している。
 第二回は自分たちに来た。最初は切込とは何かわからないが、糸満など各地からくり船を集めていた。7,8名から大きい船には10名くらい乗る。握り飯2個、カンメンポー(乾パン)2袋を配給され雑嚢に入れる。防衛隊は鉄砲なし、10キロ爆雷を持たされた。向こうへ着いたら現場に捨てた。全然身動きできない。
夕方、出港準備で「いよいよ明日5月27日は海軍記念日だから陸海空軍総攻撃」と言われる。ああなるほどねと思う。一升瓶で別れ杯を回した。夜8時半、豊見城の眼鏡橋を出て那覇港をあとに泊のほうへ行き、なみのうえ海岸を回って一列に漕いでゆく。嘉手納湾に着いたのは12時頃。漕ぎ手は二人しかいない。凪だったから漕げた。風があったら二人では漕げない。
嘉手納湾にアメリカ艦船が浮いていて町のように電気で真っ白。
上陸しようというときは、すでに米軍にキャッチされていた。上がろうというとき、照明弾が4,5個あがって真っ白。蟻も見えるくらい。くり船を放り出して下りるまで、機関銃の弾は最初頭上を飛んでいた。陸まで300mくらい遠浅になった海を歩きだすと、弾が身の回りにピューピュー飛びすごい、周りはばたばた倒れる。あんなに雨のように撃たれても一発も食わなかったからかなり運が良かった。3個中隊、うち刳り船から上がったのは2個中隊(160名)、うち20人しか上がらなかった。足元から横から真っ赤になって弾がピューピュー来る。海に入ってからまだ飛ぶ。何も考えずに陸地をめざす。久高の人は3名助かっている。

護岸から上がってアダン林に集まる。麦畑のような平坦地で、中央に水が流れあちこちにソテツがあった。身を隠せるのはソテツだけ。匍匐前進で這って雑嚢ほかすべて捨てる。しかし上の陣地から見られていた。西と北の陣地の間に入った形で、機関銃士が軽機関銃を一丁持っていた。残りは擲弾筒。機関銃士は西の陣地を撃とうとするなりいきなり撃たれて即死。動くと撃たれるから隠れていた。先輩二人も生き残り、先輩が伝書鳩を持っていたが放り捨て、海岸に戻ろうと這って戻るとき撃たれたので、戦死した人の陰に隠れた。後ろの先輩は早く行けという。道路を溝から渡って海岸線にたどりついた。おそらく日本軍の機関銃陣地だったところに夜明けまで隠れる。夜が明けると海にはアメリカの艦船がずらりと並び、どこへ逃げたらいいか悩む。那覇の方向がいいかと話す。生き残っていた二人の日本兵が自分たちをアメリカと思って向かってきたが、その後防衛隊かと聞かれる。二人はすぐ機関銃で撃たれた。
9時頃海岸線の潮が引いており、日本兵が大勢死んでいる。米兵が下りてきて鉄砲取ってみたりいろいろ見ている。
ちょっと見たらすぐ見える場所だから昼中隠れることはできない。アダン林の砂に横穴を掘って二人で入り、昼中隠れた。3時頃日が翳ってくると、米兵が陣地の前で本を読んだりのんびり過ごしている。これを見て戦争は負けたと思う。
夜、砂から出て護岸から海に飛び降りる。2,30m離れたところを同じ時間帯に逃げる人を見た。みると久高出身のおじさんだった。照明弾が照ったら潜って、背丈より深いところまで行ったらもう大丈夫だと泳ぐ。泳ぎは達者だった。泊港を過ぎる頃はちょっと疲れていたが、なみのうえの海岸に上がった。寒くはなかったが、若いから体力はありおなかがすいていた。
 戦前は防火用水があったので、そこで軍服を洗う。那覇は焼け野原で方向がわからない。泊方向へ向かって歩く。泊の難民が避難するため南へ向かうのに出会う。4、5人の家族だったが、歩いていたとき艦砲が飛んで来ておやじがやられてしまう。どうしようもない、助けることもできず、いつまた艦砲が飛んでくるかわからないし、家族もそのまま歩いていった。
真玉(まだん)橋近くの赤十字病院のあるところで、空家から二人出てきた。朝鮮人軍属が短刀を持っていたので、先輩と二人で逃げた。橋は破壊されていたので渡河して高安の本部へ。

神田少将が一人残っていた。あと30名くらい兵がいた。小隊長中隊長はみな切込に出て全滅している。報告したあと、壕に割り当てされて炊事班をさせられる。
根差部の下にあった壕に入る。壕の前は砲弾よけが積まれ、中はろうそく生活。夜中の2時にご飯炊きに起きる。壕の下には味噌、しょうゆが入っており、畑からキャベツをかっぱらってきた。米(玄米)もあった。自分らは残り物を食べたが、玄米を一升瓶で搗いて白米にして、非常食用に自分たちの分だけ靴下に詰めて持っていた。

ある日炊事していたテントが飛行機にやられて焼け野原、翌日ご飯を炊きにゆくと焼けていてどうしようかと大騒ぎ。夕方から釜を作り直す。
防衛隊が3人手伝いに来て井戸の水汲みをしていた。あるとき井戸に艦砲が落ちて、一人が首をやられる。もう一人はびっくりして逃げた。そこで自分たちでといでご飯をたき、ようやく夜明けに間に合った。
4,5日後、壕の向かい、NHKの鉄塔のあるところの森の下に中頭の人たち2家族が自分らの壕に入っていた。壕の前に洗濯物を干していたところ、午後3時頃アメリカのトンボグワーみたいな偵察機が爆弾投下、壕2つ全部生き埋めにした。目の前で見ている。
その3、4日後、夜中2時飯炊きに出た後、爆弾投下の振動でひびが入っていたため、自分らの壕も天井が落ちた。寝ていたら死んでいた。
この壕には10日くらいいた。

暁部隊は輸送部隊だから食糧はあった。玄米を大きな袋詰めにしており、豊見城では山盛りして大きなテントでかぶせていた。豊見城のネサブの人たちが天ぷら揚げて持って来てくれたのでおいしく食べていたが、南へ移動するとき、米は捨ててくからとってゆきなさいよとあげてきた。

敵が来るから南へ移動することになり、夜中、神田少将とともに糸満の名城近くに一晩泊る。具志頭の与座仲座に戻って岩陰に隠れる。それから隠れっぱなし、逃げっぱなし。兵隊ももう組織がない。
アメリカの哨戒艇が海岸沿いに機関砲を撃ち込む。避難民が岩陰にいるからそれをめがけて打ち込む。上からは飛行機が来る。知念も占領されアメリカ軍が南へ押し寄せてくる。軍隊も組織がなく誰が指揮をとっているかわからない。自分たち3名、もう逃げよう、泳いで逃げようという。
非常用の米を持っていたので、ずっと南へ下がってご飯を炊いて3人で泳いで逃げようと話を決める。マッチがなかったので避難民に米とマッチを交換すると大喜びされた。煙が出ないよう、松ノ木の下で枯れ草を燃やし、艦砲の穴にたまった水で米を炊いた。隠れながら海岸線に近寄り、金武の近くの”うるばま”で日暮れを待つ。飯ごうのご飯を分けて食べようとしたら、避難民が近寄ってきて一緒に連れて行ってくれというので、どこの人ですかと聞くと「きん(金武)」の村の人だという。ご飯分けて食べながら、あんた泳げるかと聞くと泳げないという。「泳げなかったら自分らと一緒に行けないよ、自分らは泳いで逃げるんだよ」と言う。
真っ暗になったら港川の入り口まで泳ぐ。引き潮で干上がっていた。与座仲座でアメリカの水陸両用戦車が入ってくるのを見ていたが、これが2隻港川に停泊していた。36歳の先輩が海軍の乾パンを頭にのっけて縛っていた。3名並んで泳ぐと同時に、この戦車から自動小銃でバリバリやられた。36歳の先輩が「やられた」というのが聞こえた。自分らは一潜りして軍服脱いであがったら、弾はやんでいた。沖のほうまで無我夢中で泳ぐ。足が痙攣するが、両足痙攣しなければ大丈夫、もみながら泳ぐ。にいばるビーチの外側のリーフにたどりつく。先輩は亡くなったと思い南へ向かって手を合わせる。知念村へ行き、その晩島まで来る予定だったがくり船さがしても見つからない。穴のあいたのはあった。修理できないから志喜屋村の無人島ヤブシキヤグワーに泳いでいって一晩寝る。服を乾かし砂かぶって寝たがまだ寒かった。米軍のりんごなどが流れ着き、おいしかった。

夜が明けて志喜屋部落を見ると、村の生活が見える。捕虜でも自由になっていたので、米軍が来ていないと勘違い。波里先輩らしき人が通ってゆくのが見える。潮が引いたら親戚がいる志喜屋部落行ってお昼食べようと浜へ上がる。知念のほうから米兵が3名来たのでアダン林の中に入って日が暮れるまで待つ。夕方になると住民の若い青年が遊びに来た。全部捕虜されて前の村長さんのところに本部がある、防衛隊でも兵隊でもなかったと証明がないと道歩けないよという。どうして証明もらうか心配しつつ、先輩の知り合いのところへ行く。牛小屋から馬小屋から全部人が入っている。海軍は頭に帽子の日焼け跡がつくのですぐわかるのだが、同級生の友達が学生服と学生帽で証明を簡単にもらっていた。自分らは遠洋漁業に出ていたと言うと、大久保とチャーリーという2世が、魚とりができるのかと言って簡単に証明がもらえた。彼らから、久高の人でこちらに怪我して来て証明もらいに来た人がいる、もともと3名だったが自分は泳いで生き延びた、二人は死んだかどうかわからない、と言っていたと聞く。間違いない、波里先輩だ。知念の部落で母親は久高へくり船で渡ったと聞き、よかったと安心。

小さいくり船を見つけ、割れたところを縄でしばって板木で櫂を作り空き缶を垢取りにして、クマカ島まで漕ぐ。アメリカ軍がいないか確認。米軍の救命胴衣が流れていたので破って綿で舳先を修理。クマカから徳仁港に入る。人が住んでいるなら水を使っている跡があるはず、と井戸を見に行く。間違いない、住民がいる。島にはゼンドゥルガマという自然壕があるのでそこへ行くと40人いる。いちおう立ち退きして出て行っていたのだが、みな逃げて戻っていた。
 よく帰ってきたとみな喜んで大騒ぎ、約1ヶ月、6月いっぱい島にいた。
 家は44,5軒くらい残っており、きれいに戸締りして喜んでいた。主食のサツマイモ、魚は沢山ある、大根、シロナもとれた。芋は植え付けから半年で収穫、全面的に芋畑でじゅんぐりに植えるので、いつでもとれる。大根も島大根という大きなものが獲れる。
 ノロのおばあさんが長男と喧嘩をして一人部落に逃げてきていた。たまに米軍が水陸両用戦車で、島のあちこちにあがって日本軍がいないか調べていたのが、たまたまこのお婆さんと出会った。おばあはタバコだのおみやげをもらって喜んでいる。手まねでみながいることを教えてしまい、「アメリカ軍は殺さないよう、おみやげいろいろもらった」と言う。2,3日後、アメリカ軍が上陸用舟艇で大勢来た。おお来た、と全部壕から逃げてあちこち隠れた、銛を持っているのもいるし泳ぐのを持っているのもいる。
 米軍は最初は銃を向けた。東の畑に全部集められると、あるお婆さんが腹巻に入れていたお金をとられてわあわあ騒いでいる。「かえせーかえせー」と騒ぐが言葉通じないからどうしようもない。
 ここにいたら飛行機から爆撃されるから部落に下がりなさいと言われ(2世の通訳がいた)、壕から出て各自家に戻った。米海軍は何度も来てたばこ、みかん、りんご、いろいろくれた。自分はタバコを吸わないが、おじいのためにタバコの吸殻を見せてタバコをもらい、おじいにあげる。
 一週間後、ここだと米軍の配給物資を受けられないからと浜比嘉島(アメリカの本部があった)へ行くことになる。6ヶ月くらい配給物資(米、油、メリケン粉、バターなど)をもらって暮らした。島出身者はもぐり漁専門だから毎日魚をとって、2割は自分らの配給分としてとり、残りを浜比嘉の部落にあげた。部落は大喜び、浜比嘉にも漁民はいるが、網でとる小さい魚しかない。

8月15日ははっきりわからない。

その後南部の人は南部に帰らないといけないということで、移動が始まった。知念村へ戻り、移動できるまでしばらくいた。

昭和21年1月か2月 久高島に戻る。あちこちから引揚げて島の人口は700人くらいになった。家はほとんど焼けていたため、仮小屋を作る。アメリカのツーバイフォーが割り当てになって茅葺で作った。1年間書記をして、2年目は売店で配給係をやった。配給は1年くらいあった。島も落ち着くと昔の生活に戻った。

久高には一時期兵隊がいた。
昭和10年 海軍が中城湾に入り、通信隊が3ヶ月以上いた。今鉄塔が立っているところにテント小屋を作っていた。引揚げてゆくとき、空砲を撃ち、アダン林に落ちて火事になり大騒ぎになった。


昭和27年 琉球政府時代に17、8名定員の木造船を作り、定期航路として許可をもらう。1日1往復、馬天港まで1時間かかった。その後船を次々に大きくして今の船にした。
昭和40年頃、村議会議員を3期務める。本島から水道を引く事業を行い、道路も作った。
昭和56年 65名乗り19トンの定期船を作る。
昭和63年 観光客が増えてきたので80名乗りの高速船を就航、運行回数も増やす。
平成11年10月 距離が近いほうが安全だからと安座間港を整備させ、発着所を安座間港に移した。観光客は増えている。馬天港の頃、延べ4万2千人、平成19年度11万6千人。セーファー(斎場)御嶽を拝んで久高に足を運ぶ人が多い。
離島は交通の便がないと活性化しない。県は長い間しぶっていたが、2隻の就航にOKが出た。

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